3年間、描き続けたら本人にバレました。

 俺は土曜日の学校へ来ていた。
 肩に掛けた画材バッグを持ち直しながら中庭へ足を踏み入れた時、不意に見覚えのある姿が目に入った。
 水道の前に立つ翔太だった。
 練習合間なのか翔太は蛇口をひねると、何の躊躇もなく頭から水をかぶった。
 ばしゃり、と大きな水音が響く。
 濡れた黒髪から滴が落ち、首筋を伝い、日に焼けた肌の上を滑り落ちていく。
 思わず足が止まる。
 我ながら何をやっているんだと思うが、視線が離せない。
 水も滴るいい男、なんて言葉があるけれど、たぶんこういうことを言うのだろう。
 相変わらず絵になるな、と半ば職業病みたいな感想を抱きながらこっそり眺めていると、翔太は濡れた前髪を乱暴にかき上げた。その横顔はいつも教室で見る表情より少し疲れて見えて、俺はほんの少しだけ違和感を覚える。
 すると次の瞬間だった。

「クソッ!!」

 翔太は顔を伏せたままタオルを握りしめ、そのまま勢いよく水道脇へ叩きつけた。
 思わず肩が跳ねた。
 眉を寄せ、苛立ちを隠しきれない表情をしていた。
 見なかったことにしよう。
 そう思った。
 翔太がどんな理由で苛立っているのかは分からないし、たぶん俺が知る必要もない。
 いつもの明るい翔太しか知らないからこそ、今の姿はどこか別人みたいで、踏み込んではいけないものを見てしまった気がした。
 俺はそっと踵を返す。
 パキッ。
 足元で乾いた枝が嫌な音を立てた。
(しまった……)
 思った瞬間にはもう遅い。
 水道の前に立っていた翔太が弾かれたようにこちらを振り向く。

「……優?」

 どこか気まずそうな声だった。
 普段の軽い調子がない。
 それだけで、さっき見たものが本当に偶然じゃなかったのだと分かってしまう。

「悪い」

 反射的に口から出たのは謝罪だった。

「別に盗み見してたわけじゃなくて、その……たまたま」

 言い訳がましい言葉に自分でも嫌になる。
 だが翔太は少し驚いたように目を瞬かせたあと、小さく息を吐いた。

「いや」

 濡れた前髪をかき上げながら苦笑する。

「別に優が謝ることじゃねぇよ」

 俺は人の感情を読むのが得意な方じゃない。けれど三年間も描いてきた。
 表情も仕草も、誰より見てきた自信はある。だから分かってしまう。
 今の翔太は笑っているだけだ。本当は全然笑っていない。
 沈黙が落ちる。
 俺がどうしたものかと立ち尽くしていると、翔太がタオルで髪を拭きながら口を開く。

「優、これから美術室?」

「そのつもりだけど」

「そっか」

 そこで会話は途切れる。
 しばらくして、翔太がふっと苦笑した。

「ちょっとだけ付き合ってくれない?」

「え?」

「すぐ終わるから」

 そう言って歩き出した翔太の後を、俺は半ば流されるようについていく。
 向かった先は裏校舎だった。休日だから人の気配はほとんどない。
 校舎の影になった階段は日差しも届かず、さっきまでの暑さが嘘みたいに涼しかった。
 翔太は途中の段に腰を下ろし、俺も少し離れた場所へ座った。
 近くのグラウンドから聞こえてくるボールの音だけが響いている。
 こういう空気は苦手だ。何か話した方がいいのか、でも何を言えばいいのか分からない。
 すると翔太がぽつりと呟いた。

「優ってさ」

「ん?」

「休みの日まで学校来るんだな」

 話題を変えたらしい。
 少しだけほっとする。

「もうすぐ受験だし」

「受験?」

「絵、高校でやめる予定だから」

 翔太がこちらを見る。
 俺は階段の先へ視線を向けたまま続けた。

「だから残ってる間くらい描いとこうかなって」

 美術室で絵を描ける時間も、あと半年もない。そう思うと急に惜しくなった。
 今までは当たり前だった放課後も、休日の静かな校舎も。
 全部終わりが近づいている。翔太は少し考えるように黙ったあと、小さく笑った。

「やっぱ優らしいな」

「何それ」

「好きなものには一直線って感じ」

 そう言われると少し照れ臭い。俺は誤魔化すように肩をすくめた。
 すると翔太がふっと表情を緩める。

「いいな」

 その声は、どこか羨ましそうだった。
 俺は思わず翔太を見る。
 翔太は膝の上でタオルを握ったまま、足元を見つめていた。

「なんかあった?」

 翔太の肩がわずかに揺れる。
 聞くつもりなんてなかった。それでも、あんな顔を見てしまったから。
 翔太はしばらく黙ったままタオルを握り締めていたが、やがて困ったように笑った。

「俺、二個上の兄貴がいるんだけどさ」

 ぽつりと零された言葉に、俺は黙って耳を傾ける。

「兄貴、めちゃくちゃサッカー上手いんだよ」

 翔太は苦笑した。

「全国とか行くレベルでさ。昔から父さんも兄貴の試合ばっか見に行ってた」

 その声は淡々としていた。けれどどこか、自分に言い聞かせるみたいだった。

「別に父さんが俺を嫌ってるとかじゃねぇんだと思う」

 翔太はそう前置きしてから、小さく息を吐く。

「ただ、兄貴の方がすごかっただけ」

 階段の先を見つめながら続ける。

「だからかな。気付いたらずっと思ってたんだよ」

 握ったタオルに力が入る。

「勝たなきゃって」

 その言葉は驚くほど弱かった。

「兄貴より上手くなって、見返して、認めてもらわなきゃって」

 翔太は自嘲気味に笑う。

「でも別に誰に言われたわけでもないんだよな」

 その笑顔が少しだけ苦い。

「父さんに『お前はダメだ』って言われたこともないし」

 むしろ期待されていないのかもしれない。そう続く言葉は、口には出されなかった。
 けれど何となく分かってしまった。

「勝手に焦って、勝手にプレッシャー感じて」

 翔太は俯く。

「今日の練習試合もさ」

 そこで一度言葉が止まった。
 風が吹く。濡れた前髪が揺れる。

「俺が決めてれば勝てたんだよ」

 ぽつり、と落ちた声は蝉の鳴き声に掻き消されそうだった。

「決定機あったのに外して」

 翔太は笑う。けれど全然笑えていない。

「そしたら最後に一点入れられて負け」

 握られたタオルがくしゃりと歪む。

「情けねぇよな」

 その言葉に、俺は何も返せなかった。ただ、さっき水道で見た表情の理由だけは分かった気がした。
 翔太はずっと一人で戦っていたのだ。誰かに押し付けられたわけでもない期待と。
 追い越せない兄の背中と。
 誰にも見せない悔しさと。

「情けなくはないだろ」

 翔太が顔を上げる。
 まっすぐ視線がぶつかった。

「悔しいってことだろ。そう感じるなら大丈夫だ」

 それだけ言うと、翔太は少しだけ目を見開いた。
 まるでそんな返事が返ってくると思っていなかったみたいに。
 しばらく沈黙したあと、翔太は小さく笑う。

「ありがとな、優」

 真っ直ぐ言われて、俺は気まずくなる。

「別に」

「その言い方、全然別にじゃないんだよな」

「うるさい」

 翔太はまた笑った。その笑顔を見て、胸の奥が少しだけ温かくなる。気付けば俺まで笑っていた。
 夏の風が二人の間を通り抜けていく。
 いつもより少しだけ近く感じる距離が、不思議と嫌じゃなかった。