恋はもうしないはずだった

「うわ、雨降ってる……?」
 昇降口から外を覗き見る。教室を出るときには気がつかなかったが、どうやらいつの間にか雨が降り始めていたらしい。もくもくと雲が空を覆い、グレーに色を変えてしまっている。
 今朝、家を出る前に天気予報を確認しそびれてしまった俺は傘を持っていない。
 このまま止むのを学校で待つか、駅まで濡れる覚悟で走り抜けるか、二つに一つだ。今朝は部活の朝練があったので、タオルを余分に持ってきている。頭に被って帰れば、少ない被害で済むだろう。少しばかり遠回りになるが、コンビニに寄ってビニール傘を買うのも一つの手かもしれない。
 今日の放課後は部活が休みでバイトもない、フリーの日だった。このままここで雨が止むのを待っていても時間と予定的には問題ないが、俺が昇降口に辿り着いたときよりも雨脚が強くなっているように感じる。夜までずっとこのまま降り続けるのかもしれない。
 はあ、とちいさくため息を吐く。今更後悔しても遅いが、ちゃんと天気予報を見ておくべきだった。

「……小倉?」
 不意に名前を呼ばれて振り向くと、声から想像した通りの顔が不思議そうにこちらを見ていた。
 加賀野との週番は難なく終わって、話す機会は残念ながら週番担当だったときよりも減ってしまった。週一でのふたりきりのランチタイムは二回目の開催を終えたところだ。前よりも距離は近づいたと自負しているものの、まだ彼のなかの「友達」カテゴリには入れていないだろう。もう少し頑張らないと、いつまで経っても「加賀野 諒について」のページは増えやしない。

「加賀野くんだ。もう帰るの?部活は?」
「今日はない……というか、自主欠席。バイトだから」
「そうなんだ」
「小倉は誰かを待ってるの?」
「誰かっていうか、雨が止むのを待ってるって感じ」
「今日、夜中まで止まないよ。天気予報見てないの?」
「う……今日に限って見てなくて」
「……」
 じ、と見られて、思わずパッと視線を逸らす。加賀野は考えているときに相手のことをじっと見つめる癖があるらしい。週番を始めてすぐに気がついたことの一つだ。

「……駅まででよければ、一緒に入っていく?」
「え、いいの?」
「この後、もっと雨脚強くなるみたいだし……そんなに大きな傘じゃないから、ないよりはマシって感じだと思うけど」
 それでもよければ、と言ってくれた加賀野に「助かる!お願いします!」と食い気味に返してしまった。若干引かれてしまっているのに気がついて「ごめん、うるさくて……」と詫びて小さくなる。

「慣れてきた。小倉はいつも元気だよね」
「そうかな?あ、ごめん、教室でも騒がしい?」
「クラスメイトと仲良しなのはいいことなんじゃないの」
 加賀野が開いた紺色の傘を「俺が持つよ」と言うと、数秒経ってから「……お願い」と返された。俺のほうが身長が高いから俺が差したほうが歩きやすいだろうという判断だが、加賀野も背が低いわけではない。
 お邪魔している身なので、加賀野がなるべく濡れないように角度を調節しながら傘を差して歩き出す。

「小倉って身長何センチ?」
「ちょっと前に測ったときは184だったかな」
「……バスケ部だから大きくなったの?それとも、大きいからバスケ部になったの?」
「うーん、バスケ好きでやってたら伸びたって感じかなあ」
「ふうん」
「加賀野くんも低いわけじゃないよね」
「……俺は、ここ一年くらいで急に伸びたから」
「そうだったんだ。俺はわりとじわじわだったな」
 ぽつぽつと話しながら駅へと向かう足取りは軽やかだ。
 雨が傘を打つ音と、俺と彼の話し声しかしないここは世界から切り取られた場所だと錯覚しそうになる。彼といるときは、ホッとする気持ちになったり、身体の力が抜けるような感覚になることが多い。他の誰といるときにも感じない、不思議な感覚だ。きっと、彼はこれまで俺の仲のいい友達にはいなかったタイプの人間だからだろう。

「そういえば、加賀野くんって犬好きなの?」
「……なんで?」
「モカくんのことが特に好きってわけじゃないなら、犬が好きなのかなって。加賀野くん、キャラものはモカくん以外は持ち歩いてないみたいだから」
 俺があの夜、彼に渡したモカのキーホルダーはペンケースにつけるくらいのお気に入りアイテムらしい。モカの中の人としては鼻が高い気持ちだ。

「……結構好き」
「やっぱり!飼ってたりする?」
「いや。うちはマンションだし、両親が共働きだから。昔は飼いたいって思ってたけど」
「そっか。……あ、じゃあうちくる?」
「は?」
「うちね、ゴールデンレトリバー飼ってるんだ。マロンっていうの」
 見る?と言いながら、返答を待たずに傘を持っていない右手でごそごそとスマートフォンを取り出して彼に手渡す。ロック画面には俺と愛犬がにっこにこの笑顔で写っている。

「かわいい」
「でしょ?」
「なんていうか、似てるね」
「俺とマロン?」
「うん」
「そうかな」
「それは言われたことない?」
「ないかも?マロン、かなり人懐っこいからいつでも来ていいよ。母さんも、友達いつ連れてきてもいいよって言ってるし」
 なんなら今日これから……と言いかけて、彼は今日このあとバイトの予定が入っていることを思い出した。いい案だと思ったのに、残念すぎる。

「……なんで小倉がしゅんとしてるの」
「マロンもきっと加賀野くんのこと好きになると思うから、会わせたかったなーって」
「……、」
 あーあ、と落ち込んでいることを隠さずに肩を落とす。自分でも思った以上に気持ちがしぼんでしまった。彼と仲良くなるまたとない機会だったからだろう。

「俺、動物と触れ合ったことほとんどないから、好かれるか分からないよ」
「そうなの?でも、加賀野くんはやさしいから。動物ってそういうとこ見分けるの得意だよ」
「やさしくなんかないと思うけど」
「やさしいよ。今日だってこうやって、俺のこと傘に入れてくれてるし」
「それは、知り合いが困ってたんだし当然のことをしただけでしょ」
「当然だと思うのがやさしいんだよ」
 ね、とすぐ隣にいる彼の顔を覗き込んで言い聞かせるように言葉を音に乗せる。はあ、と分かりやすくため息を吐いて「小倉って、騙されやすそう」と呆れた様子で言われてしまった。俺の心からの本音だったというのに。

「誰にでもこういうこと言ってるんじゃないからね?」
「どうだか」
「えぇ、加賀野くんの俺の印象ってどうなってるの……」
「お人よし?」
「そんなことないと思うけど」
「……だって、肩」
「へ?」
「なんでもない。駅着いたよ」
「え、ああ。本当だ」
 お喋りに夢中になっていて気がつかなかったが、いつの間にか学校の最寄り駅まで辿り着いてしまっていたらしい。彼と一緒に過ごす時間はびっくりするほど早く過ぎる。時計が壊れているのではないかと疑いたくなってしまうくらいだ。

「傘、入れてくれてありがとう。助かった」
「別にこれくらい、いいよ。……風邪、引かないようにね」
「うん。加賀野くんも。バイト頑張って」
 閉じて水滴を振った傘を手渡す。今日はこれ以降、俺は何も予定がない。彼のバイト先までついていきたいところだが、前にバイトについて話したときのことを思うとさすがに嫌がられてしまうだろう。いつか、バイト中の姿を見ることを許してもらえるだろうか。

 バイバイ、と大きく手を振って彼を見送る。苦笑いを浮かべながらも小さく振り返してくれた姿にどきりと心臓が跳ねた。かわいい。加賀野くん、こういうのあんまり得意じゃないんだろうな。そう思うと頬が緩んで痛くなる。人差し指で痛む頬をぐりぐりと揉みながら、自宅に向かう電車が来るホームに向かって歩き出した。