3年間、描き続けたら本人にバレました。

 月曜日の朝。
 いつものように教室へ入ると、俺は席へ着き、ぼんやりと窓の外を眺める。
 スケッチブックを取り出そうと鞄へ手を伸ばした、その時だった。

 廊下の方からざわり、と教室の空気が変わる。

「え、木村どうした!」

「足、大丈夫か?」

 次々と聞こえてくる声に、俺も思わず顔を上げた。
 教室の入口には人だかりができている。その隙間から見えた姿に、息を呑んだ。

「……翔太?」

 翔太は右脇に松葉杖をつきながら、少し困ったように笑っていた。右足には白い包帯が巻かれいる。

「昨日の部活で捻っちゃってさ」

 苦笑しながらそう答えると、周りから一斉に心配の声が飛ぶ。

「え、大丈夫なの?」

「試合近いじゃん!」

「しばらく安静だって」

 翔太はそう言って笑っている。
 いつもの笑顔だ。でも、その笑顔がどこか無理をしているように見えた。
 そんなことを考えている間にも、翔太は友達に囲まれながら自分の席へ向かっていく。
 ……大丈夫なのか。
 すると、不意に翔太がこちらを見た。
 人混みの向こうで視線が合う。翔太は、ふっと笑って、小さく親指を立てた。
 ――大丈夫。
 そう言われた気がした。なのに俺は、その笑顔を見ても少しも安心できなかった。



 今日もいつものように美術室へ向かった。ただ、以前と違うことが一つだけある。

「よっと……」

 ガラリと扉が開き、翔太が入ってくる。
 聞いた話では、全治一か月。最近では松葉杖もなくなってサポーターだけになった。けれど、無理をすれば悪化する可能性もあるらしく、まだ部活は禁止らしい。だからあの日から翔太は毎日のように美術室へ来るようになった。

「今日も来たのか」

「行くとこないし」

 そう言って翔太は、それが当たり前みたいに俺の前に座った。
 この時間、自体は嫌じゃない。むしろ、一緒にいられる時間が増えたことを嬉しいと思っている自分もいる。
 ……いるのに。
 どこか違和感があった。

「翔太」

「なに?」

「……描きにくいんだけど」

 視線を感じる。
 気になって顔を上げると、向かいの席へ座った翔太が頬杖をついたまま、じっと俺を見ていた。
 正直に言うと、翔太はきょとんと目を瞬かせた。
 そんな真っ正面から見られたら、集中なんてできるわけがない。

「ずっと見てるだろ」

「見てる」

「認めるな」

「だって、優見てるの楽しいし」

 翔太はくすっと笑うと、頬杖をついたまま少しだけ身を乗り出した。

「前は俺が見られてたのにな」

 その一言に、筆が止まる。

「最近、全然描いてくれないじゃん」

「……」

 描けない。正確には、描こうとすると翔太のことを意識しすぎてしまって、筆が動かない。
 そんな理由、言えるはずもない。俺が黙っていると、翔太は少しだけ口元を緩めた。

「もしかしてさ」

「……何」

「俺のこと、見すぎると照れちゃうとか?」

「違うから!」

 思わず顔を上げると翔太は楽しそうに笑っていた。

「じゃあ、描いてよ」

「……」

「ほら」

 そう言って、わざと顎へ手を添えてモデルみたいなポーズを取る。

「サービスショット」

「だから描きにくいって言ってるだろ……」

 顔を覆う俺を見て、翔太は声を上げて笑った。
 しばらく静かな時間が流れた。
 さっきまで俺をじっと見ていた翔太は、ふいに窓の外へ視線を向ける。
 グラウンドでは部員たちが走り込みをしていた。
 静寂を破ったのは翔太だった。

「……俺、このままサッカーやめようと思う」

 鉛みたいに重い声だった。思わず、鉛筆を動かしていた手が止まる。

「……え?」

 聞き間違いかと思った。けど、翔太は笑わなかった。冗談を言う時の顔でもなかった。足を軽く叩きながら、自嘲するように笑う。

「たった一か月なのにな」

 その笑い方が痛々しくて、胸がざわつく。

「でも、その一か月で分かったんだよ」

 窓の外から、部員たちの掛け声が聞こえてくる。翔太はその音を聞きながら、小さく息を吐いた。

「俺がいなくても、部活って普通に回るんだなって」

 翔太は膝の上で手を組む。

「最初はさ、早く戻んなきゃって思ってた。でも毎日見てるうちに、『俺いなくても勝てるじゃん』って思い始めて」

 苦く笑う。

「なんか、急に力抜けた」

 俺は黙って翔太を見る。

「兄貴を超えたくて。父さんに認められたくて。サッカーだけは誰にも負けたくなくて。……でも、なんだかうまくいかなくて」

 翔太は拳を握る。

「なんのために頑張ってきたのかなって」

 その言葉を聞いた瞬間、胸が苦しくなった。それだけ言うと、翔太は口を閉じた。教室には時計の針の音だけが響いている。
 俺は何も言えなかった。
 翔太は考えなしに口にしているわけじゃない。この一か月、部活へ行けずに一人で考えて、悩んで、何度も自分に問いかけて、それでも出した結論なのだ。
 それが痛いほど伝わってきた。だからこそ、軽々しく否定なんてできなかった。
 結局、俺は何も返せないまま、時間だけが過ぎていった。

「……そろそろ帰るか」

 翔太が立ち上がる。
 俺も黙って荷物をまとめた。

「あ……課題」

 机の中に置きっぱなしだった。

「悪い、教室に忘れ物した」

「俺も行く」

 翔太が足を持ち上げようとしたところで、俺は首を振った。

「いい。遠いから翔太は先行ってて」

「でも」

「すぐ戻るから」

 そう言うと、翔太は少しだけ不満そうな顔をしたものの、小さく頷いた。

「……じゃあ、待ってるから」

 俺は一人で校舎へ戻る。ドアへ手を掛けようとした、その時だった。

「──翔太さぁ」

 聞き覚えのある名前に、思わず手が止まる。教室の中からだった。扉は少しだけ開いていて、中の声が漏れている。

 ……入りづらい。

 そう思って立ち止まると、笑い声が聞こえた。

「次の大会、間に合うんか?」

「さぁな。全治一か月らしいし」

 サッカー部の連中だった。確か、あまり練習に来ないやつらだ。

「まぁ翔太がいない方が俺らにもチャンス回ってくるけど」

「それな」

 くすくすと笑う声が響く。

「監督、木村ばっか見てるよな」

「ミスしても怒られねぇし」

「俺らだったら速攻外されるのに」

「お気に入りって得だよな」

 そこで一人が鼻で笑った。

「兄貴がすごいから期待されてるだけじゃね?」

「結局『木村の弟』って肩書きだろ」

「あいつ自身は大したことねぇよ」

 その一言に、俺の指先がぴくりと動いた。
 胸の奥がざわつく。
 ついさっきまで、一緒にいた翔太が頭に浮かぶ。

 『俺、このままサッカーやめようと思う』

 あの時の、無理に笑った横顔。あんな顔をしていた理由が、少しだけ分かった気がした。
 また笑い声。
 思わず拳に力が入る。
 人と揉めるのは苦手だし、目立つことだって嫌いだ。それでも考えるより先に、教室のドアを開けていた。
 教室の中にいた二人が一斉にこちらを振り向く。

「あ、中村」

「聞いてた?」

 へらへらと笑う声。その顔を見た瞬間、胸の奥が熱くなる。

「大したことないんだろ」

 自分でも驚くほど冷静な声だった。

「なら、なんでお前らはベンチなんだよ」

 空気が凍る。
 普段なら、こんな場面でも何も言えなかったと思う。
でも今だけは止まらなかった。

「翔太が試合に出てたのは、監督のお気に入りだからじゃない」

 誰も何も言わない。

「俺は三年間、翔太を見てきた」

「は?」

「朝は誰よりも早く学校に来て、放課後までずっとサッカーのこと考えて部活が終わっても一人で居残って練習してる」

 誰かと言い争ったことなんて、ほとんどない。それでも翔太が、水道で一人タオルを叩きつけていた姿。
 全部知ってしまった今。黙って聞き流すことなんて、できなかった。

「少なくとも」

 俺は相手を真っ直ぐ見据える。

「お前らより、翔太はずっとサッカーと向き合ってる」

 言いたいことは、それだけだった。
 机の中から課題を掴み、そのまま教室を出ようと振り返る。
 そこで足が止まった。

「……翔太」

 いつから、そこにいたんだ。
 もしかして。
 今の話、全部──。
 翔太は俺と目が合うと、小さく笑った。それから教室の中へ視線を向ける。

「せめてお前らも練習来いよな」

 穏やかな口調だった。怒鳴ったわけでもない。それなのに、教室の空気は張りつめる。

「……ま、来ねえか」

 そう呟くと、翔太はそれ以上何も言わずに俺の手首を軽く掴んだ。

「行こ 」

 有無を言わせないような、それでいてどこか優しい声だった。
 俺は何も言えないまま、そのまま引かれて歩き出す向かった先は、さっきまでいた美術室だった。
 ガラリ、と扉が閉まる。
 静かな部屋に夕日が差し込む。
 俺が「翔太」と名前を呼ぼうとした、その瞬間だった。
 ぐっと腕を引かれる。気づけば、胸の中に閉じ込められていた。

「……っ!」

 温かい。
 制服越しに伝わる体温と、少し早い鼓動。翔太は何も言わない。ただ、壊れ物を抱きしめるみたいに、そっと腕に力を込めた。

「……ありがとう」

 耳元で聞こえた声は、少しかすれていた。

「さっきの全部聞こえてた」

 少し間が空く。

「めちゃくちゃ嬉しかった」

 抱きしめる力が、ほんの少しだけ強くなる。

「ちゃんと見てくれてるやつ、いたんだな」

 その一言が胸に刺さる。
 俺は腕の置き場も分からず、ただ固まったまま立ち尽くしていた。心臓がうるさい。
 ──翔太の鼓動も、俺と同じくらい速くなっていることに気づくまでは。

「翔太」

 名前を呼ぶと、翔太がゆっくりこちらを見る。

「俺、サッカーのことは分からない」

 正直に言う。

「でも俺が毎日描いてた翔太は」

 翔太の目が少しだけ揺れる。

「サッカーが上手いから描いてたわけじゃない」

「……え?」

「楽しそうに笑うところとか。ゴール決めたあと、子どもみたいに笑うところとか」

 一つずつ思い浮かべながら口にする。

「そういう翔太が、描きたかった」

 教室で見る顔も。
 グラウンドで走る姿も。
 水をかぶって怒っていた姿も。

 全部、翔太だった。

「だから、サッカーやめたら翔太じゃなくなる、なんてことはない」

 ただ、じっと俺を見つめている。

「でも俺はやっぱりサッカーしてる翔太が好きだ」

 翔太は何も言わない。
 その沈黙が妙に長く感じる。

「もちろん、やめるって決めたなら、それも翔太だから俺は、どんな翔太でも描きたい」

 一歩、翔太の方へ近づく。

「笑ってても、落ち込んでても、サッカーしてても、してなくても」

 俺は少しだけ照れくさそうに笑った。

「全部、翔太だから」

 その時だった。
 翔太がふっと息を漏らして笑う。

「……優」

「ん?」

「それ、告白になってるって気づいてる?」

「……え?」

 何を言われたのか分からず、間抜けな声が漏れる。
 翔太はしばらく何も言わなかった。
 ただ、信じられないものを見るように俺を見つめている。
 やがて、少しだけ口元を緩めた。

「……それって」

 一歩、ゆっくり近づく。

「返事ってことでいい?」

 その言葉に心臓がどくんと鳴る。

 返事……そうか。

 あの日、雨の中で「好きなやつが優だって言ったらどうする?」と言われたまま、俺は何も答えられていなかった。
 翔太は、ずっと待っていてくれたんだ。
 俺はぎゅっと拳を握る。
 恥ずかしくて顔なんてまともに見られない。でも、もう誤魔化したくなかった。

「……うん」

 小さく頷く。

「俺も」

 一度息を吸う。

「翔太が好き」

 その瞬間だった。

「……っ!」

 翔太が思い切り顔を覆った。

「え、ちょ……翔太?」

「無理」

 耳まで真っ赤にしながら首を振る。

「今の反則」

「え?」

「優の口から好きって聞けると思ってなかった」

 嬉しそうに笑うくせに、照れているのは翔太の方だった。
 なんだそれ。さっきまで余裕そうだったのに。

「……翔太も照れるんだ」

 思わず口にすると、翔太は少しだけ目を細めた。

「好きなやつに告白されたら照れるだろ」

 さらっと言われて、今度は俺の番だった。
 熱い。顔が熱すぎる。

「優 」

 耳元で名前を呼ばれる。

「なんだよ」

 翔太は少しだけ体を離すと、照れたように頭をかいた。

「……キス、してもいい?」

「お、お前……」

「ん?」

「……あの時は、聞かなかったじゃん」

 思わず小さく文句を言う。
 雨の日。勢いのまま気持ちを伝えられて、何も考えられなくなったあの日が頭をよぎる。
 翔太は少し困ったように笑った。

「あの時は余裕なんてなかった」

「今は違う」

 まっすぐ俺を見つめる。

「ちゃんと、大事にしたいから」

 その言葉に胸がいっぱいになる。
 俺は照れ隠しに俯いたまま、小さく笑った。

「……ずるい」

「それって、いいってこと?」

 少し意地悪そうに聞かれて、ますます恥ずかしくなる。

「……うん」

 俺は小さく息を吸って、ゆっくりと目を閉じた。
 静かな美術室。聞こえるのは、窓の外で鳴く蝉の声と、お互いの呼吸だけ。
 そっと前髪に触れる指先は驚くほど優しかった。

「……緊張してる?」

 小さく囁かれる。

「……してる」

 正直に答えると、翔太はくすっと笑った。

「俺も」

 その声が少し震えていて、なんだか安心した。
 次の瞬間。
 唇に、ほんの一瞬だけ温もりが触れた。触れた、と感じた頃にはもう離れているくらいの、短くて優しいキス。
 ゆっくり目を開けると、目の前の翔太も真っ赤になっていた。

「……」

「……」

 二人とも何も言えない。
 さっきまであれだけ話していたのに、言葉が全部どこかへ飛んでいってしまった。
 やがて翔太が照れたように笑う。

「……これで、本当に恋人だな」

 その言葉に、また顔が熱くなる。

「そういうこと、すぐ言う」

「だって嬉しいから」

 真っすぐ返されて、思わず俯く。
 翔太はそんな俺を見て、小さく笑った。

「また赤くなってる」

「……翔太のせい」

「知ってる」

 嬉しそうに頷くその笑顔は、グラウンドでゴールを決めた時よりも、ずっと幸せそうだった。
 翔太はしばらく何も言わなかった。
 夕日が差し込む美術室に、カラスの鳴き声だけが響く。
 やがて翔太は静かに笑った。

「……やっぱさ」

 膝に置いていた手をぎゅっと握る。

「俺、サッカー続けるよ」

 その一言は、驚くほど穏やかだった。
 迷いが消えた声だった。
 俺は思わず翔太を見る。翔太は照れくさそうに笑って頭をかく。

「やめようって言ったのは本気だった」

 一度言葉を切る。翔太は俺の方へ向き直った。

「でも、優が言ってくれたじゃん」

『サッカーが上手いから描いてたわけじゃない』
『全部、翔太だから』

 俺が言った言葉を、翔太は一つひとつ大事そうに口にした。

「言われて思ったんだ。俺、いつの間にかサッカーを誰かに認めてもらうためのものにしちゃってた」

 父さんに、兄貴に、周りにずっと証明しようとしてた。

「でも、本当は違った」

 翔太はふっと笑う。

「あんなに好きで始めたのに俺が一番忘れてた」

 夕日に照らされた横顔は、どこか吹っ切れたようだった。

「だから」

 翔太はまっすぐ俺を見る。

「もう一回、自分のためにサッカーやる」

 その目には、あの日水道で見た焦りも、自分を責める色もなかった。
 あるのは、前だけを見据える強い光だった。

「だから次の試合見に来てよ」

 俺は瞬きをする。

「優に見ててほしい」

 その言葉に胸が熱くなる。

「父さんでも監督でも誰よりも」

 翔太は照れ隠しみたいに笑った。

「好きなやつに見てもらいたい」

 心臓がどくんと大きく鳴った。
 今まで何百回も描いてきた。ゴールを決めて笑う翔太も。悔しそうに唇を噛む翔太も。全部スケッチブックの向こう側だった。
 でも今は違う。

「……うん」

 俺は自然と笑っていた。

「一番前で見る」

 そう答えると、翔太は少年みたいに目を輝かせた。

「ああ、今度は、優のためにも決めてくる」

 その笑顔は、俺が初めてグラウンドで見て心を奪われた、あの笑顔そのものだった。