「今日さ、駅前のいつものファミレスでいい?」
「ああ、うん。いいよ」
すっかりおなじみになった二人だけのランチタイム中、コロッケパンを頬張りながら放課後に開催予定の勉強会の予定を詰める。俺よりも遥かに成績がいい諒に頼み込んで、中間テスト勉強を教えて貰えることになったのだ。「まあ、復習にもなるか。いいよ」と了承してくれた諒様々だ。今日で第三回目の開催である。
彼にはお礼としてドリンクバーと軽食をご馳走しているものの、それだけでは足りないのではないか?と思うくらいめきめきと学力がアップしている気がしている。……いや、おそらく気のせいではないはずだ。
わざわざ自分の時間を割いて教えてくれている諒にいつもよりもいい点数が書かれているテスト用紙を見せたくて、自由時間にも勉強をしていることが増えていた。いい傾向ではないだろうか、と自分で自分を褒める。
食べ終えたパンの包装紙をまとめてスマートフォンの画面を確認する。あと十分で予鈴が鳴る時間だ。いつも思うけれど、楽しい時間は過ぎてしまうのがこんなにも早い。
ゆっくりとお弁当を食べている諒を見やる。彼はあらゆる所作がきれいだ。食事を摂っているところを見ていると特にそう感じる。諒が食べてるとおいしそうにも見えるので、今さっき胃に大量の惣菜パンを詰めたはずなのに口内によだれがたまるのが分かった。
「……玉子焼き、食べたいの?」
「え、いや、そういうわけじゃ……」
「食べたいんでしょ。優真、玉子焼き好きだよね」
はあ、とわざとらしくため息を吐いたあと「いいよ」と言って箸で一口サイズに切った玉子焼きを口元まで運んでくれる諒はやさしい。とっつきにくい、というか、あまり人と深く関わろうとしない主義のように見える彼は、一度懐に入れた相手に対してはすこぶる甘いのだとここ最近知った。それも無意識的にやっているようなので、きっと本人は気がついていない。
みんなに自慢したくなるような、でも黙っていたいような、くすぐったい気持ちだ。たぶん諒は俺に気を許し始めてくれている。これは気のせいではない、とはっきりと言える。
あ、と口を開けて諒の箸を口内に迎え入れた。口内に甘さが広がる。出汁で作っているうちの玉子焼きとは違って甘いそれを最初にもらったときは新鮮な味に感じていたけれど、今では食べ慣れた味になってきていた。
「ん、今日もおいしい」
「そう?」
「うん。料理上手だよね」
「別に普通だと思うけど。レシピサイト上位のレシピをそのまま作ってるだけだし」
毎朝自分で弁当を作っていると聞いた当初は驚いたものだが「料理って実験みたいなものだし」と言っていたのは彼らしいと思ったし、得意なのも頷けた。
彼のご両親は仕事で忙しく、毎朝諒が起きるよりも早くに家を出て夜遅くに帰ってくるらしい。話を聞くに、その他の家事スキルも高いようなので一人暮らしを始めたときに困らないタイプだろう。まだ進路は確定していないけれど、俺も彼を見習ってそちらの勉強も少しずつするべきかもしれない。
うんうんと唸っていると「また百面相してる」と言われて顔を上げる。ばち、と視線が噛み合った。ふ、と表情を緩めた諒にどきりと心臓が跳ねる。うわ、そんな顔するんだ。
放課後に一緒に遊んでから距離が一気に近づいて、下の名前で呼び合うようになった。
それだけでも頬が痛いくらいにやにやと笑ってしまっていたのに、彼に甘やかされていることがあることに気がついたときは「え?」と思わず声が出てしまったものだ。自室にひとりでいるときでよかった。
パーソナルスペースが広い彼の内側に入れてもらえている。叫びだしたくなるくらいだけれど、食べ物を手ずから食べさせてくれることなど、絶対に意識しないでやっている彼が気づいてしまうともう二度としてくれなくなるだろう。それは絶対に嫌だった。友達のなかでおそらく一番、クラスメイトの中では間違いなく一番仲がいいのは俺だという独占欲めいたものが芽生えてしまっているのかもしれない。諒には知られないほうがいいだろう、となんとなく思っているので、彼に言うつもりはない。
「あ、予鈴」
チャイムの音が鳴り響く。俺と諒しかいなかった空間に響く機械音はふたりきりのランチタイムの終わりを告げていた。帰る教室は同じだし、放課後にも一緒に勉強会をする約束をしているのになんだか物足りないというか、心の一部がぽっかりとあいたような気持ちになる。なんか俺、変かも。
「優真?」
教室に戻らないといけないだろ、と視線で言う諒はいつの間にか弁当を片付け終えていた。あーあ、昼休みが二時間くらいあればよかったのに。
「んー」
「眠い?」
「そういうわけじゃないけどー……次なんだっけ」
「英コミュ」
「うわ、寝そう」
「眠いんじゃん」
今日英語やるんだしちゃんと起きてなよ、と呆れたように苦笑しながら言われてしまった。当てられませんように、と祈りながら、いつもよりもゆっくりと階段を降りて教室に向かう。
◇ ◆ ◇
「はい、諒はカルピスでよかったよね?」
「ありがとう」
放課後、いつものファミレスの初めて通される奥のソファ席で参考書とルーズリーフを広げた。諒には俺が特に苦手な英語や国語を教わっている。今日は英語を重点的にやると決めているのでファミレスに来る前から気が重かった。彼と過ごす時間は楽しいから、なんとかトントンになっている勉強会だ。
「今日の小テスト、どうだった?」
「それさあ、聞いてないよ!って思ったんだけど」
「一昨日の授業で匂わせ発言してたよ」
「ええ、覚えてない……」
わりと悲惨な結果だった小テストをリュックから取り出して、おずおずと諒に手渡す。俺があまり英語が得意ではないと彼は知っているので今更だ、と頭では分かっているものの顔が赤くなりそうだ。もっと良い点を取れるようにしないといけない。
「前よりは精読力上がってるんじゃない?」
「……そうかな、そうだといいんだけど」
俺の小テストをじ、と見ながら冷静に分析する諒に居心地が悪くなるものの、逃げ出したいわけではない。わざわざ時間を割いて俺のことを考えてくれているのだ。
「諒は?何点だった?……って、聞くまでもないかもだけど」
手持ち無沙汰にコーラをストローで混ぜながらぽそぽそと言葉をこぼす。「優等生」という言葉がまさにぴったりな彼がいつも成績上位だと知ったのは話すようになってすぐのことだった。いつも難しそうな本を読んでいるし、なるほどそうだよね、と思ったのはもう遠い記憶のように感じる。
「今日、小テストあるだろうって思ってたからね」
「でも予習してなくても満点だったでしょ?」
「俺のこと、買い被りすぎじゃない?」
そうは言っても否定はしないのが彼らしい。勉強ができることも料理ができることも、他にもたくさん、俺よりもうんとうまくできることがあるのに彼は一度もひけらかさなかった。仮に指摘したとしても「俺はできなくて、優真はできることも多いでしょ」と言うだろう。
そういうところが好きだ、と思う。いつも凪いでいるというか、彼の感情が大きく上がり下がりするところを、初めて会った遊園地でのあの夜以外、俺は見たことがない。
俺の小テストの結果から、今日重点的に学習する内容を考えてくれている諒をちらり、と盗み見る。真剣な表情だ。あまり見る機会がないその表情になんだかそわそわする。いけないものを見てしまったような気持ちになって、パッと視線をそらした。
「問題集のこれとこれとこれ。あとこの長文回答と小テストの復習しよう」
「う、多い……」
「でもこれ、たぶん中間テストに出ると思うよ」
「え、そうなの?」
「確実とは言えないけど、間違える人多いと思うし」
「がんばりまーす……」
筆箱からシャープペンシルを取り出して、ふう、と息をひとつ吐く。目眩がしそうな英語の長文を前に気合を入れてなんとか向き合う。
「つ、疲れた……」
「お疲れさま」
諒に出された課題が八割方終わったところで、大きく息を吐いて伸びをした。集中していたから肩も凝っているような気がしている。眼精疲労もたまっていそうだ。
「中間テスト終わったら土日とかに遊びに行こうよ。お礼したいし」
「別に気にしなくていいよ。俺の勉強にもなってるから」
「じゃあ、俺の成績がぐんと上がってたらどう?加賀野先生が教えてくれた成果だし」
「まあ、それなら……」
「やった、決まりね。一緒にどこ行きたいか候補探しとく」
「成績がぐんと上がってたらでしょ?」
「う……そうだけど、でも、頑張るから……」
「はは」
「……もしだめでも、放課後はまた遊んで」
「はいはい」
彼の懐に入れてくれたと感じるようになってから、遊びの誘いをかけたら諒は乗ってくれるようになった。彼と放課後に遊ぶ約束をしている日は、日中の時間が過ぎるのがいつもより遅く感じる。
バイトのシフトを調整して、多くて週一・二回。
俺としては少なくて物足りない。連日誘いすぎてしまうとさすがに嫌がられたり断られたりするかも、とこれでも自粛しているのだ。前に彼女がいたとき、放課後に遊ぶのは週に一回でも多い方だった。そう思い返していたところで、ふと脳内によぎる。
そういえば、諒って今は彼女、いないのかな。
あの夜、遊園地で見聞きしたことしか俺は諒のはっきりした恋愛事情を知らない。諒のことだ、あのときのモカの着ぐるみの中身が俺だったと気づいたら恥ずかしがって二・三日口を聞いてくれなくなるだろう。メッセージを送っても、スタンプしか返してくれなくなりそうだ。諒からの返信がないと落ち込んでしまいそうだから、あの夜のことは彼には伝えないほうがいいに決まっている。
諒の恋愛事情に関して考えると、聞きたいような聞きたくないような、なんとも言えない複雑な気持ちになる。胸の奥がじりじりと痛くなるのを繰り返していた。
聞くか聞かないか、迷ってやめる。
ずっとそれをループしていたというのに、今日はなぜだかいつもと違う選択肢を選びたくなってしまった。変な高揚感でふわふわした気持ちのまま口を開いた──けれど、俺の口からは空気がこぼれただけで、音にはならなかった。
「ん、なに」
空気しか出ない口を閉じたのに、諒はそう、なんでもないように聞いてくれた。他でもない彼自身に背中を押されている気分だ。
「……ねえ、諒って彼女いないの?」
なぜだか声が掠れてしまったことに気づかれたくない。ダサい、ダサすぎる。恥ずかしさと言い表せない感情をコーラで喉の奥に流し込む。氷で薄まったコーラは、俺の気分を変えてはくれなかった。
「…………いないけど」
「え、そうなの?」
「なんでそんな意外そうなの」
「だって、諒ってやさしいし」
「初めて言われた」
「ええ、そんなことないでしょ……」
「もし居たとしたら、優真とはこんなに一緒に過ごしてないだろうね」
「あー……それはそう、だけど。……やだな」
「なんで」
「諒と遊ぶの楽しいし」
「昼も一緒に食べてるでしょ」
「毎日じゃないじゃんか」
「俺と毎日話してても楽しくないだろうし」
「そんなことないよ」
「……」
「もしかして、誰かに言われたことあるの?」
ぴく、と諒の眉が動くのが目に入った。ぐるぐると黒いモヤが胸のなかに溜まるのが分かる。そんなことないのに。俺が何度も何度も伝えたら、彼に伝わるのだろうか。ちいさく首を振って、ごくり、とつばを飲み込む。
「俺は諒と一緒にいるのも喋るのも楽しいよ。だから、彼女ができたら一緒に遊ぶ時間が減っちゃうからちょっと悲しいかも。でもちゃんと応援はするから教えて」
「……優真って変わってるよね」
「え、初めて言われた」
「まあ、それはさておき、気にする必要はないよ。俺はもう、恋愛はする気ないから」
すっぱりと言い切った諒の表情から感情は読めない。汗をかいたグラスを指先で撫でる。聞いてもいいのか、聞かないほうがいいのか。いつもなら「聞かない」の選択肢を選ぶだろうけれど、今日の俺の口はいつもよりも軽いようだった。
「なんで?」
諒はぱちり、と目を大きく開いたあとにゆっくりと瞬きをする。言うか言わないか、迷っているのだろう。普段ならすぐ返してくれる会話のキャッチボールがいつもよりもスローペースだ。
「もう、信用して裏切られたくないから。三回目はさすがにきついし」
裏切られるって?と聞きたかったけれど「もうこの話は終わり」と言うかのように「ほら、あと二割残ってるでしょ。電車の時間もあるし、早く続き解いて」と言って諒は立ち上がる。「あ……」と単語にならない言葉しか発せなかった俺の手からグラスを取ってドリンクバーへと向かってしまった。これ以上は聞けないだろう。
彼が言っていた「裏切り」の一回は、おそらく遊園地に来てくれなかった相手だろう。もう一回は?
聞きたいけれど、俺はもう聞けやしない。今の立ち位置を逃したくない。俺はきっと、今いる距離に執着している。
「はい、どうぞ」
「……ありがと」
諒が手渡してくれた、氷がたっぷり入ったコーラでカラカラに乾いてしまっていた喉を潤す。ぴりぴりとした刺激に怒られているような気持ちになる。はあ、と今日一番大きなため息を吐いてから、シャープペンシルを握り直した。
「ああ、うん。いいよ」
すっかりおなじみになった二人だけのランチタイム中、コロッケパンを頬張りながら放課後に開催予定の勉強会の予定を詰める。俺よりも遥かに成績がいい諒に頼み込んで、中間テスト勉強を教えて貰えることになったのだ。「まあ、復習にもなるか。いいよ」と了承してくれた諒様々だ。今日で第三回目の開催である。
彼にはお礼としてドリンクバーと軽食をご馳走しているものの、それだけでは足りないのではないか?と思うくらいめきめきと学力がアップしている気がしている。……いや、おそらく気のせいではないはずだ。
わざわざ自分の時間を割いて教えてくれている諒にいつもよりもいい点数が書かれているテスト用紙を見せたくて、自由時間にも勉強をしていることが増えていた。いい傾向ではないだろうか、と自分で自分を褒める。
食べ終えたパンの包装紙をまとめてスマートフォンの画面を確認する。あと十分で予鈴が鳴る時間だ。いつも思うけれど、楽しい時間は過ぎてしまうのがこんなにも早い。
ゆっくりとお弁当を食べている諒を見やる。彼はあらゆる所作がきれいだ。食事を摂っているところを見ていると特にそう感じる。諒が食べてるとおいしそうにも見えるので、今さっき胃に大量の惣菜パンを詰めたはずなのに口内によだれがたまるのが分かった。
「……玉子焼き、食べたいの?」
「え、いや、そういうわけじゃ……」
「食べたいんでしょ。優真、玉子焼き好きだよね」
はあ、とわざとらしくため息を吐いたあと「いいよ」と言って箸で一口サイズに切った玉子焼きを口元まで運んでくれる諒はやさしい。とっつきにくい、というか、あまり人と深く関わろうとしない主義のように見える彼は、一度懐に入れた相手に対してはすこぶる甘いのだとここ最近知った。それも無意識的にやっているようなので、きっと本人は気がついていない。
みんなに自慢したくなるような、でも黙っていたいような、くすぐったい気持ちだ。たぶん諒は俺に気を許し始めてくれている。これは気のせいではない、とはっきりと言える。
あ、と口を開けて諒の箸を口内に迎え入れた。口内に甘さが広がる。出汁で作っているうちの玉子焼きとは違って甘いそれを最初にもらったときは新鮮な味に感じていたけれど、今では食べ慣れた味になってきていた。
「ん、今日もおいしい」
「そう?」
「うん。料理上手だよね」
「別に普通だと思うけど。レシピサイト上位のレシピをそのまま作ってるだけだし」
毎朝自分で弁当を作っていると聞いた当初は驚いたものだが「料理って実験みたいなものだし」と言っていたのは彼らしいと思ったし、得意なのも頷けた。
彼のご両親は仕事で忙しく、毎朝諒が起きるよりも早くに家を出て夜遅くに帰ってくるらしい。話を聞くに、その他の家事スキルも高いようなので一人暮らしを始めたときに困らないタイプだろう。まだ進路は確定していないけれど、俺も彼を見習ってそちらの勉強も少しずつするべきかもしれない。
うんうんと唸っていると「また百面相してる」と言われて顔を上げる。ばち、と視線が噛み合った。ふ、と表情を緩めた諒にどきりと心臓が跳ねる。うわ、そんな顔するんだ。
放課後に一緒に遊んでから距離が一気に近づいて、下の名前で呼び合うようになった。
それだけでも頬が痛いくらいにやにやと笑ってしまっていたのに、彼に甘やかされていることがあることに気がついたときは「え?」と思わず声が出てしまったものだ。自室にひとりでいるときでよかった。
パーソナルスペースが広い彼の内側に入れてもらえている。叫びだしたくなるくらいだけれど、食べ物を手ずから食べさせてくれることなど、絶対に意識しないでやっている彼が気づいてしまうともう二度としてくれなくなるだろう。それは絶対に嫌だった。友達のなかでおそらく一番、クラスメイトの中では間違いなく一番仲がいいのは俺だという独占欲めいたものが芽生えてしまっているのかもしれない。諒には知られないほうがいいだろう、となんとなく思っているので、彼に言うつもりはない。
「あ、予鈴」
チャイムの音が鳴り響く。俺と諒しかいなかった空間に響く機械音はふたりきりのランチタイムの終わりを告げていた。帰る教室は同じだし、放課後にも一緒に勉強会をする約束をしているのになんだか物足りないというか、心の一部がぽっかりとあいたような気持ちになる。なんか俺、変かも。
「優真?」
教室に戻らないといけないだろ、と視線で言う諒はいつの間にか弁当を片付け終えていた。あーあ、昼休みが二時間くらいあればよかったのに。
「んー」
「眠い?」
「そういうわけじゃないけどー……次なんだっけ」
「英コミュ」
「うわ、寝そう」
「眠いんじゃん」
今日英語やるんだしちゃんと起きてなよ、と呆れたように苦笑しながら言われてしまった。当てられませんように、と祈りながら、いつもよりもゆっくりと階段を降りて教室に向かう。
◇ ◆ ◇
「はい、諒はカルピスでよかったよね?」
「ありがとう」
放課後、いつものファミレスの初めて通される奥のソファ席で参考書とルーズリーフを広げた。諒には俺が特に苦手な英語や国語を教わっている。今日は英語を重点的にやると決めているのでファミレスに来る前から気が重かった。彼と過ごす時間は楽しいから、なんとかトントンになっている勉強会だ。
「今日の小テスト、どうだった?」
「それさあ、聞いてないよ!って思ったんだけど」
「一昨日の授業で匂わせ発言してたよ」
「ええ、覚えてない……」
わりと悲惨な結果だった小テストをリュックから取り出して、おずおずと諒に手渡す。俺があまり英語が得意ではないと彼は知っているので今更だ、と頭では分かっているものの顔が赤くなりそうだ。もっと良い点を取れるようにしないといけない。
「前よりは精読力上がってるんじゃない?」
「……そうかな、そうだといいんだけど」
俺の小テストをじ、と見ながら冷静に分析する諒に居心地が悪くなるものの、逃げ出したいわけではない。わざわざ時間を割いて俺のことを考えてくれているのだ。
「諒は?何点だった?……って、聞くまでもないかもだけど」
手持ち無沙汰にコーラをストローで混ぜながらぽそぽそと言葉をこぼす。「優等生」という言葉がまさにぴったりな彼がいつも成績上位だと知ったのは話すようになってすぐのことだった。いつも難しそうな本を読んでいるし、なるほどそうだよね、と思ったのはもう遠い記憶のように感じる。
「今日、小テストあるだろうって思ってたからね」
「でも予習してなくても満点だったでしょ?」
「俺のこと、買い被りすぎじゃない?」
そうは言っても否定はしないのが彼らしい。勉強ができることも料理ができることも、他にもたくさん、俺よりもうんとうまくできることがあるのに彼は一度もひけらかさなかった。仮に指摘したとしても「俺はできなくて、優真はできることも多いでしょ」と言うだろう。
そういうところが好きだ、と思う。いつも凪いでいるというか、彼の感情が大きく上がり下がりするところを、初めて会った遊園地でのあの夜以外、俺は見たことがない。
俺の小テストの結果から、今日重点的に学習する内容を考えてくれている諒をちらり、と盗み見る。真剣な表情だ。あまり見る機会がないその表情になんだかそわそわする。いけないものを見てしまったような気持ちになって、パッと視線をそらした。
「問題集のこれとこれとこれ。あとこの長文回答と小テストの復習しよう」
「う、多い……」
「でもこれ、たぶん中間テストに出ると思うよ」
「え、そうなの?」
「確実とは言えないけど、間違える人多いと思うし」
「がんばりまーす……」
筆箱からシャープペンシルを取り出して、ふう、と息をひとつ吐く。目眩がしそうな英語の長文を前に気合を入れてなんとか向き合う。
「つ、疲れた……」
「お疲れさま」
諒に出された課題が八割方終わったところで、大きく息を吐いて伸びをした。集中していたから肩も凝っているような気がしている。眼精疲労もたまっていそうだ。
「中間テスト終わったら土日とかに遊びに行こうよ。お礼したいし」
「別に気にしなくていいよ。俺の勉強にもなってるから」
「じゃあ、俺の成績がぐんと上がってたらどう?加賀野先生が教えてくれた成果だし」
「まあ、それなら……」
「やった、決まりね。一緒にどこ行きたいか候補探しとく」
「成績がぐんと上がってたらでしょ?」
「う……そうだけど、でも、頑張るから……」
「はは」
「……もしだめでも、放課後はまた遊んで」
「はいはい」
彼の懐に入れてくれたと感じるようになってから、遊びの誘いをかけたら諒は乗ってくれるようになった。彼と放課後に遊ぶ約束をしている日は、日中の時間が過ぎるのがいつもより遅く感じる。
バイトのシフトを調整して、多くて週一・二回。
俺としては少なくて物足りない。連日誘いすぎてしまうとさすがに嫌がられたり断られたりするかも、とこれでも自粛しているのだ。前に彼女がいたとき、放課後に遊ぶのは週に一回でも多い方だった。そう思い返していたところで、ふと脳内によぎる。
そういえば、諒って今は彼女、いないのかな。
あの夜、遊園地で見聞きしたことしか俺は諒のはっきりした恋愛事情を知らない。諒のことだ、あのときのモカの着ぐるみの中身が俺だったと気づいたら恥ずかしがって二・三日口を聞いてくれなくなるだろう。メッセージを送っても、スタンプしか返してくれなくなりそうだ。諒からの返信がないと落ち込んでしまいそうだから、あの夜のことは彼には伝えないほうがいいに決まっている。
諒の恋愛事情に関して考えると、聞きたいような聞きたくないような、なんとも言えない複雑な気持ちになる。胸の奥がじりじりと痛くなるのを繰り返していた。
聞くか聞かないか、迷ってやめる。
ずっとそれをループしていたというのに、今日はなぜだかいつもと違う選択肢を選びたくなってしまった。変な高揚感でふわふわした気持ちのまま口を開いた──けれど、俺の口からは空気がこぼれただけで、音にはならなかった。
「ん、なに」
空気しか出ない口を閉じたのに、諒はそう、なんでもないように聞いてくれた。他でもない彼自身に背中を押されている気分だ。
「……ねえ、諒って彼女いないの?」
なぜだか声が掠れてしまったことに気づかれたくない。ダサい、ダサすぎる。恥ずかしさと言い表せない感情をコーラで喉の奥に流し込む。氷で薄まったコーラは、俺の気分を変えてはくれなかった。
「…………いないけど」
「え、そうなの?」
「なんでそんな意外そうなの」
「だって、諒ってやさしいし」
「初めて言われた」
「ええ、そんなことないでしょ……」
「もし居たとしたら、優真とはこんなに一緒に過ごしてないだろうね」
「あー……それはそう、だけど。……やだな」
「なんで」
「諒と遊ぶの楽しいし」
「昼も一緒に食べてるでしょ」
「毎日じゃないじゃんか」
「俺と毎日話してても楽しくないだろうし」
「そんなことないよ」
「……」
「もしかして、誰かに言われたことあるの?」
ぴく、と諒の眉が動くのが目に入った。ぐるぐると黒いモヤが胸のなかに溜まるのが分かる。そんなことないのに。俺が何度も何度も伝えたら、彼に伝わるのだろうか。ちいさく首を振って、ごくり、とつばを飲み込む。
「俺は諒と一緒にいるのも喋るのも楽しいよ。だから、彼女ができたら一緒に遊ぶ時間が減っちゃうからちょっと悲しいかも。でもちゃんと応援はするから教えて」
「……優真って変わってるよね」
「え、初めて言われた」
「まあ、それはさておき、気にする必要はないよ。俺はもう、恋愛はする気ないから」
すっぱりと言い切った諒の表情から感情は読めない。汗をかいたグラスを指先で撫でる。聞いてもいいのか、聞かないほうがいいのか。いつもなら「聞かない」の選択肢を選ぶだろうけれど、今日の俺の口はいつもよりも軽いようだった。
「なんで?」
諒はぱちり、と目を大きく開いたあとにゆっくりと瞬きをする。言うか言わないか、迷っているのだろう。普段ならすぐ返してくれる会話のキャッチボールがいつもよりもスローペースだ。
「もう、信用して裏切られたくないから。三回目はさすがにきついし」
裏切られるって?と聞きたかったけれど「もうこの話は終わり」と言うかのように「ほら、あと二割残ってるでしょ。電車の時間もあるし、早く続き解いて」と言って諒は立ち上がる。「あ……」と単語にならない言葉しか発せなかった俺の手からグラスを取ってドリンクバーへと向かってしまった。これ以上は聞けないだろう。
彼が言っていた「裏切り」の一回は、おそらく遊園地に来てくれなかった相手だろう。もう一回は?
聞きたいけれど、俺はもう聞けやしない。今の立ち位置を逃したくない。俺はきっと、今いる距離に執着している。
「はい、どうぞ」
「……ありがと」
諒が手渡してくれた、氷がたっぷり入ったコーラでカラカラに乾いてしまっていた喉を潤す。ぴりぴりとした刺激に怒られているような気持ちになる。はあ、と今日一番大きなため息を吐いてから、シャープペンシルを握り直した。
