紫鬼の部屋へ近づくにつれ、空気が重くなっていく。
瘴気は相変わらず濃い。
けれど最初に感じたような、呑み込まれるほどの恐ろしさは薄れていた。
九重が静かに障子を開く。
「紫鬼様。癒し子様をお連れしました」
薄暗い室内。
白銀の髪の隙間から、漆黒の鬼角が覗いていた。
紫鬼は横たわったまま、静かに奈津へ視線を向けた。
奈津はそっと頭を下げる。
「し、失礼します……」
部屋へ足を踏み入れると、瘴気がわずかに揺らいだ。
警戒するように。
けれど、以前のような激しい拒絶はない。
奈津はそっと紫鬼の傍へ膝をつく。
その時だった。
「……お前」
「え?」
紫鬼が奈津を見ている。
深い紫の瞳。
夜の底みたいな色だった。
「名前は」
奈津は目を見開いた。
今までずっと、“人間”としか呼ばれなかった。
それなのに。
「な、奈津……です」
一瞬の沈黙。
紫鬼はわずかに目を細めた。
「……そうか」
それだけだった。
けれど、胸の奥が少しだけ熱くなる。
奈津はそっと紫鬼の手へ触れた。
冷たい。
けれど昨日より、拒絶するような荒々しさは感じない。
指先から淡い光が零れる。
荒れていた瘴気が、その光へ宥められるように静まっていく。
紫鬼の長い睫毛が、わずかに伏せられた。
張り詰めていた呼吸が、少しだけ穏やかになる。
奈津は胸の奥から、そっと息を吐き出した。
(……ちゃんと、届いてる)
そう思った瞬間だった。
障子の向こうから、控えめな声が届く。
「紫鬼様」
九重が静かに振り返る。
低い、男の妖だろう声だった。
「何です」
「結界周辺の見回りを終えました」
報告だった。
「入れ」
紫鬼の短い返答。
障子が静かに開く。
入ってきた妖は、奈津を見るなり眉を顰めた。
「……まだいたのか、人間」
露骨な嫌悪を含んだ声音。
奈津は思わず肩を揺らす。
「治療が終わったなら、さっさと離れろ」
妖は紫鬼を庇うように奈津との間へ入ろうとする。
「人間など、何を企んでいるか――」
「触るな」
ぴたり、と場が静まる。
妖が息を呑んだ。
紫鬼の紫の瞳が、冷たく細められている。
「不用意に近づくな」
「し、しかし紫鬼様……!」
「癒し子に何かあればどうする」
淡々とした声音だった。
けれど室内にいた誰もが気づく。
紫鬼の視線が、奈津へ向けられていることに。
奈津は戸惑ったように目を瞬かせた。
一方で九重だけは、何かを察したように静かに目を細めていた。

