その日はなかなか寝付けなかった。
何度目かの寝返り。
だけど思い出すのは。
蒼との唇。息遣い。碧人の背中、全部が頭から離れない。
胸の奥がざわついて、眠れないままスマホに手が伸びる。
画面にルクが浮かぶ。
《今日もはっぴー》
「……はっぴーじゃないよ」ぽつりと、独り言が漏れた。
「今日、碧人に……キスされた……嫌じゃなかった気もするけど……でもどうしたらいいかわからない」
零れ落ちた言葉に自分でも驚く。
これが本音なのか?
そんな言葉にルクは静かに返した。
《なら、ちゃんと本人に言うべきやで》
夜の静寂の中。その言葉だけが耳に残った。
***
午後の部室。この日もコンペの準備が続いてた。
僕は朝から落ち着かなかった。
碧人は何事もなかったように、カメラの整備をしている。
「おはよう……」と声をかけられてもつい、目を逸らしてしまった。
僕だけが、昨日の空気を引きずったまま、沈黙が続いているみたいだ。
何度か碧人と目が合うが、どうしても逸らしてしまう。
何か言わなきゃ……この気まずさはマズイ気がする。
「どうしてキスしたの?」 「あれはどういう意味?」
そう軽く聞ければいいのに。なんだか、核心に触れるのが怖くて、言い出せない。
《伝えるべきやで?》
頭の中のルクの声が僕の沈黙を破る。
そうだ。このままじゃ嫌だ。
「……昨日のことなんだけど」
碧人の手が止まる。
「びっくりはしたけど……嫌じゃなかった、よ」
どうにか伝えたかったのに、出てきた言葉はどこか借り物みたいだった。
その言葉を誤魔化すように僕は続けた。
「その……好きとかじゃなく…いや、違くて、普通に仲良くしたいっていうか」
碧人は黙って、ただ僕を見つめた。
そして、ぽつりと。
「それも……AI?」
ゴクリと唾を飲み込む。
怒っているような表情。
碧人の瞳が僕を真っすぐに見つめる。
それがかえって僕の返答を拒んでしまう。
「もう、いいよ」
乾いた言葉。
碧人はため息をついて、そのまま部室を出ていってしまった。
「碧……」
呼び止めることもできない僕は本当に弱虫だ。
なんであんな事言ってしまったんだろ。
碧人……傷ついた顔をしていた。
一番大切な人とは傍にいられない──そんな言葉が脳裏を掠めた。
*
あの日から、碧人とはまともに会話ができていない。
返ってきた言葉を、どう受け止めていいか分からなくて、整理ができないまま時間だけが過ぎて行く。
その日は、撮影会の約束をしていたが、やっぱりどうしていいかわからず。
スマホの画面をタップする。
「ごめん、急に用事できて」
つい、そんなメッセージを送ってしまった。
既読にになるものの、……碧人からの返事はなかった。
あれ以来、部室で顔を合わせることもなくなった。
(……なんであんなこと言ってしまったんだろう)
僕の中の罪悪感は、日を追うごとに増してった。
ミーンミンミン……。窓の外でけたたましくセミの声が聞える。
相変わらずの酷暑で外の気温はうだるような暑さだ。
夏休みも中盤にさしかかり、地元に帰省する学生がほとんどでサークル棟はがらんとしていた。
それでも僕は毎日のように部室に足を運んだ。
誰もいない部室。静けさの中、時折エアコンのモータ音が鼓膜を伝ってくる。
僕は一人ソファアに寝転んだ。
不思議と、ここにいると落ち着く。
「もういいよ」
碧人のあの言葉が耳に残る。
どこかに置き忘れてきたカメラのピントみたいに、 自分の心も、碧人との関係も、焦点が合わないままだった。
──カチャッ
ふいに扉の開く音。
ひんやりとした空気と、どこか爽やかな香りが入り込む。
「……ほい、冷たいの」
2人分のコンビニカフェを片手に、瑠璃さんが入ってきた。
「カフェオレでよかったっけ?」
「えっ!ありがとうございます」
慌てて起き上がり、それを受け取る。
手のひらに伝わる冷たさが、少しだけ気持ちを和らげてくれた。
「コンペ作品、進んでる?」
瑠璃の言葉に一瞬、言葉に詰まる。
碧人のことが喉につかえて、うまく答えらない。
瑠璃はそんな様子を見透かすように、ストローで氷をくるくる回す。
「りっと、とっちゃってごめんね」
「え……」
意外な言葉だった。
「私ね、今回はりっとと組みたかったの。コンペ終わったら引退でしょ? だから、最後くらはって」
そう言って、少しだけ照れたように笑う。
「まぁ、私の片想いなんだけどね?」
ふふ、と笑うその姿は、どこかチャーミングで。
「そういうの、言ったもん勝ちでしょ?」
僕はカフェオレを持ったまま、瑠璃の意外な告白に驚いた。
「……碧人、ぶっきらぼうだからさ。紘都くん、大変じゃない?」
「えっ? いや、大丈夫です」
そう答えたけど、ほんとは全然、大丈夫なんかじゃない。
視界がぼんやりする。
「なんか、最近ちゃんと話せてないっていうか…… 僕が、悪いんですけど、向き合えなくて、つい避けしまって……」
ぽろりと抑えていた思いが飛び出た。
「そしたら、どんどん距離が開いていって……会いたいのに、会えなくて」
なんでかな。 瑠璃の前だと、不思議と気持ちがスルスルと出てくる。
そういえば、瑠璃さんって……
どこか碧人に、似てるのかもしれない。
そう思った瞬間、きゅっと胸が締めつけられた。
目頭が熱くなってるのが分かって、慌てて俯く。
その様子を見て、瑠璃がぽつりと呟いた。
「紘都くん、それってさっ?……まるで恋してるみたいだよ?」
「……えっ」
ストローをくわえたまま、固まる。
にこりと笑って、瑠璃が立ち上がる。
「その気持ち、素直に伝えてみたらいいんだよ」
静かにドアが閉まる。
さっきまで外にいた蝉の鳴き声だけが、窓の外から遠くに響いていた──。
*
廊下へ出た瞬間、待っていたように律斗が駆け寄ってきた。
何かを尋ねたそうに口を開きかけて、結局、何も言わない。
瑠璃はそんな律斗を見て、ちらりと部室の扉を振り返った。
「紘都くん……かなり憔悴してた。見てて、こっちまで苦しくなるくらい」
律斗の視線がわずかに揺れる。
「……そっか」
低く落ちた声に、瑠璃はわざと明るく笑った。
「でも、ちゃんと話してきたよ? りっとが言った通りに。……これでよかったんだよね?」
探るような視線を向けると、律斗は小さく苦笑して目を逸らした。
「……うん。助かった。元はと言えば、俺が原因みたいなもんだし」
「ま、あとは本人たち次第よね」
ぽん、と肩を叩かれて、律斗は小さく頷く。
「……うん」
掠れた返事だけが、静かな廊下に残った
