恋はもうしないはずだった

 部活の朝練を終えて教室に辿り着いてすぐに違和感を覚えた。諒がいない。
 俺の朝練がある日もない日も、諒は必ずすでに教室に居て、読書か勉強をしているのだ。一度たりとも遅刻やぎりぎりになっている姿を見たことがなかった。ばたばたと急かされたり焦ったりするのが嫌いだから、いつもできる限り余裕を持って行動しているのだと聞いたことがある。諒らしいと思ったものだ。

 メッセージアプリを立ち上げて諒とのトーク履歴を開く。
『もしかして、今日休み?』と送信完了した瞬間、チャイムが鳴って担任の先生がやってきた。ホームルームが始まってすぐ「加賀野は風邪で欠席だ」と告げられて、彼が居ない理由を知る。風邪、大丈夫かな。期末テストが終わり、バイトの予定を詰めていたようなので疲れが溜まってしまったのかもしれない。

「……優真、優真ってば」
「え、ああごめん、何?」
 諒のことを考えているあいだにホームルームが終わっていたらしい。教室内は適度にざわついていた。一輝に身体を揺すられながら声を掛けられて、意識を現実に戻す。

「一限目、移動教室だよ」
「うわ!声掛けてくれてさんきゅ」
「おー……なんか、心配ごと?」
「んー、うん、まあ」
「分かった、彼女だ」
「えぇ?いないって」
「えー?優真、結構モテるのに?」
「今は彼女とかいらないから」
「もったいないなー」
 軽口を叩きながら、一限目の準備をして席を立つ。『ごめん、無理して返信しなくていいよ』と諒に返信してスマートフォンをポケットにしまい込む。

「好きな人は?」
「それもいない」
「うそだ」
「うそじゃないって」
「だって諒、最近付き合い悪くなったし。誰かとデートとかしてるんじゃないの?」
「あはは、さみしい?」
 確かに、部活もバイトもない日は諒と遊ぶことが増えた。その分、他の友達と遊ぶ機会が減っている。諒と遊んでいることを知られても俺は構わないが、諒は嫌かもしれない。そう考えて濁すように聞いた言葉に「さみしい!俺とも遊んで」と素直に言われて不覚にもときめいてしまった。こんなに素直で友達想いで優しいのに、一輝はいつも「彼女ができない!」と嘆いている。いつか絶対、彼の魅力に気付いてくれるひとが現れるはずだと思う。

「ありがと。俺も一輝と遊びたい」
「今日は?部活休みだろ?」
「今日?」
 頭の中でスケジュール帳を開いて予定を思い返す。今日はバイトもないし特にこれといった予定がなかったはずだ。大丈夫、と口を開きかけて、もし諒から許可が貰えたらお見舞いに行きたい、と思って口を閉じる。

「ごめん、今日は予定あるかも」
「かも?」
「うん。現時点ではどうなるか分からないけど、一応予定ある、かも」
「そっか、残念。分かった」
「もうすぐ夏休みじゃん、夏休み遊ぼうよ。あいてる日あとで教えて」
「やった!またカラオケも行きたいし、あ、あとアクティビティ施設ができたって聞いたか?あれ行きたい」
 しゅん、と落ち込んだ様子だった一輝の表情がパッと明るくなった。「行こ行こ」と返すと張り切った顔で「あいつらにも後で声掛けとくな!」と嬉しそうに言う。こんなにも喜んでくれると友達冥利に尽きるというか、どこかくすぐったいような気持ちになる。

 移動先の教室に到着して一輝と分かれて、指定されている席に着く。ちらりと時計を見やると、本鈴まで一分くらい残されているらしい。スマートフォンを取り出して『返信しなくていいって言ったのにごめん。熱ある?お見舞い行ってもいい?辛かったらスルーでいいからね』と諒に送った。諒の家に遊びに行ったことはないけれど、最寄り駅は知っている。そわそわしながらスマートフォンをポケットに押し込む。集中できなさそうな予感を覚えながら教科書を開いた。

◇ ◆ ◇

 帰りのホームルームが終わってすぐに席から立ち上がる。クラスメイトたちへの挨拶もそこそこに、早足で昇降口に向かいながらスマートフォンを取り出した。メッセージアプリを開いて、諒から届いたメッセージに書かれている住所のマップを開く。近くにコンビニがあるようなのでここで色々買って行けばいいだろう。気持ちばかりがはやる。

 昼休みに諒からメッセージが返ってきた。
『熱出てねてた』らしい。大丈夫だろうか、と不安になって思わずその場をうろうろと歩き回ってしまって、一輝たちに心配されてしまった。『親は?今日いるの?』と聞くと両親は仕事で不在で、ひとりで寝込んでいるらしい。熱が出ているときにひとりでいると不安な気持ちでいっぱいになってしまうだろう。きっと何の役にも立てないけれど、さみしさを紛らわせる手助けくらいはできるかもしれない。
『うつしちゃうかもしれないから』と遠慮をしていた諒に『俺、数年風邪引いてないくらい元気だから大丈夫!マスクもしていくから』と伝えて、住所を教えて貰えたのだ。
 自宅とは反対方向の電車に乗り込んで、諒の家を目指す。初めて降り立つ駅だ。諒はいつもここの駅を使っているのか、と思うとなんだか不思議な気持ちになった。いつか、並んでこの駅の改札をくぐる日が来るだろうか。

 マップアプリを見ながら、諒の家の近くにあるコンビニを目指す。簡単に食べられるゼリーとカットフルーツと栄養ドリンク、それにレトルトのおかゆを買い物カゴに詰めていく。冷却ジェルシートは家にあるだろうか?いくらあっても困らないだろう、足りないと嘆くよりも余ったほうがいい、と風邪のときに必要そうなものをこんもりと詰めたビニール袋を手に彼の家を目指した。

 エントランスホールに到着してから間違いがないようにメッセージアプリを二度確認して、諒が住む家の部屋番号を押す。数秒後に『……優真ありがと、あけるね』とパネル越しに伝わってきた声は掠れていた。かなり辛そうだ。起こしてしまって申し訳ない気持ちでいっぱいになりながらエレベーターに乗り込んで彼の家があるフロアを目指す。
 ピンポーン、と控えめなチャイム音のあと、がちゃり、と小さく音が鳴ってドアが開かれた。

「優真」
「ごめん玄関まで、俺ベッドまで運ぼうか!?」
「今ちょっと熱下がってるし、だいじょうぶ」
 こほ、と乾いた咳をこぼす諒に心配ゲージがぐぐっと上がった。ひんやりと涼しい室内のこの温度で、この薄着でいて大丈夫なのだろうか。ふ、と笑って「そんなに心配しなくても」と言われてしまったけれど、心配なのだからしょうがない。
 鍵を締めて家に上がらせてもらい、手洗いうがいを済ませて諒の部屋へと向かう。ベッドに腰掛けている諒を見ると、その額に冷却ジェルシートが貼られていることに気がついた。

「これ、差し入れ。何がないか分からないから色々買ってきた」
「気にしなくていいのに。でも、ありがとう」
「俺がやりたくてやっただけだから。お腹は?すいてる?薬飲んだ?」
「お昼食べてないからちょっとすいてるかも。薬もまだだ」
「じゃあ先に何か食べよう。おかゆの作り置きとかある?」
「キッチン見ないと分からないけど、たぶんないと思う。今日会議だって、いつもよりも早く出ていったみたいだから」
 諒の両親は仕事が忙しいひとだと聞いたことがあった。もう高校生とはいえ、俺たちはまだ大人ではないのだ。聞き分けはよくてもさみしさは募ってしまう。慣れた様子でそう言う諒はもしかしたら、小さい頃からわがままを言わずに飲み込んでいたのかもしれない。

「レトルトだけどおかゆも買ってきたんだ。俺が作るよりはおいしいと思う。ゼリーとプリンと、あとりんごもあるよ」
「ふふ、たくさんある」
「食べられそうなのとか、食べたいの教えて。用意するから」
 熱が下がっているとは言っているものの、いつもよりも舌っ足らずでゆっくりと話す諒は少しふわふわしている様子だ。平熱ではないのだろう。
 リクエストを聞き、眠っているように伝えてキッチンを目指す。念のためもう一度手を洗って、小さく「お借りしまーす……」とここにいない諒の家族へ声を掛ける。食器棚からちょうど良さそうな皿を取り出してレトルトのおかゆを移してレンジに入れる。カットりんごも皿に出して、見つけた爪楊枝を差した。
 スプーンと飲み水も用意して、トレーに載せて再び諒の部屋へと向かう。少しだけ開けていたドアを押し開く。俺の言いつけ通りベッドに横になってくれていた諒はうとうとしていた。このままトレーを置いて帰ったほうが迷惑にならないだろうか。でも、目が覚めたときにひとりだと、さみしくはないだろうか。
 ぐるぐると迷いながらトレーをデスクに置いて、諒の顔を覗き込む。ジェルシートが剥がれかけているので、換えてあげたほうがいいかもしれない。諒の額からジェルシートを剥がす。ベッドのすぐ近くに換えのジェルシートを見つけて、一枚取り出してぺりぺりと透明シートを剥がした。
 ぱっと諒の前髪を上げて、額を出す。彼の額が出ているところを見るのは初めてだ。かわいい。かわいい?
 無意識的に浮かんだ感情をどこかへ追いやるようにごほん、とわざとらしい咳をこぼして、あらわになった額にジェルシートを貼り付けた。

「ん……っ」
 冷たかったのか、諒の口から不意にこぼれた吐息混じりの声にどきりと肩が跳ねた。心臓に悪い。違うんです、やましい気持ちだとかそういうものはないんです、と誰に対してか分からない言い訳を心のなかで並べ立てながら諒の顔をそっと覗く。

「あ、ごめ、寝てた……?」
 ばちり、と視線がかち合った。その瞳がいつもよりも潤んで見えるのは気のせいではないだろう。水分量が多くて、光を反射するようにきらきらして見える。どんな宝石よりもきれいだ。俺、そんなに宝石見たことないけど。でもきっと、たくさん宝石を見てもそう思うだろう。

「ごめん、冷たくてびっくりしちゃったよね。まだ寝てていいよ」
「や、おきる……」
「そう?無理してない?」
「ん」
 身体を起こそうとしている諒の手助けをする。半身を起こした諒は半分寝ているような状態なのか、熱に浮かされているのか、ぼうっとしているようだった。

「ごはん……」
「あ、用意してきたよ。おかゆから食べる?」
「うん」
 諒がいるベッドの近くに椅子を移動させて、トレーを持って座り込む。「ゆっくりでいいからね」と言ってトレーを手渡したものの、いつもと比べてゆっくりすぎる手つきは覚束なさもあってハラハラする。
 すくい上げたおかゆをぼとり、とトレーに落としてしまって「あ……」と申し訳なさそうな声をこぼした諒を見ているだけでは耐えきれなくなって「俺が食べさせてあげる。貸して」とトレーとスプーンを返して貰う。
 一口分をすくい上げて、諒は猫舌だったことを思い出した。ふう、ふうと軽く冷まして「くち、開けて」とスプーンを口元に差し出すと遠慮がちに口が開かれる。差し込んでゆっくりと引き抜いて、もぐもぐと咀嚼するのを見守った。こくん、と喉が動いて飲み込んだのを確認してから次の一口を用意して食べさせる。おかゆをよそった皿がなくなるまで繰り返して、爪楊枝を差したりんごを手渡した。

「りんごも俺がやったほうが食べやすい?」
「や、これはだいじょうぶ……」
 もごもごと言い出しづらそうにしながら「……その、ごめん。ありがとう」と消え入りそうな声で言われてときめいてしまった。今日の俺はおかしい。諒がかわいく見える。顔じゃなくて、いや、顔もかわいいけれど、そういう表面的なところではなくて、仕草や表情がぐさぐさと刺さるのだ。友達に抱いていい感情ではない。
……正確に言うと、今日からではないことを自覚している。プラネタリウムを観に行ったときに、先輩との話を諒に聞いてからだ。……いや、たぶん、意識していなかったけれど、本当はもっと前からだろう。もしかしたらあの夜、泣いているところを見たときからかもしれない。俺はきっと、諒に恋愛感情を持っている。

 彼がもう恋をするつもりがないのは分かっている。何度も何度も聞いた。それだけ、諒は傷ついているのだ。
 彼の迷惑になりたくないし、今のこの関係を崩したくない。だからこの感情を彼に伝える気はないけれど、好きでいるのだけは許してほしい。絶対ばれないようにするから、側にいさせて。
 じくじくと痛む胸の奥には気がつかないふりをして、りんごを食べる諒を見守る。全部食べ終わった彼に薬を手渡してトレーを下げた。

「よく飲めました」
「そんな、子供みたいな……」
「まだ甘えても許される年齢でしょ。熱、まだあるよね。もうちょっと寝たほうがいいと思う」
「ん」
「俺邪魔だよね。お皿片付けたら帰ろうかな」
「あ……」
 椅子から立ち上がると、諒はパッと慌てててのひらを口に押し当てた。諒がこぼした、かなしそうな声を俺の耳は拾っている。

「熱出るとさみしいよね。寝るまでは一緒にいるよ」
「べつに……いつもひとりだから、大丈夫」
「え……」
 俺の想像は当たってしまっていたらしい。熱に魘されながらひとりで過ごすなんて考えただけでつらいのに、そんなことに慣れてるなんて言わないで。

「俺、ここ居る」
 椅子に座って諒の顔を覗き込むと、ぱちぱちとまばたきをして驚いた顔をしていた。幼さが見える仕草に頬が緩みそうになる。

「子守唄歌ってあげよっか。結構得意だよ」
「……うん」
「今日の諒、素直だ」
「ごめん」
「なんで謝るの。うれしいよ」
「だって、迷惑かけてる……」
「迷惑だなんて思ってないよ。俺が勝手にやってるんだし」
 ほらほら眠って~と言いながら諒のまぶたにそっと触れて、目を閉じるように促す。

「……優真」
「んー?」
「今度、お礼する」
「いいのに」
「したい、俺が勝手に」
「それじゃあ、お願いしようかな?」
「…………誕生日」
「うん?」
「優真の」
「うん」
「夏休みだから、予定あいてたら出かけよう」
「お祝いしてくれるの?」
「うん」
「やった、うれしい」
「遊園地とか……優真はバイトで、嫌ってくらい行ってるかもしれないけど」
「え、遊びとバイトは別だよ!楽しみ、早く風邪治さなきゃね」
「うん……」
 それまでより小さい声で呟かれた言葉のあとに、すうすうと規則正しい寝息が聞こえてきた。今すぐ叫び出したい気持ちで胸がいっぱいだが、眠った諒を起こすわけにはいかない。
 彼にとって遊園地は特別な意味を持つ場所だと知っているからこそ、俺の誕生日に一緒に行きたいと挙げてくれたことが何よりも嬉しい。ぷるぷると指先が震えていることに気がついて笑ってしまった。

 ああ、諒が好きだな。
 どうにか隠し通さなくてはならない気持ちなのに、どくどくと心臓はうるさく鳴って次第に大きくなってしまっている。今年の夏休みは今までで一番記憶に残りそうだ。諒の熱が移ったようにカッカと熱くなった頬の熱を冷ますようにぱたぱたとてのひらで風を送った。