教室へ入ると、窓際の席では朝練帰りの運動部が騒いでいて、前の方では誰かが週末のテレビ番組の話で盛り上がっていた。俺は特に誰とも話すことなく自分の席へ向かい、鞄を机の横に掛ける。
「優、おはよう」
不意に聞こえた声に、思わず肩が跳ねる。顔を上げると、そこには翔太が立っていた。
いつものように爽やかな笑顔を浮かべていて、まるで毎朝こうして話しかけているみたいな自然さだった。
「……おはよう」
反応が一拍遅れる。というか、普通に驚いた。
翔太と話すこと自体はもう珍しくない。放課後に美術室へ来たり、一緒に帰ったり、休日にまで顔を合わせたりしている。
けれど、それはあくまで教室の外での話だ。クラスでは今までほとんど接点がなかった。話しかけちゃいけないなんてルールはないし、別に隠していたわけでもない。
それでも、なぜか教室ではお互い今まで通りだった。だからこそ、こうして朝一番に話しかけられるのは妙に落ち着かない。
「今日は何描いてんの?」
翔太は俺の机の上に置かれたスケッチブックへ視線を向ける。
「まだ何も描いてない」
「そっか」
そう言いながら当然のように俺の隣へ立ったまま動かない。
いや、なんでいるんだ。用事が終わったなら自分の席へ戻ればいいだろ。
そう思うのに、翔太は帰る気配がまるでない。むしろ楽しそうに机の上を覗き込んでいる。
その様子に落ち着かなくなって周囲へ目を向けると、案の定こちらをちらちら見ている生徒が何人かいた。
当然だ。今までまともに話しているところなんて見たことがない二人が、朝から普通に会話しているのだから。
「なぁ、優」
不意に名前を呼ばれ、俺は慌てて視線を戻す。
「何キョロキョロしてんの?」
「……いや」
言いかけて、結局言葉を飲み込む。だが翔太は察する気配もなく、もう一度当たり前のように口を開いた。
「優」
「教室でその呼び方はやめろ」
周囲に聞こえないよう、歯を食いしばりながら小声で訴える。
すると翔太はぽかんとした顔になった。
「なんで?」
「みんなに見られてるだろ」
そう言うと、翔太もようやく教室を見回した。だが次の瞬間にはあっさり肩をすくめる。
「別にいいじゃん。俺は優って呼びたいし」
さらっと言われて言葉に詰まる。
「ゆーう」
また呼ぶ。
「ゆうー」
「うるさい」
「優」
「やめろ」
楽しそうに笑っている。
けれど、この状況を誰よりも驚いていたのは、たぶん俺ではなかった。
「おい、優お前いつの間に木村と仲良くなったんだ」
教室に入ってきた光陽が驚きを隠せない顔で俺を見る。
言いかけて、口が止まる。あの日スケッチブックがバレたことなんて、ここでは絶対に言えない。説明すればするほど変に広がるのが目に見えている。
どうにか誤魔化そうとしていると、隣から軽い声が落ちてきた。
「秘密、な?」
翔太が俺にだけ聞こえるくらいの距離で、そう言いながら片目を細める。
「秘密な関係なんかッ!」
微かに聞き取れた光陽が大きな声で叫ぶ。
「お前っ!ややこしくなること言うなよ!」
そう思うのに、翔太はもう俺の反応なんて気にしていなかった。
「まぁ、そんな感じ」
曖昧に笑って、軽く肩をすくめる。
光陽が勢いよく俺の肩に腕を回してくる。
「こいつ人見知りだし、友達なんて俺しかいないぐらいだったのに寂しいぜ」
「おい、勝手に人の交友関係狭めるな」
言い合いみたいになっていると、横からふと声が落ちた。
「二人とも仲良いよね」
翔太だった。いつもの調子のようでいて、少しだけ間がある。
「まぁ、俺たちは保育園からの深〜い仲だからな」
光陽が得意げに胸を張る。
「気持ち悪い言い方すんな」
俺が即座に否定すると、光陽が「ひどくね?」と騒ぎ出す。
「優って、光陽にはそんな顔するんだ」
「……え?」
「いや、なんか楽しそうだから」
そう言って笑う翔太の表情はいつも通りだった。でも、その言葉だけが妙に胸に引っ掛かった。
◆
俺はいつものように美術室で一人キャンバスに向かっていた。
筆を走らせる。
……違う。
また塗り重ねる。
やっぱり違う。
今日は何度描き直しても、思うように手が動かなかった。こんな日は、どれだけ粘ってもいい絵にならない。
俺は小さく息をつき、筆を置いた。
窓の外を見ると、グラウンドから聞こえていた掛け声もいつの間にか止んでいる。
サッカー部の練習も終わったらしい。
「今日はもう帰るか」
片付けを済ませて画材バッグを肩に掛ける。
いつもなら、もう少しで時間になると翔太が美術室まで迎えに来る。
だったら今日は――。
(たまには俺が迎えに行ってやるか)
そう思って、美術室の扉へ手を掛ける。
(……喜ぶかな)
ふと浮かんだ考えに、自分で足を止めた。
いや、なんで俺が迎えに行ったくらいで翔太が喜ぶんだよ。
別に待ち合わせをしているわけでもないし、迎えに来るのだって翔太が勝手に始めたことだ。
その時、不意に今朝のやり取りが頭をよぎった。
『優って、光陽にはそんな顔するんだ』
『……なんか楽しそうだから』
あの時は何を言ってるんだと思った。でも、歩きながら改めて考えてみる。
俺は翔太といる時、どんな顔をしているんだろう。
自分では分からない。ただ、一つだけ確かなことはあった。
翔太と一緒にいる時間は、ちゃんと楽しい。
考えてみれば、この数週間で翔太と話す時間は驚くほど増えた。
最初はスケッチブックが見つかっただけの関係だったはずなのに、放課後に会って、一緒に帰って、休日まで話をするようになった。
人と距離を縮めるのは苦手な俺なのに、それが翔太相手だと不思議と苦じゃない。
理由は分からない。
ただ、それが当たり前になり始めている自分がいた。
笑っている姿だけじゃない。悔しそうな顔も、無理に笑う顔も、人に見せない弱いところも知った。
三年間同じ教室にいたはずなのに、俺は翔太のことを何も知らなかったのだと、そのたびに思い知らされる。
そして知れば知るほど、不思議なくらいその距離は近づいている気がした。だからだろうか。今日くらいは、自分から迎えに行ってもいいかもしれない。
昇降口へ向かう途中、もう部活を終えた生徒たちがちらほらと帰り支度をしていた。
翔太はもういるだろうかな。
そんなことを考えながら下駄箱へ足を踏み入れようとした、その時だった。
「翔太くん!」
少し緊張したような女の子の声が聞こえてきて、思わず足が止まる。
そのまま反射的に近くの柱へ身を隠した。
……いや、なんで隠れたんだ。
自分でも分からない。けれど今さら出ていくのも気まずくて、俺はそっと柱の陰から様子を窺う。
そこには翔太と、一人の女の子が向かい合って立っていた。
制服の裾をぎゅっと握りしめ、小さく震える声で言葉を紡いでいる。
「私、クラスに馴染めなかった時に翔太くんが話しかけてくれて……すごく嬉しかったの」
翔太は何も言わず、ただ相手の言葉を聞いている。
「誰にでも優しい……そんな翔太くんのことが好きです」
一度大きく息を吸い込む。
「付き合ってください」
静かな昇降口に、その一言だけがやけにはっきり響いた。
……告白だ。
こんな場面に遭遇するなんて初めてだった。俺は息を潜めたまま、その場から動けずに固まる。
ほんと、翔太ってモテるよな。
サッカー部のエースで、顔も良くて、誰とでも分け隔てなく話せる。
俺みたいな、人付き合いが苦手で教室の隅で絵ばかり描いているやつにも、あいつは何も変わらず話しかけてくれる。
優しいやつだから。
だから、翔太が俺に話しかけてくれるのだって、特別な意味なんてない。
俺だけじゃない。誰に対しても、あいつはああいうやつなんだ。
そう思った瞬間だった。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
「優、おはよう」
不意に聞こえた声に、思わず肩が跳ねる。顔を上げると、そこには翔太が立っていた。
いつものように爽やかな笑顔を浮かべていて、まるで毎朝こうして話しかけているみたいな自然さだった。
「……おはよう」
反応が一拍遅れる。というか、普通に驚いた。
翔太と話すこと自体はもう珍しくない。放課後に美術室へ来たり、一緒に帰ったり、休日にまで顔を合わせたりしている。
けれど、それはあくまで教室の外での話だ。クラスでは今までほとんど接点がなかった。話しかけちゃいけないなんてルールはないし、別に隠していたわけでもない。
それでも、なぜか教室ではお互い今まで通りだった。だからこそ、こうして朝一番に話しかけられるのは妙に落ち着かない。
「今日は何描いてんの?」
翔太は俺の机の上に置かれたスケッチブックへ視線を向ける。
「まだ何も描いてない」
「そっか」
そう言いながら当然のように俺の隣へ立ったまま動かない。
いや、なんでいるんだ。用事が終わったなら自分の席へ戻ればいいだろ。
そう思うのに、翔太は帰る気配がまるでない。むしろ楽しそうに机の上を覗き込んでいる。
その様子に落ち着かなくなって周囲へ目を向けると、案の定こちらをちらちら見ている生徒が何人かいた。
当然だ。今までまともに話しているところなんて見たことがない二人が、朝から普通に会話しているのだから。
「なぁ、優」
不意に名前を呼ばれ、俺は慌てて視線を戻す。
「何キョロキョロしてんの?」
「……いや」
言いかけて、結局言葉を飲み込む。だが翔太は察する気配もなく、もう一度当たり前のように口を開いた。
「優」
「教室でその呼び方はやめろ」
周囲に聞こえないよう、歯を食いしばりながら小声で訴える。
すると翔太はぽかんとした顔になった。
「なんで?」
「みんなに見られてるだろ」
そう言うと、翔太もようやく教室を見回した。だが次の瞬間にはあっさり肩をすくめる。
「別にいいじゃん。俺は優って呼びたいし」
さらっと言われて言葉に詰まる。
「ゆーう」
また呼ぶ。
「ゆうー」
「うるさい」
「優」
「やめろ」
楽しそうに笑っている。
けれど、この状況を誰よりも驚いていたのは、たぶん俺ではなかった。
「おい、優お前いつの間に木村と仲良くなったんだ」
教室に入ってきた光陽が驚きを隠せない顔で俺を見る。
言いかけて、口が止まる。あの日スケッチブックがバレたことなんて、ここでは絶対に言えない。説明すればするほど変に広がるのが目に見えている。
どうにか誤魔化そうとしていると、隣から軽い声が落ちてきた。
「秘密、な?」
翔太が俺にだけ聞こえるくらいの距離で、そう言いながら片目を細める。
「秘密な関係なんかッ!」
微かに聞き取れた光陽が大きな声で叫ぶ。
「お前っ!ややこしくなること言うなよ!」
そう思うのに、翔太はもう俺の反応なんて気にしていなかった。
「まぁ、そんな感じ」
曖昧に笑って、軽く肩をすくめる。
光陽が勢いよく俺の肩に腕を回してくる。
「こいつ人見知りだし、友達なんて俺しかいないぐらいだったのに寂しいぜ」
「おい、勝手に人の交友関係狭めるな」
言い合いみたいになっていると、横からふと声が落ちた。
「二人とも仲良いよね」
翔太だった。いつもの調子のようでいて、少しだけ間がある。
「まぁ、俺たちは保育園からの深〜い仲だからな」
光陽が得意げに胸を張る。
「気持ち悪い言い方すんな」
俺が即座に否定すると、光陽が「ひどくね?」と騒ぎ出す。
「優って、光陽にはそんな顔するんだ」
「……え?」
「いや、なんか楽しそうだから」
そう言って笑う翔太の表情はいつも通りだった。でも、その言葉だけが妙に胸に引っ掛かった。
◆
俺はいつものように美術室で一人キャンバスに向かっていた。
筆を走らせる。
……違う。
また塗り重ねる。
やっぱり違う。
今日は何度描き直しても、思うように手が動かなかった。こんな日は、どれだけ粘ってもいい絵にならない。
俺は小さく息をつき、筆を置いた。
窓の外を見ると、グラウンドから聞こえていた掛け声もいつの間にか止んでいる。
サッカー部の練習も終わったらしい。
「今日はもう帰るか」
片付けを済ませて画材バッグを肩に掛ける。
いつもなら、もう少しで時間になると翔太が美術室まで迎えに来る。
だったら今日は――。
(たまには俺が迎えに行ってやるか)
そう思って、美術室の扉へ手を掛ける。
(……喜ぶかな)
ふと浮かんだ考えに、自分で足を止めた。
いや、なんで俺が迎えに行ったくらいで翔太が喜ぶんだよ。
別に待ち合わせをしているわけでもないし、迎えに来るのだって翔太が勝手に始めたことだ。
その時、不意に今朝のやり取りが頭をよぎった。
『優って、光陽にはそんな顔するんだ』
『……なんか楽しそうだから』
あの時は何を言ってるんだと思った。でも、歩きながら改めて考えてみる。
俺は翔太といる時、どんな顔をしているんだろう。
自分では分からない。ただ、一つだけ確かなことはあった。
翔太と一緒にいる時間は、ちゃんと楽しい。
考えてみれば、この数週間で翔太と話す時間は驚くほど増えた。
最初はスケッチブックが見つかっただけの関係だったはずなのに、放課後に会って、一緒に帰って、休日まで話をするようになった。
人と距離を縮めるのは苦手な俺なのに、それが翔太相手だと不思議と苦じゃない。
理由は分からない。
ただ、それが当たり前になり始めている自分がいた。
笑っている姿だけじゃない。悔しそうな顔も、無理に笑う顔も、人に見せない弱いところも知った。
三年間同じ教室にいたはずなのに、俺は翔太のことを何も知らなかったのだと、そのたびに思い知らされる。
そして知れば知るほど、不思議なくらいその距離は近づいている気がした。だからだろうか。今日くらいは、自分から迎えに行ってもいいかもしれない。
昇降口へ向かう途中、もう部活を終えた生徒たちがちらほらと帰り支度をしていた。
翔太はもういるだろうかな。
そんなことを考えながら下駄箱へ足を踏み入れようとした、その時だった。
「翔太くん!」
少し緊張したような女の子の声が聞こえてきて、思わず足が止まる。
そのまま反射的に近くの柱へ身を隠した。
……いや、なんで隠れたんだ。
自分でも分からない。けれど今さら出ていくのも気まずくて、俺はそっと柱の陰から様子を窺う。
そこには翔太と、一人の女の子が向かい合って立っていた。
制服の裾をぎゅっと握りしめ、小さく震える声で言葉を紡いでいる。
「私、クラスに馴染めなかった時に翔太くんが話しかけてくれて……すごく嬉しかったの」
翔太は何も言わず、ただ相手の言葉を聞いている。
「誰にでも優しい……そんな翔太くんのことが好きです」
一度大きく息を吸い込む。
「付き合ってください」
静かな昇降口に、その一言だけがやけにはっきり響いた。
……告白だ。
こんな場面に遭遇するなんて初めてだった。俺は息を潜めたまま、その場から動けずに固まる。
ほんと、翔太ってモテるよな。
サッカー部のエースで、顔も良くて、誰とでも分け隔てなく話せる。
俺みたいな、人付き合いが苦手で教室の隅で絵ばかり描いているやつにも、あいつは何も変わらず話しかけてくれる。
優しいやつだから。
だから、翔太が俺に話しかけてくれるのだって、特別な意味なんてない。
俺だけじゃない。誰に対しても、あいつはああいうやつなんだ。
そう思った瞬間だった。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。



