死に愛された女の肖像

 夜、十一時。街の喧騒が遠のき、アスファルトが夜の冷気を吸い込み始める頃。

 看板の明かりを落とし、ブラインドを完全に下げた店内に、カウベルの繊細な音が静かに響いた。それはこの店が「喫茶店」としての看板を下ろし、相談所としての顔を表す合図でもあった。

 入ってきたのは、夜の闇に溶けきれないほど白い、セーラー服姿の少女だった。彼女は幽霊のような足取りで、入り口から一番近いカウンターの端に座った。手元のバッグを壊れ物のように抱え、視線は自分の膝の上から動こうとしない。

「……あの。ここなら、死にたい人の相談に乗ってくれるって、ネットの掲示板で見ました。えっと、中野栄子って言います」

 消え入りそうな声。けれど、その奥には岩のように固まった決意の色が混じっている。店員であるユキが、戸惑いを隠すようにいつもの明るい声で応じた。

「うちは死なせるお手伝いもできるけど、まずは深呼吸。温かい飲み物でも淹れるから、少し落ち着いてから話してみない?」

 ユキが差し出したホットミルクから立ち上る湯気が、少女の青ざめた頬を僅かに湿らせた。けれど、少女はそのカップに触れようともせず、頑なに唇を噛んでいる。

「理由は、言えません。ただ……もう、いかなくちゃいけないんです。誰にも迷惑をかけずに、綺麗に。私のいた痕跡が、全部なくなるような終わらせ方をしたいんです」

 私はカウンターの奥で、読みかけの文庫本を捲るふりをしながら、彼女の発する言葉、態度、全てを精査していた。

 セーラー服、新品に近いローファー、整えられた髪。どこからどう見ても普通の女子高生。けれど、彼女が動くたびに、私の鼻腔をひどく不快な匂いが掠める。

 タバコの匂いだ。

 それも、好奇心に負けた子供がこっそり吸うような、甘いフレーバーのついたメンソールではない。肺の奥まで重く沈み込むような、タール値の高い、大人の男性が好むような銘柄。ピースか、あるいはセブンスターか。

「……ちょっと、いいかしら」

 私が本を閉じ、静かに立ち上がると、少女は弾かれたように肩を震わせた。私は彼女の正面に立ち、至近距離からその瞳を見つめる。

「え、あ、はい……」
「歯を見せて。イー、という形に」
「えっ? な、なんですか、急に……」

 困惑する少女の顎を、私は逃げ場を塞ぐように指先で固定した。少しだけ強引に唇を開かせる。

「……綺麗ね。ヤニの付着は一ミリもない。前歯の裏も、歯茎の血色も健康そのもの。あなたは一度もタバコを吸ったことがない」

 少女は私の指を振り払うように顔を背けた。私はその背中に、氷のような冷徹な言葉を投げかける。

「それなのに、あなたの髪や制服からは、逃げ場のないほど濃い煙の匂いがする。それも、長い時間、換気の悪い密室で浴び続けてきた匂いよ。あなたの部屋じゃない。……誰か、別の大人の部屋でしょう? 今時タバコが吸えるのはラブホテルかな」

 少女の呼吸が、目に見えて浅くなっていく。

「大人の男性。しかも、あなたが簡単に拒絶できない立場の人。……学校の、先生かしら? 密室で二人きり、彼はタバコを燻らせながら、あなたの幼さに付け入った」
「やめて……。何も知らないくせに、勝手なこと言わないで!」

 少女が悲鳴のように叫んだ。その瞳からは、堰き止めていた涙が溢れ出し、白い頬を無惨に汚していく。

「そんなに死に急ぐのは、どうして? 愛していると信じていたその人に、裏切られたから? 用済みだとでも言われたのかしら。それとも、新しい獲物でも見つかった?」
「違います! 先生は、裏切ってなんてない!」

 彼女は首を激しく横に振り、嗚咽を漏らしながら言葉を紡いだ。

「先生には、家庭があるんです。私を大切にしてくれる、綺麗な奥さんも、まだ小さいお子さんも。……私がいれば、いつかあの人の幸せが壊れてしまう。先生が築いてきたキャリアも、守るべき家族も、全部。私が消えれば、先生は何も失わずに済むんです。私が身を引けば……死んでしまえば、あの方の人生は汚されずに済むから」

 カウンターの向こうで、ユキが息を呑むのがわかった。

 自分の命を、誰かの日常を守るために消そうとしている。あまりにも幼稚で、独善的で、そして身勝手な自己犠牲。それは美徳などではなく、ただの暴力だ。

「……それが、あなたの望む身の引き方というわけね」

 私は、カウンターの下から一つの小瓶を取り出した。月光を閉じ込めたような、透明な液体。

「いいわ。栄子ちゃん。私が最後まで美しく整える手伝いをしてあげる。……でも、一つだけ覚えておきなさい。あなたの命を使って守るその平穏が、本当に守るに値するものかどうか。それを確かめる権利くらいは、残しておいたほうがいいわよ」

 私は小瓶を差し出したまま、じっと彼女の瞳の奥を覗き込んだ。そこには、自己犠牲という麻薬に酔いしれた者の、陶酔と恐怖が混ざり合った色が浮かんでいる。

 「その瓶は、今はまだ私の手元に置いておくわ。これを渡すのはもう少し後」

 少女は、差し出した手を虚空で止めたまま、困惑したように私を見つめた。

「どうして……。今、今すぐ終わらせたいんです。気持ちが変わらないうちに」
「焦ることはないわ。死は逃げない。むしろ、一度手に入れてしまえば二度と手放せない、世界で最も重い財産よ。だからこそ、最高に贅沢な使い道を選ばなくちゃ」

 私は彼女の前に置いてあった、一口も付けられていないホットミルクを指差した。

「今夜は帰りなさい。そして、もう一度だけ考えてみて。その先生という男が、今頃自宅で何を想っているのか。あなたの死を嘆くのか、それとも自分のキャリアが守られたことに安堵して、暖かい布団で眠るのか。……それでも、あなたの命を彼に捧げることが『美しい結末』だと言い切れるなら、もう一度ここへ来なさい。その時は、望み通りの出口を用意してあげるわ」

 少女は唇を震わせ、何かを言いかけようとして……結局、何も言わずに力なく立ち上がった。彼女の背中は、先ほどよりも一層小さく、脆く見えた。

 カウベルが弱々しく鳴り、彼女の白い背中が夜の闇へと溶けていくのを、私は静かに見送った。


 扉が完全に閉まり、店内の静寂が深まると、ユキが我慢しきれないといった様子でカウンターを叩いた。

「香さん! さすがにあのまま帰しちゃうのは危なくないですか? ああいう思い詰めた子って、自分で変な薬とか買っちゃうかもしれないし……」
「……あの子が本当に求めているのは、死そのものじゃないわ。自分の存在を消すことでしか得られない誰かからの承認よ。だからこそ、自分の物語を美しく整えてくれる存在を裏切ってまで、安っぽい死に方は選ばない」

 私は読みかけの文庫本をパタンと閉じ、いつもの口調で続けた。

「それよりユキ、仕事よ。準備をしましょう」
「えっ、仕事って……。あの子を追いかけるんですか?」
「いいえ。追いかけるのは原因の方。彼女が着ていた制服、左胸の刺繍――私立聖鳳学園の校章だったわ。そして、あの独特なタバコの匂い。ピースね。今時、それを吸い続けている時代遅れの教師なんて、そう数はいないはずよ」

 私はカウンターの端に置かれたノートをユキの方へと滑らせた。

「ユキ。明日からその学校を見張って。教師たちの顔を精査して、あの子が通っている教室や、特定の教師との接触がないか調べて。……特に、一見して模範的で家庭的に見える男ほど、汚れているものよ」
「了解です! 私の得意分野ですね。制服を手に入れて、女子高生に化けて潜入します!」
「そんなことできるの?」
「私のお肌はまだまだ十代で通用します」
「あとオツムもね」

 私の嫌味が伝わっていないのか、ユキは笑顔でグッジョブの手を出してきた。

「……でも、もし本当にその先生がクズだったら、どうするつもりですか?」

 私はミルに手をかけ、新しい豆を流し込んだ。

「特に考えはないの。それでも彼女が死にたかったら仕方ないから薬を渡す。それだけ」

 豆を挽くガリガリという鈍い音が、静かな店内に、冷徹な判決のように響き渡った。