「今日も怯えさせてしまった」
カリムはネフェルの背中を優しく撫でながら、反省する。
「叔父たちの目が光るこの宮殿で睦まじくすれば、彼女が危険になる。だから部屋から出るなと強く言ってしまった」
……待って。
部屋から出るな?
それって私が言われた……?
「にゃーん?」
「あぁ。おまえと同じ黒髪に緑の目を持つネフェルにだ」
カリムの大きな手がネフェルの頭を優しく撫でる。
「……一目惚れなんだ」
「にゃ?」
今までそんな素振りはまったくなかったのに?
「彼女に会ったら伝えてくれ。……愛していると」
え? 嘘でしょう?
ネフェルの心臓が、耳の奥でうるさいほどに脈打つ。
「……俺は猫に何を言っているんだ」
馬鹿だなと自嘲するカリムに、ネフェルは硬直した。
私を嫌っていたんじゃないの?
「カリム様、そろそろご就寝を」
廊下から響いた側近の声に驚いたネフェルはビクッと身体を揺らし、カリムの膝から飛び降りる。
影に溶けるように部屋を脱け出し、ネフェルは全力で回廊を駆けた。
信じられない、信じられない、信じられない!
どうしよう。
明日から、どんな顔をしてあの人に挨拶に行けばいいの?
夜の静寂の中、ネフェルの耳元で揺れるピアスが心臓の鼓動に合わせて激しく揺れた。
◇
カリムの心の声を聴いた罰が当たったのか、翌朝ネフェルは熱を出した。
ずきずきと痛む頭の中で、昨夜の甘い囁きが何度もリフレインする。
『愛している』なんて……。
あんなに怖い顔をして、あんな冷たい態度で、そんなこと信じられるはずがない。
頭ではそう思っているのに、思い出すだけで頬が火照り、余計に熱が上がっていく気がした。
あぁ、ダメね。
世界が回っているわ。
ネフェルは薄いシーツを抱え込みながら、ゆっくりと目を閉じた。
「ネフェル、入るぞ」
ネフェルの寝室に足を踏み入れたカリムは、あまりにも殺風景な部屋に目を見開いた。
ネフェルが嫁いでから一度も足を踏み入れたことがない寝所は、砂漠の夜を癒やす香油の匂いもしなければ、花や果物どころか、水すら置かれていなかった。
世話人は誰もいない。
カリムは大きな歩幅でベッドサイドまで来ると、躊躇いがちにネフェルの額に手のひらを当てた。
「……熱いな。これほどになるまで、なぜ黙っていた?」
ネフェルからの返事はない。
息が浅く、まるで寒さに震えているかのようだった。
「侍医を。あと冷たい水も準備しろ。掛け布団も持って来い」
「は、はい、カリム様」
側近たちが、王の異様な気迫に圧されて飛び出していく。
ひととおり命令し終わったカリムは、あまりにも静まり返った室内を見渡した。
ネフェルに「部屋から出るな」と命じたのは、叔父を筆頭にした政敵から守るため。
そして美しいネフェルの姿を他の誰にも見せたくなかったからだ。
だがその言葉は、冷酷な王が王妃を幽閉したと解釈され、下卑た世話人たちは、配給される食事や身の回りの品さえも横領したのだ。
こんなはずではなかった。
カリムは浅い息を繰り返すネフェルの傍らに腰を下ろした。
「……すまない、ネフェル。おまえはこんなに冷たい場所にいたのか」
躊躇いがちに、カリムはネフェルの細い手を両手で包み込む。
熱に浮かされるネフェルの耳元で揺れるピアスは、昨晩膝の上に乗った黒猫と同じピアスに見えた。
「……おまえの飼い猫なのか?」
おまえの具合が悪いのを知らせに来たのだろうかとカリムは呟く。
王の命により即座に運び込まれた極上の羽毛布団、氷のように冷たい水、そして宝石のように輝く旬の果実。
怯えながら戻ってきた二人の世話人と高名な侍医が枕元を固める。
「おまえたち、頼んだぞ」
カリムはネフェルの手をそっと離すと、執務室へと戻っていった。
目を覚ましたネフェルは、見慣れない部屋の様子に首を傾げた。
眠るときにはなかったはずのふかふかの布団。
テーブルには水差しだけでなく、砂漠では貴重な果物まで。
部屋の隅の香炉からは、ネフェルの一番好きな蓮の香油が甘く漂っていた。
「王妃様、お目覚めですか?」
世話人たちが見たこともないほど必死な形相で駆け寄ってくる。
「あの、これは……?」
「王が手配を」
……あの人がここに?
今まで一度も来たことがなかったのに?
「申し訳ありませんでした。これからは誠心誠意仕えさせていただきます」
足りないものはありませんか、水を飲みますかと、甲斐甲斐しく世話をしてくれる彼女たちにネフェルは戸惑った。
「今は……いいわ。ありがとう」
「はい、なにかあれば」
「あ、夜はゆっくり過ごしたいの。朝までひとりにしてもらえる?」
「かしこまりました」
夜は猫になりたいから――だ。
あの人の元にもう一度行きたい。
もっと知りたい。
冷たい仮面の奥に隠された、カリムの本当の心を。
ネフェルは耳のピアスにそっと触れながら、沈みゆく太陽に目を向けた。
カリムはネフェルの背中を優しく撫でながら、反省する。
「叔父たちの目が光るこの宮殿で睦まじくすれば、彼女が危険になる。だから部屋から出るなと強く言ってしまった」
……待って。
部屋から出るな?
それって私が言われた……?
「にゃーん?」
「あぁ。おまえと同じ黒髪に緑の目を持つネフェルにだ」
カリムの大きな手がネフェルの頭を優しく撫でる。
「……一目惚れなんだ」
「にゃ?」
今までそんな素振りはまったくなかったのに?
「彼女に会ったら伝えてくれ。……愛していると」
え? 嘘でしょう?
ネフェルの心臓が、耳の奥でうるさいほどに脈打つ。
「……俺は猫に何を言っているんだ」
馬鹿だなと自嘲するカリムに、ネフェルは硬直した。
私を嫌っていたんじゃないの?
「カリム様、そろそろご就寝を」
廊下から響いた側近の声に驚いたネフェルはビクッと身体を揺らし、カリムの膝から飛び降りる。
影に溶けるように部屋を脱け出し、ネフェルは全力で回廊を駆けた。
信じられない、信じられない、信じられない!
どうしよう。
明日から、どんな顔をしてあの人に挨拶に行けばいいの?
夜の静寂の中、ネフェルの耳元で揺れるピアスが心臓の鼓動に合わせて激しく揺れた。
◇
カリムの心の声を聴いた罰が当たったのか、翌朝ネフェルは熱を出した。
ずきずきと痛む頭の中で、昨夜の甘い囁きが何度もリフレインする。
『愛している』なんて……。
あんなに怖い顔をして、あんな冷たい態度で、そんなこと信じられるはずがない。
頭ではそう思っているのに、思い出すだけで頬が火照り、余計に熱が上がっていく気がした。
あぁ、ダメね。
世界が回っているわ。
ネフェルは薄いシーツを抱え込みながら、ゆっくりと目を閉じた。
「ネフェル、入るぞ」
ネフェルの寝室に足を踏み入れたカリムは、あまりにも殺風景な部屋に目を見開いた。
ネフェルが嫁いでから一度も足を踏み入れたことがない寝所は、砂漠の夜を癒やす香油の匂いもしなければ、花や果物どころか、水すら置かれていなかった。
世話人は誰もいない。
カリムは大きな歩幅でベッドサイドまで来ると、躊躇いがちにネフェルの額に手のひらを当てた。
「……熱いな。これほどになるまで、なぜ黙っていた?」
ネフェルからの返事はない。
息が浅く、まるで寒さに震えているかのようだった。
「侍医を。あと冷たい水も準備しろ。掛け布団も持って来い」
「は、はい、カリム様」
側近たちが、王の異様な気迫に圧されて飛び出していく。
ひととおり命令し終わったカリムは、あまりにも静まり返った室内を見渡した。
ネフェルに「部屋から出るな」と命じたのは、叔父を筆頭にした政敵から守るため。
そして美しいネフェルの姿を他の誰にも見せたくなかったからだ。
だがその言葉は、冷酷な王が王妃を幽閉したと解釈され、下卑た世話人たちは、配給される食事や身の回りの品さえも横領したのだ。
こんなはずではなかった。
カリムは浅い息を繰り返すネフェルの傍らに腰を下ろした。
「……すまない、ネフェル。おまえはこんなに冷たい場所にいたのか」
躊躇いがちに、カリムはネフェルの細い手を両手で包み込む。
熱に浮かされるネフェルの耳元で揺れるピアスは、昨晩膝の上に乗った黒猫と同じピアスに見えた。
「……おまえの飼い猫なのか?」
おまえの具合が悪いのを知らせに来たのだろうかとカリムは呟く。
王の命により即座に運び込まれた極上の羽毛布団、氷のように冷たい水、そして宝石のように輝く旬の果実。
怯えながら戻ってきた二人の世話人と高名な侍医が枕元を固める。
「おまえたち、頼んだぞ」
カリムはネフェルの手をそっと離すと、執務室へと戻っていった。
目を覚ましたネフェルは、見慣れない部屋の様子に首を傾げた。
眠るときにはなかったはずのふかふかの布団。
テーブルには水差しだけでなく、砂漠では貴重な果物まで。
部屋の隅の香炉からは、ネフェルの一番好きな蓮の香油が甘く漂っていた。
「王妃様、お目覚めですか?」
世話人たちが見たこともないほど必死な形相で駆け寄ってくる。
「あの、これは……?」
「王が手配を」
……あの人がここに?
今まで一度も来たことがなかったのに?
「申し訳ありませんでした。これからは誠心誠意仕えさせていただきます」
足りないものはありませんか、水を飲みますかと、甲斐甲斐しく世話をしてくれる彼女たちにネフェルは戸惑った。
「今は……いいわ。ありがとう」
「はい、なにかあれば」
「あ、夜はゆっくり過ごしたいの。朝までひとりにしてもらえる?」
「かしこまりました」
夜は猫になりたいから――だ。
あの人の元にもう一度行きたい。
もっと知りたい。
冷たい仮面の奥に隠された、カリムの本当の心を。
ネフェルは耳のピアスにそっと触れながら、沈みゆく太陽に目を向けた。



