翌日の放課後。
美術室の窓からグラウンドを見下ろしながら、俺は昨日の出来事を思い返していた。
正直、まだ信じられない。
三年間隠し続けてきた木村専用スケッチブックが本人にバレた。
普通なら終わりだ。なのに木村は引くどころか、「上手いな」と褒めてきた。
しかも。
『明日から一緒に帰らない?』
あの言葉まで思い出してしまい、俺は慌てて首を振った。
考えるな。木村は誰にでも優しいだけだ。そう自分に言い聞かせながら鉛筆を走らせていると、
「優」
聞き慣れない呼び方に肩が跳ねた。
反射的に顔を上げる。美術室の入り口に立っていたのは翔太だった。
「お疲れ」
当たり前みたいな顔で手を上げている。
「あれ、部活は?」
「終わった」
「早くないか?」
「今日は軽め」
そう言いながら翔太は俺の机まで歩いてくる。
近い。昨日から思っていたが近い。陽キャってみんなこんな距離感なのか。
「帰ろうと思って待ってた」
「……え?」
思わず聞き返す。
翔太は不思議そうな顔をした。
「約束しただろ」
まるで当然のことみたいに言う。昨日のあれは社交辞令じゃなかったらしい。
翔太は俺の隣の席に腰を下ろす。
「それ何描いてんの?」
「クロッキー」
「へぇ」
興味深そうに覗き込んできて、優希は思わずスケッチブックを閉じた。
「隠すなよ」
「条件反射だ」
「俺もう全部見たじゃん」
それを言われると弱い。
翔太はケラケラ笑いながら机に頬杖をついた。
「今日の俺、描かないの?」
「描かない」
「なんで」
「目の前にいると描きにくい」
「へぇ」
翔太はなぜか嬉しそうだった。その理由は相変わらず分からない。
「描いてるの見てていいか?」
「いいけど、面白くもないぞ」
「そうか?」
翔太はそう言って俺の隣に椅子を引っ張ってくる。
「そんな横に来なくても見えるだろ」
「せっかくだし」
何がせっかくなのか分からない。
俺は小さくため息を吐いてスケッチブックを開いてシャッ、と鉛筆を走らせる。
最初の数分は気になって仕方なかった。
隣に翔太がいる。しかも俺の手元をじっと見ている。落ち着くわけがない。
だが不思議なことに、描き始めてしまえば意識は自然と紙の上へ向いていく。
形を取り、陰影を乗せ、線を重ねる。気づけば周囲の音も遠くなっていた。
「……すげぇ」
不意に聞こえた声に顔を上げる。
「こんなふうに描いてるんだな」
翔太は完成しかけた絵を見つめながら素直に感心したように呟いた。
「やっぱ美大とか目指してるのか?」
「いや」
俺は手を止めることなく答えた。
「絵は高校でやめようと思ってる」
「え?」
翔太が目を丸くする。
「マジで?」
「マジ」
「なんでもったいねぇだろ」
鉛筆の先を紙に落としながら肩をすくめる。
「俺より上手いやつなんていくらでもいるし」
美術部に入ってから嫌というほど思い知らされた。世の中には才能がある人間がたくさんいる。
自分なりに頑張ってきたつもりでも、上を見ればきりがない。
「やっぱ比べると俺なんて普通だよ」
そう言うと、隣が静かになった。何か変なことを言っただろうかと思って顔を上げる。
「俺は優の絵好きだけどな」
あまりにも真っ直ぐな声だった。
「……なんで」
気づけば聞き返していた。
翔太は少し考えるように視線を上げる。
「なんでって言われると難しいけど」
そう言いながら、俺の描きかけの絵へ目を向けた。
「優の絵ってさ、なんか動いて見えるんだよな」
「動いて?」
「うん。サッカーの絵とか特に」
翔太は身振りを交えながら言葉を探す。
「写真みたいにその瞬間だけ描いてる感じじゃなくてさ。次にどう動くかまで分かるっていうか」
俺は思わず目を瞬いた。
そんなことを言われたのは初めてだった。
「あと」
翔太は少し笑う。
「楽しそう。描いてる優もそうだし、絵もそう」
あまりにも予想外の言葉だった。
「見てるとさ、『この人描くの好きなんだな』って分かる」
翔太は照れた様子もなく続ける。
「だから好き」
どくり、と胸が鳴る。
「上手い下手とか俺には分かんねぇけど」
翔太は肩をすくめた。
まるで大したことじゃないみたいに。だけど俺にとっては十分すぎるほど大したことだった。
美術部ではもっと上手い人がいる。コンクールで賞を取る人もいる。だからずっと、自分なんて大したことないと思っていた。
けれど──
「少なくとも俺には描けないし」
翔太は笑う。
「俺はそういう優の絵、すげぇ好きだけどな」
その言葉は不思議なくらいまっすぐ胸に落ちてきた。
上手いとか下手とか。才能があるとかないとか。そんな話じゃなくて。
初めて、自分が描いてきたものそのものを認めてもらえた気がした。
何か返したかった。
翔太の言葉は、思っていた以上に胸の奥へ染み込んでいて、すぐには上手い言葉が見つからない。
しばらく迷った末に、ようやく口から出たのはたった一言だった。
「……ありがと」
絞り出すような小さな声だったが、翔太にはちゃんと聞こえていたらしい。
ぱちりと目を瞬かせたあと、意外そうに「お」と声を漏らした。
「何だよ」
居心地が悪くなってそう返すと、翔太はくすりと笑う。
「いや、優ってちゃんとお礼言うんだなって」
「言うだろ普通」
「なんか意地でも言わなそうだった」
「失礼だな」
思わず睨みつける。
だが翔太はまるで堪えていない。むしろ楽しそうに目を細めていた。
その表情が妙に柔らかくて、見ているこっちの調子まで狂わされる。
何なんだろうな、こいつ。
そう思った時だった。
「あ」
不意に翔太が何かに気づいたように声を上げる。
同時に身を乗り出してきて、反射的に肩が強張った。
「何」
「ここ」
意味が分からず聞き返した次の瞬間、頬に何かが触れた。
ひやりとした感触に息が止まる。
「ッ!」
心臓が大きく跳ねた。
至近距離にある翔太の顔に、一瞬思考が真っ白になる。
翔太はそんな俺の反応に気づいた様子もなく、頬を軽く払うと指先を見せた。
「鉛筆」
「……え?」
「付いてた」
差し出された指には黒い鉛の跡がついている。
どうやら描いているうちに顔に触れてしまっていたらしい。
ただそれだけだった。
ただそれだけなのに。
さっきまで普通に話していたはずなのに、急に心臓がうるさくなった。
視線の置き場に困っていると、翔太が俺の顔を覗き込むように首を傾げる。
「照れてる?」
面白いものを見つけたみたいな声だった。
「照れない」
即答したつもりだったが、自分でも分かるくらい声が上ずった。
翔太はますます楽しそうに笑う。
「でも顔赤い」
「気のせいだ」
「いや絶対――」
「気のせい」
強引に言葉を被せる。
ぶっきらぼうに返すと、翔太はとうとう堪えきれなくなったように声を上げて笑う。
その笑い声を聞きながら、俺はそっと顔を逸らした。
少し絵を褒められただけだ。
少し距離が近かっただけだ。
それなのに、どうしてこんなに落ち着かないんだろう。
まるで――。
そこまで考えて、慌てて思考を打ち切る。
違う、別にそういうんじゃない。
ただ翔太は俺にとって特別なモデルで、理想の体で、ずっと描いてきた相手で。
……いや、改めて並べると十分おかしいな。
三年間も勝手に観察して、勝手に描き続けてきた相手が急に隣に座っているのだ。
緊張くらいするだろう。
そういうことにしておく。
そうじゃないと困る。
なのに。ふと視線を上げると、翔太が机へ頬杖をつきながらこちらを見ていた。
目が合うと翔太はすぐに笑った。
その瞬間、胸の奥がまた妙に騒がしくなった。
――本当に、ちょろすぎるだろ。
美術室の窓からグラウンドを見下ろしながら、俺は昨日の出来事を思い返していた。
正直、まだ信じられない。
三年間隠し続けてきた木村専用スケッチブックが本人にバレた。
普通なら終わりだ。なのに木村は引くどころか、「上手いな」と褒めてきた。
しかも。
『明日から一緒に帰らない?』
あの言葉まで思い出してしまい、俺は慌てて首を振った。
考えるな。木村は誰にでも優しいだけだ。そう自分に言い聞かせながら鉛筆を走らせていると、
「優」
聞き慣れない呼び方に肩が跳ねた。
反射的に顔を上げる。美術室の入り口に立っていたのは翔太だった。
「お疲れ」
当たり前みたいな顔で手を上げている。
「あれ、部活は?」
「終わった」
「早くないか?」
「今日は軽め」
そう言いながら翔太は俺の机まで歩いてくる。
近い。昨日から思っていたが近い。陽キャってみんなこんな距離感なのか。
「帰ろうと思って待ってた」
「……え?」
思わず聞き返す。
翔太は不思議そうな顔をした。
「約束しただろ」
まるで当然のことみたいに言う。昨日のあれは社交辞令じゃなかったらしい。
翔太は俺の隣の席に腰を下ろす。
「それ何描いてんの?」
「クロッキー」
「へぇ」
興味深そうに覗き込んできて、優希は思わずスケッチブックを閉じた。
「隠すなよ」
「条件反射だ」
「俺もう全部見たじゃん」
それを言われると弱い。
翔太はケラケラ笑いながら机に頬杖をついた。
「今日の俺、描かないの?」
「描かない」
「なんで」
「目の前にいると描きにくい」
「へぇ」
翔太はなぜか嬉しそうだった。その理由は相変わらず分からない。
「描いてるの見てていいか?」
「いいけど、面白くもないぞ」
「そうか?」
翔太はそう言って俺の隣に椅子を引っ張ってくる。
「そんな横に来なくても見えるだろ」
「せっかくだし」
何がせっかくなのか分からない。
俺は小さくため息を吐いてスケッチブックを開いてシャッ、と鉛筆を走らせる。
最初の数分は気になって仕方なかった。
隣に翔太がいる。しかも俺の手元をじっと見ている。落ち着くわけがない。
だが不思議なことに、描き始めてしまえば意識は自然と紙の上へ向いていく。
形を取り、陰影を乗せ、線を重ねる。気づけば周囲の音も遠くなっていた。
「……すげぇ」
不意に聞こえた声に顔を上げる。
「こんなふうに描いてるんだな」
翔太は完成しかけた絵を見つめながら素直に感心したように呟いた。
「やっぱ美大とか目指してるのか?」
「いや」
俺は手を止めることなく答えた。
「絵は高校でやめようと思ってる」
「え?」
翔太が目を丸くする。
「マジで?」
「マジ」
「なんでもったいねぇだろ」
鉛筆の先を紙に落としながら肩をすくめる。
「俺より上手いやつなんていくらでもいるし」
美術部に入ってから嫌というほど思い知らされた。世の中には才能がある人間がたくさんいる。
自分なりに頑張ってきたつもりでも、上を見ればきりがない。
「やっぱ比べると俺なんて普通だよ」
そう言うと、隣が静かになった。何か変なことを言っただろうかと思って顔を上げる。
「俺は優の絵好きだけどな」
あまりにも真っ直ぐな声だった。
「……なんで」
気づけば聞き返していた。
翔太は少し考えるように視線を上げる。
「なんでって言われると難しいけど」
そう言いながら、俺の描きかけの絵へ目を向けた。
「優の絵ってさ、なんか動いて見えるんだよな」
「動いて?」
「うん。サッカーの絵とか特に」
翔太は身振りを交えながら言葉を探す。
「写真みたいにその瞬間だけ描いてる感じじゃなくてさ。次にどう動くかまで分かるっていうか」
俺は思わず目を瞬いた。
そんなことを言われたのは初めてだった。
「あと」
翔太は少し笑う。
「楽しそう。描いてる優もそうだし、絵もそう」
あまりにも予想外の言葉だった。
「見てるとさ、『この人描くの好きなんだな』って分かる」
翔太は照れた様子もなく続ける。
「だから好き」
どくり、と胸が鳴る。
「上手い下手とか俺には分かんねぇけど」
翔太は肩をすくめた。
まるで大したことじゃないみたいに。だけど俺にとっては十分すぎるほど大したことだった。
美術部ではもっと上手い人がいる。コンクールで賞を取る人もいる。だからずっと、自分なんて大したことないと思っていた。
けれど──
「少なくとも俺には描けないし」
翔太は笑う。
「俺はそういう優の絵、すげぇ好きだけどな」
その言葉は不思議なくらいまっすぐ胸に落ちてきた。
上手いとか下手とか。才能があるとかないとか。そんな話じゃなくて。
初めて、自分が描いてきたものそのものを認めてもらえた気がした。
何か返したかった。
翔太の言葉は、思っていた以上に胸の奥へ染み込んでいて、すぐには上手い言葉が見つからない。
しばらく迷った末に、ようやく口から出たのはたった一言だった。
「……ありがと」
絞り出すような小さな声だったが、翔太にはちゃんと聞こえていたらしい。
ぱちりと目を瞬かせたあと、意外そうに「お」と声を漏らした。
「何だよ」
居心地が悪くなってそう返すと、翔太はくすりと笑う。
「いや、優ってちゃんとお礼言うんだなって」
「言うだろ普通」
「なんか意地でも言わなそうだった」
「失礼だな」
思わず睨みつける。
だが翔太はまるで堪えていない。むしろ楽しそうに目を細めていた。
その表情が妙に柔らかくて、見ているこっちの調子まで狂わされる。
何なんだろうな、こいつ。
そう思った時だった。
「あ」
不意に翔太が何かに気づいたように声を上げる。
同時に身を乗り出してきて、反射的に肩が強張った。
「何」
「ここ」
意味が分からず聞き返した次の瞬間、頬に何かが触れた。
ひやりとした感触に息が止まる。
「ッ!」
心臓が大きく跳ねた。
至近距離にある翔太の顔に、一瞬思考が真っ白になる。
翔太はそんな俺の反応に気づいた様子もなく、頬を軽く払うと指先を見せた。
「鉛筆」
「……え?」
「付いてた」
差し出された指には黒い鉛の跡がついている。
どうやら描いているうちに顔に触れてしまっていたらしい。
ただそれだけだった。
ただそれだけなのに。
さっきまで普通に話していたはずなのに、急に心臓がうるさくなった。
視線の置き場に困っていると、翔太が俺の顔を覗き込むように首を傾げる。
「照れてる?」
面白いものを見つけたみたいな声だった。
「照れない」
即答したつもりだったが、自分でも分かるくらい声が上ずった。
翔太はますます楽しそうに笑う。
「でも顔赤い」
「気のせいだ」
「いや絶対――」
「気のせい」
強引に言葉を被せる。
ぶっきらぼうに返すと、翔太はとうとう堪えきれなくなったように声を上げて笑う。
その笑い声を聞きながら、俺はそっと顔を逸らした。
少し絵を褒められただけだ。
少し距離が近かっただけだ。
それなのに、どうしてこんなに落ち着かないんだろう。
まるで――。
そこまで考えて、慌てて思考を打ち切る。
違う、別にそういうんじゃない。
ただ翔太は俺にとって特別なモデルで、理想の体で、ずっと描いてきた相手で。
……いや、改めて並べると十分おかしいな。
三年間も勝手に観察して、勝手に描き続けてきた相手が急に隣に座っているのだ。
緊張くらいするだろう。
そういうことにしておく。
そうじゃないと困る。
なのに。ふと視線を上げると、翔太が机へ頬杖をつきながらこちらを見ていた。
目が合うと翔太はすぐに笑った。
その瞬間、胸の奥がまた妙に騒がしくなった。
――本当に、ちょろすぎるだろ。



