第6話 君が教えてくれたこと
五月第三週の月曜、清瀬黒漆堂の電話は朝から短く鳴って、短く切れた。修理を頼んでいた客が「少し考えたい」と言い、別の客は品物を取りに来る日だけを早めた。引き戸の外では、若槻の案内文を読んだ人の足音が、店先で迷ってから離れていく。
彩明は十歩堂から湯気の立つポットを抱えて来た。
「うちの珈琲より苦い噂を出すなんて、営業妨害よ」
一善は普段より丁寧に床を拭いていた。丁寧すぎて、壺の台座に肘を当てる。睦がとっさに支え、一善は雑巾を握ったまま固まった。
「成長は見えました」
いちかは壺を戻しながら言う。
「ただし、方向が危険です」
瑠依は作業台の端で、広報データの控えを見つめていた。
「私がもっと早く言っていれば」
「予定通りです」
いちかは淡々と棚を片づける。その声に、睦は初めてはっきり腹を立てた。怒りは若槻へ向いているはずなのに、いちかが自分まで証拠品のように扱うことが、どうしても許せなかった。
「予定通りに、一人で泥をかぶるつもりですか」
いちかの手が止まる。
「あなたが教えてくれたことは、証拠を集めることだけじゃない。誰かが泣かずに済む場所を残すことです」
睦は鞄から申立書の束を出した。三枝、金物店の夫婦、和菓子屋の店主、看板屋の息子。名前の横には、各自が話せる範囲だけが丁寧に書かれている。
「もう一度、説明しなくていいように。話したくないところは空欄でいいように。そういう形にしました」
十歩堂の奥の席で、店主たちは少しずつ声を出した。三枝は、修復された看板の端を撫でながら言う。
「怖い娘だが、怖い相手に向かってくれた」
彩明は腕を組んで、店内を見回した。
「いちかの悪口を言うなら、うちの珈琲は苦くします」
「いつも苦いです」
一善が小声で言い、彩明に紙ナプキンを投げられた。固かった空気が、ほんの少しほどける。
いちかは睦の隣に座り、黒帳を閉じた。
「人に選ばせるのは怖い」
「でも、選ばれた時は、一人で勝つより強いです」
夜、貴巳が十歩堂へ来た。市の封筒から、補助金、旧市街連携協定、歩行者トンネル壁面使用許可の再審査に使える証拠一覧を出す。感情の強さではなく、日付、相手名、書面、写真、録音の対応が必要だと説明した。
「ここまでそろえば、説明会で出せます。残る鍵は二つ。清瀬菜緒さんの意匠が若槻側へ渡った記録と、展示サンプルのもう片方です」
いちかは母のピアスが入った箱を抱えた。睦はその箱を持とうとはしない。かわりに、空いた椅子を一脚、彼女の横へ寄せた。
いちかは椅子を見て、ほんの少しだけ息を吐く。
「君が教えてくれたことも、あります」
その声は、珈琲の湯気に隠れるほど小さかった。
【終】
五月第三週の月曜、清瀬黒漆堂の電話は朝から短く鳴って、短く切れた。修理を頼んでいた客が「少し考えたい」と言い、別の客は品物を取りに来る日だけを早めた。引き戸の外では、若槻の案内文を読んだ人の足音が、店先で迷ってから離れていく。
彩明は十歩堂から湯気の立つポットを抱えて来た。
「うちの珈琲より苦い噂を出すなんて、営業妨害よ」
一善は普段より丁寧に床を拭いていた。丁寧すぎて、壺の台座に肘を当てる。睦がとっさに支え、一善は雑巾を握ったまま固まった。
「成長は見えました」
いちかは壺を戻しながら言う。
「ただし、方向が危険です」
瑠依は作業台の端で、広報データの控えを見つめていた。
「私がもっと早く言っていれば」
「予定通りです」
いちかは淡々と棚を片づける。その声に、睦は初めてはっきり腹を立てた。怒りは若槻へ向いているはずなのに、いちかが自分まで証拠品のように扱うことが、どうしても許せなかった。
「予定通りに、一人で泥をかぶるつもりですか」
いちかの手が止まる。
「あなたが教えてくれたことは、証拠を集めることだけじゃない。誰かが泣かずに済む場所を残すことです」
睦は鞄から申立書の束を出した。三枝、金物店の夫婦、和菓子屋の店主、看板屋の息子。名前の横には、各自が話せる範囲だけが丁寧に書かれている。
「もう一度、説明しなくていいように。話したくないところは空欄でいいように。そういう形にしました」
十歩堂の奥の席で、店主たちは少しずつ声を出した。三枝は、修復された看板の端を撫でながら言う。
「怖い娘だが、怖い相手に向かってくれた」
彩明は腕を組んで、店内を見回した。
「いちかの悪口を言うなら、うちの珈琲は苦くします」
「いつも苦いです」
一善が小声で言い、彩明に紙ナプキンを投げられた。固かった空気が、ほんの少しほどける。
いちかは睦の隣に座り、黒帳を閉じた。
「人に選ばせるのは怖い」
「でも、選ばれた時は、一人で勝つより強いです」
夜、貴巳が十歩堂へ来た。市の封筒から、補助金、旧市街連携協定、歩行者トンネル壁面使用許可の再審査に使える証拠一覧を出す。感情の強さではなく、日付、相手名、書面、写真、録音の対応が必要だと説明した。
「ここまでそろえば、説明会で出せます。残る鍵は二つ。清瀬菜緒さんの意匠が若槻側へ渡った記録と、展示サンプルのもう片方です」
いちかは母のピアスが入った箱を抱えた。睦はその箱を持とうとはしない。かわりに、空いた椅子を一脚、彼女の横へ寄せた。
いちかは椅子を見て、ほんの少しだけ息を吐く。
「君が教えてくれたことも、あります」
その声は、珈琲の湯気に隠れるほど小さかった。
【終】


