黒漆のいちかは笑わない

第5話 蒔絵の嘘

 五月第二週の朝、清瀬黒漆堂の奥座敷には、古い桐箱の匂いが満ちていた。いちかは黒い手袋を外し、母・菜緒の名札が貼られた仕事箱の紐をほどいた。

 中には、黒漆の試し板、細い筆、端に赤鉛筆の跡が残る契約書の下書き、そして片方だけの誕生石のピアスが入っていた。

 睦は敷居の外に膝をそろえた。触れていいものと、ただ見守るべきものの境目くらいは、ようやくわかるようになっていた。

「十四年前、母は若槻側の前身会社へ展示サンプルを出しました。対の片方だけ。もう片方は控えとしてここに残した」

 いちかはピアスを掌に乗せた。黒漆の線が、石の周りを細く抱いている。

「契約は曖昧なまま。仕事は別名義で使われ、母は信用を失った。証明できなければ、ただの恨みです」

 そこへ瑠依が来た。封筒から出した記録媒体と印刷紙には、初期案のフォルダ名が残っていた。「清瀬案流用」「三枝看板案転用」。文字は小さいのに、部屋の空気を重くするには十分だった。

「これを出せば、私も無関係ではいられません」

 瑠依の声は揺れていた。いちかは紙を受け取らず、先に彼女の顔を見た。

「逃げてもいい。残るなら、私が一番嫌われる役を取ります」

 睦は思わず口を挟んだ。

「救う相手にまで嫌われる必要はありません」
「嫌われるのは慣れています」
「慣れていいことではないです」

 いちかは答えなかった。代わりに、一善が作業場から顔を出す。

「練習板、できました」

 黒漆の板には、金粉で大きく「勝訴」と書かれていた。

「法廷へ出す気ですか」
「気合いを入れました」
「証拠に気合いは不要です」

 彩明が腹を抱えて笑う。だが、その板を見た三枝が、ふと表情を変えた。

「菜緒さんの粉の置き方は、端が泳がない。こっちの写真は似ているが、端が焦っている」

 三枝の指が、睦の撮った写真と試し板の同じ曲線をなぞる。睦はすぐに記録用紙を引き寄せた。いちかは何も言わず、三枝の前に温かい茶を置いた。

 夕方、若槻から届いた案内文が町に回った。そこには、いちかが内覧会で放った強い言葉だけが抜き書きされている。旧市街を買う。値段を上げる。前後の会話はない。

 十歩堂の窓の外で、誰かが「清瀬の娘は怖い」と囁いた。いちかは黒帳に五枚目の付箋を貼り、母のピアスを箱へ戻す。

「怖がる相手を間違えています」

 睦は噂の紙を裏返し、申立書の欄へ今日の日付を書いた。嘘が町を歩き始めたなら、その足跡も証拠にすればいい。
【終】