隣のコートが青すぎる

 高瀬を目で追うようになったのは、一年の春からだ。

「いくぞー」

 低い掛け声とともにトスが上がると、バレー部員たちが順番にスパイクを打っていく。ボールが床に落ちるたびに、体育館にはズドーンとすさまじい音が響いた。

 ――あんなん、怖すぎだろ。

 床にボールが叩きつけられるたびに、俺はきゅっと心臓を掴まれた気分になっていた。

 笹塚高校では、曜日ごとで体育館を使える部活が決まっている。真ん中をネットで仕切って、二つの部活が半分ずつ使っているのだ。
 バドミントン部が体育館を使えるのは、月曜日と水曜日。それ以外は、中庭で練習していた。

 大会であまり良い成績を出せない部活は、体育館を使える日が少なくなる。そんな実力主義のシステムは、入部してから先輩に教えられた。
 水曜日は貴重な体育館練だ。他の部員は気合を入れて練習しているが、俺としては憂鬱だった。隣のコートで、男子バレー部が練習しているからだ。

 ――パァンッ。

 ボールを手のひらで叩く音が聞こえると、反射的に身構えてしまう。一秒もしないうちに、床を叩き割らんばかりの音が響いた。

 ――ああ、もうやだ。怖い、怖い、怖い。

 俺の通っていた中学には女子バレー部しかなかったから、男子バレー部の練習を間近で見たのは高校に入ってからだ。女子バレー部は脅威に感じなかったけど、男子となると違う。圧倒的なパワーに、俺はすっかり怯えていた。

 ――隣のコートは気にすんな。集中、集中。

 ぶるるっと首を振って、自分の練習に意識を向けようとする。それでもスパイクの音だけは、どうしたって気になってしまった。
 恨めし気に隣のコートを見つめる。すると、細身で色白の男子が打つ番になっていた。ジャージの色から、俺と同じ一年だと分かる。
 ゴリゴリに筋肉がついているわけではないから、あいつはあまり怖くない。身長もバレー部の中ではそこまで高い方ではなかった。まあ、168センチの俺よりは確実に高いのだけど。

 ――あいつも、怖いスパイクを打つのかな?

 警戒しているうちに、セッターが軽やかにトスを上げる。色白の男子が走り出した。
 音もなく床を踏み込むと、ボールを捕まえようと手をあげる。足が床から離れていくと、高く高く宙に浮かび上がった。
 瞳の中で、彼の姿がぴたりと静止する。
 鳥のようだと思った。大空に羽ばたいて、そのままどこかへ飛んで行ってしまうんじゃないかと錯覚した。あんなに高く飛べる人間を、俺は見たことがない。

 ――ダンッ。

 ボールが床に叩きつけられる。その音は、もう気にならなかった。俺の心臓の方が、よっぽどうるさかったからだ。

「かっこいい……」

 気付いた時には、そう口に出していた。
 今まではバレーボールには興味がなかった。ルールだってよくわからない。それでも、あいつが高く飛ぶ姿は、また見たいと思っていた。

「どした、もっちー?」

 ぼーっと立ち尽くしていると、古河がこちらに走ってくる。そこで現実に引き戻された。

「……あ、なんか、バレー部すげーなって思って」

 興奮を抑えながら伝えると、古河は「あー」と納得したように頷く。

「笹高の男子バレー部っていったら、県内でもトップクラスの強豪チームだからな。他とはレベチだろ」
「うん、だよね……」

 バレー部が強いのは、俺も知っている。校舎には『男子バレー部 春高出場おめでとう』と垂れ幕が下がっているし、去年のチームはテレビにも出ていたらしい。

「あれ? もっちー、バレー部入ればよかったとか思ってる?」

 古河から聞かれたところで、慌てて首を振る。

「ちがうって。あんなのできないから、俺には」

 俺はあいつみたいに高く飛べない。あいつに打たせるトスだって出せそうにない。あのコートに立てるのは、選ばれた人間だけだ。

「そうだよな。初心者が入ったところで球拾いくらいしかさせてもらえないって。俺らは俺らの競技で、勝負しようぜ」

 古河に肩を組まれたところで、「ん」と小さく頷いた。
 もう一度隣のコートを見ると、列に並び直した色白の男子が汗で濡れた髪をかき上げている。射貫くような眼差しでボールを見つめる姿に、ゾクッとしてしまった。

 その日からだ。水曜日に、隣のコートを見るようになったのは。
 真夏のキツイ練習の日も、大会前のピリついた雰囲気の日も、凍えるような真冬の練習の日も、俺は隣のコートから高瀬を見守っていた。
 身長はあまり伸びないけど、細い身体に少しずつ筋肉がついていることにも気付いていた。一年の春よりも、二年の春の方が、ずっと高く飛べるようになったことも。

 そんな話をしたら、高瀬はどんな反応をするんだろう?



 昼休みを知らせるチャイムが鳴ると、隣の席の高瀬がむくっと起き上がる。

「ふわーあ、終わった、終わったー」

 あくびをしながら、うーんと伸びをする高瀬。チャイムと同時に起きたということは、熟睡していたわけではなかったようだ。

「授業中は起きていようって意思はないんだね」

 横目でじろりと見ながら声をかけると、高瀬は目をシバシバさせながらこちらを見た。

「意思はあるよ。二時間目の世界史は起きてたし」
「他は全滅だったけどね」
「あーね」

 悪びれもせずにへらへら笑う態度に呆れてしまった。俺はため息をつきながら、三時間分のノートを隣の机に置く。

「はい」
「おー、頼まなくても出てくるー」
「貸しても俺には実害ないしね。ノートも丁寧に扱ってくれるし」
「そりゃあ、大事な望月のノートだし」

 それを言うなら、望月の大事なノートだろ? こいつは国語の文法からやり直した方がよさそうだ。
 ふぅっとため息をついてから弁当を取り出すと、高瀬もエナメルバッグから大きな弁当を出す。

「そういえばさ、バド部は昼練ないの?」
「ないよ。放課後練だけ」
「ふーん」

 興味があるのかないのか分からない反応をされる。会話が途切れたところで弁当の蓋を開けると、高瀬が箸を持ちながらにっこり笑った。

「それならさ、五分で飯食って、体育館行こうよ」

 俺はぱちぱちと瞬きを繰り返す。それは、どういうお誘いだ?



 きっかり五分で弁当をかき込んでから、俺たちは体育館に向かう。
 今日のおかずは好物のハンバーグだったけど、味わっている余裕なんてなかった。だけど今は、そんなのはどうでもよくて。

「体育館、誰もいないといいけど」

 廊下を歩きながら呟いた高瀬の言葉で、どきりと心臓が跳ねる。
 高瀬から体育館に呼び出された理由には、心当たりがあった。多分、ノートに書かれた疑問を晴らすためだろう。

【なんで部活中、俺のこと見てんの?】

 その質問が飛んできた時の回答は、いくつか用意している。

 その1 『は? 全然見てないし。勘違いだろ』と、しらばっくれる。
 その2 『見るだろ。あんな全国に通用するプレイしてたら』と、開き直る。
 その3 『カッコよくて、見惚れちゃった♡』と、正直に打ち明ける。

 ……とりあえず、その3はナシだ。十中八九、キモがられる。そうなると、その1かその2だけど、高瀬のテンションに応じて使い分けよう。
 脳内で最終シミュレーションをしているうちにも、体育館に到着してしまった。

「よかった。誰もいない」

 がらんと空いた体育館を見て、高瀬は嬉しそうに目を細めた。誰もいないのは、俺としても好都合である。

「何して遊ぶ? バレーは……しないよね?」
「バレー? ムリムリ! 高瀬のスパイクなんて受けたら、俺の腕吹っ飛ぶ」
「ははっ、だよね。じゃあバドでいいよ。予備のラケットある?」
「一応、あるけど……」

 部室に予備のラケットがあるから、高瀬に貸すことはできる。ご要望通り、ラケットを取りに走ったけど、頭の中では疑問が渦巻いていた。

 ――体育館で話すんじゃなかったのか? なんでバドミントンをする流れになる? もしかして、ただ俺と遊びたかっただけなのか?

 高瀬の考えが、俺にはちっともわからなかった。



 パシュ、パシュ、とシャトルを打ち合う音が響く。高瀬は、バドミントンも普通に上手かった。
 気持ちよくラリーが続き、俺もエンジンが入りそうになったところで、高瀬が口を開いた。

「望月はさぁ、バレー経験者ではないよね?」
「うん。中学からバド一筋」
「だよね。じゃあ、なんで見てたの?」

 予期せぬタイミングで質問が飛んでくるものだから、打ち損じてしまう。ジリジリと顔が熱くなるのを感じながら、ゆっくりとシャトルを拾った。

「別に見てないし。勘違いだろ」

 用意していた回答を引っ張り出して、澄ました顔でラリーを続ける。

「嘘。超見てたじゃん。誤魔化せると思うなよ?」

 その1は、あっさり打ち返されてしまった。くそ……。次だ、次。

「あ、あんな全国に通用するプレイしてたら、見るだろ、普通」
「そんなのわかんの? バレー未経験なのに」

 その2も、軽やかに打ち返されてしまった。
 これは、手ごわい。残る選択肢はひとつになってしまった。

「カッコいいから見てたんだよ!」

 やけくそになりながら全力で打ち込むと、高瀬の足元にシャトルが転がる。高瀬は驚いたように目を見開いていた。
 ああ、終わった……。俺の高校生活は終了だ。この先はバレー部にキモがられながら、肩身の狭い思いをしながら過ごしていくんだ。

「……ごめん。キモくて」

 何か言われる前に謝罪する。固まっていた高瀬は、慌てたように首を振った。

「キモくはないよ。けど、そんなにストレートに言ってくれると思わなかったから、ちょっと驚いている」

 視線を泳がせる高瀬。シャトルを拾い上げて打とうとしたが、スカッと外していた。
 床に落ちたシャトルを見つめていると、高瀬が意を決したように顔をあげる。

「望月が正直に言ってくれたから、俺も言うんだけど」
「う、うん……」

 なんだろう? 今世紀最大の罵詈雑言が飛んでくることも覚悟していたが、高瀬の態度は予想とは違っていた。

「俺のことを目で追いかけてる望月のことは、かわいいって思ってた」

 体育館に沈黙が走る。高瀬は頬を赤らめながら、じっとこちらを見つめていた。
 ……かわいい? 怖いとかの間違いではなく?
 理解が追いつかずにいると、高瀬は口元を手の甲で押さえる。

「見られてるって気付いた時は戸惑いが大きかったけど、だんだんかわいいって思うようになったんだ。望月に見られていると、気合入るし」
「そうなの?」
「うん。バド部と体育館練が被る水曜日は、いいとこ見せなきゃって勝手に燃えてた」

 目を細めながらはにかむ高瀬。まさか向こうも意識しているとは思わなかった。想定外過ぎて、ちょっと言葉が出てこない。
 高瀬は緩んだ表情を引き締めると、真っすぐ俺を見つめ直した。

「これからも、俺のこと見ててよ」
「え? いいの?」
「うん。望月が見ててくれたら、もっと頑張れるから」

 ストレートな想いが、俺の胸に直撃する。威力が強すぎて、吹っ飛ばされるかと思った。
 そうか。見ててもいいんだ。これからも。そうか。そうか。
 喜びがじんわりと身体中に染み渡っていった。

「わ、分かった。見てる」
「うん、ありがと」

 話はまとまったけど、ぎこちない空気が流れている。恥ずかしくて、お互い顔が見られなかった。

「とりあえず、教室戻ろっか」
「う、うん」