第8話 黒漆のいちかは笑わない
六月第一週の朝、千鳥町の歩行者トンネルには、使用停止を知らせる白い紙が貼られていた。止められたのは道ではない。ストライクゾーン側が掲げていた地元意匠の壁面、商品名、旧市街連携の看板だった。
千鳥町観光回廊整備補助金と壁面使用許可は再審査になり、若槻の会社は市との連携から外された。
市役所の相談窓口では、睦が契約解除と再交渉の書類を整えていた。三枝は読み終えた書類を胸に抱え、何度も頭を下げる。
「もう、読まずに判を押さなくていいんだな」
「読めない時は、一緒に読みましょう」
十歩堂では、瑠依が旧市街の案内冊子を作っていた。広報の仕事は一度失った。けれど、彩明が空いた棚を指して言ったのだ。
「罪悪感で座るなら邪魔。働くなら席はある」
瑠依は何も言い返さず、三枝の看板の写真を大きく配置した。
その看板は、清瀬黒漆堂の前でお披露目された。黒漆の上に金粉が静かに乗り、古い文字がもう一度、通りに向かって立っている。
一善は脚立を逆向きに置いた。
「登りにくいです」
「当然です。脚立に拒否されています」
いちかが言うと、彩明と三枝が同時に笑った。
「成長意欲は認めます。足元の確認は明日から認めます」
「今日からでは」
「今日の分は手遅れです」
笑い声が、路地の古い壁に跳ねた。
数日後、十歩堂の窓際に小さな札が置かれた。「契約書読み合わせ」。睦は週に一度、そこで相談を受ける。清瀬黒漆堂の店先にも、いちかが小さな札を出した。「黒漆修復・契約書読み合わせ」。表向きは修復相談。実際には、泣き寝入りを防ぐための場所だった。
「黒帳は閉じるんじゃなかったんですか」
睦が尋ねると、いちかは帳面の角を指で叩いた。
「帳面は閉じます。窓口を開けるだけです」
母の誕生石のピアスは、二つそろって小さな額に収められた。いちかはそれを見ても泣かなかった。ただ、額のガラスに映る横顔が、黒漆に光が乗るようにやわらいだ。
「今日は少し笑ってもいい日では」
睦が言うと、いちかは目だけを向けた。
「笑顔は有料です」
睦が財布を出しかけ、彩明と一善が同時に止める。
「払わない!」
「払わないでください!」
帰り道、いちかと睦はトンネルを歩いた。向こう側の施設の明かりはまだまぶしい。けれどこちら側にも、三枝の看板、十歩堂の灯り、清瀬黒漆堂の細い明かりが戻っている。
「一から十まで一人でやる癖は、直りそうですか」
睦が聞くと、いちかは黒い手袋をはめ直した。
「十のうち二つなら貸します」
「では、三つ目を勝手に持ちます」
いちかは前を向いたまま、何も言わなかった。睦の歩幅に合わせて、ほんの少しだけ足をゆるめる。トンネルの向こう側から吹く風が、黒い帳面の角を静かに鳴らした。
【終】 【完】
六月第一週の朝、千鳥町の歩行者トンネルには、使用停止を知らせる白い紙が貼られていた。止められたのは道ではない。ストライクゾーン側が掲げていた地元意匠の壁面、商品名、旧市街連携の看板だった。
千鳥町観光回廊整備補助金と壁面使用許可は再審査になり、若槻の会社は市との連携から外された。
市役所の相談窓口では、睦が契約解除と再交渉の書類を整えていた。三枝は読み終えた書類を胸に抱え、何度も頭を下げる。
「もう、読まずに判を押さなくていいんだな」
「読めない時は、一緒に読みましょう」
十歩堂では、瑠依が旧市街の案内冊子を作っていた。広報の仕事は一度失った。けれど、彩明が空いた棚を指して言ったのだ。
「罪悪感で座るなら邪魔。働くなら席はある」
瑠依は何も言い返さず、三枝の看板の写真を大きく配置した。
その看板は、清瀬黒漆堂の前でお披露目された。黒漆の上に金粉が静かに乗り、古い文字がもう一度、通りに向かって立っている。
一善は脚立を逆向きに置いた。
「登りにくいです」
「当然です。脚立に拒否されています」
いちかが言うと、彩明と三枝が同時に笑った。
「成長意欲は認めます。足元の確認は明日から認めます」
「今日からでは」
「今日の分は手遅れです」
笑い声が、路地の古い壁に跳ねた。
数日後、十歩堂の窓際に小さな札が置かれた。「契約書読み合わせ」。睦は週に一度、そこで相談を受ける。清瀬黒漆堂の店先にも、いちかが小さな札を出した。「黒漆修復・契約書読み合わせ」。表向きは修復相談。実際には、泣き寝入りを防ぐための場所だった。
「黒帳は閉じるんじゃなかったんですか」
睦が尋ねると、いちかは帳面の角を指で叩いた。
「帳面は閉じます。窓口を開けるだけです」
母の誕生石のピアスは、二つそろって小さな額に収められた。いちかはそれを見ても泣かなかった。ただ、額のガラスに映る横顔が、黒漆に光が乗るようにやわらいだ。
「今日は少し笑ってもいい日では」
睦が言うと、いちかは目だけを向けた。
「笑顔は有料です」
睦が財布を出しかけ、彩明と一善が同時に止める。
「払わない!」
「払わないでください!」
帰り道、いちかと睦はトンネルを歩いた。向こう側の施設の明かりはまだまぶしい。けれどこちら側にも、三枝の看板、十歩堂の灯り、清瀬黒漆堂の細い明かりが戻っている。
「一から十まで一人でやる癖は、直りそうですか」
睦が聞くと、いちかは黒い手袋をはめ直した。
「十のうち二つなら貸します」
「では、三つ目を勝手に持ちます」
いちかは前を向いたまま、何も言わなかった。睦の歩幅に合わせて、ほんの少しだけ足をゆるめる。トンネルの向こう側から吹く風が、黒い帳面の角を静かに鳴らした。
【終】 【完】


