黒漆のいちかは笑わない

第4話 ストライクゾーンの外側

 五月第一週の金曜、ストライクゾーンの関係者内覧会が開かれた。新駅前の建物は、昼の光を受けて硝子の箱のように輝いている。入口には「旧市街の技と未来をつなぐ」と書かれた幕が下がり、報道の腕章をつけた人たちが写真を撮っていた。

 睦は瑠依から渡された入館証を胸に下げ、いちかの半歩後ろを歩いた。いちかは黒い手袋を直し、受付の女性に薄く会釈する。どこから見ても、招かれた客ではなく、招かれていない影だった。

 若槻誠司は中央ホールで笑っていた。明るい声で、市の関係者や記者に語りかける。

「千鳥町の魅力を、若い世代へ届ける場所にします。古いものを壊すのではなく、未来へつなぐんです」

 睦はその言葉を聞きながら、壁面装飾へカメラを向けた。三枝の看板に似た曲線。旧市街の店名を少しだけ変えた商品棚。黒漆の模様に似せたロゴ。明るい照明の下で、誰かの仕事の跡が、別の名前をつけられて並んでいる。

 いちかは若槻へ近づいた。

「旧市街ごと買いたいなら、値段を上げてください」

 周囲の空気がわずかに固まる。睦は息を飲んだ。芝居だ。相手に油断させるための顔だ。それでも、いちかを見る目が一斉に冷えていくのがわかった。

 若槻は笑みを崩さない。

「清瀬さんは相変わらず率直ですね」
「率直な人間は便利でしょう。泣いている店主より、使えますから」

 若槻の目が細くなる。油断と警戒が、同じ笑顔の中で混じった。

 いちかは睦を見ずに言った。

「同情するなら、写真を撮って」

 睦はうなずき、装飾、商品名、説明パネル、撮影時刻を一つずつ記録した。飛び出したい気持ちは何度も喉まで来た。けれど、ここで守るべきものは、彼女の評判ではなく、あとで彼女を守る証拠だった。

 夕方、十歩堂には店主たちが集まった。誰も最初に話したがらない。彩明はいつもより濃い珈琲を出し、一善は皿を運ぶ途中でつまずきかけて、全員の視線をまとめて受け止めた。

「皿は無事です。僕もだいたい無事です」

 三枝が小さく笑った。その笑いのあとで、ぽつりと言う。

「看板だけは、返してほしい。あれは、父の代から磨いてきたものなんだ」

 いちかは返事をしなかった。ただ、黒帳へ四枚目の付箋を貼った。

 夜、睦が撮った写真を清瀬黒漆堂の作業台へ並べると、いちかの手が一枚の壁面写真で止まった。黒漆の曲線の端に、小さな欠け模様がある。古びた傷ではない。わざと残された印のようだった。

 棚の奥の片方だけの誕生石のピアスが、灯りを受けて淡く光る。

 いちかは長く黙った。睦は何も聞かず、写真の番号と撮影時刻を書き込む。

 やがて、いちかが低く言った。

「母の線です」

 黒帳の表紙が、静かに閉じられる。ストライクゾーンの明るさは、トンネルの向こう側だけで済む話ではなくなっていた。
【終】