あやかしの癒し子〜祓い屋の出来損ないは、鬼の王の最愛〜

 広間へ声が響く。

 全員が振り返った。
 そこに立っていたのは、奈津だった。

 「奈津様!?」

 コマが目を見開く。

 奈津はまだ顔色が悪い。
 瘴気に侵された痕も、完全には消えていなかった。

 それでも奈津は、震える足で前へ進む。

 「もう、いいです……」

 か細い声。
 けれどその声は、静まり返った広間に確かに響いた。

 「確かに……怖かったです」

 奈津の声が、小さく震える。

 地下水路へ落とされた時の冷たさも。
 瘴気に焼かれるような痛みも、まだ身体に残っていた。

 それでも。

 「でも……」

 奈津はぎゅっと拳を握る。

 「これ以上、誰かが傷つくのは嫌です」

 妖たちが目を見開いた。

 自分を傷つけた相手を。
 庇っている。

 信じられないものを見るような顔だった。

 奈津は、まっすぐ紫鬼を見上げる。

 深い紫の瞳。
 紫鬼の周囲では、なお瘴気が不安定に揺れている。

 荒れた瘴気に呼応するように、その呼吸もどこか浅い。

 怒っている。
 ――けれど奈津には、それ以上に“苦しそう”に見えた。

 「紫鬼様まで、苦しそうなお顔をしないでください」

 紫鬼の前まで歩み寄り、両手を伸ばす。

 瘴気はまだ不安定に揺れていた。

 本当は怖い。
 触れれば呑み込まれてしまいそうで、指先が震える。

 (……それでも、私は……)

 奈津はそっと、包み込むように紫鬼の手へ触れた。

 冷たくて、奈津より少し小さなてのひら。

 次の瞬間。

 淡い光がふわりと滲み、荒れていた瘴気がゆっくり静まっていく。

 まるで暴れていた獣が、ようやく安らげる場所を見つけたかのように。

 広間へ、しん、と静寂が落ちる。

 「……っ」

 妖たちが息を呑む。

 誰にも止められなかった。

 夜刀も。
 九重も。
 この場にいるどの妖も。

 けれど奈津だけが、紫鬼を引き戻すことができた。

 紫鬼は奈津を見つめたまま、しばらく動かなかった。

 怒りで荒れていた胸の内が、不思議なほど静かになっていく。
 それが何故なのか、自分でも分からない。

 ただ。

 目の前の人間から、どうしても視線を逸らせなかった。

 やがて。

 「……人間」

 低い声が落ちる。

 “人間”――いつもと変わらない呼び方。

 けれどそこには、以前とは違う“何か”があった。

 確かめるかのように。
 求めるかのように。

 触れ合ったままの手に、ほんの少しだけ力がこもる。

 「お前は……」

 そこで言葉が途切れる。

 結局、その続きが紡がれることはない。

 ただ、その紫の瞳だけが、静かに奈津を映していた。