私が育った児童養護施設「陽だまりの家」は、その名に反して、常にどこか湿り気を帯びた影が這いずるような場所だった。古い寄木細工のような校舎は、かつて私塾だった建物を改装したもので、廊下を歩くたびに床板が老人の呻き声のような音を立てる。園長や職員たちは、私に対して常に腫れ物に触るような、薄い膜を隔てた接し方をしていた。
「香ちゃん、また一人で本を読んでいるの?」
そう声をかけてくる年配の職員の瞳には、同情よりも先に「気味の悪さ」が浮かんでいた。私はそれを、鏡の中の景色を眺めるように淡々と受け止めていた。
私は他の子供たちのように、おもちゃの奪い合いで喧嘩をすることもなければ、転んで膝を擦りむいて泣き叫ぶこともない。ただ、図書室の隅で、難解な語彙が並ぶ古い文学全集をめくっている。私にとって、言葉は感情を表現するための道具ではなく、この不条理な世界を分類し、理解するための「標本ラベル」のようなものだった。
私が十歳になった頃。唯一、安らぎと呼べる場所を見つけたのは、施設の裏手の雑木林を抜けた先にある、杉崎という老夫婦の住まいだった。
その家は、周囲の鬱蒼とした緑に飲み込まれそうなほど古びた平屋だったが、庭だけは異様なほど美しく整えられていた。
杉崎華江は、その庭の主だった。彼女は私が林の境界線に立っているのを見つけると、土のついた手袋を脱ぎ、穏やかな微笑みを向けてくれた。
「こんにちは、香ちゃん。ちょうどお茶の時間にしようと思っていたの。入っていきなさい」
華江が淹れる紅茶は、いつも果実のような芳醇な香りがした。子供にも飲みやすいようにミルクもたっぷりと入れてくれる。私は、彼女の庭に置かれた古びた鉄製のベンチに座り、華江が手入れする花々を眺めるのが好きだった。
春には沈丁花が鼻腔を突き、初夏には紫陽花が憂鬱な青を滴らせる。華江の手は魔法の手のようだった。彼女が触れるだけで、死にかけた苗は息を吹き返し、硬い蕾は誇らしげにその花弁を開く。
「花はね、香ちゃん。正直なのよ。手をかければかけた分だけ、美しく応えてくれる。人間のように嘘をついたりしないわ」
華江の言葉は、私の心に静かに染み込んだ。彼女の指先は、夫との過酷な生活で節くれ立ち、爪の間にはいつも黒い土が入り込んでいる。それでも、彼女が花を愛でる仕草には、神聖な儀式のような気高さがあった。
しかし、その静寂は、家の奥底から響いてくる怒声によって、いとも容易く踏みにじられるのが常だった。
「華江! いつまで外で遊んでいる! 俺の飯はどうしたんだ!」
杉崎善太郎。華江の夫であり、その家の絶対的な支配者。かつて地元の名士だったというプライドを、酒と老いによって醜く変質させたその老人は、一日中薄暗い書斎に籠もり、華江を罵ることで自らの存在を繋ぎ止めているようだった。
私は、開け放たれた窓から、老人の横顔を盗み見ることがあった。善太郎の肌は、死を目前にした生物特有の、灰色がかった黄色味を帯びている。濁った瞳は憎悪を燃料に燃え、その口からは常に誰かを呪う言葉が溢れ出していた。彼は生きながらにして、腐敗していた。
「……ごめんね、香ちゃん。あの人は、少し気が短いだけなのよ」
家の中から戻ってきた華江の頬には、時折、紅葉のような赤い痕がついていることがあった。しかし彼女は、それをおしろいで隠すことさえせず、ただ悲しげに微笑むだけだった。
私は、その微笑みの裏側に、言葉にならないほどの巨大な「澱み」があることを知っていた。
その日は、六月の湿り気を帯びた空気が、すべてを重く沈み込ませるような午後だった。
私は施設を抜け出し、いつものように雑木林の細い獣道を歩いていた。足元では湿った腐葉土が音もなく潰れ、時折、名前も知らぬ鳥が鋭い声で鳴いては、森の静寂をかき乱す。
庭に入ると、目に飛び込んできたのは、紫陽花の群生を前にして、一人でホースを握る華江の背中だった。
ザー、という水の音が、不自然なほど大きく庭に満ちている。華江は、私が来たことにも気づいていないようだった。彼女の視線は、瑞々しく濡れた青い花弁に固定されている。だが、その背中は、石像のように硬直していた。
「……こんにちは、華江さん」
私が声をかけると、華江の肩が目に見えて大きく跳ねた。彼女はゆっくりと振り返った。その顔は、幽霊でも見たかのように青ざめ、額には脂汗が滲んでいる。
「あ……香ちゃん。いつから、そこに?」
「今、着いたところです」
私は答えたが、瞳は華江の右手に釘付けになっていた。彼女が握っているホースの先からは、必要以上の勢いで水が噴き出している。紫陽花の茎は水の重みに耐えかねて項垂れ、足元の土は泥濘み、小さな池のようになっている。
「あら、いけない。お茶にしましょうね」
華江は、不自然なほど早口でまくし立てた。彼女は蛇口を閉めようとしたが、その手は激しく震え、何度も滑って空を切った。ようやく水が止まったとき、庭には奇妙な沈黙の重圧がのしかかった。
「……おじいさんは?」
私が問うと、華江は一瞬、喉の奥で乾いた音を鳴らした。
「まだ書斎にいると思うわ。話しかけると機嫌が悪いから、お茶の準備ができるまで、香ちゃんはあちらの縁側で待っていてちょうだい」
彼女はそう言い残すと、泥のついた長靴を脱ぎもせず、勝手口の戸を引いた。この家は、正面玄関から入ればすぐに吹き抜けの階段があり、その脇を抜けてキッチンへ向かうのが最短の動線だ。しかし、華江はあえて庭に面した裏口――かつては農作業の道具を運び入れるために使われていた、薄暗く狭い入り口を選んだ。
私は、彼女の背中が闇に消えていくのを、濡れたベンチに腰を下ろして眺めていた。庭には、先ほどまでの激しい水音が嘘のような静寂が戻っていた。叩きつけられた水流のせいで、紫陽花の花弁が数枚、無惨に千切れて泥の上に散っている。湿った土の匂いと、腐りかけた草木の香りが混ざり合い、生温かい風に乗って鼻腔を突いた。
家の中から、微かな物音が聞こえてきた。陶器が触れ合うカチカチという音。水道の蛇口を捻る音。そして、何かを煮立てるような、シュンシュンという微かな蒸気の音。華江は、何事もなかったかのように、日常の断片を積み重ねている。その音のひとつひとつが、私の耳には何かの空白を埋めるための急造の壁のように聞こえた。
十分ほど経った頃、華江がトレイを手に縁側へ現れた。トレイの上には、丁寧に淹れられたミルクティーと、いつものバタークッキー。彼女の手は相変わらず小刻みに震えていたが、顔にはいつもの笑みが貼り付いていた。
「お待たせしてごめんなさいね。さあ、冷めないうちに召し上がれ」
彼女は自分の分を隣に置き、湯気の立つカップを口に運んだ。私は、差し出されたカップには手をつけず、ただ華江の横顔を見つめていた。彼女の視線は庭の紫陽花に注がれているが、その焦点はどこか遠くの場所を彷徨っている。
「……華江さん。おじいさんを呼んでこなくていいんですか」
「いいのよ。あの人は、一度眠ると長いから。……ねえ、香ちゃん。今日の紫陽花、本当に綺麗だと思わない?」
彼女がそう言った瞬間だった。
家の奥から、心臓を直接叩かれたような、凄まじい音が響いた。
ドォォォン、という、重い塊が床を激しく打つような音。
華江の身体が、これ以上ないほど不自然に硬直した。彼女の手からカップが滑り落ち、トレイの上で陶器が派手な音を立てて砕けた。茶色い液体が、白いクロスを無惨に汚していく。
「……あら。いけない。私、何かしら。ちょっと見てくるわね」
彼女は立ち上がり、今度は縁側から直接、居間へと続く襖を開けた。私も、その後を追うように立ち上がった。薄暗い廊下に出た瞬間、鉄のような、あるいは古い埃が湿ったような、特有の匂いが漂ってきた。
そして、私たちはそれを見た。階段の下。磨き抜かれた廊下の端に、杉崎善太郎が転がっていた。
老人の身体は、信じられないような角度で折れ曲がり、頭部は不自然な方向に傾いている。見開かれた瞳は濁り、天井のどこか一点を凝視したまま凍りついていた。
「お父さん! お父さん、どうしたの! 嘘、嘘よ……!」
廊下に、華江の悲痛な叫びが木霊した。彼女は両手で顔を覆い、生まれたての仔鹿のように膝を震わせ、その場に崩れ落ちる。その泣き声は、家の湿った空気を震わせるほど激しいものだった。
私は、その背中越しに横たわる「モノ」を眺めていた。善太郎の死体は、驚くほど静かだった。階段の下、奇妙な角度で折れ曲がった首の付け根からは、血が流れる代わりに、深い絶望が滲み出しているように見えた。
だが、私の瞳が捉えたのは、死体の悲惨さではない。
先ほど、確かにこの家の奥で、心臓を直接叩くような凄まじい音が響いた。しかし、目の前の死体には、今しがた落下したばかりの死体が持つべき「余韻」がなかった。廊下に散った埃はすでに落ち着き、跳ねたはずの振動はどこにも残っていない。死体の肌の色は、今起きたばかりの事故にしては、あまりに不自然なほど生気を欠き、沈殿した澱のような色に変色しつつあった。
――音がした場所は、ここではない。
私は無言のまま、泣き叫ぶ華江を置いて、静かにきびを返した。向かったのは、華江が先ほどまでいたはずのキッチンだった。
勝手口から差し込む僅かな光に照らされたキッチンの床。重厚な鋳物の圧力鍋が、無惨にひっくり返っていた。私は、その鍋が置かれていたはずの、調理台の上の高い棚に目を向けた。そこには、拭き忘れた一筋の水滴と、不自然なほど冷気を纏った小さな氷の欠片が、歪な形を晒して溶け残っていた。
数日後、杉崎善太郎の死は不慮の事故として処理された。高齢による足元の衰え、磨き抜かれた廊下の滑りやすさ、そして不運な転落の角度。
警察の事情聴取に対し、私はただ事実だけを淡々と述べた。林の向こうから家に入ったこと、華江と共に縁側でお茶を飲んでいたこと、そして凄まじい音を聞いて共に死体を発見したこと。警察官たちは、一切の動揺を見せない十歳の少女に微かな困惑の視線を向けたが、それも
「あまりのショックで感情が麻痺しているのだろう」
という、彼らにとって都合のいい解釈の中に埋没していった。
葬儀が終わり、四十九日の法要も過ぎた頃。梅雨明けの刺すような陽光が、杉崎邸の庭を白く焼き尽くそうとしていた。紫陽花はすでに枯れ落ち、茶色く変色した花弁が無惨に地面を覆っている。
私は、一人で庭の手入れをしていた華江の元を訪れた。彼女は喪服を脱ぎ、いつもの割烹着姿に戻っていたが、その顔立ちは以前よりも一層、瑞々しく若返っているように見えた。
「あら、香ちゃん。よく来てくれたわね」
華江は穏やかに微笑んだ。彼女の指先は、新しく植えられた花の苗を慈しむように撫でている。私は彼女の隣に立ち、かつて彼女が水を撒き続けたあの場所をじっと見つめた。
「……華江さん。あの日のキッチンのこと、覚えていますか」
私の声は、乾いた風に揺れる枯れ葉のように冷ややかだった。華江の指が、ピタリと止まる。彼女は顔を上げず、ただ低く、湿り気を帯びた声で問い返した。
「キッチンのこと? 何のことかしら」
「圧力鍋が落ちた音です。……階段からおじいさんが落ちたにしては、あの音はあまりにも金属的でした。それに、音がした時、華江さんは家の奥じゃなく、明らかにキッチンの方向を見ていました」
静寂が、庭を支配した。虫の鳴き声さえも遠くへ消え去ったかのような、絶対的な沈黙。
「あなたが最初におじいさんを見つけた時は、まだ生きていたはずです。でも、あなたは救急車を呼ばなかった。そのまま放置して、自分は庭にいたから気づかなかったことにしようとした。けれど、そこに予定外の私が現れた。あなたは一度家に入ってお茶を用意するふりをしながら、状況を確認した。おじいさんが完全に息絶えたのを見て、あなたは私と一緒に発見したことにしようと決めた。そのための音の細工……。キッチンの棚に氷を並べ、その上に重い圧力鍋を置いた。氷が溶けて崩れるまでの時間を、あなたはずっと測っていた。私とお茶を飲んでいる間、音が鳴るのを、ずっと待っていたんですね」
私は淡々と論理を突きつけた。
「お茶を淹れるために、あえて遠回りの勝手口を使ったのも、おじいさんの死体を私に見せないためではなく、自分が第一発見者になる舞台を整えるためだった。……私を、無実の証人にするために」
華江は、ゆっくりと立ち上がった。彼女は腰を伸ばし、眩しそうに空を見上げた。その瞳には、かつての「優しいおばあさん」という仮面はどこにもなく、ただ、一人の女としての冷酷な誇りだけが宿っていた。
私はやはり、涙を見せなかった。旦那を見殺しにした老婆を目の前にしても、恐怖を抱くことなく、ただじっとしている。私は、自らの内に溜まった死の記憶を、また一つ新しい頁に書き加え、静かに杉崎邸を後にした。
背後で、再び水の音が響き始めた。それは死を弔う音ではなく、新しく手に入れた自由を、高らかに祝福する音のように聞こえた。
「香ちゃん、また一人で本を読んでいるの?」
そう声をかけてくる年配の職員の瞳には、同情よりも先に「気味の悪さ」が浮かんでいた。私はそれを、鏡の中の景色を眺めるように淡々と受け止めていた。
私は他の子供たちのように、おもちゃの奪い合いで喧嘩をすることもなければ、転んで膝を擦りむいて泣き叫ぶこともない。ただ、図書室の隅で、難解な語彙が並ぶ古い文学全集をめくっている。私にとって、言葉は感情を表現するための道具ではなく、この不条理な世界を分類し、理解するための「標本ラベル」のようなものだった。
私が十歳になった頃。唯一、安らぎと呼べる場所を見つけたのは、施設の裏手の雑木林を抜けた先にある、杉崎という老夫婦の住まいだった。
その家は、周囲の鬱蒼とした緑に飲み込まれそうなほど古びた平屋だったが、庭だけは異様なほど美しく整えられていた。
杉崎華江は、その庭の主だった。彼女は私が林の境界線に立っているのを見つけると、土のついた手袋を脱ぎ、穏やかな微笑みを向けてくれた。
「こんにちは、香ちゃん。ちょうどお茶の時間にしようと思っていたの。入っていきなさい」
華江が淹れる紅茶は、いつも果実のような芳醇な香りがした。子供にも飲みやすいようにミルクもたっぷりと入れてくれる。私は、彼女の庭に置かれた古びた鉄製のベンチに座り、華江が手入れする花々を眺めるのが好きだった。
春には沈丁花が鼻腔を突き、初夏には紫陽花が憂鬱な青を滴らせる。華江の手は魔法の手のようだった。彼女が触れるだけで、死にかけた苗は息を吹き返し、硬い蕾は誇らしげにその花弁を開く。
「花はね、香ちゃん。正直なのよ。手をかければかけた分だけ、美しく応えてくれる。人間のように嘘をついたりしないわ」
華江の言葉は、私の心に静かに染み込んだ。彼女の指先は、夫との過酷な生活で節くれ立ち、爪の間にはいつも黒い土が入り込んでいる。それでも、彼女が花を愛でる仕草には、神聖な儀式のような気高さがあった。
しかし、その静寂は、家の奥底から響いてくる怒声によって、いとも容易く踏みにじられるのが常だった。
「華江! いつまで外で遊んでいる! 俺の飯はどうしたんだ!」
杉崎善太郎。華江の夫であり、その家の絶対的な支配者。かつて地元の名士だったというプライドを、酒と老いによって醜く変質させたその老人は、一日中薄暗い書斎に籠もり、華江を罵ることで自らの存在を繋ぎ止めているようだった。
私は、開け放たれた窓から、老人の横顔を盗み見ることがあった。善太郎の肌は、死を目前にした生物特有の、灰色がかった黄色味を帯びている。濁った瞳は憎悪を燃料に燃え、その口からは常に誰かを呪う言葉が溢れ出していた。彼は生きながらにして、腐敗していた。
「……ごめんね、香ちゃん。あの人は、少し気が短いだけなのよ」
家の中から戻ってきた華江の頬には、時折、紅葉のような赤い痕がついていることがあった。しかし彼女は、それをおしろいで隠すことさえせず、ただ悲しげに微笑むだけだった。
私は、その微笑みの裏側に、言葉にならないほどの巨大な「澱み」があることを知っていた。
その日は、六月の湿り気を帯びた空気が、すべてを重く沈み込ませるような午後だった。
私は施設を抜け出し、いつものように雑木林の細い獣道を歩いていた。足元では湿った腐葉土が音もなく潰れ、時折、名前も知らぬ鳥が鋭い声で鳴いては、森の静寂をかき乱す。
庭に入ると、目に飛び込んできたのは、紫陽花の群生を前にして、一人でホースを握る華江の背中だった。
ザー、という水の音が、不自然なほど大きく庭に満ちている。華江は、私が来たことにも気づいていないようだった。彼女の視線は、瑞々しく濡れた青い花弁に固定されている。だが、その背中は、石像のように硬直していた。
「……こんにちは、華江さん」
私が声をかけると、華江の肩が目に見えて大きく跳ねた。彼女はゆっくりと振り返った。その顔は、幽霊でも見たかのように青ざめ、額には脂汗が滲んでいる。
「あ……香ちゃん。いつから、そこに?」
「今、着いたところです」
私は答えたが、瞳は華江の右手に釘付けになっていた。彼女が握っているホースの先からは、必要以上の勢いで水が噴き出している。紫陽花の茎は水の重みに耐えかねて項垂れ、足元の土は泥濘み、小さな池のようになっている。
「あら、いけない。お茶にしましょうね」
華江は、不自然なほど早口でまくし立てた。彼女は蛇口を閉めようとしたが、その手は激しく震え、何度も滑って空を切った。ようやく水が止まったとき、庭には奇妙な沈黙の重圧がのしかかった。
「……おじいさんは?」
私が問うと、華江は一瞬、喉の奥で乾いた音を鳴らした。
「まだ書斎にいると思うわ。話しかけると機嫌が悪いから、お茶の準備ができるまで、香ちゃんはあちらの縁側で待っていてちょうだい」
彼女はそう言い残すと、泥のついた長靴を脱ぎもせず、勝手口の戸を引いた。この家は、正面玄関から入ればすぐに吹き抜けの階段があり、その脇を抜けてキッチンへ向かうのが最短の動線だ。しかし、華江はあえて庭に面した裏口――かつては農作業の道具を運び入れるために使われていた、薄暗く狭い入り口を選んだ。
私は、彼女の背中が闇に消えていくのを、濡れたベンチに腰を下ろして眺めていた。庭には、先ほどまでの激しい水音が嘘のような静寂が戻っていた。叩きつけられた水流のせいで、紫陽花の花弁が数枚、無惨に千切れて泥の上に散っている。湿った土の匂いと、腐りかけた草木の香りが混ざり合い、生温かい風に乗って鼻腔を突いた。
家の中から、微かな物音が聞こえてきた。陶器が触れ合うカチカチという音。水道の蛇口を捻る音。そして、何かを煮立てるような、シュンシュンという微かな蒸気の音。華江は、何事もなかったかのように、日常の断片を積み重ねている。その音のひとつひとつが、私の耳には何かの空白を埋めるための急造の壁のように聞こえた。
十分ほど経った頃、華江がトレイを手に縁側へ現れた。トレイの上には、丁寧に淹れられたミルクティーと、いつものバタークッキー。彼女の手は相変わらず小刻みに震えていたが、顔にはいつもの笑みが貼り付いていた。
「お待たせしてごめんなさいね。さあ、冷めないうちに召し上がれ」
彼女は自分の分を隣に置き、湯気の立つカップを口に運んだ。私は、差し出されたカップには手をつけず、ただ華江の横顔を見つめていた。彼女の視線は庭の紫陽花に注がれているが、その焦点はどこか遠くの場所を彷徨っている。
「……華江さん。おじいさんを呼んでこなくていいんですか」
「いいのよ。あの人は、一度眠ると長いから。……ねえ、香ちゃん。今日の紫陽花、本当に綺麗だと思わない?」
彼女がそう言った瞬間だった。
家の奥から、心臓を直接叩かれたような、凄まじい音が響いた。
ドォォォン、という、重い塊が床を激しく打つような音。
華江の身体が、これ以上ないほど不自然に硬直した。彼女の手からカップが滑り落ち、トレイの上で陶器が派手な音を立てて砕けた。茶色い液体が、白いクロスを無惨に汚していく。
「……あら。いけない。私、何かしら。ちょっと見てくるわね」
彼女は立ち上がり、今度は縁側から直接、居間へと続く襖を開けた。私も、その後を追うように立ち上がった。薄暗い廊下に出た瞬間、鉄のような、あるいは古い埃が湿ったような、特有の匂いが漂ってきた。
そして、私たちはそれを見た。階段の下。磨き抜かれた廊下の端に、杉崎善太郎が転がっていた。
老人の身体は、信じられないような角度で折れ曲がり、頭部は不自然な方向に傾いている。見開かれた瞳は濁り、天井のどこか一点を凝視したまま凍りついていた。
「お父さん! お父さん、どうしたの! 嘘、嘘よ……!」
廊下に、華江の悲痛な叫びが木霊した。彼女は両手で顔を覆い、生まれたての仔鹿のように膝を震わせ、その場に崩れ落ちる。その泣き声は、家の湿った空気を震わせるほど激しいものだった。
私は、その背中越しに横たわる「モノ」を眺めていた。善太郎の死体は、驚くほど静かだった。階段の下、奇妙な角度で折れ曲がった首の付け根からは、血が流れる代わりに、深い絶望が滲み出しているように見えた。
だが、私の瞳が捉えたのは、死体の悲惨さではない。
先ほど、確かにこの家の奥で、心臓を直接叩くような凄まじい音が響いた。しかし、目の前の死体には、今しがた落下したばかりの死体が持つべき「余韻」がなかった。廊下に散った埃はすでに落ち着き、跳ねたはずの振動はどこにも残っていない。死体の肌の色は、今起きたばかりの事故にしては、あまりに不自然なほど生気を欠き、沈殿した澱のような色に変色しつつあった。
――音がした場所は、ここではない。
私は無言のまま、泣き叫ぶ華江を置いて、静かにきびを返した。向かったのは、華江が先ほどまでいたはずのキッチンだった。
勝手口から差し込む僅かな光に照らされたキッチンの床。重厚な鋳物の圧力鍋が、無惨にひっくり返っていた。私は、その鍋が置かれていたはずの、調理台の上の高い棚に目を向けた。そこには、拭き忘れた一筋の水滴と、不自然なほど冷気を纏った小さな氷の欠片が、歪な形を晒して溶け残っていた。
数日後、杉崎善太郎の死は不慮の事故として処理された。高齢による足元の衰え、磨き抜かれた廊下の滑りやすさ、そして不運な転落の角度。
警察の事情聴取に対し、私はただ事実だけを淡々と述べた。林の向こうから家に入ったこと、華江と共に縁側でお茶を飲んでいたこと、そして凄まじい音を聞いて共に死体を発見したこと。警察官たちは、一切の動揺を見せない十歳の少女に微かな困惑の視線を向けたが、それも
「あまりのショックで感情が麻痺しているのだろう」
という、彼らにとって都合のいい解釈の中に埋没していった。
葬儀が終わり、四十九日の法要も過ぎた頃。梅雨明けの刺すような陽光が、杉崎邸の庭を白く焼き尽くそうとしていた。紫陽花はすでに枯れ落ち、茶色く変色した花弁が無惨に地面を覆っている。
私は、一人で庭の手入れをしていた華江の元を訪れた。彼女は喪服を脱ぎ、いつもの割烹着姿に戻っていたが、その顔立ちは以前よりも一層、瑞々しく若返っているように見えた。
「あら、香ちゃん。よく来てくれたわね」
華江は穏やかに微笑んだ。彼女の指先は、新しく植えられた花の苗を慈しむように撫でている。私は彼女の隣に立ち、かつて彼女が水を撒き続けたあの場所をじっと見つめた。
「……華江さん。あの日のキッチンのこと、覚えていますか」
私の声は、乾いた風に揺れる枯れ葉のように冷ややかだった。華江の指が、ピタリと止まる。彼女は顔を上げず、ただ低く、湿り気を帯びた声で問い返した。
「キッチンのこと? 何のことかしら」
「圧力鍋が落ちた音です。……階段からおじいさんが落ちたにしては、あの音はあまりにも金属的でした。それに、音がした時、華江さんは家の奥じゃなく、明らかにキッチンの方向を見ていました」
静寂が、庭を支配した。虫の鳴き声さえも遠くへ消え去ったかのような、絶対的な沈黙。
「あなたが最初におじいさんを見つけた時は、まだ生きていたはずです。でも、あなたは救急車を呼ばなかった。そのまま放置して、自分は庭にいたから気づかなかったことにしようとした。けれど、そこに予定外の私が現れた。あなたは一度家に入ってお茶を用意するふりをしながら、状況を確認した。おじいさんが完全に息絶えたのを見て、あなたは私と一緒に発見したことにしようと決めた。そのための音の細工……。キッチンの棚に氷を並べ、その上に重い圧力鍋を置いた。氷が溶けて崩れるまでの時間を、あなたはずっと測っていた。私とお茶を飲んでいる間、音が鳴るのを、ずっと待っていたんですね」
私は淡々と論理を突きつけた。
「お茶を淹れるために、あえて遠回りの勝手口を使ったのも、おじいさんの死体を私に見せないためではなく、自分が第一発見者になる舞台を整えるためだった。……私を、無実の証人にするために」
華江は、ゆっくりと立ち上がった。彼女は腰を伸ばし、眩しそうに空を見上げた。その瞳には、かつての「優しいおばあさん」という仮面はどこにもなく、ただ、一人の女としての冷酷な誇りだけが宿っていた。
私はやはり、涙を見せなかった。旦那を見殺しにした老婆を目の前にしても、恐怖を抱くことなく、ただじっとしている。私は、自らの内に溜まった死の記憶を、また一つ新しい頁に書き加え、静かに杉崎邸を後にした。
背後で、再び水の音が響き始めた。それは死を弔う音ではなく、新しく手に入れた自由を、高らかに祝福する音のように聞こえた。

