「きゃ……っ!」
奈津は思わず尻もちをつく。
目の前には、奈津を庇うように立つ背中。
夜刀だった。
片腕を前へ突き出したまま、金の瞳を鋭く細めている。
地面へ転がった異形は、なお瘴気を撒き散らしながら唸っていた。
「招かれなきゃ結界を越えられねぇ式神だ」
夜刀は奈津を庇ったまま、吐き捨てるように言う。
「素直に入れてたら、そのまま喰われてたぞ」
奈津は青ざめた顔で異形を見つめた。
さっきまで、助けを求めて泣いていたはずの姿。
それが今は、黒い瘴気を撒き散らしながら獣のように唸っている。
「そん……な……」
声が震えた。
夜刀は苛立ったように舌打ちする。
「……簡単に妖を信じんじゃねぇ」
金の瞳が、ちらりと奈津を見る。
「喰われても文句言えねぇぞ」
ぶっきらぼうな声音だった。
けれど夜刀は、なお奈津を庇うように前へ立ったままだ。
異形が再び唸り声を上げる。
黒ずんだ瘴気が膨れ、裂けた口から鋭い牙が覗いた。
夜刀の瞳が冷たく細められる。
「……うるせぇな」
次の瞬間。
びり、と妖気が揺れた。
夜刀が片手を振る。
それだけだった。
だが異形の身体は、見えない力に叩き潰されたように地面へ沈み込む。
悲鳴すら上げられないまま、黒い瘴気が霧散した。
やがてそこに残ったのは、黒く焼け焦げた紙片だけだった。
奈津が息を呑む。
「紙……?」
「式神の核だ」
夜刀は吐き捨てるように答える。
「誰かが術で動かしてた」
その声音から、僅かに苛立ちが滲む。
堂目道家の結界を探るような真似。
しかも”癒し子”――奈津を狙って。
夜刀は焼け焦げた紙片を見下ろし、舌打ちした。
「……面倒なことになりそうだ」
奈津は不安げに夜刀を見上げる。
「どういう、ことですか……?」
夜刀はすぐには答えなかった。
代わりに、ちらりと奈津を見る。
先ほどまで化け物へ喰われかけていたというのに、その顔にはまだ“騙された怒り”より、“助けられなかったかもしれない幼い妖”への戸惑いの方が浮かんでいた。
夜刀は深くため息を吐く。
「……お前、ほんと危なっかしいな」
呆れたような声だった。
奈津はしゅんと肩を縮める。
「ご、ごめんなさい……」
「謝ってほしい訳じゃねぇよ」
夜刀は眉を顰めたまま、ぶっきらぼうに言う。
「今後は勝手に近づくな。ああいうのは、お前みたいなのを狙ってくる」
「……はい」
奈津は小さく頷いた。
それから、はっとしたように顔を上げる。
「でも……助けてくれて、ありがとうございました」
夜刀が一瞬だけ言葉を詰まらせた。
そして、露骨に顔を背ける。
「勘違いすんな」
低い声。
「別にお前のためじゃねぇ」
奈津がきょとんと瞬きをする。
夜刀は眉を顰めたまま、吐き捨てるように続けた。
「お前に何かあると、紫鬼様が困るだろうが」
「……あ」
奈津は小さく目を丸くした。
けれど、その不器用な言い方が何だか少しだけ可笑しくて。
「それでも、ありがとうございます」
そう言って笑うと、夜刀は露骨に顔を顰めた。
「……だから、お前はそういうとこだっつーの」
呆れたように言いながらも、その声音は以前よりずっと柔らかかった。
――そして。
少し開いた障子の向こうから。
紫鬼が静かに二人の様子を見つめていた。
病に蝕まれた身体は、まだ長く起き上がっていることすら難しい。
それでも。
深い紫の瞳だけは、奈津を追っている。
夜刀へ笑いかける奈津。
その表情を見つめながら、紫鬼はわずかに目を細めた。
なぜ気になるのか、自分でも分からない。
ただ――気づけば視線が、あの人間を探していた。

