3年間、描き続けたら本人にバレました。

 翔太がグラウンドへ戻ってから一週間。
 松葉杖も取れ、今では怪我で遅れた分を取り返すように、毎日遅くまで練習していた。
 そんな姿を、美術室の窓から眺めるのも、いつもの日課になっていた。
 俺はスケッチブックを膝に置き、夢中で鉛筆を走らせる。
 ボールを追う姿。仲間に笑いかける横顔。何度描いても飽きない。むしろ、恋人になってからの方が描きたい表情は増えた気がする。
 ふと鉛筆が止まる。
 ……なんか。
 恋人として、俺にできることって何だろう。
 試合も近いし、何か力になりたい。
 お守り、とか。
 いや……裁縫なんて全然できない。
 作ったところで、布がぐちゃぐちゃになる未来しか見えない。
「恋人らしいこと」なんて考えれば考えるほど分からなくなる。
 結局、鉛筆をくるくる回しながら天井を見上げてため息をついた。
 その時だった。
 廊下から話し声が聞こえてきた。

「急ぎで申し訳ないんですけど……」

 聞き覚えのある声に耳を澄ます。サッカー部の顧問だった。

「だから、あいつらには内緒でやってくれる子を探してて」

「なるほど」

 今度は美術部の顧問の声。

「それなら、うちの部員に聞いてみようか」

 その言葉を聞いた瞬間だった。
 ……それだ。
 俺にもできる。いや、俺だからこそ、できることだ。
 気づけば勢いよく扉を開けていた。ガラッ、と廊下に音が響く。
 二人の先生が驚いたようにこちらを見る。

「すみません!」

 息を切らしながら、俺は頭を下げた。

「その話……俺にやらせてください」

 二人の先生は顔を見合わせる。

「優希、本当に大丈夫か?」

「はい」

 迷いはなかった。

「絶対に、間に合わせます」

 その返事を聞いた先生は少し驚いたように笑うと、

「……分かった。じゃあよろしく頼むよ」

 そう言って頷いてくれた。
 俺は教室に戻り早速机の上のスケッチブックを開いた。真っ白なページ。そこへ最初の一本の線を引く。
 初めてだった。
 誰かのために、こんなにも絵を描きたいと思ったのは。



 試合当日。
 朝から会場は熱気に包まれていた。応援に来た保護者や在校生、他校の選手たちでスタンドは少しずつ埋まり始めている。
 グラウンドではアップを始める選手たちの声が響き、試合前独特の緊張感が漂っていた。
 そんな中、俺は人目の少ない体育館裏の通路で翔太と向かい合っていた。
 ユニフォーム姿の翔太は、いつもより少しだけ表情が硬い。

「……やばい」

 翔太が苦笑する。

「めちゃくちゃ緊張する」

「翔太でも緊張するんだ」

「するよ」

 翔太は照れたように笑った。

「怪我明けの復帰戦だし」

「俺のせいで負けたら……とか考え始めると止まんねぇ」

 そう言って頭をかく。
 普段なら見せない弱音だった。
 俺は少しだけ考えてから口を開く。

「大丈夫」

 翔太がこちらを見る。

「俺、毎日見てたから」

「リハビリも居残り練習も誰より頑張ってたの知ってる」

 翔太は何も言わない。
 ただ、じっと俺を見つめていた。

「だから自信持って行ってこい」

 しばらく沈黙が流れる。
 やがて翔太はふっと笑った。

「……それ優に言われると、不思議と本当にそう思える」

 少し照れくさそうに笑う。

「なぁ」

「ん?」

 翔太は周りをちらりと見回した。
 誰もこっちを見ていないことを確認すると、小さく俺の手首をつかむ。
 ほんの一瞬。
 袖の上から触れただけ。
 それだけなのに、心臓が跳ねた。

「ちょっ……」

 慌てて声を潜める。

「誰か来る」

「大丈夫」

 翔太は悪戯っぽく笑う。

「少しだけ」

 そう言って、親指でそっと俺の手の甲をなぞると、すぐに手を離した。

「……充電完了」

「何それ」

 思わず吹き出す。

「これで勝てる」

 翔太は少年みたいに笑った。その笑顔を見て、俺も自然と笑ってしまう。
 遠くからチームメイトの声が響く。

「木村ー! 集合!」

「やばい、そろそろ行かねぇと」

 俺は一歩後ろへ下がり、大きく頷く。

「行ってこい!」

 翔太は振り返ると、さっきまでの緊張が嘘みたいに笑った。

「おう!」

 短い返事なのに、不思議と力強い。
 そのまま数歩走り出してから、また振り返る。

「ちゃんと見てろよ!」

「当たり前だ」

 そう返すと、翔太は満足そうに口角を上げた。

「じゃ、行ってくる!」

 元気よく手を挙げると、そのまま仲間たちのもとへ駆けていく。
 その背中を見送りながら、俺は小さく息を吸った。
 ――頑張れ、翔太。
 試合開始まで、あと数分。
 アップを終えた選手たちがピッチへ集まり、スタンドにも次々と応援の声が増えていく。
 審判がホイッスルを確認し、会場が試合前独特の緊張感に包まれた、その時だった。

「せーの!」

 誰かの掛け声が響く。
 バサッ――。
 大きな布が風を受け、一気に広がった。
 スタンド最前列。
 真っ白な布いっぱいに描かれていたのは、大きく羽ばたく一羽の鳥。
 翼を力いっぱい広げ、青空へ向かって飛び立つ姿だった。
 繊細な羽の一本一本まで描き込まれたその鳥は、今にも横断幕から飛び立ちそうなほど力強い。
 その翼を貫くように、大きな筆文字が躍る。
 『駆け抜けろ』
 風が吹くたび、鳥の翼が本当に羽ばたいているように見えた。

「すげぇ……」

「鳥が動いてるみたい」

「めちゃくちゃかっこいい……!」

 あちこちから感嘆の声が上がる。
 グラウンドでも、一人の選手がスタンドを指差した。

「おい、あれって……!」

 その声につられるように、サッカー部員たちが一斉に視線を向ける。
 そして、その中にいた翔太もゆっくりと顔を上げた。
 風にはためく横断幕。
 大きく掲げられた『駆け抜けろ』の文字。
 翔太の目が大きく見開かれる。
 やがて、その視線がスタンドを探す。人混みの中で、俺と目が合った。
 俺は何も言わず、小さく笑って親指を立てる。
 ――行ってこい。
 言葉にしなくても、それだけで十分だった。
 翔太は一瞬だけ呆然としていたが、すぐに口元を緩める。
 照れくさそうに笑ってから、胸の前で拳をぎゅっと握り、俺に向かって力強く頷いた。
 その表情には、もう迷いはなかった。



 試合終了を告げるホイッスルが、会場いっぱいに鳴り響いた。

 その瞬間。

「っしゃあああ!!」

 サッカー部の歓声が一斉にグラウンドへ響く。
 翔太は仲間たちと抱き合い、拳を高く突き上げて笑っていた。
 怪我なんて最初からなかったかのように最後まで走り切り、何度もゴールへ向かって駆け抜けた。
 その姿に、スタンドからは割れんばかりの拍手が送られる。
 俺も気づけば立ち上がっていた。
 胸が熱い。
 自然と笑みがこぼれる。
 ……やっぱり。
 翔太は、サッカーをしている時が一番かっこいい。
 初めてスケッチブックに描いた日も。何百枚と描き続けた日々も。好きになった今も。
 その気持ちは少しも変わらなかった。
 いやきっと、あの頃よりずっと。

「翔太!」

 名前を呼ぶと、翔太が勢いよく振り返る。
 目が合った瞬間、ぱっと笑顔になる。

「優!」

 仲間に「ちょっと!」と笑いながら手を振ると、翔太もこっちへ駆けてきた。

「見てた?」

「全部見てた」

 そう答えると、翔太は子どもみたいに笑う。

「どうだった?」

 俺は迷わず答えた。

「……やっぱり」

「翔太は、サッカーしてる時が一番かっこいい」

 一瞬きょとんとした翔太は、照れくさそうに笑った。

「それ」

「優に言われるのが一番嬉しい」

 そう言って頭をかく。

「これからもさ」

 翔太は真っすぐ俺を見つめる。

「サッカー頑張るから。だから優」

「その隣で、ずっと見てて」

 その言葉に、俺は笑って頷く。

「……うん」

「ずっと描く」

 翔太は少し目を丸くしたあと、優しく笑った。

「約束な」

 グラウンドには夕日が差し込み、勝利を祝う歓声がいつまでも響いていた。
 俺のスケッチブックは、これからもきっと翔太で埋まっていく。
 そして、その一ページ一ページの隣にはきっと、俺もいる。