死に愛された女の肖像

 唯一の店員であるユキが店の奥でなにやらいそいそと動いていた。

「香さん、見てください! 今日のラテアート、傑作です。名付けて沈みゆく泥船!」

 ユキが、誇らしげにカップを差し出してきた。見れば、ミルクの泡で描かれた何かが、カップの底へ向かって今にも溶け崩れようとしている。

「……元はウサギかな。耳が溶けているが。かちかち山のウサギって意味? 失敗をごまかすのに前衛的なタイトルをつけても意味ないよ」
「あ、バレました? もっと練習しますね。あ、それとも泥船らしく、中から必死に手を伸ばしてる様子とか描いてみましょうか。沈みゆく一瞬の輝き、みたいな!」

 ユキはけらけらと笑いながら、布巾を肩にかけてカウンターの奥へと消えていった。

 彼女の明るさは、時に劇薬のようにこの店の静寂をかき乱すが、悪くはない。毒のない日常には、これくらいのスパイスが必要だ。
店内の隅にあるボックス席には、先ほどから一人の女性が陣取っている。

 名前は登和子。お笑い芸人のマネージャーをしていると、以前この席で聞いた。

 彼女は冷めたコーヒーを一口も啜らず、一心不乱に手帳とスマートフォンを交互に睨みつけながら、ペンと指を走らせている。その動きは、まるで降り積もる砂を必死に払いのけているかのようだ。

 その情報だけを聞けば、世間を騒がせている担当芸人の不祥事。その火消しに追われているのだろうと、端から見れば誰もが同情するだろう。

 私はカウンター越しに、彼女の手元を静かに観察する。彼女は時折、バッグの底にある物を外側から確かめるように触れるのを、私は見逃さない。

 登和子はふと顔を上げ、不意に私と視線がぶつかった。彼女の瞳の奥には、恐怖ではなく、どこか遠くの景色を見つめるような凪いだ静けさがあった。

 不意に、彼女の指が止まった。着信だ。登和子は周囲を気にするように一度視線を巡らせてから、耳に端末を当てた。

「……はい、お疲れ様です。ええ、そうなんです。メッセージで送った通り、明日の収録ですが、『バラシ』になりました。はい、急にスケジュールが空きまして。……いえ、大丈夫です。ただ、記者が自宅付近をうろついているようですから。しばらくは家でじっとしていてください。余計なことは、何も」

 登和子の声は低く、そしてひどく疲弊していた。電話を切った後、彼女は大きく一つ息を吐いた。それは溜息というよりも、体内の空気をすべて外に捨て去ろうとする、切実な拒絶のように見えた。

 彼女が席を立ち、カウンターにやってくる。

「ごちそうさま。美味しかったです、コーヒー」
「……そうですか。またいつでも、羽を休めにいらしてください」

 私が伝票を受け取りながらそう言うと、彼女は一瞬だけ、力なく微笑んだ。

「ええ。……もうすぐ、ゆっくり休めそうですから」

 登和子は会計を済ませ、店を出ていった。扉が閉まる瞬間に鳴ったカウベルの音は、まるで彼女の人生の幕を下ろす合図のように、私の耳には響いた。

「登和子さん、今日は一段と顔色が悪かったような」

 ユキが心配そうに扉を見つめる。

「そうだね。彼女は今、人生という長編小説の、一番退屈で苦しい章を読んでいる最中なのかも。でも、もうエンディングだから」
私は、彼女が残した冷めたコーヒーを片付けた。カップの底には、溶け残った砂糖がほんの少しだけ、沈んでいた。