あやかしの癒し子〜祓い屋の出来損ないは、鬼の王の最愛〜

 この日の夜は、浅い眠りの中でも、何度もあの紫の瞳が脳裏をよぎった。
 そして迎えた朝――。

 目を覚ました奈津は、しばらく自分がどこにいるのか分からなかった。

 見慣れない天井。
 柔らかな布団。
 障子越しに差し込む淡い朝の光。

 九条家の薄暗い部屋とは、何もかも違う。

 「……あ」

 昨夜の出来事が、一気に蘇る。

 幽世で見たもの。
 屋敷を覆っていた黒い瘴気。
 そして、あの紫の瞳。

 奈津はそっと、自分の手を見つめた。
 あの時、確かにこの手は、紫鬼の瘴気を鎮めた。

 (夢……じゃ、なかったんだ)

 胸の奥が、少しだけざわつく。

 その時。
 ――コンコン。

 「癒し子様、お目覚めでしょうか」

 障子の向こうから、九重の穏やかな声が響く。

 「……は、はい!」

 奈津は慌てて身を起こした。

 「朝餉のご用意が整っております」

 「い、今行きます……!」

 返事をしながら、奈津は胸元へそっと手を当てる。

 ここは、もう九条家ではない。
 人ではないものたちが暮らす、幽世。
 その事実を改めて実感し、奈津は小さく息を吐いた。

 *

 朝餉を通された部屋は、朝の光が柔らかく差し込む静かな和室だった。

 卓上には、湯気を立てる料理が並んでいる。

 白く艶やかな米。
 温かな味噌汁。
 焼き魚に、小鉢の煮物。

 奈津は思わず目を見開いた。

 「……すごい」

 思わず零れた声に、九重が穏やかに微笑む。

 「お口に合えば良いのですが」

 奈津は戸惑ったように卓を見つめた。
 こんな温かな食事を、自分のために用意してもらったことなどほとんどない。

 九条家では残り物を与えられることがほとんどで、食事を抜かれることも珍しくはなかった。

 「……いただきます」

 そっと箸を取る。

 温かい。
 ただそれだけのことなのに、胸の奥がじんわりと熱くなった。

 「……美味しい」

 ぽつりと零すと、九重はどこか安心したように目を細めた。

 「それなら良かったです」

 奈津は小さく頷きながら、再び味噌汁へ口をつけた。
 優しい出汁の香りが、冷えていた身体へゆっくりと染み渡っていく。

 こんな風に落ち着いて食事を取れること自体、久しぶりな気がした。

 ここで本当にやっていけるのか。
 まだ何も分からない。

 妖たちの世界。
 瘴気に侵された紫鬼。
 歓迎されているわけでもない、この屋敷。

 不安は尽きなかった。

 それでも。
 静かな朝の空気と、湯気の立つ食事に包まれながら、奈津は胸の奥がじんわりと解けていくのを感じていた。