俺は土曜日の学校へ来ていた。
肩に掛けた画材バッグを持ち直しながら中庭へ足を踏み入れた時、不意に見覚えのある姿が目に入った。
水道の前に立つ翔太だった。
練習合間なのか翔太は蛇口をひねると、何の躊躇もなく頭から水をかぶった。
ばしゃり、と大きな水音が響く。
濡れた黒髪から滴が落ち、首筋を伝い、日に焼けた肌の上を滑り落ちていく。
思わず足が止まる。
我ながら何をやっているんだと思うが、視線が離せない。
水も滴るいい男、なんて言葉があるけれど、たぶんこういうことを言うのだろう。
相変わらず絵になるな、と半ば職業病みたいな感想を抱きながらこっそり眺めていると、翔太は濡れた前髪を乱暴にかき上げた。その横顔はいつも教室で見る表情より少し疲れて見えて、俺はほんの少しだけ違和感を覚える。
すると次の瞬間だった。
「クソッ!!」
翔太は顔を伏せたままタオルを握りしめ、そのまま勢いよく水道脇へ叩きつけた。
思わず肩が跳ねた。
眉を寄せ、苛立ちを隠しきれない表情をしていた。
見なかったことにしよう。
そう思った。
翔太がどんな理由で苛立っているのかは分からないし、たぶん俺が知る必要もない。
いつもの明るい翔太しか知らないからこそ、今の姿はどこか別人みたいで、踏み込んではいけないものを見てしまった気がした。
俺はそっと踵を返す。
パキッ。
足元で乾いた枝が嫌な音を立てた。
(しまった……)
思った瞬間にはもう遅い。
水道の前に立っていた翔太が弾かれたようにこちらを振り向く。
「……優?」
どこか気まずそうな声だった。
普段の軽い調子がない。
それだけで、さっき見たものが本当に偶然じゃなかったのだと分かってしまう。
「悪い」
反射的に口から出たのは謝罪だった。
「別に盗み見してたわけじゃなくて、その……たまたま」
言い訳がましい言葉に自分でも嫌になる。
だが翔太は少し驚いたように目を瞬かせたあと、小さく息を吐いた。
「いや」
濡れた前髪をかき上げながら苦笑する。
「別に優が謝ることじゃねぇよ」
俺は人の感情を読むのが得意な方じゃない。けれど三年間も描いてきた。
表情も仕草も、誰より見てきた自信はある。だから分かってしまう。
今の翔太は笑っているだけだ。本当は全然笑っていない。
沈黙が落ちる。
俺がどうしたものかと立ち尽くしていると、翔太がタオルで髪を拭きながら口を開く。
「優、これから美術室?」
「そのつもりだけど」
「そっか」
そこで会話は途切れる。
しばらくして、翔太がふっと苦笑した。
「ちょっとだけ付き合ってくれない?」
「え?」
「すぐ終わるから」
そう言って歩き出した翔太の後を、俺は半ば流されるようについていく。
向かった先は裏校舎だった。休日だから人の気配はほとんどない。
校舎の影になった階段は日差しも届かず、さっきまでの暑さが嘘みたいに涼しかった。
翔太は途中の段に腰を下ろし、俺も少し離れた場所へ座った。
近くのグラウンドから聞こえてくるボールの音だけが響いている。
こういう空気は苦手だ。何か話した方がいいのか、でも何を言えばいいのか分からない。
すると翔太がぽつりと呟いた。
「優ってさ」
「ん?」
「休みの日まで学校来るんだな」
話題を変えたらしい。
少しだけほっとする。
「もうすぐ受験だし」
「受験?」
「絵、高校でやめる予定だから」
翔太がこちらを見る。
俺は階段の先へ視線を向けたまま続けた。
「だから残ってる間くらい描いとこうかなって」
美術室で絵を描ける時間も、あと半年もない。そう思うと急に惜しくなった。
今までは当たり前だった放課後も、休日の静かな校舎も。
全部終わりが近づいている。翔太は少し考えるように黙ったあと、小さく笑った。
「やっぱ優らしいな」
「何それ」
「好きなものには一直線って感じ」
そう言われると少し照れ臭い。俺は誤魔化すように肩をすくめた。
すると翔太がふっと表情を緩める。
「いいな」
その声は、どこか羨ましそうだった。
俺は思わず翔太を見る。
翔太は膝の上でタオルを握ったまま、足元を見つめていた。
「なんかあった?」
翔太の肩がわずかに揺れる。
聞くつもりなんてなかった。それでも、あんな顔を見てしまったから。
翔太はしばらく黙ったままタオルを握り締めていたが、やがて困ったように笑った。
「俺、二個上の兄貴がいるんだけどさ」
ぽつりと零された言葉に、俺は黙って耳を傾ける。
「兄貴、めちゃくちゃサッカー上手いんだよ」
翔太は苦笑した。
「全国とか行くレベルでさ。昔から父さんも兄貴の試合ばっか見に行ってた」
その声は淡々としていた。けれどどこか、自分に言い聞かせるみたいだった。
「別に父さんが俺を嫌ってるとかじゃねぇんだと思う」
翔太はそう前置きしてから、小さく息を吐く。
「ただ、兄貴の方がすごかっただけ」
階段の先を見つめながら続ける。
「だからかな。気付いたらずっと思ってたんだよ」
握ったタオルに力が入る。
「勝たなきゃって」
その言葉は驚くほど弱かった。
「兄貴より上手くなって、見返して、認めてもらわなきゃって」
翔太は自嘲気味に笑う。
「でも別に誰に言われたわけでもないんだよな」
その笑顔が少しだけ苦い。
「父さんに『お前はダメだ』って言われたこともないし」
むしろ期待されていないのかもしれない。そう続く言葉は、口には出されなかった。
けれど何となく分かってしまった。
「勝手に焦って、勝手にプレッシャー感じて」
翔太は俯く。
「今日の練習試合もさ」
そこで一度言葉が止まった。
風が吹く。濡れた前髪が揺れる。
「俺が決めてれば勝てたんだよ」
ぽつり、と落ちた声は蝉の鳴き声に掻き消されそうだった。
「決定機あったのに外して」
翔太は笑う。けれど全然笑えていない。
「そしたら最後に一点入れられて負け」
握られたタオルがくしゃりと歪む。
「情けねぇよな」
その言葉に、俺は何も返せなかった。ただ、さっき水道で見た表情の理由だけは分かった気がした。
翔太はずっと一人で戦っていたのだ。誰かに押し付けられたわけでもない期待と。
追い越せない兄の背中と。
誰にも見せない悔しさと。
「情けなくはないだろ」
翔太が顔を上げる。
まっすぐ視線がぶつかった。
「悔しいってことだろ。そう感じるなら大丈夫だ」
それだけ言うと、翔太は少しだけ目を見開いた。
まるでそんな返事が返ってくると思っていなかったみたいに。
しばらく沈黙したあと、翔太は小さく笑う。
「ありがとな、優」
真っ直ぐ言われて、俺は気まずくなる。
「別に」
「その言い方、全然別にじゃないんだよな」
「うるさい」
翔太はまた笑った。その笑顔を見て、胸の奥が少しだけ温かくなる。気付けば俺まで笑っていた。
夏の風が二人の間を通り抜けていく。
いつもより少しだけ近く感じる距離が、不思議と嫌じゃなかった。
肩に掛けた画材バッグを持ち直しながら中庭へ足を踏み入れた時、不意に見覚えのある姿が目に入った。
水道の前に立つ翔太だった。
練習合間なのか翔太は蛇口をひねると、何の躊躇もなく頭から水をかぶった。
ばしゃり、と大きな水音が響く。
濡れた黒髪から滴が落ち、首筋を伝い、日に焼けた肌の上を滑り落ちていく。
思わず足が止まる。
我ながら何をやっているんだと思うが、視線が離せない。
水も滴るいい男、なんて言葉があるけれど、たぶんこういうことを言うのだろう。
相変わらず絵になるな、と半ば職業病みたいな感想を抱きながらこっそり眺めていると、翔太は濡れた前髪を乱暴にかき上げた。その横顔はいつも教室で見る表情より少し疲れて見えて、俺はほんの少しだけ違和感を覚える。
すると次の瞬間だった。
「クソッ!!」
翔太は顔を伏せたままタオルを握りしめ、そのまま勢いよく水道脇へ叩きつけた。
思わず肩が跳ねた。
眉を寄せ、苛立ちを隠しきれない表情をしていた。
見なかったことにしよう。
そう思った。
翔太がどんな理由で苛立っているのかは分からないし、たぶん俺が知る必要もない。
いつもの明るい翔太しか知らないからこそ、今の姿はどこか別人みたいで、踏み込んではいけないものを見てしまった気がした。
俺はそっと踵を返す。
パキッ。
足元で乾いた枝が嫌な音を立てた。
(しまった……)
思った瞬間にはもう遅い。
水道の前に立っていた翔太が弾かれたようにこちらを振り向く。
「……優?」
どこか気まずそうな声だった。
普段の軽い調子がない。
それだけで、さっき見たものが本当に偶然じゃなかったのだと分かってしまう。
「悪い」
反射的に口から出たのは謝罪だった。
「別に盗み見してたわけじゃなくて、その……たまたま」
言い訳がましい言葉に自分でも嫌になる。
だが翔太は少し驚いたように目を瞬かせたあと、小さく息を吐いた。
「いや」
濡れた前髪をかき上げながら苦笑する。
「別に優が謝ることじゃねぇよ」
俺は人の感情を読むのが得意な方じゃない。けれど三年間も描いてきた。
表情も仕草も、誰より見てきた自信はある。だから分かってしまう。
今の翔太は笑っているだけだ。本当は全然笑っていない。
沈黙が落ちる。
俺がどうしたものかと立ち尽くしていると、翔太がタオルで髪を拭きながら口を開く。
「優、これから美術室?」
「そのつもりだけど」
「そっか」
そこで会話は途切れる。
しばらくして、翔太がふっと苦笑した。
「ちょっとだけ付き合ってくれない?」
「え?」
「すぐ終わるから」
そう言って歩き出した翔太の後を、俺は半ば流されるようについていく。
向かった先は裏校舎だった。休日だから人の気配はほとんどない。
校舎の影になった階段は日差しも届かず、さっきまでの暑さが嘘みたいに涼しかった。
翔太は途中の段に腰を下ろし、俺も少し離れた場所へ座った。
近くのグラウンドから聞こえてくるボールの音だけが響いている。
こういう空気は苦手だ。何か話した方がいいのか、でも何を言えばいいのか分からない。
すると翔太がぽつりと呟いた。
「優ってさ」
「ん?」
「休みの日まで学校来るんだな」
話題を変えたらしい。
少しだけほっとする。
「もうすぐ受験だし」
「受験?」
「絵、高校でやめる予定だから」
翔太がこちらを見る。
俺は階段の先へ視線を向けたまま続けた。
「だから残ってる間くらい描いとこうかなって」
美術室で絵を描ける時間も、あと半年もない。そう思うと急に惜しくなった。
今までは当たり前だった放課後も、休日の静かな校舎も。
全部終わりが近づいている。翔太は少し考えるように黙ったあと、小さく笑った。
「やっぱ優らしいな」
「何それ」
「好きなものには一直線って感じ」
そう言われると少し照れ臭い。俺は誤魔化すように肩をすくめた。
すると翔太がふっと表情を緩める。
「いいな」
その声は、どこか羨ましそうだった。
俺は思わず翔太を見る。
翔太は膝の上でタオルを握ったまま、足元を見つめていた。
「なんかあった?」
翔太の肩がわずかに揺れる。
聞くつもりなんてなかった。それでも、あんな顔を見てしまったから。
翔太はしばらく黙ったままタオルを握り締めていたが、やがて困ったように笑った。
「俺、二個上の兄貴がいるんだけどさ」
ぽつりと零された言葉に、俺は黙って耳を傾ける。
「兄貴、めちゃくちゃサッカー上手いんだよ」
翔太は苦笑した。
「全国とか行くレベルでさ。昔から父さんも兄貴の試合ばっか見に行ってた」
その声は淡々としていた。けれどどこか、自分に言い聞かせるみたいだった。
「別に父さんが俺を嫌ってるとかじゃねぇんだと思う」
翔太はそう前置きしてから、小さく息を吐く。
「ただ、兄貴の方がすごかっただけ」
階段の先を見つめながら続ける。
「だからかな。気付いたらずっと思ってたんだよ」
握ったタオルに力が入る。
「勝たなきゃって」
その言葉は驚くほど弱かった。
「兄貴より上手くなって、見返して、認めてもらわなきゃって」
翔太は自嘲気味に笑う。
「でも別に誰に言われたわけでもないんだよな」
その笑顔が少しだけ苦い。
「父さんに『お前はダメだ』って言われたこともないし」
むしろ期待されていないのかもしれない。そう続く言葉は、口には出されなかった。
けれど何となく分かってしまった。
「勝手に焦って、勝手にプレッシャー感じて」
翔太は俯く。
「今日の練習試合もさ」
そこで一度言葉が止まった。
風が吹く。濡れた前髪が揺れる。
「俺が決めてれば勝てたんだよ」
ぽつり、と落ちた声は蝉の鳴き声に掻き消されそうだった。
「決定機あったのに外して」
翔太は笑う。けれど全然笑えていない。
「そしたら最後に一点入れられて負け」
握られたタオルがくしゃりと歪む。
「情けねぇよな」
その言葉に、俺は何も返せなかった。ただ、さっき水道で見た表情の理由だけは分かった気がした。
翔太はずっと一人で戦っていたのだ。誰かに押し付けられたわけでもない期待と。
追い越せない兄の背中と。
誰にも見せない悔しさと。
「情けなくはないだろ」
翔太が顔を上げる。
まっすぐ視線がぶつかった。
「悔しいってことだろ。そう感じるなら大丈夫だ」
それだけ言うと、翔太は少しだけ目を見開いた。
まるでそんな返事が返ってくると思っていなかったみたいに。
しばらく沈黙したあと、翔太は小さく笑う。
「ありがとな、優」
真っ直ぐ言われて、俺は気まずくなる。
「別に」
「その言い方、全然別にじゃないんだよな」
「うるさい」
翔太はまた笑った。その笑顔を見て、胸の奥が少しだけ温かくなる。気付けば俺まで笑っていた。
夏の風が二人の間を通り抜けていく。
いつもより少しだけ近く感じる距離が、不思議と嫌じゃなかった。



