砂漠の王は夜の猫(わたし)だけに愛を囁く

 無我夢中で跳躍し、カリムの背中を庇うように空中で身体をひねった瞬間、鋭い痛みがネフェルの小さな肩を貫いた。
 鈍い衝撃とともに、黒い毛並みが宙で舞う。
 ネフェルの身体はカリムの足元に力なく叩きつけられ、美しい石畳にポタポタとどす黒い紅い斑点が広がった。
 
「……!」
 カリムは即座に腰の短剣を抜き放ち、柱の影に潜んでいた刺客を一瞥で威圧する。
 側近に引き渡し、すぐにネフェルの元に戻ったカリムは、震える手でネフェルを抱き上げた。

「侍医! 侍医を呼べ! 早く!」
 肩の深い傷から溢れる血がカリムの白い衣を汚していく。

「おい、しっかりしろ! なぜ庇った!」
 よかった。
 あなたに、当たらなくて……。
 遠のく意識の中で、カリムの必死な声を聴きながらネフェルはゆっくりと目を閉じた。

    ◇

「……毒矢です」
 侍医から告げられた言葉に、カリムは目を見開いた。
 自分の寝所に運んだ黒猫は、浅い息を繰り返しながらぐったりと横たわっている。
 長い尻尾は動かず、時々小さな手がピクッと動くだけ。
 
「必ず救え!」
 カリムの怒声に、侍医は震え上がりながら「全力を尽くします」と薬草の準備に走った。

 猫に薬草が効くのかわからない。
 それでも祈らずにはいられない。

「女神バステトよ、どうか、この子を……」
 カリムが震える指先で猫の耳元に触れた瞬間、黒猫の身体は白い光に包まれた。

「……っ!」
 光は瞬く間に膨らみ、猫の小さな輪郭を塗りつぶしていく。
 カリムが息を呑んで見守る中、光の中から現れたのは、真っ白な寝衣を鮮血で赤く染めた最愛の王妃ネフェルの姿だった。

「ネ……フェル……?」
 ベッドの上に黒猫の姿はなく、黒い髪のネフェルが黒猫と同じ向き、同じように腕を伸ばしたように横たわっている。
 肩の傷は猫と同じ……?
 まさか、そんなことが……?
 ネフェルの冷たい手を握りしめたカリムの目から大粒の涙が零れ落ちる。

「死なせない。死なせてなるものか!」
 頼む、頑張ってくれと、カリムはネフェルの手に縋り付くように額を押し当てた。
 
「う……」
「ネフェル!」
 ネフェルの長い睫毛が震え、黒猫と同じエメラルド色の瞳がゆっくりと開く。

「カ……リム……さま? ご無事……」
「おまえのおかげで無事だ」
 ネフェルは少しだけ微笑むと再び目を閉じてしまった。

「……ネフェル? しっかりしろ」
 薬草を持ってきた侍医が驚いたのは無理もなく、毛むくじゃらの猫にはできなかった矢傷の治療を施し終わったのは明け方だった。
 あとは本人の体力との勝負だと、もし目が覚めても傷は残ってしまうだろうと、申し訳なさそうに告げる侍医を開放したカリムは、ネフェルの青白い頬をそっとなでる。

「早く目を開けてくれ……」
 カリムはネフェルの額に口づけを落とすと、手を握りながら必死にネフェルの回復を祈った。

    ◇

 刺客の自白により、すぐに黒幕は捕らえられ、極刑が言い渡された。
 黒幕は王位を狙っていたカリムの叔父。
 あの水蓮の池だけはカリムが側近を遠ざけると知った上での犯行だった。
 水の音で矢には気づかないだろうと思ったのに、あんな場所に飼いならされた猫がいるなんてと叔父は最後まで見苦しく抵抗しながら連行されていった。

 カリムが抱えた黒猫。
 王妃が怪我をした。
 情報が錯綜し、宮殿内は混乱。
 最終的には黒猫を連れた王妃が王を庇い、肩に毒矢を受けたという話で落ち着いた。

 そして――。

「ほら、あーん」
「カ、カリム様、あの、自分で」
「ダメだ。まだ右手は使えんだろう。侍医からも安静を命じられている」
 王としての威厳をどこへやら。
 カリムはネフェルの口元に丁寧にスプーンを運ぶ。
 今日の朝食は滋養強壮に良いとされる最高級の蜂蜜を練り込んだ乳粥だ。
 
「左手なら」
 至近距離で見つめてくるカリムの黄金の瞳には、かつての冷徹さは微塵もなく、蕩けるような情愛だけが湛えられている。
 ネフェルは真っ赤になりながらも、観念して小さな口を開けた。

「よし、いい子だ」
 満足げに微笑むと、カリムは空いた手でネフェルの頬を愛おしそうになでる。
 まるで黒猫の時のようだとネフェルは笑った。

「あぁ、その顔を他の男に見せたくないのだ」
 耳元で囁かれる、かつてより何倍も熱い愛の言葉。
 冷たく「下がれ」と言われた言葉の裏に、こんな気持ちが隠されていたなんて。

「これからは片時も離れることは許さぬ」
「はい、カリム様」
 ネフェルはカリムの胸に顔を埋める。
 その胸の鼓動は、かつて猫の姿で聞いたときよりもずっと激しく情熱的な音を奏でていた。
 
 砂漠の王はもう二度と「夜の猫」に愛を囁くことはない。
 これからは腕の中にいる「最愛の妻」だけに永遠の愛を誓い続ける。
 ネフェルは、そっと自分の耳元のピアスに触れた。

 さようなら、夜の黒猫。

 幸福に目を細めるネフェルの姿は、まるで陽だまりで喉を鳴らす猫のようにどこまでも満ち足りていた。

  END