翔太がグラウンドへ戻ってから一週間。
松葉杖も取れ、今では怪我で遅れた分を取り返すように、毎日遅くまで練習していた。
そんな姿を、美術室の窓から眺めるのも、いつもの日課になっていた。
俺はスケッチブックを膝に置き、夢中で鉛筆を走らせる。
ボールを追う姿。仲間に笑いかける横顔。何度描いても飽きない。むしろ、恋人になってからの方が描きたい表情は増えた気がする。
ふと鉛筆が止まる。
……なんか。
恋人として、俺にできることって何だろう。
試合も近いし、何か力になりたい。
お守り、とか。
いや……裁縫なんて全然できない。
作ったところで、布がぐちゃぐちゃになる未来しか見えない。
「恋人らしいこと」なんて考えれば考えるほど分からなくなる。
結局、鉛筆をくるくる回しながら天井を見上げてため息をついた。
その時だった。
廊下から話し声が聞こえてきた。
「急ぎで申し訳ないんですけど……」
聞き覚えのある声に耳を澄ます。サッカー部の顧問だった。
「だから、あいつらには内緒でやってくれる子を探してて」
「なるほど」
今度は美術部の顧問の声。
「それなら、うちの部員に聞いてみようか」
その言葉を聞いた瞬間だった。
……それだ。
俺にもできる。いや、俺だからこそ、できることだ。
気づけば勢いよく扉を開けていた。ガラッ、と廊下に音が響く。
二人の先生が驚いたようにこちらを見る。
「すみません!」
息を切らしながら、俺は頭を下げた。
「その話……俺にやらせてください」
二人の先生は顔を見合わせる。
「優希、本当に大丈夫か?」
「はい」
迷いはなかった。
「絶対に、間に合わせます」
その返事を聞いた先生は少し驚いたように笑うと、
「……分かった。じゃあよろしく頼むよ」
そう言って頷いてくれた。
俺は教室に戻り早速机の上のスケッチブックを開いた。真っ白なページ。そこへ最初の一本の線を引く。
初めてだった。
誰かのために、こんなにも絵を描きたいと思ったのは。
◆
試合当日。
朝から会場は熱気に包まれていた。応援に来た保護者や在校生、他校の選手たちでスタンドは少しずつ埋まり始めている。
グラウンドではアップを始める選手たちの声が響き、試合前独特の緊張感が漂っていた。
そんな中、俺は人目の少ない体育館裏の通路で翔太と向かい合っていた。
ユニフォーム姿の翔太は、いつもより少しだけ表情が硬い。
「……やばい」
翔太が苦笑する。
「めちゃくちゃ緊張する」
「翔太でも緊張するんだ」
「するよ」
翔太は照れたように笑った。
「怪我明けの復帰戦だし」
「俺のせいで負けたら……とか考え始めると止まんねぇ」
そう言って頭をかく。
普段なら見せない弱音だった。
俺は少しだけ考えてから口を開く。
「大丈夫」
翔太がこちらを見る。
「俺、毎日見てたから」
「リハビリも居残り練習も誰より頑張ってたの知ってる」
翔太は何も言わない。
ただ、じっと俺を見つめていた。
「だから自信持って行ってこい」
しばらく沈黙が流れる。
やがて翔太はふっと笑った。
「……それ優に言われると、不思議と本当にそう思える」
少し照れくさそうに笑う。
「なぁ」
「ん?」
翔太は周りをちらりと見回した。
誰もこっちを見ていないことを確認すると、小さく俺の手首をつかむ。
ほんの一瞬。
袖の上から触れただけ。
それだけなのに、心臓が跳ねた。
「ちょっ……」
慌てて声を潜める。
「誰か来る」
「大丈夫」
翔太は悪戯っぽく笑う。
「少しだけ」
そう言って、親指でそっと俺の手の甲をなぞると、すぐに手を離した。
「……充電完了」
「何それ」
思わず吹き出す。
「これで勝てる」
翔太は少年みたいに笑った。その笑顔を見て、俺も自然と笑ってしまう。
遠くからチームメイトの声が響く。
「木村ー! 集合!」
「やばい、そろそろ行かねぇと」
俺は一歩後ろへ下がり、大きく頷く。
「行ってこい!」
翔太は振り返ると、さっきまでの緊張が嘘みたいに笑った。
「おう!」
短い返事なのに、不思議と力強い。
そのまま数歩走り出してから、また振り返る。
「ちゃんと見てろよ!」
「当たり前だ」
そう返すと、翔太は満足そうに口角を上げた。
「じゃ、行ってくる!」
元気よく手を挙げると、そのまま仲間たちのもとへ駆けていく。
その背中を見送りながら、俺は小さく息を吸った。
――頑張れ、翔太。
試合開始まで、あと数分。
アップを終えた選手たちがピッチへ集まり、スタンドにも次々と応援の声が増えていく。
審判がホイッスルを確認し、会場が試合前独特の緊張感に包まれた、その時だった。
「せーの!」
誰かの掛け声が響く。
バサッ――。
大きな布が風を受け、一気に広がった。
スタンド最前列。
真っ白な布いっぱいに描かれていたのは、大きく羽ばたく一羽の鳥。
翼を力いっぱい広げ、青空へ向かって飛び立つ姿だった。
繊細な羽の一本一本まで描き込まれたその鳥は、今にも横断幕から飛び立ちそうなほど力強い。
その翼を貫くように、大きな筆文字が躍る。
『駆け抜けろ』
風が吹くたび、鳥の翼が本当に羽ばたいているように見えた。
「すげぇ……」
「鳥が動いてるみたい」
「めちゃくちゃかっこいい……!」
あちこちから感嘆の声が上がる。
グラウンドでも、一人の選手がスタンドを指差した。
「おい、あれって……!」
その声につられるように、サッカー部員たちが一斉に視線を向ける。
そして、その中にいた翔太もゆっくりと顔を上げた。
風にはためく横断幕。
大きく掲げられた『駆け抜けろ』の文字。
翔太の目が大きく見開かれる。
やがて、その視線がスタンドを探す。人混みの中で、俺と目が合った。
俺は何も言わず、小さく笑って親指を立てる。
――行ってこい。
言葉にしなくても、それだけで十分だった。
翔太は一瞬だけ呆然としていたが、すぐに口元を緩める。
照れくさそうに笑ってから、胸の前で拳をぎゅっと握り、俺に向かって力強く頷いた。
その表情には、もう迷いはなかった。
◆
試合終了を告げるホイッスルが、会場いっぱいに鳴り響いた。
その瞬間。
「っしゃあああ!!」
サッカー部の歓声が一斉にグラウンドへ響く。
翔太は仲間たちと抱き合い、拳を高く突き上げて笑っていた。
怪我なんて最初からなかったかのように最後まで走り切り、何度もゴールへ向かって駆け抜けた。
その姿に、スタンドからは割れんばかりの拍手が送られる。
俺も気づけば立ち上がっていた。
胸が熱い。
自然と笑みがこぼれる。
……やっぱり。
翔太は、サッカーをしている時が一番かっこいい。
初めてスケッチブックに描いた日も。何百枚と描き続けた日々も。好きになった今も。
その気持ちは少しも変わらなかった。
いやきっと、あの頃よりずっと。
「翔太!」
名前を呼ぶと、翔太が勢いよく振り返る。
目が合った瞬間、ぱっと笑顔になる。
「優!」
仲間に「ちょっと!」と笑いながら手を振ると、翔太もこっちへ駆けてきた。
「見てた?」
「全部見てた」
そう答えると、翔太は子どもみたいに笑う。
「どうだった?」
俺は迷わず答えた。
「……やっぱり」
「翔太は、サッカーしてる時が一番かっこいい」
一瞬きょとんとした翔太は、照れくさそうに笑った。
「それ」
「優に言われるのが一番嬉しい」
そう言って頭をかく。
「これからもさ」
翔太は真っすぐ俺を見つめる。
「サッカー頑張るから。だから優」
「その隣で、ずっと見てて」
その言葉に、俺は笑って頷く。
「……うん」
「ずっと描く」
翔太は少し目を丸くしたあと、優しく笑った。
「約束な」
グラウンドには夕日が差し込み、勝利を祝う歓声がいつまでも響いていた。
俺のスケッチブックは、これからもきっと翔太で埋まっていく。
そして、その一ページ一ページの隣にはきっと、俺もいる。
松葉杖も取れ、今では怪我で遅れた分を取り返すように、毎日遅くまで練習していた。
そんな姿を、美術室の窓から眺めるのも、いつもの日課になっていた。
俺はスケッチブックを膝に置き、夢中で鉛筆を走らせる。
ボールを追う姿。仲間に笑いかける横顔。何度描いても飽きない。むしろ、恋人になってからの方が描きたい表情は増えた気がする。
ふと鉛筆が止まる。
……なんか。
恋人として、俺にできることって何だろう。
試合も近いし、何か力になりたい。
お守り、とか。
いや……裁縫なんて全然できない。
作ったところで、布がぐちゃぐちゃになる未来しか見えない。
「恋人らしいこと」なんて考えれば考えるほど分からなくなる。
結局、鉛筆をくるくる回しながら天井を見上げてため息をついた。
その時だった。
廊下から話し声が聞こえてきた。
「急ぎで申し訳ないんですけど……」
聞き覚えのある声に耳を澄ます。サッカー部の顧問だった。
「だから、あいつらには内緒でやってくれる子を探してて」
「なるほど」
今度は美術部の顧問の声。
「それなら、うちの部員に聞いてみようか」
その言葉を聞いた瞬間だった。
……それだ。
俺にもできる。いや、俺だからこそ、できることだ。
気づけば勢いよく扉を開けていた。ガラッ、と廊下に音が響く。
二人の先生が驚いたようにこちらを見る。
「すみません!」
息を切らしながら、俺は頭を下げた。
「その話……俺にやらせてください」
二人の先生は顔を見合わせる。
「優希、本当に大丈夫か?」
「はい」
迷いはなかった。
「絶対に、間に合わせます」
その返事を聞いた先生は少し驚いたように笑うと、
「……分かった。じゃあよろしく頼むよ」
そう言って頷いてくれた。
俺は教室に戻り早速机の上のスケッチブックを開いた。真っ白なページ。そこへ最初の一本の線を引く。
初めてだった。
誰かのために、こんなにも絵を描きたいと思ったのは。
◆
試合当日。
朝から会場は熱気に包まれていた。応援に来た保護者や在校生、他校の選手たちでスタンドは少しずつ埋まり始めている。
グラウンドではアップを始める選手たちの声が響き、試合前独特の緊張感が漂っていた。
そんな中、俺は人目の少ない体育館裏の通路で翔太と向かい合っていた。
ユニフォーム姿の翔太は、いつもより少しだけ表情が硬い。
「……やばい」
翔太が苦笑する。
「めちゃくちゃ緊張する」
「翔太でも緊張するんだ」
「するよ」
翔太は照れたように笑った。
「怪我明けの復帰戦だし」
「俺のせいで負けたら……とか考え始めると止まんねぇ」
そう言って頭をかく。
普段なら見せない弱音だった。
俺は少しだけ考えてから口を開く。
「大丈夫」
翔太がこちらを見る。
「俺、毎日見てたから」
「リハビリも居残り練習も誰より頑張ってたの知ってる」
翔太は何も言わない。
ただ、じっと俺を見つめていた。
「だから自信持って行ってこい」
しばらく沈黙が流れる。
やがて翔太はふっと笑った。
「……それ優に言われると、不思議と本当にそう思える」
少し照れくさそうに笑う。
「なぁ」
「ん?」
翔太は周りをちらりと見回した。
誰もこっちを見ていないことを確認すると、小さく俺の手首をつかむ。
ほんの一瞬。
袖の上から触れただけ。
それだけなのに、心臓が跳ねた。
「ちょっ……」
慌てて声を潜める。
「誰か来る」
「大丈夫」
翔太は悪戯っぽく笑う。
「少しだけ」
そう言って、親指でそっと俺の手の甲をなぞると、すぐに手を離した。
「……充電完了」
「何それ」
思わず吹き出す。
「これで勝てる」
翔太は少年みたいに笑った。その笑顔を見て、俺も自然と笑ってしまう。
遠くからチームメイトの声が響く。
「木村ー! 集合!」
「やばい、そろそろ行かねぇと」
俺は一歩後ろへ下がり、大きく頷く。
「行ってこい!」
翔太は振り返ると、さっきまでの緊張が嘘みたいに笑った。
「おう!」
短い返事なのに、不思議と力強い。
そのまま数歩走り出してから、また振り返る。
「ちゃんと見てろよ!」
「当たり前だ」
そう返すと、翔太は満足そうに口角を上げた。
「じゃ、行ってくる!」
元気よく手を挙げると、そのまま仲間たちのもとへ駆けていく。
その背中を見送りながら、俺は小さく息を吸った。
――頑張れ、翔太。
試合開始まで、あと数分。
アップを終えた選手たちがピッチへ集まり、スタンドにも次々と応援の声が増えていく。
審判がホイッスルを確認し、会場が試合前独特の緊張感に包まれた、その時だった。
「せーの!」
誰かの掛け声が響く。
バサッ――。
大きな布が風を受け、一気に広がった。
スタンド最前列。
真っ白な布いっぱいに描かれていたのは、大きく羽ばたく一羽の鳥。
翼を力いっぱい広げ、青空へ向かって飛び立つ姿だった。
繊細な羽の一本一本まで描き込まれたその鳥は、今にも横断幕から飛び立ちそうなほど力強い。
その翼を貫くように、大きな筆文字が躍る。
『駆け抜けろ』
風が吹くたび、鳥の翼が本当に羽ばたいているように見えた。
「すげぇ……」
「鳥が動いてるみたい」
「めちゃくちゃかっこいい……!」
あちこちから感嘆の声が上がる。
グラウンドでも、一人の選手がスタンドを指差した。
「おい、あれって……!」
その声につられるように、サッカー部員たちが一斉に視線を向ける。
そして、その中にいた翔太もゆっくりと顔を上げた。
風にはためく横断幕。
大きく掲げられた『駆け抜けろ』の文字。
翔太の目が大きく見開かれる。
やがて、その視線がスタンドを探す。人混みの中で、俺と目が合った。
俺は何も言わず、小さく笑って親指を立てる。
――行ってこい。
言葉にしなくても、それだけで十分だった。
翔太は一瞬だけ呆然としていたが、すぐに口元を緩める。
照れくさそうに笑ってから、胸の前で拳をぎゅっと握り、俺に向かって力強く頷いた。
その表情には、もう迷いはなかった。
◆
試合終了を告げるホイッスルが、会場いっぱいに鳴り響いた。
その瞬間。
「っしゃあああ!!」
サッカー部の歓声が一斉にグラウンドへ響く。
翔太は仲間たちと抱き合い、拳を高く突き上げて笑っていた。
怪我なんて最初からなかったかのように最後まで走り切り、何度もゴールへ向かって駆け抜けた。
その姿に、スタンドからは割れんばかりの拍手が送られる。
俺も気づけば立ち上がっていた。
胸が熱い。
自然と笑みがこぼれる。
……やっぱり。
翔太は、サッカーをしている時が一番かっこいい。
初めてスケッチブックに描いた日も。何百枚と描き続けた日々も。好きになった今も。
その気持ちは少しも変わらなかった。
いやきっと、あの頃よりずっと。
「翔太!」
名前を呼ぶと、翔太が勢いよく振り返る。
目が合った瞬間、ぱっと笑顔になる。
「優!」
仲間に「ちょっと!」と笑いながら手を振ると、翔太もこっちへ駆けてきた。
「見てた?」
「全部見てた」
そう答えると、翔太は子どもみたいに笑う。
「どうだった?」
俺は迷わず答えた。
「……やっぱり」
「翔太は、サッカーしてる時が一番かっこいい」
一瞬きょとんとした翔太は、照れくさそうに笑った。
「それ」
「優に言われるのが一番嬉しい」
そう言って頭をかく。
「これからもさ」
翔太は真っすぐ俺を見つめる。
「サッカー頑張るから。だから優」
「その隣で、ずっと見てて」
その言葉に、俺は笑って頷く。
「……うん」
「ずっと描く」
翔太は少し目を丸くしたあと、優しく笑った。
「約束な」
グラウンドには夕日が差し込み、勝利を祝う歓声がいつまでも響いていた。
俺のスケッチブックは、これからもきっと翔太で埋まっていく。
そして、その一ページ一ページの隣にはきっと、俺もいる。



