帝都算術怪異手帖



 
 その日、僕は世界から「半分」だけ追い出された。

 

 帝都の夕暮れは、どこか汚れた橙色をしていた。
 路面電車が火花を散らして走り去り、家路を急ぐ人々が僕の横を通り抜けていく。どこかの家から漂う夕飯の匂いや、子供たちの笑い声。本来なら、僕もその幸せな日常の端っこに混じっているはずだった。
 だが、僕の足元だけが、不気味に静止していた。

 一歩、踏み出す。

 僕の身体が前に進んでも影はワンテンポ遅れて、地面を這うように追ってくる。

「……まただ。また、ズレた」

 僕は震える手で懐中時計を開いた。規則正しい秒針の音だけが、辛うじて僕を現実へ繋ぎ止めていた。
 一・五秒。影が僕を追い越そうとするまでの、猶予の時間。

 最初にその法則へ気づいたのは三日前だ。
 以来、僕は異常を記録し続けていた。

 昔から、何でも書き留める癖があった。講義の内容、読んだ本の一節、通りで耳にした噂話。紙に残しておけば安心できたし、忘れずに済むと思っていた。

 だが今は違う。
 記録しなければ、本当に消えてしまう気がするのだ。

 朝、下宿の大家さんと挨拶をしたこと。
 大学の講義で、隣の席の男に消しゴムを貸したこと。
 昼に食べた蕎麦が妙にぬるかったこと。

 そんな、とるに足らない日常。
 けれど書き留めなければ、輪郭が薄れていく。

 ついさっきまで覚えていた出来事が、水に滲んだインクみたいにぼやけていく。
 自分が本当にそこにいたのかわからなくなる。

 焦るように、僕はペンを走らせた。
 呼吸が浅くなる。きっちり留めた襟元が、苦しさで息苦しい。

 その時だった。

 足元の影が、ぬるりと不自然に膨らんだ。
 黒い染みのようなものが石畳を這い、ゆっくりと形を変えていく。

 僕は反射的に息を呑んだ。

 影が、持ち上がる。
 人の腕みたいに細長く伸びたそれが、逃がすまいとするみたいに僕の足首へ絡みついた。

「っ……!」

 冷たい。
 氷よりも昏い冷たさが、身体の奥へ入り込んできた。

 頭の中が白くなる。

 記憶が、削れていく。
 昨日、誰と話した。
 何を読んだ。
 何を考えていた。

 当たり前に覚えていたはずのものが、するすると指の間から抜け落ちていく。

「やめろ……!」

 僕はノートを抱え込み、石畳へ倒れた。乱れた白銀の髪が視界へ垂れ、息がかかるたび細く揺れる。
 全部忘れても、この記録だけは。

 櫻川鈴芽(さくらがわ すずめ)として生きてきた時間だけは、持っていかれたくなかった。

 通りを行き交う人々は、誰もこちらを見ない。

 女学生が笑いながら通り過ぎる。酔っ払いが肩をぶつけていく。
 それでも、誰一人として僕を認識しない。
 まるで最初から、存在していないみたいに。

 呼吸の音だけがやけに近い。

 誰も、僕を見ない。
 その事実だけが、どうしようもなく怖かった。

「……助けて」

 声が掠れる。

「誰でもいい……僕を、見てくれ……!」

 視界が暗く沈みかけた、その瞬間だった。

 かり、と。
 場違いなほど軽い音がした。

「――聞こえてますよ」

 頭上から硬質で、それでいて不思議と温度のある声が降ってきた。

「そんなに必死に叫ばなくても、ちゃんと見えています」

 直後、僕を縛り付けていた冷気が弾けるように霧散した。
 肺が空気を思い出したように息を吸う。

 顔を上げると、そこには夕焼けを背に金髪の男が立っていた。西日のせいだけじゃない、柔らかな金色が夕暮れの光を拾って淡く輝いている。

 革靴の爪先が、僕の影を踏み潰すみたいに石畳へ沈み込んでいた。
 彼は影を踏みつけたまま、硝子袋から金平糖を取り出す。
 かり、と硬い音が数秒遅れて鼓膜に届いた。

「……やっぱり君ですか」

 菓子を噛み砕く音だけが、静かな夕暮れに響いた。青緑色(ピーコックグリーン)の瞳が静かに細められる。その目は、僕の向こう側を見ている気がした。

「……君は」
「三日月です。三日月唯一(みかづき ただいち)

 男はあっさり答える。

「まあ、今は名前よりそっちですよね」

 三日月の注意が、僕の抱えたノートへ移った。

「そのノート、少し文字が薄くなっていますよ」

 言われて息が止まった。慌ててページを開けば、書いたばかりの文字がところどころ黒く滲んでいる。

 消えているのだ、僕の記憶が。
 櫻川鈴芽として積み重ねてきた時間が。

 ノートを捲る指に、うまく力が入らない。

 三日月は小さく息を吐いた。
 困っているようにも、見慣れているようにも見える。

「立てますか?」

 差し出された左手を見る。

「ここは、もう君には浅すぎる」

 妙に落ち着いている声で、意味の分からないことを言う。

「もっと深い場所に行きましょう」

 僕は数秒ためらってから、その手を握り返した。
 自分の指が驚くほど細く冷えていることを、彼の熱い掌に触れて初めて知った。


 ―――




 硝子戸へ映った自分の姿が、一瞬誰だかわからなかった。

 白銀の髪はくすみ、頬は血の気を失っている。数日前より、自分の輪郭そのものが薄くなった気がした。
 連れて行かれたのは、通りの影に埋もれるように建つ古書店だった。

 煤けた硝子戸の上に、『玄鳥堂』と書かれた看板が掛かっている。

 店へ入った瞬間、古い紙とインクの匂いが鼻を掠めた。不思議と落ち着く匂い。

 帳場の奥で、本の頁を閉じる乾いた音がした。
 そこに居た青年は、黒髪に細いアンダーリムの眼鏡を掛けていた。書生風の装いが妙に似合っている。

 彼はすぐには喋らなかった。

 静かな目で僕の足元を確認し、それから小さく息を吐く。

「……まだ繋がってるのか」

 まるで医者が傷口を見るみたいな声だった。

「手遅れの半歩手前ですね。
 本人が粘ったんですよ、ノートを離さなかったので」

 三日月が軽い口調で言うのに対し、青年は数秒黙り、それから頷いた。

「それは賢いな」

 短い言葉だった。それだけなのに、少しだけ救われた気がした。

二岡玲央(におか れお)、ここの店主代理なものをしている」

 低く静かな声で言葉を紡ぐ。
 三日月のような明るさはないが、代わりに夜のような落ち着きのある声だった。

 三日月は僕の腕からノートを取り上げ、カウンターへ広げた。紙を擦る音が、小さな店内へ響く。
 滲んだ文字を指先でなぞり、彼はつぶやいた。

「消え始めてますね」

 その一言で、背筋が冷える。

「このままだと……彼……」
「櫻川くんだよ、玲央」
「……櫻川さんは誰からも認識されなくなる」

 二岡の声は静かだ、だからこそ余計に怖かった。

「影が完全に離れたら終わりだ」

 店の空気が、すっと冷える。

 僕は唇を強く噛む。

 嫌だった、消えるのは。
 忘れられるのは、誰からも見えなくなるのは。

「……いやだ」

 握った拳が震える。

「僕は、まだ、ここにいたい……消えたくない……!」

 その瞬間、三日月がふっと笑う。
 子供みたいに無邪気で、それでいて獲物を見つけた獣みたいな笑みだった。

「……それなら、まだ間に合いますよ」

 彼は硝子袋から金平糖を一粒取り出し、僕の口の中に強引に放り込む。
 暴力的な甘さが舌に広がり、じわりと体温が戻ってくる。

「では、行きましょうか」
「どこに……?」
「君の影をこんなふうにした、原因のところへ」

 思わず顔を上げる。

 夕暮れは、もう終わりかけていた。

 店の硝子に映る自分の影は、一つだけ。

 けれど。

 僕が止まったあとも、影だけが半歩遅れてじわりと足元へ追いついた。