死に愛された女の肖像

 照明を落とした店内に、エスプレッソマシンの洗浄音が低く響いていた。私はカウンターで、登和子が最後に座っていたボックス席を見つめていた。あの日、彼女が私に突きつけた条件の内容を思い出す。

「……すい臓がんなんです。もう、長くありません」

 一ヶ月前、今と同じ時間。深夜のこの店で登和子はそう切り出した。

 閉店後のうちの喫茶店は『死の相談所』になる。彼女はある意味ここにふさわしい服装、見た目でやってきた。仕事用のスーツはシワだらけ、頬は不気味なほどにこけていた。

「厳密には治療をすれば生きてはいけますが、完治はしませんし、治療だけの余生になります。でも、ただ死ぬだけなんて、もったいない。あの男に、私と同じだけの絶望を与えてやりたいんです」

 彼女の語る過去は、泥のように濁っていた。

 担当芸人である有田は、彼女の献身を、一人の人間としての敬意など微塵も介さない「欲望の掃き溜め」としてしか扱わなかった。楽屋や送迎車という逃げ場のない密室で繰り返される、執拗な性的羞恥の強要。彼女の肌に触れる卑劣な手つきと、それを『教育』と称して笑いのネタにする腐りきった性根。胃の底からせり上がる、黒く濁った嫌悪感が、彼女の心をがん細胞よりも早く侵食していた。

「週刊誌に過去を売っても、あいつは数年で復帰するでしょう。世間は忘れる。でも、人殺しのラベルは剥がせません。あいつの人生そのものを、檻の中に閉じ込めたいんです」

 私は、彼女が差し出した現金を静かに眺めた。

「いいわ。物語の筋書きを考えましょう」

 私が提案したのは、徹底した「動機」と「状況」の構築だった。

「まずは、彼があなたを殺したくなる理由を作るのよ。週刊誌に彼の過去の女性関係を匿名で密告して。彼にとってあなたは『自分を裏切った邪魔者』にならなきゃいけない」

 登和子は躊躇なく頷いた。彼女は自身の地位すら、復讐の薪にくべた。次にアリバイの破壊だ。

「スキャンダルが出れば、仕事はバラシになる可能性があるわ。そこが狙い目よ。彼には『記者が張っているから自宅で謹慎していろ』と強く命じて。煩わしいのを嫌がって、彼は高確率で自分の殻に閉じこもる」

 そして、証拠の配置。

 以前、彼がドラマに出演した際に小道具として使われ、指紋がべったりと付いたナイフ。それも登和子に事前に現場から回収させていた。

「部屋には、あなたが少しずつ集めてきた彼の髪の毛や私物を撒いて。彼がそこにいた証拠を、あなたの手で作り上げるの」

 一番の難所は、計画の詰めだ。

「……ハンカチをナイフの柄に被せて、自分を刺して。彼の指紋を、自分の指紋で上書きしないように」
私は登和子の瞳を真っ直ぐに見つめて言った。
「自分の体を、自分一人で、それも致命傷になるまで刺し抜く。想像を絶する苦痛よ。途中で手が止まれば、すべてが台無しになる」

 隣で話を聞いていたユキが、自分の背中に手を当てて、苦い薬を飲んだような顔をした。

「……死ぬまで自分を刺し続けるなんて。考えただけで、胃がキリキリしますよ。登和子さん、本当に、いいんですか?」

 登和子は、微かに震える手で自分の膝を握りしめ、静かに笑った。

「がんの痛みに比べれば、一瞬のことです。……あいつに一生消えない傷を負わせられるなら、安いものよ」

 刺した後の証拠の消失は、物理の法則に委ねた。

 ハンカチには事前に透明なテグスを結び、その先には窓の外へ吊るした重い石を繋いでおく。

「あなたがナイフから手を離し、命が尽きると同時に、石の重みがハンカチを窓の外へと引きずり出す。それは下の川へと落ち、暗闇に消えるわ。室内に残るのは、彼の指紋が付いたナイフと、あなたの遺体だけ」

 手帳には、彼と会う予定を偽装して書き込ませた。

 回想の霧が晴れ、現在に戻る。

 佐野が言っていた通り、警察は私たちが用意した「完璧な物語」を一言一句違わずになぞり、有田を逮捕した。

 細々とした部分には、現実との乖離もあっただろう。現場に残された微かな違和感や、証拠品の不自然な配置。だが、それらはすべて佐野さんがその無骨な手で握りつぶしてくれたはずだ。彼は私たちの力強い味方だ。

 彼女は、自分という存在を舞台として、私たちの力を借り、最高の嫌がらせを完遂したのだ。

「……コーヒー、おかわり淹れましょうか」

 ユキが、どこか落ち着かない様子で私に声をかけてきた。

「ええ、お願い。少し、苦めのやつを」
「それか、ラテにしちゃいますか? 今度こそ可愛いウサギを」
「それはまたにするわ」

 私は窓の外を見つめる。登和子が最後に見た景色も、こんな風に静かな夜だったのだろうか。

 彼女の物語は終わった。そして、有田の終わりのない地獄が始まったのだ。