あやかしの癒し子〜祓い屋の出来損ないは、鬼の王の最愛〜

 その夜。

 奈津は庭園沿いの渡り廊下を歩いていた。
 紫鬼の部屋へ向かう近道だと、コマに教えてもらった道だった。

 青白い灯籠が、夜の庭をぼんやり照らしている。
 夜の堂目道家は、昼間よりずっと静かだった。

 奈津がそっと足を踏み出した、その瞬間。

 ――ミシ。

 「……え?」

 嫌な音がした。

 次の瞬間。
 ――ガタン!!

 「きゃ……っ!?」

 床板が崩れ落ちる。
 まるで最初から、そこだけ外れるよう細工されていたかのように。

 奈津の身体が、そのまま暗闇へ投げ出された。

 「っ――!」

 咄嗟に手を伸ばす。
 けれど何も掴めない。

 次の瞬間。

 バシャッ!
 水飛沫が上がる。

 冷たい水へ、全身が沈んだ。

 「っ……!」

 息が詰まる。

 そこは屋敷の地下を流れる古い水路だった。
 紫鬼の瘴気を含んだ水が、淀むように溜まっている。

 肌が焼けるように痛い。
 喉の奥がひりつき、息を吸うだけで胸が軋んだ。

 「げほっ……ごほ……!」

 奈津は苦しげに咳き込む。
 頭上から、くすくすと笑い声が降ってきた。

 「ちょっと脅かすだけのつもりだったんだけどな」

 「人間って脆いなぁ」

 見上げると、妖たちが穴の上から奈津を見下ろしていた。

 奈津は震える身体を押さえながら、どうにか立ち上がる。
 濡れた着物が重い。
 冷たい水が、ぽたぽたと足元へ落ちていく。

 「っ……げほ……」

 視界がぼやける。
 足元も覚束ない。

 「……っ、ぁ……」

 奈津は再びその場へ崩れ落ちた。
 冷え切った身体が、もう思うように動かない。

 (ダメ……ここで、倒れたら……)

 紫鬼の顔が脳裏をよぎる。
 それでも、遠のく意識は止められなかった。

 奈津の瞼が、ゆっくりと閉じていく。

 *

 その頃――。

 紫鬼の部屋では、重苦しい空気が流れていた。
 瘴気が不安定に揺れている。
 
 紫鬼は僅かに苛立ったように目を伏せていた。

 「……遅い」

 低い声。
 九重が静かに頭を下げる。

 「奈津様が、まだお見えになっておりません」

 紫鬼の眉が僅かに寄る。

 「……どこへ行った」

 声が低く落ちた瞬間。

 室内の瘴気が、ざわりと揺れた。

 九重は静かに目を細める。

 その変化に、気づかないふりをしながら。