砂漠の王は夜の猫(わたし)だけに愛を囁く

「下がれ」
 黄金の玉座に鎮座する王、カリムの冷たい声が大理石の謁見の間に響いた。

「部屋から出るな」
 あぁ、またか。
 突き放すような言葉を浴びせられた王妃ネフェルは、胸に刺さる痛みを覚えながら深く頭を垂れた。
 首元を飾る重厚な金の装飾具が、ネフェルの震えを隠すようにカチンと硬質な音を立てる。
 だが、カリムの鋭い視線はすでに手元のパピルスへ。
 ネフェルという存在など最初からなかったかのように振る舞うカリムの姿に、ネフェルは逃げるようにその場を後にした。

 砂漠の覇権を握るこの国に、ネフェルが隣国から嫁いできたのは一ヶ月前。
 完全な政略結婚だったが、精いっぱいお役目を果たそうと決意して嫁いできた。

 しかし、現実はあまりに過酷だった。
 初夜に王が寝所に現れることはなく、朝の挨拶さえも拒絶される日々。

 砂漠の太陽に愛されない「冷遇妃」。
 その不名誉な烙印はまたたく間に広まり、あんなにいた世話人たちはひとり、またひとりと去っていった。
 
 今、残っているのはわずか二人の若い世話人のみ。
 彼女たちの仕事は、質素な食事を運ぶこと、埃を払う程度の掃除。そして最低限の沐浴の手伝いのみ。
 あとはこの部屋にさえ来ない彼女たちをネフェルは責めることなどできなかった。
 
 長い一日が終わり、砂漠の地平線に沈んだ太陽の残光が紫色の薄闇へと溶けていくその瞬間――。

「……っ!」
 肌を焼くような熱さが内側から溢れ出し、ネフェルの世界が急速に巨大化していく。
 つい先ほどまで重く感じていた金の首飾りが音を立てて床に転がり、ネフェルの細い指先は鋭い爪を備えた小さな足へと形を変えた。
 骨がきしみ、全身を柔らかな黒い毛が覆う。
 苦しさに閉じられていた瞳を開いたとき、そこには王妃として見ていたものとは全く別の景色が広がっていた。

 見上げるほど高い天井。
 巨大な柱。
 嗅覚は驚くほど鋭敏になり、遠くの庭園に咲くナイトジャスミンの香りを鮮明に捉える。

 鏡に映ったネフェルの姿は、黒猫。
 ネフェルは、ふわりと持ち上がった長い尾をひと振りした。
 
 これは、祖国を離れる時に母が授けてくれた「女神バステトの加護」が詰まったピアスの力。

『ネフェル。異国の地でどうしても耐えられなくなったら、夜の闇に溶け込みなさい。猫になれば、どんなに高い城壁も冷たい鎖もすり抜けて逃げることができるわ』

 母は政略結婚という過酷な運命に投げ出される私を案じて、このピアスを託してくれた。
 かつて同じように政略結婚で苦労した母だからこそ、私にだけは「逃げ道」を作りたかったのかもしれない。
 
 けれど、お母様。今の私はまだ、この国を逃げ出すためにこの力を使いたくはないのです。
 ネフェルは夜空に鋭く輝く三日月を見上げると、しなやかな身のこなしで、ひょいっと窓枠に飛び乗った。
 
 石造りの廊下は人の時よりも遥かに長く、わずかな段差でさえ肉球には優しくなかった。
 
 猫の視線ってこんなに低いのね。
 
 暗い廊下を影のように走り抜けたネフェルは王の執務室を覗き込む。
 そこには、燭台の炎に照らされ、一人机に向かうカリムの姿があった。
 朝と同じ近寄りがたいほどに厳格な横顔。
 けれど、その指先はこめかみを押さえ、どこか疲労しているように見えた。
 
「……はぁ。どうすれば叔父を……」
 いつも難しい顔ばかりしているあの人でも、溜息をつくことがあるのね。
 カリムの視線がふと床を這い、物陰に潜む「黒猫」の自分と目が合う。
 
 しまった、見つかった――!
 斬られると反射的に身を固くしたネフェルは、ありえない言葉に自分の耳を疑った。

「おいで、可愛い迷い子」
 カリムが椅子から立ち上がり、扉の前でゆっくりと膝をつく。
 大きな手を差し伸べると、ネフェルの喉元を驚くほど優しく、慣れた手つきで撫で上げた。

「ぐる……っ」
 ネフェルの喉が思わず鳴る。

「おまえは、彼女と同じ綺麗な目をしているな」
 ……彼女?
 まさかカリムには想い人が……?
 
 そうだとすればすべて辻褄が合う。
 政略結婚で差し出された王妃など邪魔なのだと。
 
 なるほど。そういうことだったのね。
 ネフェルは大きな目を伏せ、冷たい床を見つめた。

 カリムはネフェルをそっと抱き上げると、自分の膝の上に座らせる。

「おまえのように気軽に触れられれば良いのに」
 小さな耳元に愛おしそうに唇を寄せるカリムは、まるで愛しい人に口づけしているかのようだった。