恋はもうしないはずだった

(……あ、)
 ぽろぽろと瞳からこぼれ落ちる水滴がコンクリートに色濃く染みを増やしている。視界の端に映ったその姿に、ゲストに振っていた手が思わず止まってしまった。
 楽しそうに笑い合う声や心地のいい余韻を引きずっているゲストばかりの閉園間際の遊園地。本日の運転を終えた観覧車前のベンチは、そこだけが世界から切り離されたようにシン、と静まり返っているように見えた。ひとりだけ取り残されたその世界で、肩を震わせながら静かに涙をこぼすひとに、バイト中の俺はどうしたって声をかけることができない。この姿で働いているときの規則だ、ゲストの夢を壊すわけにはいかない。着ぐるみには、中の人はいないのだから。

 泣いているそのひとを驚かせることがないようにゆっくりと近づく。ぼやけていた姿は輪郭を持って、俺と同じくらいの年齢の男性だと気がついた。こんなことを考えるのは失礼だろうが、泣き顔がきれいなひとだな、と思った。同年代の男性の泣き顔を見たことはそんなに多くないが、今まで見た中で一番きれいだと感じた。こんなにきれいに泣くひとだ、笑った顔はきっと素敵なはずだ。

 思わず彼に見惚れてしまっていたことに気がついた。反省して、とんとんとゆっくりと肩を叩く。
 俺の存在に気付いてパッと顔を上げてくれた彼とばちっと目が合った。俺は着ぐるみ姿なので、目が合ったことに気がついているのは俺だけだ。

「っあ、ごめんなさい、もう閉園時間……」
 ベンチに置いてあったバッグを慌てて回収するその手が、弾くようにバッグに触れてしまったのが目に入った。バサバサと音をたてて中身を落としながら地面に落ちてしまう。反射的に拾おうと思って近づいたものの、この格好だと地面に落ちた小さなものは拾いにくい。
 広くない視界できょろきょろと見回して、この手でも拾えそうな本に手を伸ばす。この遊園地のガイドブックだ。付箋がたくさんついていたそれを拾い上げて、ぱっぱと軽く払ってから手渡す。こんなに楽しみにしてうちに来てくれたのに、どうして彼は泣いているのだろう。

「ありがとうございます……」
 俺から受け取ったガイドブックを大切そうにバッグにしまい込む彼を見守る。声の震えはなくなったものの、瞳に溜まっていた涙がぽろ、と流れ落ちるのが目に入った。

「ごめんなさい、こんな泣いてて……早く帰らないと邪魔になるのに」
 急いで立ち去ろうとする彼にぶんぶんと首と手を振りながら、まだ大丈夫だと伝える。近くにあった時計を指差すと「あ、まだもうちょっとだけ大丈夫……なんですか」と弱々しく聞かれて頷く。ベンチに座るように促すと、俺のジェスチャーに従ってベンチに座ってくれた彼にホッと安堵の息をこぼす。
 ひとりで来ている学生だとしたら、十中八九ここからは電車で家に帰るのだろう。今、この辺りは人が少ない上に明かりがぽつりぽつりと設置されているだけのエリアなので誰かに見られる心配は薄いが、駅や電車の中は明かりが煌々としている。もう少しだけ落ち着いてから帰ったほうがいいだろう。ハンカチのひとつくらい差し出せればよかったのにと思うものの、キャラクターの姿でいる俺にできることは歯がゆいことに非常に限られている。
 キャラクターを演じる上で大事なことのひとつに「ゲストを笑顔にする」というものがある。それに従って、数分程度ひとりのゲストに寄り添った対応をしても咎められない程度の裁量は与えられていた。
 あいていたベンチの隣に腰掛ける。彼の両手を握って「どうしたの?」と聞くように首を傾げる。俺が彼の話を聞こうとしているのが分かったのだろう。彼はゆっくりと口を開いて、ぽつぽつと話し始めてくれた。

「……俺、今日初めて遊園地来たんです。でも、一緒に来る予定だった人に朝、振られちゃって」
「……」
「ここまで来たんだし、ひとりで回ってみようって。でもひとりだとあんまり楽しくないし、乗ってみたかった観覧車には乗れなくて」
 気付いたら運転終わっちゃった、と言ってへらりと笑う姿は痛々しかった。俺に気を遣って笑ってくれたのが分かる。このひとは気遣い屋なのだろう。幼い子であれば頭を撫でてハグをするところであるが、高校生がそうやってマスコットキャラクターに慰められるのは恥ずかしいかもしれない。伸ばしかけた手を引っ込める。

「ごめんなさい、こんな話して。誕生日なのに、なにやってんだろ……」
 ぽつり、と独り言のようにこぼされた言葉にパッと立ち上がる。
 誕生日?このひと、今日誕生日なの?
 下げているバッグをごそごそと漁って、キーホルダーをひとつ取り出す。俺が今演じている犬のキャラクター「モカ」のキーホルダーだ。誕生日のゲストにのみプレゼントしていい決まりになっている。ぐいぐいと押し付けるようにして手渡すと、彼は不思議そうにキーホルダーと俺を見比べた。

「これ、くれるんですか?……あ、ハッピーバースデーって書いてる」
 キーホルダーについている、誕生日を祝う文言に気がついてくれた彼に大きく頷いて拍手をする。周りにほかのキャストがいるタイミングであれば大勢で祝っていたものの、俺一人しかいない状態でのお祝いになってしまって非常に申し訳ない。
「ありがとうございます」と言って小さく笑った顔は、先ほどの作り笑顔とは違っていた。泣きそうな笑顔だ。……笑ってほしいのに、俺にはこれ以上のことはできそうにない。自分の無力さに打ちひしがれそうだ。

「……そろそろ帰らなきゃ。ありがとうございます、犬の方」
 キーホルダーも大切そうにバッグにしまってくれた。キーホルダーをしまい終えて、立ち上がった彼に向かって手を振る。エントランスロビーまで付き添いたい気持ちでいっぱいだが、俺にはまだ回らなくてはいけないエリアがある。今は仕事中なので、流石にこれ以上の勝手はできない。
 ぶんぶんと今日一番大きく両手を振る。ふ、と笑ってから、ぺこりと軽くお辞儀をして彼は離れていった。その姿が小さくなって見えなくなるまで見送ってから、次のエリアへと歩き出した。

◇ ◆ ◇

 きっともう、あの彼に会うことはないのだろう。
 頭では分かってはいるのに、どうにも彼のことが頭から離れなかった。遊園地という性質上、楽しそうに笑っているゲストと向き合うことが多い。迷子であったり、園内で喧嘩をしたのか、不機嫌そうなゲストを見る機会もあるにはある。けれど皆、誰かと一緒に来ていて、最後には笑って帰っていく。

「…………」
 彼に聞いた話から想像するに、今日は彼の誕生日だから「遊園地でデートしよう」と約束していた彼女がいたのだろう。そのひとに今日になってキャンセルされてしまって、どうせここまで来たのだから……とひとりで巡ってみたものの、あの観覧車前のベンチでぽっきり心が折れてしまって、動けなくなってしまったのではないだろうか。ガイドブックについていた付箋の量を見るに、今日をとても楽しみにしていたに違いない。彼とその彼女のあいだに何があったのかは俺には分からないけれど、いくらなんでも誕生日当日に別れを告げるだなんて酷すぎやしないだろうか。
 俺なら絶対にそんなことはしないし、笑わせるのに。……なんて、もう会うことがないひとに対して思ってどうするんだ。自分を笑いながら着替えを済ませる。

「どうした?小倉くん、何かあったの?」
「いや、問題があったとかじゃないんですけど……」
 隣のロッカーを使っていた先輩に話しかけられる。俺よりも長くキャラクターを演じている彼ならば、同じような経験があるだろうか。詳細を話してしまうのはあの彼に悪い気がして、所々ぼかしながら事のあらましを説明する。

「なるほどね。俺も泣いてるゲストのことを励ました経験が何度かあるけど、喋れないし他にも制約あるし、難しいよね」
「はい……」
「話聞いた感じだと、小倉くんなりにベストを尽くしてると思うよ。気にしなくていいって言っても気にしちゃうと思うけど……でも帰り際にそのひとはもう泣いてなくて、ちょっとは笑ってくれたんでしょ?」
「それは、そうですけど……」
「強引かもしれないけど「ゲストを笑顔にする」は叶えられているし、次に同じようなことがあったらどうするか、今度一緒に考えようか」
 小倉くん、そろそろ帰らないと電車ヤバくない?と言われて急いでスマートフォンを確認する。

「あっ、ヤバい!」
「ほらもう帰った帰った!次またバイトのときにでも話そう」
「すみません、ありがとうございました!」
 先輩にお辞儀をして、荷物を引っ掴んでロッカールームから出る。先輩も忙しいし疲れているだろうに、話を聞いてもらってしまった。いつもお世話になっている、とてもやさしい先輩だ。そのやさしさに今日も甘えてしまって申し訳なさを覚えるものの、見習いたいところでいっぱいだ。

 俺なりにベストを尽くした。
 俺にはあれ以上のことはできないと思ってしまったけれど、先輩ならもっと彼を笑わせてあげられていたかもしれない。
 あの場にいたのが俺じゃなくて、先輩だったらよかったのに。泣いていた彼にも申し訳なさを覚える。
 今日の彼のことはしばらく忘れられなさそうだ。もしかしたら夢に出てくるかもしれない。

 もし夢の中で彼に会ったら、何て言おうか。
 朝からのバイトによって疲労感を覚える身体で電車に揺られながらそんなことを考えたけれど、この疲れ具合だとぐっすりと眠ってしまいそうだ。夢でも、もう一回会えたらいいのに。
 俺には何もできないかもしれないけれど、「モカくん」ではなく「小倉優真」だったら、涙を拭うハンカチを手渡すことや言葉をかけることはできる。もっと時間を掛けて彼に寄り添っても、誰にも怒られない。
 そんな機会は来るはずないのに。
 夢物語をとうとうと自分に言い聞かせるように脳内で語りながら、帰路についた。