「……綺麗にまとめてもらえそうかしら」
佐野が怪訝そうにこちらを見る。
「完全にそっちの思惑通りに行くかはわからないが、とりあえずこの指の男、藤原は死亡した可能性が高いと記者会見で発表予定だ。それで満足か?」
私は微笑みを浮かべ、再び本を開いた。
「えぇ、それで十分。彼が死んだと発表されれば、それでいいわ」
真実を知っているのは、この密室のような店内の三人だけ。いや、一人だけ全容を知らない者がいた、ユキが騒ぎ出す。
「えぇ、なんで生活反応? って言うのがないんですか? だって藤原さんってまだ生きているのに」
「嬢ちゃん、今は店に三人しかいないから構わないが、さすがに大声を出すのはやめた方がいいぞ」
「そうよユキちゃん。説明してあげるから静かにして」
「はーい」
ユキは素直に返事をすると、カウンターに座り自分で用意したラテを飲みだした。
「さっきも言ったけど、生活反応というのは生命活動が維持されている肉体にしか現れない変化のことよ」
私はラテを啜るユキに、教え子へ説くような口調で話し始めた。
数週間前、このカウンターに座っていた藤原の、震える肩と脂汗にまみれた顔が脳裏をよぎる。
彼は怯えていた。数年前、仲間数人と共にある少年を再起不能にまで追い込んだ集団リンチ事件。その報復の影が、すぐそこまで迫っていると信じ込んでいたのだ。
「助けてください。あいつが、あの時の被害者が仲間を殺したんだ。次は俺だ。殺される前に、どこか遠くへ逃がしてほしい」
藤原の懇願は、あまりに短絡的で、そして身勝手なものだった。
だけど私は依頼人の過去は気にしない。依頼人がそう言うなら、彼に最も確実な避難所を提案するだけ。
「殺されるのが怖いなら、先に死んでしまいなさい」
プランは単純だが、実行には強靭な、あるいは狂気じみた忍耐が必要だった。
まず、毎日少しずつ自分の血を抜き、冷蔵保存させる。健康に支障が出ない範囲で数週間。撒き散らした時に「即死」を確信させるだけの量を。
そして、小指のトリック。私は彼に、まず小指を根元から切断するよう命じた。当然、その時点では猛烈な痛みと共に生活反応が出る。だが、その切断された指をそのまま一日放置し、組織を完全に壊死させる。その後、警察に届けるために第二関節から先を切り落とす。
死んでから切り刻まれた肉体には、炎症も出血の凝固も起きない。鑑識がそれを見れば、答えは一つに導かれる。
『すでに死亡している遺体から、指が切り取られた』のだと。
「なるほど。それで生活反応が出ないというわけですね」
ユキが感心したように頷く。
「なんでわざわざ二回も切らせるのか不思議だったんですけど……それって、死体のフリをするための策だったんだ」
佐野が眉間に深いシワを寄せ、私を見た。
「……狂ってるな。だがこれで、藤原は戸籍上も社会上も死人だ。復讐者とやらからも、当面は狙われずに済むんだろうな?」
「ええ、大丈夫よ」
私は窓の外、街灯に群がる羽虫を眺めながら答えた。
「そもそも、復讐者なんて最初から存在しないんだから」
二人の動きが、ピタリと止まった。
「……え、どういうことですか? 共犯者の人が一人、殺されたんじゃ?」
ユキが震える声で尋ねる。
「あれはただの不運。道端で酔っ払いに絡まれて、喧嘩の末に突き飛ばされて頭を打っただけよ。過去のリンチ事件とは何の関係もない。……それに、あの時の被害者の少年なら、今はもう幸せに暮らしているわ。結婚して、子供も生まれて、過去の泥沼とは完全に決別している」
「香さん、なんでそんなこと知ってるんですか?」
「そうだ、警察の俺も知らなかったぞ」
「依頼を受けてすぐ調べたの」
佐野が身を乗り出す。
「待て、香さん。あんた、それを知っていて藤原に指を切らせたのか?」
「教える必要なんてないわ。彼はいもしない被害者の影に怯え、自ら望んで小指を捨て、自分の名前を捨てた。これからは地下に潜り、偽造した身分証を使い、怯えながら底辺の暮らしを続けるでしょう。……でも、それが彼の望んだ安全なんですもの。私は依頼された通りのプランをあげただけよ」
私は静かに本を閉じた。なんの音もしない静寂が、店内に充満する。
「彼は一生、存在しない追っ手から逃げ続ける。……それこそが、彼がかつて奪った少年の平穏に対する、最も皮肉で、最も美しい埋め合わせだと思わない?」
ユキが、自分の小指をそっと隠すように握りしめた。
佐野は何も言わず、ただ冷めきったコーヒーの底を見つめている。外ではまた、何事もなかったかのように風が吹いていた。
佐野が怪訝そうにこちらを見る。
「完全にそっちの思惑通りに行くかはわからないが、とりあえずこの指の男、藤原は死亡した可能性が高いと記者会見で発表予定だ。それで満足か?」
私は微笑みを浮かべ、再び本を開いた。
「えぇ、それで十分。彼が死んだと発表されれば、それでいいわ」
真実を知っているのは、この密室のような店内の三人だけ。いや、一人だけ全容を知らない者がいた、ユキが騒ぎ出す。
「えぇ、なんで生活反応? って言うのがないんですか? だって藤原さんってまだ生きているのに」
「嬢ちゃん、今は店に三人しかいないから構わないが、さすがに大声を出すのはやめた方がいいぞ」
「そうよユキちゃん。説明してあげるから静かにして」
「はーい」
ユキは素直に返事をすると、カウンターに座り自分で用意したラテを飲みだした。
「さっきも言ったけど、生活反応というのは生命活動が維持されている肉体にしか現れない変化のことよ」
私はラテを啜るユキに、教え子へ説くような口調で話し始めた。
数週間前、このカウンターに座っていた藤原の、震える肩と脂汗にまみれた顔が脳裏をよぎる。
彼は怯えていた。数年前、仲間数人と共にある少年を再起不能にまで追い込んだ集団リンチ事件。その報復の影が、すぐそこまで迫っていると信じ込んでいたのだ。
「助けてください。あいつが、あの時の被害者が仲間を殺したんだ。次は俺だ。殺される前に、どこか遠くへ逃がしてほしい」
藤原の懇願は、あまりに短絡的で、そして身勝手なものだった。
だけど私は依頼人の過去は気にしない。依頼人がそう言うなら、彼に最も確実な避難所を提案するだけ。
「殺されるのが怖いなら、先に死んでしまいなさい」
プランは単純だが、実行には強靭な、あるいは狂気じみた忍耐が必要だった。
まず、毎日少しずつ自分の血を抜き、冷蔵保存させる。健康に支障が出ない範囲で数週間。撒き散らした時に「即死」を確信させるだけの量を。
そして、小指のトリック。私は彼に、まず小指を根元から切断するよう命じた。当然、その時点では猛烈な痛みと共に生活反応が出る。だが、その切断された指をそのまま一日放置し、組織を完全に壊死させる。その後、警察に届けるために第二関節から先を切り落とす。
死んでから切り刻まれた肉体には、炎症も出血の凝固も起きない。鑑識がそれを見れば、答えは一つに導かれる。
『すでに死亡している遺体から、指が切り取られた』のだと。
「なるほど。それで生活反応が出ないというわけですね」
ユキが感心したように頷く。
「なんでわざわざ二回も切らせるのか不思議だったんですけど……それって、死体のフリをするための策だったんだ」
佐野が眉間に深いシワを寄せ、私を見た。
「……狂ってるな。だがこれで、藤原は戸籍上も社会上も死人だ。復讐者とやらからも、当面は狙われずに済むんだろうな?」
「ええ、大丈夫よ」
私は窓の外、街灯に群がる羽虫を眺めながら答えた。
「そもそも、復讐者なんて最初から存在しないんだから」
二人の動きが、ピタリと止まった。
「……え、どういうことですか? 共犯者の人が一人、殺されたんじゃ?」
ユキが震える声で尋ねる。
「あれはただの不運。道端で酔っ払いに絡まれて、喧嘩の末に突き飛ばされて頭を打っただけよ。過去のリンチ事件とは何の関係もない。……それに、あの時の被害者の少年なら、今はもう幸せに暮らしているわ。結婚して、子供も生まれて、過去の泥沼とは完全に決別している」
「香さん、なんでそんなこと知ってるんですか?」
「そうだ、警察の俺も知らなかったぞ」
「依頼を受けてすぐ調べたの」
佐野が身を乗り出す。
「待て、香さん。あんた、それを知っていて藤原に指を切らせたのか?」
「教える必要なんてないわ。彼はいもしない被害者の影に怯え、自ら望んで小指を捨て、自分の名前を捨てた。これからは地下に潜り、偽造した身分証を使い、怯えながら底辺の暮らしを続けるでしょう。……でも、それが彼の望んだ安全なんですもの。私は依頼された通りのプランをあげただけよ」
私は静かに本を閉じた。なんの音もしない静寂が、店内に充満する。
「彼は一生、存在しない追っ手から逃げ続ける。……それこそが、彼がかつて奪った少年の平穏に対する、最も皮肉で、最も美しい埋め合わせだと思わない?」
ユキが、自分の小指をそっと隠すように握りしめた。
佐野は何も言わず、ただ冷めきったコーヒーの底を見つめている。外ではまた、何事もなかったかのように風が吹いていた。

