部屋が夜の帳に包まれたあと、ネフェルは再びしなやかな黒猫へと姿を変えた。
軽やかに窓枠を飛び越え、カリムの執務室へと急ぐ。
執務室の窓をすり抜け、ネフェルがふわりと床に着地すると、険しい顔でパピルスを睨んでいたカリムが弾かれたように顔を上げた。
「……来たか、愛しい子よ」
膝をついて両手を広げたカリムにネフェルがトテトテと歩み寄ると、カリムは迷わず自分の頬をすり寄せる。
「おまえのご主人様の熱はようやく下がったそうだ」
カリムの嬉しそうにネフェルに報告する。
カリムはソファに深く座り込むと、ネフェルを仰向けに寝かせ、お腹の柔らかい毛を指先でくすぐり始めた。
やめて、くすぐったい!
ネフェルが身体をくねらせると、カリムは目を細めながらその様子を見つめる。
「ははっ、おまえを見ていると、彼女を愛でているようで心が安らぐ」
カリムはネフェルの背中をゆっくりと撫でながら、独り言のように囁き続けた。
「彼女は俺が嫌いだろうな……」
彼女の寝所には何もなかったとカリムは目を伏せる。
「あんなにも孤独で、惨めな思いをさせていたなんて」
望まぬ政略結婚で異国に連れてこられたうえに、冷遇されたと思われる状況を作ってしまったとカリムは後悔するような言葉をネフェルに告げた。
カリムはネフェルをそっと持ち上げ、自分の視線の高さまで掲げる。
「おまえが彼女の遣いなら伝えてくれ。今まですまなかったと」
「にゃー」
「ははっ、おまえは賢いな」
カリムはネフェルを膝に戻すと、頭を優しくポンポンと叩く。
ネフェルは長い尻尾を揺らしながら、カリムの手に擦り寄った。
「カリム様、そろそろ」
側近の声掛けで、ネフェルはカリムとの逢瀬の終わりを知る。
ひょいと膝から飛び降りたネフェルをカリムが引き留めた。
「このまま俺の腕の中で眠らないか?」
「……ッ」
何を言っているの!?
ネフェルはピュンと勢いよく部屋から飛び出す。
「わっ! え? ね、猫?」
驚いた側近が大げさにリアクションをする。
「あぁ。俺の大事な子だ」
見かけても捕まえないでくれとカリムは側近に命令する。
廊下の角を曲がる瞬間、背中越しに聞こえてきたカリムの穏やかで慈愛に満ちた声。
あんなに優しい声で『大事な子』だなんて……!
カリムは猫に向かって言ったのに、自分に言われたのではないかと勘違いしそうになる。
ネフェルは全速力で自室へと駆け戻った。
◇
翌朝、挨拶に訪れたネフェルに掛けられた言葉は「下がれ」ではなかった。
「……体調は、もう良いのか?」
「は、はい。お心を砕いていただき、ありがとうございます」
深くお辞儀をしたネフェルの首元を飾る重厚な金の装飾具が、カチンと硬質な音を立てる。
ゆっくりと顔を上げたネフェルは、カリムの金色の眼と目が合い驚いた。
いつもはパピルスに視線を落としていたのに……?
「本日もお部屋で……」
大人しくしていますと言おうとしたネフェルの言葉はカリムに遮られる。
「庭園を案内させる」
「……え?」
戸惑うネフェルに、カリムは自分の側近をひとり付けた。
「蓮の花が香る場所だ」
きっと気に入るだろうとカリムはネフェルに告げる。
「ありがとうございます」
驚いたネフェルは、ただお礼を言うことしかできなかった。
……どういうこと?
急に何が起きているの?
案内された水蓮が咲き乱れる「宮廷庭園の池」は想像以上に美しかった。
蓮の花が香り、水と蓮のコントラストが美しく、砂漠でもっとも贅沢な場所のように思えた。
ここをカリムと一緒に歩くことができたら。
いつの間にかそんなありえないことを願うようになってしまった自分にネフェルは驚く。
……黒猫の姿で彼の気持ちを知ってしまったからかしら……?
夜、猫の姿でここに来てみよう。
きっと夜も美しいに違いない。
ネフェルは案内してくれた側近にお礼を言うと、寄り道することなく静かに自分の部屋へと戻った。
その日の食事はなぜか豪華だった。
並べられた銀の器には、蜂蜜をたっぷりかけたイチジクや、香ばしく焼かれた鴨の肉、そして冷えた果実水が並んでいる。
まるで嫁いだ初日に戻ったかのように。
カリムが部屋を訪れ、世話人を叱咤し、自分のために「心を砕いた」。
その事実だけで、世界がこれほどまで色を変えるなんて。
それだけ王というものは絶大なのだとネフェルはあらためて実感した。
「……にゃ」
陽が落ち、夜の帳が下りたあと、ネフェルは今日も黒猫になった。
長い尾を揺らし、夜の闇に紛れて向かうのは庭園。
月光を跳ね返す水面は、期待通り、無数のサファイアを撒いたように輝いていた。
しかし、その美しさ以上にネフェルの目を引いたのは、池の端に立つひとりの男性。
……カリム様?
いつも執務室にいる王が、なぜこんな時間にこんな場所に?
ネフェルは草の中を通り抜け、こっそりカリムに近づく。
だが、カリムは水面に浮かぶ白蓮をじっと見つめているだけ。
その横顔はどこか憂いを帯び、夜の静寂に溶け込んでしまいそうなほど孤独に見えた。
……!
猫の鋭い五感が、風に混じった鉄の匂いと、不自然に動く殺気を捉える。
どこから?
ネフェルは小さな顔であたりを見渡した。
柱の影、黒い人影、その手には月光を毒々しく反射する矢⁉
カリムはまだ気づいていない……!
ピュッと夜の空気を切り裂く鋭い音が響くのと同時に、ネフェルは草むらから弾丸のように飛び出した。
軽やかに窓枠を飛び越え、カリムの執務室へと急ぐ。
執務室の窓をすり抜け、ネフェルがふわりと床に着地すると、険しい顔でパピルスを睨んでいたカリムが弾かれたように顔を上げた。
「……来たか、愛しい子よ」
膝をついて両手を広げたカリムにネフェルがトテトテと歩み寄ると、カリムは迷わず自分の頬をすり寄せる。
「おまえのご主人様の熱はようやく下がったそうだ」
カリムの嬉しそうにネフェルに報告する。
カリムはソファに深く座り込むと、ネフェルを仰向けに寝かせ、お腹の柔らかい毛を指先でくすぐり始めた。
やめて、くすぐったい!
ネフェルが身体をくねらせると、カリムは目を細めながらその様子を見つめる。
「ははっ、おまえを見ていると、彼女を愛でているようで心が安らぐ」
カリムはネフェルの背中をゆっくりと撫でながら、独り言のように囁き続けた。
「彼女は俺が嫌いだろうな……」
彼女の寝所には何もなかったとカリムは目を伏せる。
「あんなにも孤独で、惨めな思いをさせていたなんて」
望まぬ政略結婚で異国に連れてこられたうえに、冷遇されたと思われる状況を作ってしまったとカリムは後悔するような言葉をネフェルに告げた。
カリムはネフェルをそっと持ち上げ、自分の視線の高さまで掲げる。
「おまえが彼女の遣いなら伝えてくれ。今まですまなかったと」
「にゃー」
「ははっ、おまえは賢いな」
カリムはネフェルを膝に戻すと、頭を優しくポンポンと叩く。
ネフェルは長い尻尾を揺らしながら、カリムの手に擦り寄った。
「カリム様、そろそろ」
側近の声掛けで、ネフェルはカリムとの逢瀬の終わりを知る。
ひょいと膝から飛び降りたネフェルをカリムが引き留めた。
「このまま俺の腕の中で眠らないか?」
「……ッ」
何を言っているの!?
ネフェルはピュンと勢いよく部屋から飛び出す。
「わっ! え? ね、猫?」
驚いた側近が大げさにリアクションをする。
「あぁ。俺の大事な子だ」
見かけても捕まえないでくれとカリムは側近に命令する。
廊下の角を曲がる瞬間、背中越しに聞こえてきたカリムの穏やかで慈愛に満ちた声。
あんなに優しい声で『大事な子』だなんて……!
カリムは猫に向かって言ったのに、自分に言われたのではないかと勘違いしそうになる。
ネフェルは全速力で自室へと駆け戻った。
◇
翌朝、挨拶に訪れたネフェルに掛けられた言葉は「下がれ」ではなかった。
「……体調は、もう良いのか?」
「は、はい。お心を砕いていただき、ありがとうございます」
深くお辞儀をしたネフェルの首元を飾る重厚な金の装飾具が、カチンと硬質な音を立てる。
ゆっくりと顔を上げたネフェルは、カリムの金色の眼と目が合い驚いた。
いつもはパピルスに視線を落としていたのに……?
「本日もお部屋で……」
大人しくしていますと言おうとしたネフェルの言葉はカリムに遮られる。
「庭園を案内させる」
「……え?」
戸惑うネフェルに、カリムは自分の側近をひとり付けた。
「蓮の花が香る場所だ」
きっと気に入るだろうとカリムはネフェルに告げる。
「ありがとうございます」
驚いたネフェルは、ただお礼を言うことしかできなかった。
……どういうこと?
急に何が起きているの?
案内された水蓮が咲き乱れる「宮廷庭園の池」は想像以上に美しかった。
蓮の花が香り、水と蓮のコントラストが美しく、砂漠でもっとも贅沢な場所のように思えた。
ここをカリムと一緒に歩くことができたら。
いつの間にかそんなありえないことを願うようになってしまった自分にネフェルは驚く。
……黒猫の姿で彼の気持ちを知ってしまったからかしら……?
夜、猫の姿でここに来てみよう。
きっと夜も美しいに違いない。
ネフェルは案内してくれた側近にお礼を言うと、寄り道することなく静かに自分の部屋へと戻った。
その日の食事はなぜか豪華だった。
並べられた銀の器には、蜂蜜をたっぷりかけたイチジクや、香ばしく焼かれた鴨の肉、そして冷えた果実水が並んでいる。
まるで嫁いだ初日に戻ったかのように。
カリムが部屋を訪れ、世話人を叱咤し、自分のために「心を砕いた」。
その事実だけで、世界がこれほどまで色を変えるなんて。
それだけ王というものは絶大なのだとネフェルはあらためて実感した。
「……にゃ」
陽が落ち、夜の帳が下りたあと、ネフェルは今日も黒猫になった。
長い尾を揺らし、夜の闇に紛れて向かうのは庭園。
月光を跳ね返す水面は、期待通り、無数のサファイアを撒いたように輝いていた。
しかし、その美しさ以上にネフェルの目を引いたのは、池の端に立つひとりの男性。
……カリム様?
いつも執務室にいる王が、なぜこんな時間にこんな場所に?
ネフェルは草の中を通り抜け、こっそりカリムに近づく。
だが、カリムは水面に浮かぶ白蓮をじっと見つめているだけ。
その横顔はどこか憂いを帯び、夜の静寂に溶け込んでしまいそうなほど孤独に見えた。
……!
猫の鋭い五感が、風に混じった鉄の匂いと、不自然に動く殺気を捉える。
どこから?
ネフェルは小さな顔であたりを見渡した。
柱の影、黒い人影、その手には月光を毒々しく反射する矢⁉
カリムはまだ気づいていない……!
ピュッと夜の空気を切り裂く鋭い音が響くのと同時に、ネフェルは草むらから弾丸のように飛び出した。



