一週間後。街を濡らしていた長雨が上がり、空気には湿った土の匂いが混じっていた。午後の喫茶店は、客の途絶えた凪のような時間の中にあった。
カウンターの隅に置かれた古いラジオからは、アナウンサーの無機質な声が流れている。
『――続いてのニュースです。昨日、都内マンションの一室で女性マネージャーが殺害された事件で、警視庁は本日、担当芸人の「ハレルヤ有田」こと有田一馬容疑者を殺人の疑いで逮捕しました』
「わわ、ネットニュースでも見たけど本当だったんだ……有田さん、捕まっちゃったんですね」
ユキが手を止め、真剣にラジオに聞き入った。
私は手元にある文庫本のページをめくる。活字の海を泳ぎながら、耳に届く情報を頭の中の整理棚へ放り込んでいく。
ハレルヤ有田。最近飛ぶ鳥を落とす勢いだった若手ピン芸人だ。お笑い番組だけでなくドラマなどにもよく出ていた。世間はその劇的な転落を、蜜の味を嗜むような冷淡さで消費していくだろう。
カウベルが重々しく鳴り、佐野が入ってきた。
今日の彼は、前回よりもさらに数段階ほど老けたように見える。スーツの肩にはフケが飛び、目の下のクマはもはや隠しきれないレベルにまで沈殿していた。
「……最悪だ。一週間、一睡もしてないよ」
佐野はいつものカウンター席に倒れ込むように座った。
「お疲れ様。ハレルヤの件でしょう。さっきラジオでも流れていたわ」
私は本を閉じ、静かに立ち上がる。
「ああ。署内はお祭り騒ぎだよ。マスコミへの対応と証拠の整理で、担当部署は完全にパンクしてる。俺も駆り出されて散々だ」
「佐野さん、本当なんですか? 有田さんが登和子さんを?」
ユキが身を乗り出して尋ねた。ごく一般的な好奇心を隠そうともせずに。
「……今のところ、真っ黒だ。言い逃れの余地なんて一ミリもない」
佐野は深く溜息をつき、乾いた喉を鳴らした。
「殺害状況は凄惨だったよ。登和子さんは自室で、体中をナイフで刺されていた。室内の家具はなぎ倒され、激しく争った跡もある。決定的なのは凶器だよ。遺体に突き刺さっていたナイフの柄からは、有田の指紋がはっきりと検出された」
私は黙ってミルのハンドルを回す。豆が砕かれる乾いた音が、店内の静寂を少しずつ塗り替えていく。
「指紋だけじゃない。部屋には有田の髪の毛や、彼が身につけていたアクセサリーの破片まで散乱していたんだ。有田自身のアリバイもボロボロだ。事件当夜、彼は一人で部屋にいたと主張しているが、それを証明する人間はどこにもいない」
「有田さん、売れっ子だったのに。何が不満だったんでしょうね。動機について警察はどう思ってるんですか?」
ユキが佐野に質問を投げる。
「恨みだよ。最近のゴシップ誌で、あいつの派手な女関係がすっぱ抜かれただろう? あれ、実は登和子さんが密告していたらしいんだ。事務所の管理を離れて暴走し始めた有田を牽制するためか、あるいはただの小遣い稼ぎか……。彼女は出版社からかなりの謝礼を受け取っていた」
コーヒーの香りがカウンターに漂い始める。佐野の話は、警察が組み立てた完璧な物語をなぞっている。
「それを知った有田が激昂して、彼女の部屋に乗り込み、カッとなって刺した。あまりにもありきたりで、救いようのない動機だよ。本人はやっていないと泣き喚いているらしいが、あれだけ物証が揃っていれば、ただの悪あがきにしか見えないな」
私は、温まったカップに静かにコーヒーを注いだ。黒い液体が、白い陶器の内側を穏やかに満たしていく。
「はい、佐野さん。一息入れたら」
「……ありがとう」
佐野はコーヒーを受け取り、一口啜った。その横顔には、ひとつの大きなヤマを越えつつある安堵と、人間という生き物の醜さに触れた虚無感が同居していた。
「有田さんも、そこまで追い詰められてたんですかね。登和子さんも、お金に困ってたのかなぁ……。なんだか、やりきれないですね」
ユキがしんみりとした様子でカウンターを拭き始めた。佐野は
「金は人を狂わせるからな」
と苦々しく応じた。
私はカウンター越しに、遠くの景色を眺めるような視線を投げた。
世間には「裏切ったマネージャーと、逆上した芸人」という、わかりやすい憎しみの構図が提示された。それが真実かどうかなど、誰にとってもさほど重要ではない。
「綺麗な幕引きだと思わない?」
「まぁ、そうだな」
佐野が悲しそうにこちらを見た。
「ユキちゃんも、他に客がいない時はもっとのびのびしたらどうだい」
「あ、そっか。誰もいない時はいいのか。じゃあ質問ですけど、有田さんをこのまま冤罪で有罪まで持っていけますか?」
「不起訴になる可能性もなくはない。こればっかりはどうしようもないな」
「まぁ、今回は登和子さんもそれでいいって言ってましたし、別にいっか」
「はいはい、二人ともそれくらいにして。いつ他のお客さんが来るかわからないんだから」
私はいつものように、微笑みを浮かべて二人をたしなめた。とりあえず、登和子さんの自殺はこれで上手くいった。
今日までの登和子さんとのやり取りや、彼女の最期の姿を頭に思い浮かべる。
カウンターの隅に置かれた古いラジオからは、アナウンサーの無機質な声が流れている。
『――続いてのニュースです。昨日、都内マンションの一室で女性マネージャーが殺害された事件で、警視庁は本日、担当芸人の「ハレルヤ有田」こと有田一馬容疑者を殺人の疑いで逮捕しました』
「わわ、ネットニュースでも見たけど本当だったんだ……有田さん、捕まっちゃったんですね」
ユキが手を止め、真剣にラジオに聞き入った。
私は手元にある文庫本のページをめくる。活字の海を泳ぎながら、耳に届く情報を頭の中の整理棚へ放り込んでいく。
ハレルヤ有田。最近飛ぶ鳥を落とす勢いだった若手ピン芸人だ。お笑い番組だけでなくドラマなどにもよく出ていた。世間はその劇的な転落を、蜜の味を嗜むような冷淡さで消費していくだろう。
カウベルが重々しく鳴り、佐野が入ってきた。
今日の彼は、前回よりもさらに数段階ほど老けたように見える。スーツの肩にはフケが飛び、目の下のクマはもはや隠しきれないレベルにまで沈殿していた。
「……最悪だ。一週間、一睡もしてないよ」
佐野はいつものカウンター席に倒れ込むように座った。
「お疲れ様。ハレルヤの件でしょう。さっきラジオでも流れていたわ」
私は本を閉じ、静かに立ち上がる。
「ああ。署内はお祭り騒ぎだよ。マスコミへの対応と証拠の整理で、担当部署は完全にパンクしてる。俺も駆り出されて散々だ」
「佐野さん、本当なんですか? 有田さんが登和子さんを?」
ユキが身を乗り出して尋ねた。ごく一般的な好奇心を隠そうともせずに。
「……今のところ、真っ黒だ。言い逃れの余地なんて一ミリもない」
佐野は深く溜息をつき、乾いた喉を鳴らした。
「殺害状況は凄惨だったよ。登和子さんは自室で、体中をナイフで刺されていた。室内の家具はなぎ倒され、激しく争った跡もある。決定的なのは凶器だよ。遺体に突き刺さっていたナイフの柄からは、有田の指紋がはっきりと検出された」
私は黙ってミルのハンドルを回す。豆が砕かれる乾いた音が、店内の静寂を少しずつ塗り替えていく。
「指紋だけじゃない。部屋には有田の髪の毛や、彼が身につけていたアクセサリーの破片まで散乱していたんだ。有田自身のアリバイもボロボロだ。事件当夜、彼は一人で部屋にいたと主張しているが、それを証明する人間はどこにもいない」
「有田さん、売れっ子だったのに。何が不満だったんでしょうね。動機について警察はどう思ってるんですか?」
ユキが佐野に質問を投げる。
「恨みだよ。最近のゴシップ誌で、あいつの派手な女関係がすっぱ抜かれただろう? あれ、実は登和子さんが密告していたらしいんだ。事務所の管理を離れて暴走し始めた有田を牽制するためか、あるいはただの小遣い稼ぎか……。彼女は出版社からかなりの謝礼を受け取っていた」
コーヒーの香りがカウンターに漂い始める。佐野の話は、警察が組み立てた完璧な物語をなぞっている。
「それを知った有田が激昂して、彼女の部屋に乗り込み、カッとなって刺した。あまりにもありきたりで、救いようのない動機だよ。本人はやっていないと泣き喚いているらしいが、あれだけ物証が揃っていれば、ただの悪あがきにしか見えないな」
私は、温まったカップに静かにコーヒーを注いだ。黒い液体が、白い陶器の内側を穏やかに満たしていく。
「はい、佐野さん。一息入れたら」
「……ありがとう」
佐野はコーヒーを受け取り、一口啜った。その横顔には、ひとつの大きなヤマを越えつつある安堵と、人間という生き物の醜さに触れた虚無感が同居していた。
「有田さんも、そこまで追い詰められてたんですかね。登和子さんも、お金に困ってたのかなぁ……。なんだか、やりきれないですね」
ユキがしんみりとした様子でカウンターを拭き始めた。佐野は
「金は人を狂わせるからな」
と苦々しく応じた。
私はカウンター越しに、遠くの景色を眺めるような視線を投げた。
世間には「裏切ったマネージャーと、逆上した芸人」という、わかりやすい憎しみの構図が提示された。それが真実かどうかなど、誰にとってもさほど重要ではない。
「綺麗な幕引きだと思わない?」
「まぁ、そうだな」
佐野が悲しそうにこちらを見た。
「ユキちゃんも、他に客がいない時はもっとのびのびしたらどうだい」
「あ、そっか。誰もいない時はいいのか。じゃあ質問ですけど、有田さんをこのまま冤罪で有罪まで持っていけますか?」
「不起訴になる可能性もなくはない。こればっかりはどうしようもないな」
「まぁ、今回は登和子さんもそれでいいって言ってましたし、別にいっか」
「はいはい、二人ともそれくらいにして。いつ他のお客さんが来るかわからないんだから」
私はいつものように、微笑みを浮かべて二人をたしなめた。とりあえず、登和子さんの自殺はこれで上手くいった。
今日までの登和子さんとのやり取りや、彼女の最期の姿を頭に思い浮かべる。

