死に愛された女の肖像

 数週間後、店内の空気はすっかり入れ替わり、初夏の気配が入り口の隙間から忍び込んでいた。

 カウンターで豆の選別をしていたユキが、ふと思い出したように顔を上げた。

「あ、そういえば栄子ちゃん。昨日、久しぶりに連絡をくれたんですよ」
「そう。彼女、どうしているの」

 私は手元にある文庫本を閉じ、静かに問い返した。

「吹っ切れたみたいです。あの阿久津って教師、きっちり告発したって言ってました。弁護士を立てて、慰謝料と今後の養育費を全額で請求したそうです。向こうの家庭とやらも、結局は嘘とハリボテだらけだったみたいで……今はもう、出産に向けて毎日楽しく過ごしてるって。昨日も、赤ちゃんの靴下を買ったって写真が送られてきました」
「……そう。母は強し、ね」

 私は嬉しくなり、笑いながら小さく溜息を吐いた。

「それ、ヴィクトル・ユーゴーでしたっけ。女は弱し、されど母は強し。あれ? 『この世で最も強いのは、子を守る母』って言うのもありましたよね……誰でしたっけ」
「……誰だったかしら。出典を調べるのも無粋ね。今の彼女には、その一行が真実なのだから」

 ユキが柔らかく微笑み、再び手を動かし始める。

「高校、か。……あの制服を見ていたら、少し昔を思い出したわ」
「え、香さんもですか? 実は私もなんです」

 視線が交差する。記憶の頁が、音もなく数年前へと巻き戻されていく。


 放課後の、誰もいない屋上。

 柵の向こう側に立って、泣きながら街を見下ろしていた一人の下級生がいた。それが、文芸部に入ったばかりのユキだった。

「そこから飛び降りても、死ねるとは限らないわよ」

 私が背後から声をかけると、彼女は心臓が止まるかというほど驚いて振り返った。

「せ、先輩……。止めに来たんですか?」
「いいえ。ただ、その死に方はあまりに凡庸で、美しくないと思っただけ。地面に叩きつけられて、内臓が飛び散って、無惨な肉塊として野次馬のスマホに保存される。……そんなエンディング、一生の恥だと思わない? それに高さがそもそも足りない。複雑骨折で苦しむだけの可能性がある」

 絶句する彼女に、私は淡々と、けれど熱を帯びた声で提案を続けた。

「もっと派手な死に方があるわ。あるいは、もっと楽な。……たとえば、誰かに殺されたように見せかけて自殺とか。自宅で。それならあなたの嫌いな家族を一生苦しめることができる。それとも、この死を壮大な密室殺人に書き換えてみる? 警察を翻弄する一世一代のトリックを私が考えてあげる」

 次々と繰り出される奇妙で具体的な自殺のバリエーションに、ユキは呆気に取られ、いつの間にか涙を流すのも忘れていた。

「……何、言ってるんですか。先輩、変ですよ。面白すぎます」

 最後には、彼女は吹き出していた。死ぬのが馬鹿馬鹿しくなるほど、私が提案した「物語」が刺激的すぎたのだ。


 思い出の霧が晴れ、店内にコーヒーの豊かな香りが戻る。

「あの時、香さんに捕まっちゃったのが運の尽きでしたね。おかげで死ぬタイミングを完全に逃して、今じゃこうして死神の助手みたいなことしてるんですから」

 ユキがからからと笑い、新しいカップを棚に並べた。

 人生という名の物語は、時として作者の意図しない方向へ転がる。それは乱雑な下書きのようなものかもしれないが、最後の一行さえ美しく整えられていれば、どんな駄作であっても、それは価値のある一冊になるのだ。

 私はカウンターの奥で、静かにページをめくった。

 もし、自分の人生のエンディングに迷っているのなら。

 あるいは、誰にも語れない不適切な幕引きを望んでいるのなら。

 深夜、ブラインドが下りたこの店の扉を、一度だけ叩いてほしい。

 死でお困りの方は、ぜひうちへ。あなたの物語、私たちが最後まで美しく、校正してあげる。

 外ではまた、何事もなかったかのように風が吹いていた。