あれは高2の秋だった。
寡黙で、だけど、僕の1番の理解者だった父が突然荷物をまとめて出ていったのだ。
「紘都元気でな」
そうひとこと。
寂しい顔をしてたのを今でも覚えてる。止めることもできなかった。
仕事ばかりの母さんだったから、父さんの気持ちも理解できた。
「付いて行きたい」
そんな事言ったら父さん困るだろうな…って。
あの後、母さんは、
「どうせあの女の所に行ったんでしょ」
悔しさ紛れの、でも、どこか晴れ晴れした顔で呟いた。
捨てられただなんて思わなかったし、悲劇ぶることもしなかった。
ただ──
一番傍にいて欲しい人とは、一緒にいられないんだって──
そのことはよく分かった気がした。
あの後だったかな。
たまたま目にとまった、画像投稿アプリ「写ロク」の一枚の景色。
「blur_line」
言葉はない。
ただ、風景だけで心に触れてくる。
寂しさとか、焦りとか、うまく言葉にできなかった感情を、その写真たちは、何も聞かずに包んでくれた。
ただ眺めているだけで、少しだけ、孤独が和らいだ。
フォローもフォロワーもほとんどいなかった自分のアカウントに、 犬とか猫とか、他愛のない日常を、ぽつりぽつりと密かにアップしていた自分が、少し恥ずかしかった。
それだけ、blur_lineの写真は僕に衝撃を与えたのだった。
こんなふうに、誰かの心に届く写真があるなら。 撮るって、こんなにも静かで、強いんだって。
ちゃんと、撮ってみたい。はじめて、そう思った。
自然に、フォローボタンを押していた。
それからほどなくして、blur_lineからもフォローが届いた時、
《まるで想いが通じ合えたみたいで〗
世界が変わるような気がして、とても嬉しかったのを覚えている。
*
翌日、放課後。
新校舎のガラス張りの廊下を抜け、渡り廊下の先にある別棟へと足を踏み入れる。
そこは、さっきまでの現代的な雰囲気とはまるで違っていた。
古びた木の床、どこか静かな空気。
まるで、時間の流れだけ遅れているみたいな、静けさをたたえた場所だった。
「写光研究会」──
通称“写光会”と呼ばれるその部室には、扉の横に重厚な木彫りの表札が掲げられていた。
太く彫られた文字の奥には、ほんのりと磨かれた艶があった。
長い時間の中で少しずつ馴染んできたような、静かな存在感。
その扉の前で足を止める。
(……ここで合ってるよな)
中の様子がまったくわからないせいか、なぜか少しだけ緊張してしまう。
入るかどうか迷っていると、背後から声が飛んできた。
「お、来た来た!ようこそ〜! 我が写光研究会へ!」
振り返ると、昨日会った、彼が僕を笑顔で迎える。とてもやさしくて、温かい眼差し。
「絶対来てくれると思ってたんだよね、てか、もう歓迎モード全開だし!」
あっけらかんと笑うその顔に、僕は肩の力が抜けた。少しだけ笑って頷く。
「今日は他の人いないけど、うちは来たいときに来るスタイルだからさ。ま、気楽にね」
そう言って、「どうぞ」と手を差し出し、扉を開ける。
ギイ、と少し音を立てて開いたその先は──
ふわりと、木の香りが鼻をくすぐる。
入ってすぐ右手には、今は使われていない暗室の扉。
そこを通り過ぎると、空間が一気に開ける。
部屋の奥には、深く沈んだ色合いのヴィンテージラグ。
曲線の美しいアンティークソファが、向かい合うように対で置かれていた。
背もたれや肘掛けには繊細な装飾が施されていて、まるで西洋の古い館にある応接セットみたいだった。
ロココ調の優雅さが、この空間に静かな非日常を添えている。
中央には、重厚なアンティークの丸テーブル。
窓際には、色ガラスのペンダントライトが淡く灯り、カーテンは深い赤のビロード地で、光を吸い込むように垂れている。
大きな窓の外には中庭が見えて、今の季節は紫陽花が咲いていた。
淡い青や紫の花が、そっと風に揺れている。
(……ここだけ、空気が違う)
誰もいないかと思ったそのとき──
部屋の奥。ロココ調のソファに、ひとりの男子生徒が静かに腰をかけていた。
開きかけたパソコンと、手元にはデジタルカメラ。
その佇まいは、長くこの場所にいる人のようで、空間にすっかり溶け込んでいる。
こちらに気づいても、特に驚いた様子はない。その静かな仕草が、なぜか妙に印象に残った。
「──あ、ちょうどいたわ。碧人〜」
呼ばれたその男子学生は、まっすぐ僕の方へ近づいてきた。
「宵宮碧人。俺と同級、写真──碧人がいちばん魅せるんだ」
そう言ったあと、律斗はニッと笑って、僕に小声で囁く。
「ホント、めっちゃすごいんだって。うちのエース」
そのやりとりを見ていた碧人は、僕をちらっと一瞥し、静かに一言だけ。
「……よろしく」
その瞳は、まっすぐで、少しだけ寂しげで──
何かを見透かすような透明さがあって、僕は一瞬だけ、息をのんだ。
「……あ、よろしくお願いします……」
自分でも思ったより硬い声だったなと、その後、なぜだか胸の奥がざわついた。
その夜。
ベッドに寝転びながら、僕はスマホを開く。
「写ロク」をタップすると、blur_lineの最新投稿が数分前に更新されていた。
そこに映っていたのは──
昨日、律斗と初めて言葉を交わした、中庭のベンチ。
見覚えのある角度。
差し込む光の具合さえ、朝の記憶とほとんど変わらない。
(……あれ?この場所……?)
指をタップして拡大してみる。
(いや、こんな偶然、ある? だって、これ──)
胸の奥が、かすかにざわめいた。
(もしかして、blur_lineって──同じ大学の人?)
ほんのひとコマの写真。
画面越しに、かすかな湿気や匂いまでよみがえる。
どうしても、目が離せなかった。
「……blur_line、あなたは、誰?」
そう、ぽつりとつぶやくと、僕はいつものようにルクを呼びたした。
《今日もはっぴー》
お決まりの明るい声でルクが起動。
《どないんしたん?紘都》
「……うん。なんでだろ、写真見てるだけなのに、落ち着かなくて」
《それはな、感情が動いてる証拠やで…その写真、誰が撮ったんか気になるってことは──その人が気になってるってことやろ?》
僕は小さく笑って、画面を見つめる。
なんだか自分でも知らない気持ちを、先に見つけてしまったみたいで。
だけど、ほんの少しだけ、あたたかかった。
ふわりと光るスマホの画面。
その向こう側で──静かに、でも確かに、“君”は近づいていた。
寡黙で、だけど、僕の1番の理解者だった父が突然荷物をまとめて出ていったのだ。
「紘都元気でな」
そうひとこと。
寂しい顔をしてたのを今でも覚えてる。止めることもできなかった。
仕事ばかりの母さんだったから、父さんの気持ちも理解できた。
「付いて行きたい」
そんな事言ったら父さん困るだろうな…って。
あの後、母さんは、
「どうせあの女の所に行ったんでしょ」
悔しさ紛れの、でも、どこか晴れ晴れした顔で呟いた。
捨てられただなんて思わなかったし、悲劇ぶることもしなかった。
ただ──
一番傍にいて欲しい人とは、一緒にいられないんだって──
そのことはよく分かった気がした。
あの後だったかな。
たまたま目にとまった、画像投稿アプリ「写ロク」の一枚の景色。
「blur_line」
言葉はない。
ただ、風景だけで心に触れてくる。
寂しさとか、焦りとか、うまく言葉にできなかった感情を、その写真たちは、何も聞かずに包んでくれた。
ただ眺めているだけで、少しだけ、孤独が和らいだ。
フォローもフォロワーもほとんどいなかった自分のアカウントに、 犬とか猫とか、他愛のない日常を、ぽつりぽつりと密かにアップしていた自分が、少し恥ずかしかった。
それだけ、blur_lineの写真は僕に衝撃を与えたのだった。
こんなふうに、誰かの心に届く写真があるなら。 撮るって、こんなにも静かで、強いんだって。
ちゃんと、撮ってみたい。はじめて、そう思った。
自然に、フォローボタンを押していた。
それからほどなくして、blur_lineからもフォローが届いた時、
《まるで想いが通じ合えたみたいで〗
世界が変わるような気がして、とても嬉しかったのを覚えている。
*
翌日、放課後。
新校舎のガラス張りの廊下を抜け、渡り廊下の先にある別棟へと足を踏み入れる。
そこは、さっきまでの現代的な雰囲気とはまるで違っていた。
古びた木の床、どこか静かな空気。
まるで、時間の流れだけ遅れているみたいな、静けさをたたえた場所だった。
「写光研究会」──
通称“写光会”と呼ばれるその部室には、扉の横に重厚な木彫りの表札が掲げられていた。
太く彫られた文字の奥には、ほんのりと磨かれた艶があった。
長い時間の中で少しずつ馴染んできたような、静かな存在感。
その扉の前で足を止める。
(……ここで合ってるよな)
中の様子がまったくわからないせいか、なぜか少しだけ緊張してしまう。
入るかどうか迷っていると、背後から声が飛んできた。
「お、来た来た!ようこそ〜! 我が写光研究会へ!」
振り返ると、昨日会った、彼が僕を笑顔で迎える。とてもやさしくて、温かい眼差し。
「絶対来てくれると思ってたんだよね、てか、もう歓迎モード全開だし!」
あっけらかんと笑うその顔に、僕は肩の力が抜けた。少しだけ笑って頷く。
「今日は他の人いないけど、うちは来たいときに来るスタイルだからさ。ま、気楽にね」
そう言って、「どうぞ」と手を差し出し、扉を開ける。
ギイ、と少し音を立てて開いたその先は──
ふわりと、木の香りが鼻をくすぐる。
入ってすぐ右手には、今は使われていない暗室の扉。
そこを通り過ぎると、空間が一気に開ける。
部屋の奥には、深く沈んだ色合いのヴィンテージラグ。
曲線の美しいアンティークソファが、向かい合うように対で置かれていた。
背もたれや肘掛けには繊細な装飾が施されていて、まるで西洋の古い館にある応接セットみたいだった。
ロココ調の優雅さが、この空間に静かな非日常を添えている。
中央には、重厚なアンティークの丸テーブル。
窓際には、色ガラスのペンダントライトが淡く灯り、カーテンは深い赤のビロード地で、光を吸い込むように垂れている。
大きな窓の外には中庭が見えて、今の季節は紫陽花が咲いていた。
淡い青や紫の花が、そっと風に揺れている。
(……ここだけ、空気が違う)
誰もいないかと思ったそのとき──
部屋の奥。ロココ調のソファに、ひとりの男子生徒が静かに腰をかけていた。
開きかけたパソコンと、手元にはデジタルカメラ。
その佇まいは、長くこの場所にいる人のようで、空間にすっかり溶け込んでいる。
こちらに気づいても、特に驚いた様子はない。その静かな仕草が、なぜか妙に印象に残った。
「──あ、ちょうどいたわ。碧人〜」
呼ばれたその男子学生は、まっすぐ僕の方へ近づいてきた。
「宵宮碧人。俺と同級、写真──碧人がいちばん魅せるんだ」
そう言ったあと、律斗はニッと笑って、僕に小声で囁く。
「ホント、めっちゃすごいんだって。うちのエース」
そのやりとりを見ていた碧人は、僕をちらっと一瞥し、静かに一言だけ。
「……よろしく」
その瞳は、まっすぐで、少しだけ寂しげで──
何かを見透かすような透明さがあって、僕は一瞬だけ、息をのんだ。
「……あ、よろしくお願いします……」
自分でも思ったより硬い声だったなと、その後、なぜだか胸の奥がざわついた。
その夜。
ベッドに寝転びながら、僕はスマホを開く。
「写ロク」をタップすると、blur_lineの最新投稿が数分前に更新されていた。
そこに映っていたのは──
昨日、律斗と初めて言葉を交わした、中庭のベンチ。
見覚えのある角度。
差し込む光の具合さえ、朝の記憶とほとんど変わらない。
(……あれ?この場所……?)
指をタップして拡大してみる。
(いや、こんな偶然、ある? だって、これ──)
胸の奥が、かすかにざわめいた。
(もしかして、blur_lineって──同じ大学の人?)
ほんのひとコマの写真。
画面越しに、かすかな湿気や匂いまでよみがえる。
どうしても、目が離せなかった。
「……blur_line、あなたは、誰?」
そう、ぽつりとつぶやくと、僕はいつものようにルクを呼びたした。
《今日もはっぴー》
お決まりの明るい声でルクが起動。
《どないんしたん?紘都》
「……うん。なんでだろ、写真見てるだけなのに、落ち着かなくて」
《それはな、感情が動いてる証拠やで…その写真、誰が撮ったんか気になるってことは──その人が気になってるってことやろ?》
僕は小さく笑って、画面を見つめる。
なんだか自分でも知らない気持ちを、先に見つけてしまったみたいで。
だけど、ほんの少しだけ、あたたかかった。
ふわりと光るスマホの画面。
その向こう側で──静かに、でも確かに、“君”は近づいていた。
