いよいよ夏休みが始まった。
梅雨が明けた途端、照りつける日差しに空気まで焼けそうで、アスファルトの匂いが鼻をつく。
写光会では、秋に開催されるコンペに向けて、夏の間に“ペア作品”を撮りためることになっていた。
早い者勝ちでペアが決まっていく中、律斗は瑠璃先輩と組むことになったと聞いた。
「…ま、あの二人なら、なんか納得だよね」
──少し期待はずれだったけど。
そんな僕に、碧人が声をかけてきたのは、その翌日だった。
「紘都、ペア決まってないなら、一緒にやらない?」
相変わらずぶっきらぼうだけど、それでも、ちょっと、なんだか嬉しかった。
大学は、夏休み中のサークル活動にも制限があった。
原則、施設の利用は日中だけ。
ただ、うちのサークルは活動実績のおかげで、特別に放課後や夜間も申請すれば使えることになっていた。
もちろん人数制限はあるのだが、交代制ならOK。
僕は文学部一年。
碧人は社会学部 メディア文化専攻二年。
学年も学部も違って、普段の生活ではほとんど顔を合わせることもなかったのだが、 ペアになってからは、ほんの少しだけ過ごす時間が増えていた。
その日の夕方、碧人の運転で、海までロケ撮影に出かけることに。
助手席に乗ると、慣れた手つきでシートベルトを締め、滑らかに車を走らせていく。
カーナビも見ず、迷いなく海沿いの道を選ぶ碧人。
ただ黙って前を向くその横顔が、いつもより少し大人びて見えた。
「この辺、光の残り方がいいんだ」
低く静かな声が、車内に落ちる。
窓の外の空は、夕日の光に薄く染まっていた。
潮の匂いがかすかに鼻をかすめる。
着いたのは、人気のない海岸だった。
波打ち際に三脚を立てて、碧人が構図を確かめている。
「ちょっと、そこに立って」
「え、僕が入るの?」
「違う。人の位置がないと、奥行きが出ない」
碧人は三脚の高さを微調整しながら、手慣れた様子でシャッターを切っていく。
構図や露出を確認しながら、時々「光が縦に流れてる」とか「波の向き、もう少し左」とか、専門的なことをぽつりと教えてくれる。
言葉は少ないけれど、その分、撮る手つきには確かなものがあった。
やがてひと通りの撮影を終えると、碧人は無言で片付けに入った。
慣れた手つきで三脚をたたみ、レンズを拭き、カメラをケースにしまう。
水平線の向こう、夕焼けはすでに沈みかけていた。
海の輪郭も、空のグラデーションも、少しずつ色を失いはじめていて。
でも、真っ暗になるにはまだ早い。
昼と夜のあいだの、ほんの少しだけ立ち止まったような時間。
僕はなんとなくスマホを取り出して、その空を撮ろうとした。
波の音、潮の匂い、やわらかい光。
カメラ越しにそれを閉じ込めたくて、けれどうまくできる気はしなかった。
「……いつも、スマホだね」
ふいに背後から声がして、碧人の気配が近づいてくる。
「うん……カメラ、持ってなくて」
気づけば、口が勝手に動く。
「頼んだら、買ってはくれるんだろうけど……」
(母さんには頼みたくない)
そんな気持ちがふと、頭に浮かんだ。
「秋になったら、バイト増やして、自分で買おかなって… 」
そう、苦笑したら、なんだか、少し、気まずくなった気がした。
スマホで写光会つて。、やっぱり少し場違いかもしれない……。
手元のスマホを見つめたまま、何も言えずにいると、碧人がふいに近づく気配を感じた。
「……ほら。こうしてみ」
僕の右手に、碧人の指が静かに重なる。
スマホの角度が、ゆっくりと変えられていく。
カシャ。
シャッター音が鳴った瞬間、すぐ後ろからふっと息がかかって、背中がびくりとした。
視線をそらしても、熱は消えない。
画面の中には、ふたりの“合作”がしっかり残っていた。
手のひらに残った温度と、胸のざわめきだけが、やけに強く焼きついていた。
僕はスマホの画面を見ないまま、そっとスマホをポケットに入れた。
部室に戻ると、空気が昼間とはまるで違っていた。
人の気配のない夜の部室は、妙に静かで、照明の光だけが、ぼんやりと柔らかい。
碧人は無言のまま、持ち帰ったデータをノートパソコンに取り込んでいく。
その横顔がやけに静かで、近くにいるのに距離があるような気がした。
碧人の手の温もりがまだ忘れられない。
なんだか妙に落ち着かない。
この微妙な沈黙が嫌でつい言葉を発してしまう。
「…律斗くんって、やっぱすごいよね」
碧人の手が、ぴたりと止まる。
「写真もうまいし、いつも自然に場を和ませてくれるし……blur_lineが律斗くんで、嬉しかった… 」
つい、なんとなく、場の空気を変えたくて。
この胸の緊張を、誤魔化したかっただけなのに。
数秒の沈黙のあと、碧人がぼそりと呟いた。
「……なんで、そんなこと言う?」
碧人の声が妙に重い。
「……え? いや、別に――」
僕は何のことかわからず、言葉に詰まる。
そのまま強い力がかかり、肩をぐっとつかまれ、背もたれに押し寄せられる。
次の瞬間──。
唇が、触れた。
熱い息が頬にかかり、心臓が激しく鳴る。
(……!)
これって。
初めてのキスは、強くて。深くて。
息が苦しいのに、なぜか身体から力が抜けていく。
おそらく数十秒……。正確な時間なんかわからなかったけど、まるで時が止まったようにとても長く感じた。
ようやく唇が離れたとき、碧人は僕の顔を見つめた。
視線が合う。
その視線は、ほんのわずかに揺れていた気がして。
無言のまま、碧人は、視線を逸らすと、立ち上がって部室を出ていった。
ひとり残された僕は、ソファに崩れ落ちた。
どくん。
どくん。
胸の鼓動が、全然収まらない。
唇がまだ熱い。
「……碧人……?」
どうしようもなく恥ずかしくなって、僕はとっさに顔を両手で覆った。
