夏の日差しが、美術室の窓から差し込み、外からは元気な掛け声が聞こえてくる。
俺の視線の先――グラウンドでは、サッカー部が練習の真っ最中だ。Tシャツの袖から覗く、陽光に焼けた褐色の肌。無駄のない鍛えられた筋肉が汗で輝いて見える。
(……本当に理想すぎる)
そんな変態じみたことを考えながら、今日もスケッチブックにコレクションを増やしていく。
シャッ、シャッ、と鉛筆を走らせていると、
「よくもまぁ、飽きねぇーな?」
背後からの声に振り返ると、美術室の入り口に光陽が呆れ顔で立っている。
「バレた日には、終わりだぞ」
「怖いこと言うなよ。まぁ、バレなきゃいいんだから」
光陽はため息をつきながら俺の手からスケッチブックを奪った。
「あっ、おい!」
制止もむなしく、ページが次々とめくられていくがそこに描かれているのは全部同じ人物。
「お前さぁ……」
光陽が心底引いた顔をする。
「これもうストーカーの領域だろ」
「ストーカーと一緒にすんな」
俺は即座に否定した。
「木村は俺にとって"理想のモデル”なんだよ」
「はぁ、理想?」
「そう」
スケッチブックを奪い返し、窓の外へ視線を戻す。
「ナイス翔太!!」
サッカー部の歓声が二階の美術室まで届く。視線の先では、木村翔太が仲間たちに囲まれていた。
ゴールを決めたらしい。
汗で張り付いた黒髪をかき上げながら、チームメイトとハイタッチを交わしている。
そのたびに腕の筋肉がしなやかに動く。
「……やっぱいい腕してるな」
「その感想、毎回言ってるぞ」
光陽が再び呆れた声を出す。
木村翔太はクラスでも人気者の陽キャだ。誰とでも仲良くなれて、いつも人の中心にいる。俺とは正反対。同じクラスになったことはあるし、何度か話したこともある。
けど、それだけだ。向こうからしたら、きっと大勢いるクラスメイトの一人。
そんな俺が三年間もスケッチし続けているなんて知ったら、さすがに引かれるだろう。
でも、仕方ないだろ。
木村は本当に綺麗なのだ。無駄な肉がなくて、それでいて細すぎない。シュートを打つ時、力が入った瞬間に浮かぶ筋。
楽しそうにサッカーをする。見ていて飽きない。
気づけば木村専用スケッチブックができるくらいには拗らせている。
このスケッチブックもすでに三冊目だ。
全ページ木村翔太。
我ながら気持ち悪いと思う。
「そーいえばさ」
光陽が窓枠にもたれかかる。
「木村の奴、また告白断ったらしいぞ」
「またか。どうせ理由はあれだろ」
「「部活に専念したいから」」
光陽が悔しそうに拳を握る。
「なんて贅沢なやつだッ!! 部活より恋愛だろ恋愛」
「うちの学校サッカー部強いし、木村はエースだし、お前と違って忙しんだよ」
「お前ら! もう終わるぞー!」
グラウンドからの声が3階まで響く。
部員たちが片付けを始める中、ボールを拾い集めていた木村がふと顔を上げる。
その視線が、まっすぐ美術室の窓へ向いたことに俺は気づかなかった。
「俺はもう帰るけど、お前は?」
「描き終わったら帰るから」
「そーかよ。ほどほどにしろよ」
ひらひらと片手を振りながら光陽が美術室を出ていく。
扉が閉まると、途端に辺りは静かになった。聞こえるのはグラウンドから響く掛け声と、鉛筆が紙を擦る音だけ。
美術部が終わったあと俺はいつもこうして三階から木村を眺めていた。
最初はただのクロッキー練習だった。
人を描くのが好きで、気づけば歩き方や姿勢、筋肉の付き方まで目で追う癖がついていた。
まさか本人も思っていないだろう。自分が三年間も観察され続けているだなんて。
最後の線を描き終え、俺は小さく息を吐いた。
ふと顔を上げるといつの間にかグラウンドには誰もいなかった。
「……俺もそろそろ帰るか」
スケッチブックを閉じようとした、その時だった。
「――これ、俺?」
心臓が止まった。
恐る恐る振り返ると、そこにはさっきまでグラウンドにいたはずの木村が立っていた。いつの間に上がってきたんだ。木村は俺の驚いた顔など気にも留めず、机に身を乗り出すようにしてスケッチブックを覗き込む。
「毎日、何を描いてんのかと思ってたけど……」
その言葉を聞いた瞬間、全身の血の気が引いた。
反射的にスケッチブックを閉じようとしたものの、予想外の出来事に手元が狂う。指先に引っかかったスケッチブックは机の端で一度跳ね、そのまま床へ落ちた。
まずい。
そう思った時にはもう遅かった。
開いたまま落ちたスケッチブックは、窓から吹き込んだ風に煽られてページをめくり始める。
練習中にボールを追う姿。仲間と笑い合う横顔。給水中に無防備に見せた表情。試合で真剣な眼差しを向ける瞬間。
止まれ、と願っても無駄だった。ページは容赦なくめくれ続け、俺が隠してきたものをすべて晒していく。
木村の視線は床に散らばったスケッチブックに釘付けになっている。
終わった。
頭の中に浮かんだのはその一言だけだった。
三年間誰にも見せずに抱えてきた秘密が、最悪の形で本人に知られてしまったのだから。
『陽キャどもの格好のネタだろうな』
さっき光陽に言われた言葉が頭をよぎる。木村本人に見つかるなんて最悪だ。
「ご、ごめ……」
反射的に謝罪が口をついて出る。しかし木村はしゃがんだまま開きかけていたページを閉じると、そのスケッチブックを俺に差し出した。
「ほら」
「あ、ありがと……」
受け取りながらも顔を上げられない。どんな顔をしていればいいのかわからなかった。
覚悟して身を固くした、その時だった。
「お前、やっぱ上手いな」
「……え?」
思わず顔を上げる。
予想していた反応とはあまりにも違いすぎて、今度は別の意味で頭が真っ白になった。
「前から思ってたけどさ」
予想していた嫌悪も、からかいも、その顔にはない。ただ純粋に感心したような表情だった。
「俺、絵とか全然描けねぇからさ。ほんとすげぇよ」
その反応が信じられない。
いや、そこじゃないだろ。
「……でも」
喉が引っかかる。
「気持ち悪いだろ」
三年間描き続けていた相手本人に聞くことじゃないと思いながらも、気づけば口にしていた。
木村はきょとんとした顔で俺を見た。
「何が?」
「何がって……」
俺は思わず抱えたスケッチブックに視線を落とす。
「だって、ほとんど木村だし」
自分で言うと余計に最悪だった。客観的に見ても普通じゃない。同じクラスの男子を三年間描き続けるなんて。
ところが木村は少し考えるように視線を上へ向けると、
「別に」
と、あっさり言った。
「むしろなんか嬉しいけど」
「は?」
思わず素っ頓狂な声が出た。
木村は笑った。
「いや、だってさ。そんなに描きたくなるくらい俺って絵になるってことだろ?」
冗談めかした口調だったが、本人は割と本気らしい。
「自信つくわ」
そう言ってケラケラ笑う。
さっきまで本人にバレた絶望でいっぱいだったのに。木村は、まるで大したことじゃないみたいな顔をしている。
ふと視界の端に木村の腕が映る。
近い。思ったよりずっと近い。
半袖から伸びる日に焼けた腕は、グラウンドから眺めていた時よりもずっとはっきり見えた。筋の入り方も、手首から肘にかけてのラインも綺麗で、思わず視線が吸い寄せられる。
「……」
無意識に見入っていると、木村が不意に笑った。
「また今度モデルやろっか?」
「えっ!? い、いい」
反射的に首を振る。
「なんで?」
木村は不思議そうに首を傾げた。
「動いてる時なんて描きにくいだろ」
「いや、それはそうだけど……」
そこまで言ってから口が滑った。
「俺はサッカーしてる時の木村が好きだから」
言った瞬間、全身の血が逆流した気がした。
(……は? 俺、何言ってんの? さすがにキモすぎだろ!)
慌てて取り消そうと顔を上げると、頭上から吹き出すような笑い声が降ってきた。
「なんか意外かも」
「な、何が?」
「去年も今年も同じクラスだったけど、俺らあんま話したことなかったじゃん?」
木村は少し照れたように笑う。
「だからそんな好かれてるとは思わなかった」
その言い方に心臓がまた変な跳ね方をした。
「す、好きなのは体だから」
「なんだそれ」
木村が声を上げて笑う。
「じゃあ顔は?」
「知らん」
「ひでぇ」
言い返そうとしたその時、美術室のドアが勢いよく開いた。
「お前たち、まだ残ってたのか。早く帰りなさい」
顧問の声に我に返る。時計を見ると、下校時間はとっくに過ぎていた。
「あ」
「やべ」
慌てて荷物をまとめ、美術室を飛び出す。
昇降口まで来てようやく一息つきながら靴を履き替えていると、隣で木村が何気なく口を開いた。
「優希って帰りバス?」
「いや、駅まで歩きだけど」
「俺も駅までだから一緒じゃん」
そう言って当たり前みたいに笑う。
(いやいやいや)
さっきまで遠くから眺めるだけだった相手だぞ。それが今は隣で靴を履き替えていて、しかも一緒に帰ろうとしている。
状況がおかしい。
絶対おかしい。
「じゃあ一緒に帰ろーぜ」
屈託なくそう言う木村に、俺は返事をする前から心臓を消耗していた。
「俺、帰りいつも一人なんだよな。あっ、そうだ。明日から一緒に帰らない?」
あまりにも自然な誘い方だった。
明日から一緒に帰る?頭の中でその言葉だけが何度も反響する。
「優希?」
返事がないことを不思議に思ったのか、木村が顔を覗き込んできた。
「えっ、あ、いや……」
まともに目も合わせられず視線を泳がせる。
断る理由なんてない。
むしろ嬉しい。
嬉しいのだが――。
「……迷惑じゃないか」
気づけばそんな言葉が口から出ていた。
木村はきょとんとした顔をしたあと、少しだけ眉を下げた。
「なんで迷惑?」
「だってお前、友達多いし」
「関係なくね?」
即答だった。
「俺が優希と帰りたいから誘っただけだし」
その言葉に胸が妙にざわつく。
木村は本当に何も考えていないのだろう。だからこそ厄介だった。
「……じゃあ」
観念して小さく息を吐く。
「一緒に帰る」
途端に木村の顔がぱっと明るくなった。
「マジ?」
「そんな嘘つかないだろ」
「やったね」
「そんな嬉しいか?」
「前から優希と話したかったんだよ」
隣を歩きながらも木村はずっと機嫌が良さそうだった。さっきまで「三年間の秘密が本人にバレた」という人生最大級の事件が起きていたはずなのに、木村があまりにも普通に話しかけてくるせいで、逆に俺の方が現実感を失いそうだ。
そんな中、不意に木村がこちらを見た。
「そういえば」
「ん?」
「優希って友達から優って、呼ばれてるよな」
「友達っていうか……そう呼んでるの光陽だけだけど」
「じゃあさ、俺も優って呼んでいい?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
木村はクラスの誰とでも距離が近いから、きっと深い意味なんてないのだろう。
それなのに、妙に意識してしまう。
「……別にいいけど」
できるだけ平静を装って答える。むしろ、と続きそうになって慌てて飲み込んだ。
木村はほっとしたように笑う。
「じゃあ今日から優な」
その呼び方が思った以上にしっくりきて困る。
「……好きにしろ」
「おう」
木村は満足そうに笑ったかと思うと、次の瞬間には当たり前のように言った。
「あと、優も俺のこと名前で呼んでよ」
思わず足が止まりそうになる。
「……は?」
「だって俺だけ苗字呼びなの変じゃん」
そんなことないのではと思い思いながらも木村は納得していないらしく、首を傾げる。
「嫌?」
「嫌じゃないけど……」
「ならほら、一回呼んでみ?」
「なんでだよ」
「いいから」
木村は面白そうに笑っている。完全に遊ばれている気がするがそれでも期待するような目で見られると断りづらい。
俺は観念して小さく息を吐いた。
「……翔太」
自分でも驚くほど声が小さかった。
しかし木村――いや、翔太は聞こえていたらしい。
「うわ、なんか新鮮」
嬉しそうに笑う。
「もう一回」
「調子乗るな」
即座に返すと、翔太は声を上げて笑った。
その笑い声につられるように、さっきまで感じていた気まずさも少しずつ薄れていく。
それから俺たちは並んで駅までの道を歩いた。を話したのかは正直よく覚えていない。
木村がサッカー部の話をしていた気もするし、俺の美術の話になった気もする。ただ、隣に木村がいるという事実だけで頭がいっぱいで、まともに会話できていた自信はなかった。
それでも不思議と話が途切れることはなかった。
きっと翔太の話し方が上手いのだろう。相手が返事に困らないように話題を振って、自然に会話を広げていく。
誰とでも仲良くなれるやつなんだろうなと思う。
そう分かっているのに、隣を歩く時間が思ったよりずっと楽しかった。
気づけば駅に着いていて、改札の前で立ち止まる。
「じゃあまた明日な、優」
「……うん、また」
木村は笑顔で手を振ると、人混みの中へ消えていく。その背中が見えなくなってからも、俺はしばらくその場に立ち尽くしていた。
まさか木村翔太と一緒に帰る日が来るなんて思わなかった。
「……明日もか」
呟いた瞬間、顔が熱くなる。俺は慌てて首を振り、改札へ向かった。
明日の放課後が少しだけ楽しみだなんて、絶対に認めたくなかった。
俺の視線の先――グラウンドでは、サッカー部が練習の真っ最中だ。Tシャツの袖から覗く、陽光に焼けた褐色の肌。無駄のない鍛えられた筋肉が汗で輝いて見える。
(……本当に理想すぎる)
そんな変態じみたことを考えながら、今日もスケッチブックにコレクションを増やしていく。
シャッ、シャッ、と鉛筆を走らせていると、
「よくもまぁ、飽きねぇーな?」
背後からの声に振り返ると、美術室の入り口に光陽が呆れ顔で立っている。
「バレた日には、終わりだぞ」
「怖いこと言うなよ。まぁ、バレなきゃいいんだから」
光陽はため息をつきながら俺の手からスケッチブックを奪った。
「あっ、おい!」
制止もむなしく、ページが次々とめくられていくがそこに描かれているのは全部同じ人物。
「お前さぁ……」
光陽が心底引いた顔をする。
「これもうストーカーの領域だろ」
「ストーカーと一緒にすんな」
俺は即座に否定した。
「木村は俺にとって"理想のモデル”なんだよ」
「はぁ、理想?」
「そう」
スケッチブックを奪い返し、窓の外へ視線を戻す。
「ナイス翔太!!」
サッカー部の歓声が二階の美術室まで届く。視線の先では、木村翔太が仲間たちに囲まれていた。
ゴールを決めたらしい。
汗で張り付いた黒髪をかき上げながら、チームメイトとハイタッチを交わしている。
そのたびに腕の筋肉がしなやかに動く。
「……やっぱいい腕してるな」
「その感想、毎回言ってるぞ」
光陽が再び呆れた声を出す。
木村翔太はクラスでも人気者の陽キャだ。誰とでも仲良くなれて、いつも人の中心にいる。俺とは正反対。同じクラスになったことはあるし、何度か話したこともある。
けど、それだけだ。向こうからしたら、きっと大勢いるクラスメイトの一人。
そんな俺が三年間もスケッチし続けているなんて知ったら、さすがに引かれるだろう。
でも、仕方ないだろ。
木村は本当に綺麗なのだ。無駄な肉がなくて、それでいて細すぎない。シュートを打つ時、力が入った瞬間に浮かぶ筋。
楽しそうにサッカーをする。見ていて飽きない。
気づけば木村専用スケッチブックができるくらいには拗らせている。
このスケッチブックもすでに三冊目だ。
全ページ木村翔太。
我ながら気持ち悪いと思う。
「そーいえばさ」
光陽が窓枠にもたれかかる。
「木村の奴、また告白断ったらしいぞ」
「またか。どうせ理由はあれだろ」
「「部活に専念したいから」」
光陽が悔しそうに拳を握る。
「なんて贅沢なやつだッ!! 部活より恋愛だろ恋愛」
「うちの学校サッカー部強いし、木村はエースだし、お前と違って忙しんだよ」
「お前ら! もう終わるぞー!」
グラウンドからの声が3階まで響く。
部員たちが片付けを始める中、ボールを拾い集めていた木村がふと顔を上げる。
その視線が、まっすぐ美術室の窓へ向いたことに俺は気づかなかった。
「俺はもう帰るけど、お前は?」
「描き終わったら帰るから」
「そーかよ。ほどほどにしろよ」
ひらひらと片手を振りながら光陽が美術室を出ていく。
扉が閉まると、途端に辺りは静かになった。聞こえるのはグラウンドから響く掛け声と、鉛筆が紙を擦る音だけ。
美術部が終わったあと俺はいつもこうして三階から木村を眺めていた。
最初はただのクロッキー練習だった。
人を描くのが好きで、気づけば歩き方や姿勢、筋肉の付き方まで目で追う癖がついていた。
まさか本人も思っていないだろう。自分が三年間も観察され続けているだなんて。
最後の線を描き終え、俺は小さく息を吐いた。
ふと顔を上げるといつの間にかグラウンドには誰もいなかった。
「……俺もそろそろ帰るか」
スケッチブックを閉じようとした、その時だった。
「――これ、俺?」
心臓が止まった。
恐る恐る振り返ると、そこにはさっきまでグラウンドにいたはずの木村が立っていた。いつの間に上がってきたんだ。木村は俺の驚いた顔など気にも留めず、机に身を乗り出すようにしてスケッチブックを覗き込む。
「毎日、何を描いてんのかと思ってたけど……」
その言葉を聞いた瞬間、全身の血の気が引いた。
反射的にスケッチブックを閉じようとしたものの、予想外の出来事に手元が狂う。指先に引っかかったスケッチブックは机の端で一度跳ね、そのまま床へ落ちた。
まずい。
そう思った時にはもう遅かった。
開いたまま落ちたスケッチブックは、窓から吹き込んだ風に煽られてページをめくり始める。
練習中にボールを追う姿。仲間と笑い合う横顔。給水中に無防備に見せた表情。試合で真剣な眼差しを向ける瞬間。
止まれ、と願っても無駄だった。ページは容赦なくめくれ続け、俺が隠してきたものをすべて晒していく。
木村の視線は床に散らばったスケッチブックに釘付けになっている。
終わった。
頭の中に浮かんだのはその一言だけだった。
三年間誰にも見せずに抱えてきた秘密が、最悪の形で本人に知られてしまったのだから。
『陽キャどもの格好のネタだろうな』
さっき光陽に言われた言葉が頭をよぎる。木村本人に見つかるなんて最悪だ。
「ご、ごめ……」
反射的に謝罪が口をついて出る。しかし木村はしゃがんだまま開きかけていたページを閉じると、そのスケッチブックを俺に差し出した。
「ほら」
「あ、ありがと……」
受け取りながらも顔を上げられない。どんな顔をしていればいいのかわからなかった。
覚悟して身を固くした、その時だった。
「お前、やっぱ上手いな」
「……え?」
思わず顔を上げる。
予想していた反応とはあまりにも違いすぎて、今度は別の意味で頭が真っ白になった。
「前から思ってたけどさ」
予想していた嫌悪も、からかいも、その顔にはない。ただ純粋に感心したような表情だった。
「俺、絵とか全然描けねぇからさ。ほんとすげぇよ」
その反応が信じられない。
いや、そこじゃないだろ。
「……でも」
喉が引っかかる。
「気持ち悪いだろ」
三年間描き続けていた相手本人に聞くことじゃないと思いながらも、気づけば口にしていた。
木村はきょとんとした顔で俺を見た。
「何が?」
「何がって……」
俺は思わず抱えたスケッチブックに視線を落とす。
「だって、ほとんど木村だし」
自分で言うと余計に最悪だった。客観的に見ても普通じゃない。同じクラスの男子を三年間描き続けるなんて。
ところが木村は少し考えるように視線を上へ向けると、
「別に」
と、あっさり言った。
「むしろなんか嬉しいけど」
「は?」
思わず素っ頓狂な声が出た。
木村は笑った。
「いや、だってさ。そんなに描きたくなるくらい俺って絵になるってことだろ?」
冗談めかした口調だったが、本人は割と本気らしい。
「自信つくわ」
そう言ってケラケラ笑う。
さっきまで本人にバレた絶望でいっぱいだったのに。木村は、まるで大したことじゃないみたいな顔をしている。
ふと視界の端に木村の腕が映る。
近い。思ったよりずっと近い。
半袖から伸びる日に焼けた腕は、グラウンドから眺めていた時よりもずっとはっきり見えた。筋の入り方も、手首から肘にかけてのラインも綺麗で、思わず視線が吸い寄せられる。
「……」
無意識に見入っていると、木村が不意に笑った。
「また今度モデルやろっか?」
「えっ!? い、いい」
反射的に首を振る。
「なんで?」
木村は不思議そうに首を傾げた。
「動いてる時なんて描きにくいだろ」
「いや、それはそうだけど……」
そこまで言ってから口が滑った。
「俺はサッカーしてる時の木村が好きだから」
言った瞬間、全身の血が逆流した気がした。
(……は? 俺、何言ってんの? さすがにキモすぎだろ!)
慌てて取り消そうと顔を上げると、頭上から吹き出すような笑い声が降ってきた。
「なんか意外かも」
「な、何が?」
「去年も今年も同じクラスだったけど、俺らあんま話したことなかったじゃん?」
木村は少し照れたように笑う。
「だからそんな好かれてるとは思わなかった」
その言い方に心臓がまた変な跳ね方をした。
「す、好きなのは体だから」
「なんだそれ」
木村が声を上げて笑う。
「じゃあ顔は?」
「知らん」
「ひでぇ」
言い返そうとしたその時、美術室のドアが勢いよく開いた。
「お前たち、まだ残ってたのか。早く帰りなさい」
顧問の声に我に返る。時計を見ると、下校時間はとっくに過ぎていた。
「あ」
「やべ」
慌てて荷物をまとめ、美術室を飛び出す。
昇降口まで来てようやく一息つきながら靴を履き替えていると、隣で木村が何気なく口を開いた。
「優希って帰りバス?」
「いや、駅まで歩きだけど」
「俺も駅までだから一緒じゃん」
そう言って当たり前みたいに笑う。
(いやいやいや)
さっきまで遠くから眺めるだけだった相手だぞ。それが今は隣で靴を履き替えていて、しかも一緒に帰ろうとしている。
状況がおかしい。
絶対おかしい。
「じゃあ一緒に帰ろーぜ」
屈託なくそう言う木村に、俺は返事をする前から心臓を消耗していた。
「俺、帰りいつも一人なんだよな。あっ、そうだ。明日から一緒に帰らない?」
あまりにも自然な誘い方だった。
明日から一緒に帰る?頭の中でその言葉だけが何度も反響する。
「優希?」
返事がないことを不思議に思ったのか、木村が顔を覗き込んできた。
「えっ、あ、いや……」
まともに目も合わせられず視線を泳がせる。
断る理由なんてない。
むしろ嬉しい。
嬉しいのだが――。
「……迷惑じゃないか」
気づけばそんな言葉が口から出ていた。
木村はきょとんとした顔をしたあと、少しだけ眉を下げた。
「なんで迷惑?」
「だってお前、友達多いし」
「関係なくね?」
即答だった。
「俺が優希と帰りたいから誘っただけだし」
その言葉に胸が妙にざわつく。
木村は本当に何も考えていないのだろう。だからこそ厄介だった。
「……じゃあ」
観念して小さく息を吐く。
「一緒に帰る」
途端に木村の顔がぱっと明るくなった。
「マジ?」
「そんな嘘つかないだろ」
「やったね」
「そんな嬉しいか?」
「前から優希と話したかったんだよ」
隣を歩きながらも木村はずっと機嫌が良さそうだった。さっきまで「三年間の秘密が本人にバレた」という人生最大級の事件が起きていたはずなのに、木村があまりにも普通に話しかけてくるせいで、逆に俺の方が現実感を失いそうだ。
そんな中、不意に木村がこちらを見た。
「そういえば」
「ん?」
「優希って友達から優って、呼ばれてるよな」
「友達っていうか……そう呼んでるの光陽だけだけど」
「じゃあさ、俺も優って呼んでいい?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
木村はクラスの誰とでも距離が近いから、きっと深い意味なんてないのだろう。
それなのに、妙に意識してしまう。
「……別にいいけど」
できるだけ平静を装って答える。むしろ、と続きそうになって慌てて飲み込んだ。
木村はほっとしたように笑う。
「じゃあ今日から優な」
その呼び方が思った以上にしっくりきて困る。
「……好きにしろ」
「おう」
木村は満足そうに笑ったかと思うと、次の瞬間には当たり前のように言った。
「あと、優も俺のこと名前で呼んでよ」
思わず足が止まりそうになる。
「……は?」
「だって俺だけ苗字呼びなの変じゃん」
そんなことないのではと思い思いながらも木村は納得していないらしく、首を傾げる。
「嫌?」
「嫌じゃないけど……」
「ならほら、一回呼んでみ?」
「なんでだよ」
「いいから」
木村は面白そうに笑っている。完全に遊ばれている気がするがそれでも期待するような目で見られると断りづらい。
俺は観念して小さく息を吐いた。
「……翔太」
自分でも驚くほど声が小さかった。
しかし木村――いや、翔太は聞こえていたらしい。
「うわ、なんか新鮮」
嬉しそうに笑う。
「もう一回」
「調子乗るな」
即座に返すと、翔太は声を上げて笑った。
その笑い声につられるように、さっきまで感じていた気まずさも少しずつ薄れていく。
それから俺たちは並んで駅までの道を歩いた。を話したのかは正直よく覚えていない。
木村がサッカー部の話をしていた気もするし、俺の美術の話になった気もする。ただ、隣に木村がいるという事実だけで頭がいっぱいで、まともに会話できていた自信はなかった。
それでも不思議と話が途切れることはなかった。
きっと翔太の話し方が上手いのだろう。相手が返事に困らないように話題を振って、自然に会話を広げていく。
誰とでも仲良くなれるやつなんだろうなと思う。
そう分かっているのに、隣を歩く時間が思ったよりずっと楽しかった。
気づけば駅に着いていて、改札の前で立ち止まる。
「じゃあまた明日な、優」
「……うん、また」
木村は笑顔で手を振ると、人混みの中へ消えていく。その背中が見えなくなってからも、俺はしばらくその場に立ち尽くしていた。
まさか木村翔太と一緒に帰る日が来るなんて思わなかった。
「……明日もか」
呟いた瞬間、顔が熱くなる。俺は慌てて首を振り、改札へ向かった。
明日の放課後が少しだけ楽しみだなんて、絶対に認めたくなかった。



