黒漆のいちかは笑わない

第7話 誕生石のピアス

 五月第四週の土曜、旧市街向け説明会は、ストライクゾーンの白い会議室で開かれた。壁には「千鳥町と新駅前の未来をつなぐ」と印刷された横幕があり、その下で若槻誠司が穏やかに頭を下げていた。

「誤解が広がっています。町の未来を邪魔しているのは、根拠のない不安です」

 若槻の視線が、入口に立ついちかへ向く。

 いちかは黒い服に黒い手袋で、会場へ入った。逃げ場のない白い部屋で、その黒さだけが浮いて見える。睦は横に立つ。今度は先に出ない。いちかが合図するまで待つ。それが彼にできる守り方だった。

「清瀬さんも、ご意見があるようですね」

 若槻が微笑む。いちかは同じように薄く笑った。

「ええ。旧市街を買うには、少し手順が雑でした」

 会場がざわめく。若槻の口元はまだ笑っているが、目の奥だけが固くなった。

 瑠依が立ち上がり、広報用データの印刷紙を配った。初期案フォルダの名前、修正履歴、削除されたはずの社内メモ。貴巳は、市の補助金、旧市街連携協定、壁面使用許可の再審査理由を、淡々と説明した。

「民間の商売そのものを止める話ではありません。市の名前と許可を使って、旧市街の意匠と店名を不適切に利用していないかを確認する話です」

 三枝は杖を握り、施設内の壁面写真を指した。

「これは、うちの看板の曲線に似ている。似ているだけなら黙った。だが、削り直した傷の位置まで同じだ」

 若槻は、紙を持つ手だけ少し動かした。

「偶然の一致でしょう」

 そのとき、一善が会場の飾り棚を見て、声を上げた。

「あのケース、粉の置き方が変です」

 飾り棚には、蒔絵風のピアスケースが置かれていた。中に収められた片方のピアスを見た瞬間、いちかの呼吸が止まった。

 睦は小声で言う。

「いちかさん」

 いちかは母の小箱を握りしめた。ここで出せば、菜緒の傷を人前に置くことになる。十四年前、曖昧な契約に奪われた名前を、また白い会議室の机へ並べることになる。

 睦は続けた。

「名前を汚すためじゃありません。戻すためです」

 いちかは小箱を開けた。二つのピアスが、白い机の上に並ぶ。石の留め方、黒漆の細い線、裏に彫られた「N」の刻印。三枝が頷き、瑠依の紙面と貴巳の資料がその横へ置かれた。

 若槻は「偶然です」と言った。だが、その声は会議室の白い壁に当たって、どこにも残らなかった。

 いちかは若槻を見た。

「あなたの未来は、トンネルの向こう側にはありません」

 黒い笑顔は崩れなかった。けれど資料を差し出す指先が小さく震える。睦はその紙束を受け取り、会場の視線から隠すように両手で持った。

 外では、千鳥町へ続くトンネルの照明が、ひとつずつ夕方の色に沈んでいた。
【終】