「……約束通り、来ました。もう迷いはありません。あの薬をください」
彼女はカウンターに座るなり、震える声で切り出した。私は読みかけの文庫本を閉じ、ゆっくりと顔を上げる。カウンターの向こう側では、ユキがいつになく厳しい表情で彼女を凝視していた。
「残念だけど。あなたには、協力できないわ」
私の淡々とした宣告に、栄子の瞳が大きく見開かれた。
「どうして……? どんな相談でも乗ってくれるって、言ったじゃないですか! 私はただ、静かに、誰にも迷惑をかけずに消えたいだけなのに!」
「勘違いしないで。私は道徳家じゃない。復讐だろうが絶望だろうが、美しく整えられた最期を迎えたいなら私は喜んで協力する。……でもね、他人を巻き込む自殺にだけは、絶対に加担しないのがこの店のルールよ」
「巻き込む……? 私はただ、一人で身を引くだけで……」
「たとえば飛び降りを選ぶなら、下に人がいない場所を徹底的に選ばせる。それが私の条件。……今のあなたがその薬を飲めば、あなたは確実に一人の人間を巻き添えにして殺すことになるのよ」
「え……?」
「気づいていないのね。――あなたは今、妊娠しているわ」
店内が、氷を落としたような静寂に包まれた。栄子は自分の腹部に手を当て、幽霊でも見たかのように固まっている。
「う、嘘よ……。そんなはず……」
「嘘じゃないですよ、栄子ちゃん。私、学校であなたを見ていて確信したんです。あなたが気づいていない、身体の状態にね」
今まで黙っていたユキが、身を乗り出すようにして口を開いた。
「放課後の廊下ですれ違った時。阿久津先生がタバコを吸って戻ってきた瞬間、あなた、ものすごく顔を歪めて口元を押さえたでしょう? あんなに先生を愛おしいって言っていたのに。それはただの拒絶じゃなくて、身体が毒を避けてる証拠。つわりのはしりよ」
栄子の肩がびくりと跳ねる。ユキはさらに畳みかけた。
「階段を降りる時もそう。あなたは無意識に手すりを強く握って、一歩一歩の衝撃を和らげるように歩いてた。転ぶことへの本能的な恐怖――それは、自分一人の身体じゃないって、本能が知ってるからこそ出る動きなの」
「それは……ただ、最近めまいがするからで……」
「そのめまいだって微熱のせい。さっき出したミルク、一口も飲まないうちに冷めちゃったけど。あなたがカップに触れた時、指先が不自然に熱かったわ。それに、そのローファーの跡。足首がパンパンに浮腫んで、革が食い込んでる。この時期にそこまで血流が変わるのは、身体が別の命のために血液を必死に回してるからよ」
「あ……」
栄子の唇が小刻みに震えた。本人が体調不良として片付けていた違和感が、パズルのピースのように組み合わさり、一つの残酷な真実を形作っていく。
「阿久津という男は、自分の楽しみのためにあなたを抱き、結果を予測することも、責任を取ることも放棄した。……そしてあなたは、その男の保身のために、自分の腹の中にいる命ごと消えようとしている」
私は冷めた目で、彼女の絶望を読み解く。
「これが、あなたの言っていた誰にも迷惑をかけない、綺麗な終わり方? 笑わせないで。それはただの無理心中よ」
栄子はカウンターに泣き崩れた。
自分の命だけを差し出すつもりだった彼女にとって、その腹に宿る不本意な重みは、逃げ道を塞ぐ冷たい壁となった。
外ではまた、何事もなかったかのように風が吹いていた。
彼女はカウンターに座るなり、震える声で切り出した。私は読みかけの文庫本を閉じ、ゆっくりと顔を上げる。カウンターの向こう側では、ユキがいつになく厳しい表情で彼女を凝視していた。
「残念だけど。あなたには、協力できないわ」
私の淡々とした宣告に、栄子の瞳が大きく見開かれた。
「どうして……? どんな相談でも乗ってくれるって、言ったじゃないですか! 私はただ、静かに、誰にも迷惑をかけずに消えたいだけなのに!」
「勘違いしないで。私は道徳家じゃない。復讐だろうが絶望だろうが、美しく整えられた最期を迎えたいなら私は喜んで協力する。……でもね、他人を巻き込む自殺にだけは、絶対に加担しないのがこの店のルールよ」
「巻き込む……? 私はただ、一人で身を引くだけで……」
「たとえば飛び降りを選ぶなら、下に人がいない場所を徹底的に選ばせる。それが私の条件。……今のあなたがその薬を飲めば、あなたは確実に一人の人間を巻き添えにして殺すことになるのよ」
「え……?」
「気づいていないのね。――あなたは今、妊娠しているわ」
店内が、氷を落としたような静寂に包まれた。栄子は自分の腹部に手を当て、幽霊でも見たかのように固まっている。
「う、嘘よ……。そんなはず……」
「嘘じゃないですよ、栄子ちゃん。私、学校であなたを見ていて確信したんです。あなたが気づいていない、身体の状態にね」
今まで黙っていたユキが、身を乗り出すようにして口を開いた。
「放課後の廊下ですれ違った時。阿久津先生がタバコを吸って戻ってきた瞬間、あなた、ものすごく顔を歪めて口元を押さえたでしょう? あんなに先生を愛おしいって言っていたのに。それはただの拒絶じゃなくて、身体が毒を避けてる証拠。つわりのはしりよ」
栄子の肩がびくりと跳ねる。ユキはさらに畳みかけた。
「階段を降りる時もそう。あなたは無意識に手すりを強く握って、一歩一歩の衝撃を和らげるように歩いてた。転ぶことへの本能的な恐怖――それは、自分一人の身体じゃないって、本能が知ってるからこそ出る動きなの」
「それは……ただ、最近めまいがするからで……」
「そのめまいだって微熱のせい。さっき出したミルク、一口も飲まないうちに冷めちゃったけど。あなたがカップに触れた時、指先が不自然に熱かったわ。それに、そのローファーの跡。足首がパンパンに浮腫んで、革が食い込んでる。この時期にそこまで血流が変わるのは、身体が別の命のために血液を必死に回してるからよ」
「あ……」
栄子の唇が小刻みに震えた。本人が体調不良として片付けていた違和感が、パズルのピースのように組み合わさり、一つの残酷な真実を形作っていく。
「阿久津という男は、自分の楽しみのためにあなたを抱き、結果を予測することも、責任を取ることも放棄した。……そしてあなたは、その男の保身のために、自分の腹の中にいる命ごと消えようとしている」
私は冷めた目で、彼女の絶望を読み解く。
「これが、あなたの言っていた誰にも迷惑をかけない、綺麗な終わり方? 笑わせないで。それはただの無理心中よ」
栄子はカウンターに泣き崩れた。
自分の命だけを差し出すつもりだった彼女にとって、その腹に宿る不本意な重みは、逃げ道を塞ぐ冷たい壁となった。
外ではまた、何事もなかったかのように風が吹いていた。

