千春にとっての死活問題、その一。
この春、アコースティックギター部の部員が二年生の千春一人になったこと。
千春にとっての死活問題、そのニ。
このままでは愛する部活が廃部に追い込まれる可能性が高いこと。
千春にとっての死活問題、その三。
実は「一人でやる部活動」を気に入っていること。
つまり、部活動を続けたい気持ちはあるのに、部員を増やす気は特にないのである。
それでも今日の入学式に向けて、一応は新入部員募集のチラシを用意した。紙いっぱいに描いたのは、千春の相棒。木目が綺麗なアイボリーのアコースティックギター。ふと思い立って桜色に塗ったら、見事なまでに何の絵だかわからなくなった。
このチラシを配ると思うと気が重い。風に散りゆく桜の下、千春は俯き加減に体育館から出てくる新入生を待った。
「千春」
名前を呼ばれて振り返る。いつの間にか隣に立っていたのは唯一の友人、帰宅する準備万端の吉田圭太だ。彼の視線は千春の手元、つまりは桜色のギターに向いている。
「それ、千春が描いたの」
圭太の言葉に、千春は慌ててチラシの表を胸に押し当てた。
「あれか、ピンクカブトムシ」
真剣な顔でそう言った圭太は、まだ興味津々にチラシを覗き込もうとする。
「……これは、ギター」
「えっ」
なかなかの衝撃を受けたらしい彼は、なぜだかわざとらしく桜を見上げた。
「千春は、あれだな。創造力があるな」
「……今更フォローしたって遅いよ」
千春は小さく溜息をついた。
「もういいや。ギター弾きに行こうかな」
ピンクカブトムシとやらを配る勇気はない。体育館のあたりがざわついてきたことがわかって、むしろ本格的に撤退を決める。
「待て待て、千春。新入生は見ていこうぜ」
「なんでだよ」
「先輩風吹かしたいから」
「帰宅部のくせに」
「あっ、新入生じゃないか」
圭太のせいで逃げるタイミングを失ってしまった。我ながら微妙な顔をして立ち竦む。いつの間にか吹奏楽部とサッカー部に挟まれ、活気の中で気配を消した。
突然、強い春風が吹いた。桜の花が舞い散って、新入生たちを包んでいる。その中の一人と目があった瞬間、あまりの衝撃に目を見開いた。
「すげえな」
圭太も同じ人物を見ているのだろう。千春は頷くことさえ忘れた。本当に男子高校生だろうか。まるで全身が光っているように美しい。彼は色々な部活からチラシを受け取り、たまに話を聞く様子を見せながら徐々に近づいてくる。誰もが彼を待ち望んでいる空気だ。
「じゃあ、俺は帰るな」
圭太の声に我に返る。千春も慌てて頷いた。
圭太と手を振り合って、向かったのは生物準備室だ。昨年度、先輩たちが引退するまでは第二音楽準備室が部室だった。ところが部員が千春一人になった瞬間に、生物準備室に追いやられたのだ。北校舎の一階にある、一番奥の狭い部屋。ガラリと開けると、いつも埃と木と、薬品が混ざったような匂いがする。人体模型に骨格標本。ホルマリン漬けの瓶。本物なのか微妙な剥製。特に、鷹だか鷲の目が少し怖い。それでもここは、千春の城だ。ドアは少し開けておく。そして、部屋の奥の窓も全開に開けた。こうしないと、歌うたびに埃のせいで咳が出るのだ。
「さて」
千春の声は、小さな部屋に溶け込んだ。人体模型の隣に隠してあるギターを手に取って、窓際に置いた丸椅子に腰掛ける。足を軽く組んで、ギターを構えた。硬くなった指先が弦に触れる。優しい響きに、頬が緩んだ。アコースティックギターは歌をのせるのにちょうど良い。優しい音色が世界を作り、どこまでも広がるのだ。
チューニングを済ませると宙を見上げる。
「んー、何歌おう」
右手でアイボリーを撫でて、それからそっと目を瞑った。
せっかくなら、春の歌だ。軽く弦を弾き、アルぺジオを奏でる。窓から風が吹き込んで、生物準備室の空気をかき混ぜた。息を吸い込んで、声を響かせる。昭和の女性アイドルが歌った春の歌。春の歌というより、これは恋の歌かもしれない。千春にとってはまだ見ぬ恋。優しいメロディーに春の空気が混じり、世界が調和していく。誰に聴かせるわけでもない。それでも最後の一音まで、千春は心を込めて歌い上げた。空間に溶けていくギターの音。我ながら最高の仕上がりに、思わずネック部分に頬を寄せた。
そうやって空が夕日に染まるまで、千春はギターと音楽を奏で続けた。一枚も配れなかったチラシは、一応頑張った証拠として一枚だけ生物準備室に飾り、他は千春が一人で暮らす四畳半のアパートに持ち帰った。証拠隠滅、完全犯罪である。それでも、職員室のコピー機で二十枚も刷ったことを、心の底から謝りたかった。
畳の上には、小さなテレビとちゃぶ台、そこにチラシの束が増えた。たまに隣の部屋から調子はずれの歌が聞こえてくる。おかげさまで壁の薄さを理解しているため、家では歌えないのである。
千春は高校入学と同時に家を出た。家族の不和が理由だ。親戚の紹介で入ったこのオンボロアパート。
「そうか、一年経ったのか」
あっという間の一年だ。静かで、辛くて、想像以上に快適な一年。千春はおもむろに、点滅する電球を見上げた。入居した日からずっとチカチカしている。いつか替えようと思いながら、今日まで放置してきたのだ。
「まだ消えないでね。ちょっと面倒だからね」
素直にそう囁いた瞬間、図ったように暗くなった。
◆
入学式の日から今日で何日目だろうか。四畳半のカーテンを静かに開けると、見事なまでの快晴だ。
アコースティックギター部には今日も誰も来ないだろう。そんな部活があることすら、新入生は知らないかもしれない。それでも千春は七時には家を出た。毎日のルーティン、朝練習に向かうのである。乾いたアスファルトを叩くローファーの音。校門を入ると、すでに運動部が走り込みをしていた。邪魔をしないように校庭の隅を通って、寄り道せずに北校舎の生物準備室へ向かう。ガラリと扉を開けると、窓から差し込む朝の光に、埃がチラチラと光って見えた。相変わらずひっそりとした空気の中、剥製と目を合わせないように窓を開け、ギターを手に取る。軽くチューニングをして、千春は小さく咳払いをした。朝の一曲は、太陽をモチーフにした歌に決めた。今日という日が、平凡でも少しくらいは良い日になるように、ゆったりと弦を弾く。朝は喉が開かない。それでも目を瞑って、息を吸い込んだ。ギターの音色に乗って生物準備室を漂う明るい歌詞。今日も楽しくてたまらない。
カシャリ
生物準備室に響いた異質な音。世界が崩れた。ギターの不協和音が響く中、驚いて目を開ける。相変わらず不気味で薄暗い世界が広がるだけだと思った。でも次の瞬間、強烈な違和感。換気のために少しだけ開けておいた入り口に、カメラを構えた男子生徒が立っている。
「へ?」
思わず間抜けな声が出た。その瞬間に、もう一度カシャリ。
目を丸くして固まっていると、カメラを下ろした男子生徒と目が合った。
「え、え?」
彼の名前は千春でも知っている。新入生であり学校一の有名人、白井耀生。入学式の日。桜の花びらが舞う中、その美しさは誰よりも目立っていたことが思い出される。そんな耀生が、平凡よりも地味寄りの千春へカメラを向ける。
「な、なに」
「あ、喋った」
またカシャリ。千春は慌てて顔を伏せた。カシャリ。
「撮らないでよ」
顔を腕で覆いながら嘆くと、耀生が入室する気配。あまりにも異様な状況に、体の芯から震えてしまう。上履きが木の床を歩く音と、静かな衣擦れ。恐る恐る目の前を覗くと、信じられないほど美しい顔が真正面まで来ていた。
「なんでって、そんなの決まってるじゃないですか」
形の良い眉、長い睫毛、綺麗な目。嬉しそうな表情に、ゾワリと鳥肌が立った。
「千春先輩が最高だからです」
満面の笑みは、生物準備室の中で輝いた。
◆
夕方のホームルーム前。教室の空気が一番穏やかになるその時間にもかかわらず、千春はげっそりとしていた。
「千春、大丈夫か?」
唯一の友人である圭太に尋ねられるほどには酷いのかもしれない。
「大丈夫じゃない。助けてよ」
切実に懇願するような声が出る。圭太は瞬きをして首を傾げた。
「何をだよ」
「それが」
千春は圭太に顔を寄せ、なるべく声を潜めた。
「白井耀生、知ってるだろ。入学式で見たすごい新入生」
「もちろん」
「俺が部活してると、あの子が写真を撮ってくるんだ」
あの朝から三日連続だ。朝練習を諦めて昼練習にしてみても現れるし、夕方は毎日やってくる。おかげで呑気に歌っている場合ではなくなった。それは耀生のせいなのに、彼は生物準備室へとやってくると千春に歌うように強要する。とんだカツアゲである。
「お前、それは流石に嘘」
「えぇ!」
大きな声が出た。まさか信じてもらえないとは思っていなかったのだ。
「白井耀生が俺らみたいな存在を視界に入れるわけがない」
「でも本当なんだってば」
「それは夢だよ、大丈夫。一人で部活してる副作用だ」
「夢じゃない」
必死で訴えかける千春に対して、圭太は「千春」と諭すように名前を呼んだ。
「いいか、他の奴には言うなよ。虚言癖があるって思われたら大変だからな」
信じてもらえないどころか嘘つき呼ばわりをされるだなんて、余計にげっそりである。恨めしく思いながら圭太を見上げると、彼は肩を竦めて「まあまあ」と言った。
「確かにお前はよく見ると可愛い。よく見るとな。特に変じゃないって感じ」
「全然褒めてない。むしろこっそり貶してるな」
「つまりな、俺にはお前の魅力はわかるよ。だけど、白井耀生が写真を撮りたくなる要素はない」
そんなこと、言われなくてもわかっている。全校生徒が息を呑むほどに美しい耀生が、どうして千春なんかを撮るのか。それが全くわからないから困っているのだ。
「まあ、あれじゃないの。生物準備室の亡霊だと思われてるのかもな」
「亡霊……」
「それか、座敷童」
そう言われると、なぜだか少し腑に落ちた。確かに千春は座敷童感があるかもしれない。耀生は千春というよりは、生物準備室の異様な雰囲気に好奇心を抱いているのだろう。
ただ、それがわかっても問題は少しも解決していないのだ。今日もこれから部活に行きたいのに、溜息が漏れるほどには気が重い。
それでも千春は、相変わらず薄暗い生物準備室を訪れた。他にギターを弾ける場所がないからだ。ギターを持ち出して、今日はきっちりと扉を閉める。代わりに窓をいつもより少し多く開けて、自分は入り口の扉に寄りかかって床に胡座をかいた。こうすれば、いつも廊下側から現れる耀生にも見つからないだろう。ポロンポロンとギターを鳴らすと心が落ち着く。窓の外には青い空の下で葉桜が風に揺れている。今日は何の曲を歌おうか。そう考えると、段々と心が弾んできた。今日みたいに爽やかな日は、明るくて爽快な歌が良いだろう。千春の心もきっと晴れる。目を瞑って息を吸い込むと、いつもより重い埃の匂い。本当は換気がしたいなと思いつつも、ギターの音色に乗せて喉を震わせた。
カシャリ。
最悪だ。ここ最近悩まされていたから、幻聴が聞こえるのかもしれない。でも気にしないことに決めた。だって彼の侵入経路は絶っている。ここからサビにかけての盛り上がりが好きなのだ。カシャリ。カシャリ。幻聴は続くけれど、最後まで歌いきる。
ギターの余韻までしっかり楽しんで、我ながら完璧だったはずだ。ふわりと目を開ける。
「ひぇっ」
自分でも驚くほどに間抜けな声が出た。パチパチと瞬きを繰り返す。窓の外に、確かにカメラがある。
「はい、笑って」
笑えるもんか。顔を引き攣らせていると、カメラの向こうから美しい瞳が現れた。なぜだか呆れたような表情をして、瞳の持ち主である耀生は「よいしょ」と言いながら窓枠を軽々と飛び越えてきた。
「うわ!」
生物準備室の空気がかき混ぜられる。目を丸くした千春に、耀生はさらに呆れたように首を傾げた。
「そろそろ慣れてくれませんか」
「慣れるわけないだろ!許可もしてない」
「毎日撮ってるのに、反応が新鮮すぎるよ」
「毎日撮らないで」
「いや、最高な被写体がいれば撮るでしょ」
耀生はそう言うと、先程まで千春が歌っていた曲を口ずさみながらカメラを操作し始めた。この隙に逃げてしまおうか。こっそりと立ちあがろうとすると、それを遮るように耀生がカメラの画面を見せてきた。
「見て」
「……え?」
画面を覗き込んで驚いた。場所は確かに薄暗い生物準備室。見慣れているはずの場所に、ギターを抱えた少年が座り込んでいる。状況から見れば少年は千春で間違いない。それなのに、まるで孤独で美しい物語の中のようだ。思わず耀生を見上げた。
「ね。最高でしょ」
頷きかけて、誤魔化すように瞬きをした。ここで認めてしまったら、まるでナルシストみたいだ。でも、本来ないはずの千春の煌めきのようなものが、確かに写真に収められていた。
「だから、明日からも撮りますよ」
当然のように告げられたことに、慌てて首を横に振る。
「そ、それは困る」
「撮ります。そうしたら、俺はいつでも思い出せるから」
思わず眉を寄せた。
「……思い出すって?」
「千春先輩の歌、ギターの音色。初めて会った日も言ったでしょ。最高だって」
最高という言葉は、まるで信じられない。人に聴かせるような代物ではないはずだ。さらには、それが耀生にとって何になるというのか。
「先輩の歌を初めて聴いたのは入学式の後。桜の花びらが舞っていました」
何か突然語り出した。耀生は遠くを見ながら、うっとりと言葉を紡いでいく。
「歌声に導かれてこの扉から覗いた時、鳥肌が立ちました。この一瞬を残さないといけないって思ったんです」
「は、はあ」
「正直カメラに興味はありません。でも、先輩には写真の儚さがよく似合う」
耀生は綺麗な瞳で千春のことを確かに捉えると、にこりと微笑んだ。窓から風が吹き込んで、二人をくるりと包み込む。
「廃部の危機なんでしょ」
「え?」
「先輩、一人きりだって」
気にしていないはずなのに、少しだけ胸が痛くなる。
「それに、廃部になったら学校で歌えないって聞きました」
「そ、そうなの?それは知らない」
唖然としながら耀生を見る。正直、廃部になっても勝手に歌えるものだと思っていた。そんな千春をちらりと見て、耀生はそっと腰を屈めた。美しい顔がグッと近づいてくる。
「だから、俺と手を組みますよ」
耀生からふわりと香るのは、春というよりは夏のような爽やかさだ。心臓を跳ねさせながらも、千春は小首を傾げた。
「……それは、どういうこと?」
耀生が得意気に鼻を鳴らして、にこりと微笑む。
「俺が写真部を代表してアコギ部の広報係になります」
「えっ?」
全く理解が追いつかない。必死で思考を巡らせる。
「一緒に部の存続をかけて頑張ります」
戸惑う千春に対して、意思の強そうな煌めく瞳。彼は本気のようだ。でも、どうしても納得できない。
「……耀生くんは、そんなにギターが好きなの?」
唯一の可能性を思いついて尋ねると、耀生は少しだけ顔を顰めた。それから腰を伸ばして姿勢を正し、千春を見つめる。
「まさか。俺が好きなのは、千春先輩です」
◆
知らせは突然やってきた。
「悪いけど、五月中に部員があと四人は集まらないと廃部だな」
職員室に呼び出されたと思ったら、突然の最終通告だ。顧問の発した言葉がぐるぐると頭の中を回る。せめて千春が所属している間は温情をかけてくれると淡い期待をしていた。
「生物準備室も、本来は生物研究部が使いたいらしいからな」
そんな謎の部活、本当にあるのだろうか。自分のことは棚に上げて、疑問を抱きつつも考える。もしも廃部となって生物準備室を追い出されたら、千春はどこで歌ったら良いのだろう。
「もちろん、部活じゃなくなるんだから、学校での演奏は許可できない」
「えぇ!」
「当たり前だろ。水原を許したら他の生徒だってなんでも許されることになる。秩序が乱れる」
反論しようとして、結局口を噤んだ。悔しいけれど、確かにその通りかもしれない。
「でも良かったな」
「えっ、なにがですか」
今の所、良い要素だなんて一つもないではないか。そう思うのに、顧問はどこか楽しそうに笑っている。
「一年の白井が広報してくれるんだろ」
「……なんでそれを知ってるんですか」
「もちろん、俺が許可をしたからな」
どうやらすでに根回しされているらしい。千春はガックリと肩を落とした。
職員室を後にして、生物準備室へ向けてトボトボと歩く。第二準備室から追い出された先の生物準備室。薄暗くても、朝と夕どちらも独特な光に染まるあの部屋が、今では結構好きだ。ただ、すでに五月。あと一ヶ月弱でどう事態が好転すると言うのだろう。窓の外はこんなにも晴れているのに、心はしんみりと沈み込む。やはり、耀生に広報をしてもらうしかないのだろうか。
「でもなぁ」
全く気が進まない。だって、あのやたらと美しい少年は、毎日息をするように千春を揶揄うのだ。よりによって好きだなんて、面白くもない冗談で千春を頻繁に困らせる。
「でも、やらないと廃部ですよ」
突然耳元で聞こえた声に、体がピャッと跳ねた。聞き覚えのある声に振り返ると、耀生が楽しそうに笑っている。
「ね。ちゃんと顧問の先生にも話をして、準備万端なんです」
本格的に頭痛がしそうで、思わず額に指をやった。
「あのねぇ」
「あとは、最高な千春先輩がどれだけ最高か、学校中に知らしめるだけ」
「最高なのは俺じゃなくてアコースティックギターなの」
「試しに路上ライブしてみませんか。いや、路上ライブというか、校庭ライブ」
「や、やらないよ」
「なんで?」
なんでもなにも、人前で歌うだなんて千春には荷が重すぎる。その上、千春の歌を誰が聴くというのだろうか。
「無理なもんは無理なの」
「じゃあ、俺が適当に弾いちゃいますよ」
「えっ!」
この「えっ!」は、驚きや悲観的なものではなく、むしろやってくれるのかという喜びの「えっ!」である。それが通じたのか、耀生は肩を竦めて首を横に振った。
「まさか、嘘ですよ。俺はアコギ部員じゃないですから」
「なんでだよ。入ってよぉ」
学校中から注目の的である耀生が入部したら、集客効果ならぬ集部員効果が十分にあるだろう。
「入部なんかしたら俺もアコギ弾くんでしょ。写真が撮れないじゃないですか。そんなのつまらない」
「つまらないってそんな。ギター楽しいよ?」
耀生は再びフルフルと首を横に振った。
「俺は千春先輩を撮りたいんだから。千春先輩の作る世界を捉えたい。千春先輩の世界に無闇に入って壊したくないです」
どこまでも不思議な子だ。我ながら複雑な顔をして耀生を見ていると、突然右手を掬い取られた。思ったよりも大きく、温かい手。そのまま勢いよく引かれると、ふわりと爽やかな匂いがした。
「さあ、校庭ライブの練習しますよ。選曲はキャッチーなのが良いですね」
「だからやらないって。俺がギター弾いて何になるの」
「ギター弾いて、ちゃんと大きな声で歌ってください。この俺が惚れたんですから、部員の十人や二十人くらいならすぐ集まります」
惚れたなんて絶対嘘だ。そう思うのに褒め言葉が少し嬉しいのだから、千春は短絡的だし、耀生は罪な男である。
「あ、耀生くんだ」
「耀生くん」
「なんで手繋いでるの」
廊下の向こうから歩いてきた女子生徒の集団が、賑やかに耀生に話しかける。繋がれた手を必死で離そうとすると、かえってぎゅっと力を入れられてしまった。
「この人は千春先輩。俺の好きな人なんだ」
女子生徒たちが驚いて、顔を見合わせる姿。純粋に居た堪れなくなって、必死で首を横に振った。
「嘘、嘘!」
クラスの女子とも話したことがないのに、千春は懸命に女子生徒たちに弁解した。耀生は繋いだ手をブンブンと振って楽しそうだ。
「そうそう、みんな。再来週の金曜日、花壇の前でライブするんだ」
信じられない。目を見開いて耀生を見た。
「ライブ?」
「友達呼んで来てね」
「耀生くんが歌うの」
「まさか。千春先輩だよ。最高なんだ」
馬鹿野郎と叫ばなかった自分を褒めてやりたい。その代わり、表情まで使って一生懸命に否定する。
「来なくて良いです。最高じゃないし、こちらの耀生くんは本当に歌わないので、絶対に来ないで!」
半ば叫びながらその場を後にした。振り解こうにもどうしても離れない手を引いて、最早逃走だ。後ろからは楽しそうな笑い声がついてくる。
必死に生物準備室までくると、今度は本気でその手を振り解いた。そして勢いよく耀生を振り返る。
「耀生くん!」
「はい?」
耀生は能天気に笑っている。
「君って最低!」
「……え?」
耀生は意外だとでも言いたそうに目を丸くした。頭がおかしくなりそうだ。
「毎日毎日毎日。好きだの、最高だの、歌えだの!いい加減にして」
もうどうしようもなくて泣きそうだ。いや、すでに目に涙が溜まっている気がする。それが恥ずかしくて情けない。
「俺は、耀生くんとは何もかも違う。平凡で地味で、美しくもなければ才能もない。薄暗い生物準備室にさえ居場所をもらえないかもしれない存在なんだ」
耀生はカメラで撮った平凡な被写体さえ美しく煌めいて捉えられる。その上、綺麗で性格も明るく、何をやっても上手なのだろう。耀生と千春は人間性や生き様に天と地の差があるのだ。怒りだか悲しみだか、自分でもよくわからないけれど体が震える。怒りを表現するために精一杯睨みつけると、耀生は大きく息を吐き出した。
「いい加減にして欲しいのはこちらですけど」
吐き捨てるようにそう言った彼は、どう見ても怒っている。美しい顔には表情がなく、それが氷のように綺麗だ。思わず耀生の顔を凝視してしまう。
「よくもまあ、俺の千春先輩をそんな風に言いますね」
今、なんと言われたのだろうか。俺の、とか言ってなかっただろうか。
「俺の千春先輩は美しいです。才能もある。ギターを弾いて歌う姿は格別です」
「え、えっと」
「本当は誰にも見せたくない。でも、見てもらわないと先輩の魅力はずっとこの暗い部屋の中。廃部になったらこの居場所すらなくなるんでしょ」
居場所の問題はその通りだ。五月を過ぎたらこの学校で歌うことはできない。自宅は壁の薄い四畳半のアパート。小さな音でも練習できない。それこそ死活問題であるのは間違いない。黙ったままの千春を、耀生は鋭い眼光で貫いた。
「先輩の魅力を、俺が証明するって言ってるんです。俺が全責任を負います」
言葉すら美しい後輩だ。あまりの美しさと説得力。それに対して無力な自分自身が居た堪れなくて、思わず悔し涙が溢れた。
◆
悔し涙を流したあの日は月曜日だっただろうか。今日が木曜日。もう三日ほどまともにギターに触れていなかった。そろそろ摂取不足による禁断症状が出そうだけれど、生物準備室で耀生に会ってしまったら最悪だ。なぜこんなことで悩まなければならないのだろう。ぼんやりと机を見つめて、溜息をつく。
「千春、大変だ!」
腹を括ってギターを弾きに行くか、さっさと帰るか。その二択で悩んでいたところで、すでに帰宅したはずの圭太が慌てたように教室へ戻ってきた。その並ではない様子に、思わず首を傾げる。
「どうしたんだよ」
「お前を題材にした個展が開かれてる」
「……はあ!?」
千春を題材にした個展とは一体。慌てて立ち上がると、圭太の後に続いて教室を飛び出した。
現場へ辿り着くと、千春は唖然とした。花壇の横に設置された掲示板と、勝手に増設されたらしいホワイトボード。それらにさまざまな大きさの写真が貼り付けられている。光が差し込む薄暗い部屋で、空気がキラキラと輝く様子。美しく静かな世界でギターを抱えた少年の姿、横顔、後ろ姿。顔ははっきりと出ていない。でも確かに、これは耀生が撮影した千春に違いなかった。
「最初は綺麗な写真だとしか思わなかったんだけど、やっぱり千春だよね」
「う、うん」
「お前の話、本当だったんだな」
圭太の指さす場所を見上げると、そこには個展名が大きな文字で書かれていた。
「白井耀生の愛する世界」
ゆっくりと読み上げて、頭を抱えた。題名の下には文章が貼り付けてある。
「再来週金曜日、この場所でアコースティックギター部のライブを開催します。入部は大歓迎。ただし、写真や動画撮影は禁止」
読み上げた圭太が千春の背中を優しく撫でた。
「お前、可哀想だな。こんなキャラじゃないのに」
「うぅ……」
こんなことになるだなんて。とにかく、写真を剥がそう。そう決意して写真に手を伸ばすと、千春の腕を華奢な手が掴んだ。
「耀生くんの作品にさわらないで」
「そうよ。耀生くんの愛する世界なんだから」
ポカンと口を開けて、女子生徒たちと写真を交互に見る。
「写真部に入ったなんて意外だと思ったけど、こんなに上手なんだ」
「私も入部しようかな」
耀生の人気は絶大なのに、再来週のアコースティックギター部のライブとやらに興味を示す人間は一人もいないらしい。当然やるつもりはないのに、少し切なさを感じるのは何故だろうか。
「白井耀生本人にやめさせた方がいいかもな」
圭太のアドバイスに、千春は仕方なく頷いた。
圭太と別れて迷わず向かったのは生物準備室だ。ここに来れば、きっと耀生は姿を現すはずである。そう思ったのに、待てど暮らせど耀生は現れない。暗い部屋で立ち尽くして、千春は一体何をしているのだろうか。時折窓から風が入るだけの静かな生物準備室。ぼーっと立ち尽くしていると妙にウズウズして、部屋の隅に置いたギターが気になってしまう。弾きたくて、歌いたくて、ぎゅっと口を引き結んだ。そして十秒後、とうとう我慢の限界で、千春はギターに手を伸ばした。
窓際の椅子に座り、ポロンポロンとチューニングをしてジャランと音を鳴らす。優しい音色に癒される。思わず微笑んで、ギターを優しく撫でた。
カシャリ。
ハッと顔を上げた。キョロキョロと見回すけれど、どこにも耀生の姿はない。幻聴だったのだろうか。首を傾げて、少しだけ宙を見上げる。今日は何を歌おうか。
カシャリ。
今度は確かに聞こえた気がして、思わずギターを抱えて立ち上がった。カシャリ、カシャリ。音のする方を目で辿る。
「うわ!」
骨格標本越しに、カメラのレンズが煌めいた。
「な、何やってるんだよ!」
「待ち伏せ作戦です。どうせ来るだろうと思って」
耀生は骨格標本をそうっと動かすと、棚の奥からのそりと現れた。カメラを庇いながら立ち上がって制服の埃を払うと、にこりとカメラを構える。
「はい、久しぶりの再会ですね」
カシャリ。顔が引き攣ってほぼ変顔だったはずだ。それでも耀生は満足そうに画面を覗いて、それから少しだけ頭を下げた。
「千春先輩、ごめんなさい」
「……え?」
「俺が悪かったです」
突然の謝罪に言葉を失う。千春の気持ちが伝わったのだろうか。真剣に戸惑っていると、耀生は美しい形の眉を下げて、見るからにしょんぼりとしてみせた。
「順序を間違えました」
「順序?」
確かに順序は間違えまくりだとは思う。千春の気持ちは無視をして、ずっと突っ走っていた自覚があるのだろうか。勝手な個展のことを問い詰める前に、ちゃんと話を聞くべきかもしれない。
「まず、今までも伝えていましたが、俺は千春先輩に惚れています」
「……だから」
またわかりやすい嘘をつくものだ。思わず呆れると、耀生は大真面目な顔で口元に人差し指をあてた。
「静かに。俺が話してますよ」
なんて自分勝手なのだろう。そう思うのに、思わず「ごめんなさい」と言ってしまった自分が情けない。
「つまり俺は、千春先輩のことを愛しています」
「はい?」
「ギターに嫉妬するほど、本当は写真を誰にも見せたくないほど」
「あんな大々的に個展を開いておきながらよく言うよ」
「身を切る思いで写真を貼ったんです。俺の宝物なのに」
耀生はそう言うと、カメラを大切そうに抱きしめた。そして千春をしっかりと見つめる。
「見てください、可哀想な俺。本当はカメラじゃなくて、先輩を抱きしめたいんですよ」
「えぇ……」
なんて反応したら良いかすらわからない。そんな千春に対して、耀生は姿勢を正した。真っ直ぐに見つめられると、どうしてか動けなくなる。
「千春先輩、大好き。歌声に惚れたと思ったのに、先輩の世界を好きになって、気がついたら先輩を好きになってた」
「……はあ」
「全責任を負うって言ったでしょ。俺は先輩のために、アコギ部員を増やします。もし増えなかった時は、その時は」
どうするつもりだろうと黙っていると、耀生は大きく息を吸い込んでから口を開いた。
「先輩と結婚します」
「なになに!?」
「防音の部屋を借りて一緒に住みましょう。学生ですから、同棲から」
「いや、あの」
「俺も一人暮らしですから身軽です。先輩もでしょ」
なぜ知っているのだろう。思わず目を丸くすると、耀生は大きく頷いた。
「どちらにしても、俺が先輩の歌とギターを守ります」
ふわりと浮かべられた笑顔。その表情はとても綺麗で、千春は混乱の中にもかかわらず、少しだけ見惚れてしまうのだった。
◆
あれは本気の目だった。絶対に冗談なはずなのに、本気に見えたのだ。だからこんなにも悩んでいる。
もう月曜日になってしまった。つまりは来週の金曜日、アコースティックギター部としてライブをしなければならない。千春が歌うことで部員集めに効果があるのかもわからない。それなのにライブをする方向に思考が向かうのは、部員を集めて部の存続を決めないと千春は耀生と結婚しなければならないらしいからだ。いや、結婚ってなんだ。そんなの無理なのに、何を悩むことがあるのか。ただ、あの男ならやりかねないと思っている自分がいる。
頭の中が忙しくて、思わず天を仰いだ。手元には大好きなギターがあるのに、どうしても集中できない。
「さて、ライブでは何を歌いますか」
「うわあ!」
久しぶりに窓からの登場だ。彼はカメラを抱えると、いつかのように窓枠を身軽に飛び越えてきた。
「マジで勘弁してよ」
胸を押さえながらそう言うと、耀生は得意気に笑顔を見せた。
「安心して。ライブは俺が絶対に成功させるから」
「だって、歌うのは俺でしょ」
思わずムキになると、耀生は目を丸くしてパアッと表情を輝かせた。
「歌う気になってくれたんだ!嬉しい」
「あ、いや」
「俺の好きな曲リクエストしても良い?もちろん、別の曲を歌っても良いから」
「だから」
千春の抵抗虚しく、耀生はポケットからスマートフォンを取り出すとプレイリストを開いた。そして流れ出した曲は。
「あ、この曲」
平成の時代に流行した、可愛らしい恋の歌だ。千春も好きなテイストだけれど、この曲はコードが難しい。少し挑戦しては諦めていた曲である。
「あとね、この曲」
次の曲はしっとりとしたバラードだ。これは少し哲学的で、やはり恋の曲なのかもしれない。耀生の選曲センスは千春の好みと似ていた。
「弾けそう?」
「わからない、けど」
弾けそうなコードだけ鳴らして、簡単にメロディーを口ずさむ。難しいけれど楽しい。
「すごい!さすが俺の千春先輩」
目を輝かせた耀生に手を叩いて褒められる。照れ臭くて笑みを溢すと、耀生が「あっ」と声を上げた。
「今の顔、可愛い」
「……へ?」
「撮りたかった。もう一回その顔して」
「いや、無理だよ」
「えぇ」
残念そうに唇を尖らせる。でも、千春はやれと言われて表情を整えられるタイプの人間ではない。
「まあいいや。これからずっと一緒にいる予定なので、またシャッターチャンスを狙います」
耀生はカメラを掲げて、完璧な笑顔を見せた。
「さて、今日はそろそろ帰ります」
じゃあね、と言いながら、手を振ってきちんと廊下から出ていくその姿に少しだけホッとする。それは、耀生の顔が美しすぎるからだろうか。瞼を伏せると影を作る長いまつ毛も、輝く瞳も。女の子のように可憐なのに確かに精悍で、絶妙なバランスが綺麗なのだ。もし千春がカメラ小僧だったら絶対に被写体として選びたい。いや、それは流石に恐れ多いだろうか。一人で考えながらギターを片付けて、千春も生物準備室を後にする。今日はアルバイトだ。
北校舎をゆっくりと歩いていると、多目的室が賑わっていた。ここは写真部の部室となっている。聞く話によると、耀生が入部したことによって部員がかなり増えたらしい。
「耀生の写真、本当に綺麗だよね」
「アコギ部の広報を頑張るって張り切ってるからな」
漏れ聞こえてくる声に自然と耳を傾けてしまう。
「でもさ、あの被写体誰?本当にアコギ部?」
「耀生は本気で可愛い人だって言ってるけど、多分写真が上手いだけなんだろうな」
悪意はないのだろう。でも、千春の心はずんと重くなった。結局みんな耀生にしか興味がないのだ。アコースティックギターの音色も、もちろん千春の歌声にも、全く興味がない。つまり、地味で平凡な千春がライブを行うなんて恥ずかしいことなのではないだろうか。心が沈み込んでいく。
「やっぱり、やめようかな」
小さく呟く。それが絶対に正解だとわかるのに、なぜだか心がざわついた。
◆
耀生の人生は順風満帆である。そこそこ金持ちで、実家から遠い学校にも援助を受けて通わせてもらえている。容姿も性格も割と良い方である自覚があり、手先も器用な方だ。そんな耀生は今、人生始まって以来の最大の困難に立ち向かっていた。
まさか高校一年の春、年上の男子生徒に心奪われるなんて誰が思うだろうか。女の子には勝手にモテまくってきた人生。苦労なんてしたことがない。それなのに薄暗い生物準備室から聞こえてきた歌声を聞いて以降、自分でも意味がわからないままに好きになってしまった。最初はもちろん葛藤があった。でも彼を想うだけで世界が煌めいて、彼の全てを自分のものにしたくなる。気がついたら帰宅部志望にもかかわらず、合法的に写真を撮るためだけに写真部に入部するほどには大好きになっていた。
「お前さ、最近変すぎる」
久しぶりに会った親友は眉を顰めながらそう言った。初めて訪れたハンバーガーショップは夕方の賑わいを見せている。自分で買ったのにもかかわらずポテトをつまむわけにはいかない。油でカメラが汚れたら困るのだ。
「そろそろカメラしまえよ」
「いやだ。俺の千春先輩が泣く」
水原千春。猛烈に好意を伝えても少しも靡いてくれない先輩。でも、どう考えても泣くのは耀生の方だ。
「マジで、変すぎる。ちょっと面白いな」
親友は同性の耀生から見ても綺麗な顔だ。中学の頃は二人揃うとよく注目を集めたものだ。でも一緒にいて楽しくはあっても、世界はあまり煌めかないのである。やはり千春が特別なのだ。
「そろそろ彼女でも作れば?」
「はあ?千春先輩がいるのに、無理無理」
「だって先輩はお前のこと少しも好きじゃないんだろ?」
「いつか好きになる。大丈夫」
「だって、なんて告白して無視されてるんだっけ」
「……愛してる。結婚したい」
大体そんな感じだ。親友は微妙な顔をして大きく頷いた。
「異常者寄りだな」
親友はそう言うと、豪快にハンバーガーを齧った。そしてもごもごと咀嚼をすると、何かを決めたかのように耀生を見た。
「お前のために言うけどな、無理だと思っておいた方が良いよ」
「……」
「世の中そんなに甘くない」
「……うん」
そうだ。この耀生がいくら追いかけても、少しも良い兆しが見えない。
「まぁ、俺は応援するけどね」
見るからに落ち込んだ耀生を思ってか、親友が優しくそう言った。
「さんきゅ」
千春は本当にライブをするだろうか。正直、アコースティックギター部の部員が増えようが廃部になろうが耀生には関係ない。でも、大好きな千春の世界を、耀生の世界を守りたいのだ。エゴだとわかっていてもやめられない。耀生は大きく溜息をついた。
◆
「……愛してる。結婚したい」
ハンバーガーショップでのアルバイト中、ゴミ箱を片付けているときに確かに聞こえてきた声。誰でもない、耀生の声だ。まさかアルバイト先にも現れたのかと怯えたところで、視界にとらえたのは美しい男子高校生の二人組。片方が耀生で、もう片方は他校の制服である。見間違いでなければ、耀生の言葉に他校生の方がこくりと頷いた。
ひゅっと息を吸い込んだ。動悸を感じて胸を抑える。慌ててバックヤードへと下がった。今のはなんだろう。告白に見えけれど、まさか。
千春はハッとして口元を覆った。
「もしかして、あの子が本命?」
耀生は千春のことを好きだなんだと言っていたけれど、あれはやはり全部嘘だったのだ。千春はずっと揶揄われていたということか。
「……やっぱり綺麗な子が好きなんじゃん」
妙に納得しながらも、がっかりしている自分がいる。冗談でも好意を向けられたことなんてなかったからそもそも耐性がないのである。本気になんてしていないつもりだった。それなのに、心が一気に萎み込んだ。
「やっぱり、やめよう」
ライブだなんて柄にもないことしたくない。誰にも選ばれない千春が歌う意味なんてないのだ。
でも、そう思う自分自身に対して、少しだけ心が反抗してくる。胸がツキツキと痛んで落ち着かない。この気持ちはなんだろうか。
「千春くん、表掃除してきてくれる」
「あ、はい!」
反射で答えてから、今はまずいと思った。でも今更断れない。千春は顔を隠しながらゆっくりと店内を通り過ぎ、外へと出た。ほっとしたのも束の間、背後で扉の開く気配。身を硬直させて、様子を伺う。
「でもさ、写真は楽しいんだろ」
写真という言葉に、さらに固まった。
「まあね。被写体は先輩だけだけど」
答えるのは、やはり耀生の声だ。
「そんなに良いんだ」
「うん。千春先輩の写真は、俺の世界」
ドクリ。
心臓が大きく鳴った。恋人相手にそんなことを言って良いのだろうか。勝手に焦る千春に対して、耀生の恋人はなんでもないことのように相槌を打った。
「ふーん。そういうの、いいね」
これが愛されている余裕というものなのだろうか。驚く千春を置いて、二人の声は遠ざかっていく。声が完全に聞こえなくなったところで、いつの間にか止めていた息を吐き出した。
アルバイトを終えて家に帰ると、千春は思わず狭い玄関にしゃがみ込んだ。考えすぎて脳みそが疲れた。もう何もできない。そう思いながらも、のそのそと靴を脱ぐ。世話を焼いてくれる人なんていない。疲れても明日の自分のために動くしかないのだ。暗い四畳半にたどり着くと、そのまま畳に突っ伏した。ひんやりとした井草に頬をつけたまま考えるのは、結局耀生のことである。
正直、耀生の写真はすごいとしか思っていなかった。この千春が美しく煌めいて見えるだなんて不思議だったけれど、それは彼の技量によるものだとしか思わなかったのだ。ところが今日少しだけわかった。耀生が撮る写真は確かに耀生の世界なのだ。あんなに綺麗な恋人ができても、千春の写真を耀生の世界と言ってくれた。
「……やろうかな」
静かに呟いたら、心がすうっとした。部の存続ももちろん大切だ。でも、千春の歌を、ギターを、耀生は周囲に伝えたいと言ってくれた。耀生の世界には確かに千春の音があって、それを大切に写真で表現してくれている。世界にそんな人がいるだなんて、こんなに幸せなことはないのではないだろうか。そう思うと、腹の奥が据わった気がした。
千春はのそりと起きた。こうなったら曲選びだ。難しいと思っていた曲もきちんとコードを書き起こしてみよう。恥ずかしくても、観客はいなくても、耀生だけは見ていてくれるはずだ。それだけで、千春には十分な気がした。
◆
ポロリポロリ。カシャリ、カシャリ。ポロリ、カシャリ。
シャッター音も気にせず演奏を続けるのは必死だからだ。ライブ本番まであと十日しかない。
「千春先輩」
「……ん?」
「ちょっとは構ってよ」
耀生の声にやっと顔を上げると、思いがけず至近距離に美しい顔があった。ドキリと胸が鳴ったのはなぜだろう。
「い、忙しいの」
「それでも構って」
「無理」
視線を逸らして、ギターを触る手元を無意味に凝視する。不思議と顔が熱くなりそうだ。
「先輩」
「うん」
「先輩ってば」
優しく頬に添えられた手で顔を上げられる。綺麗な瞳と目が合うと、本当に顔が熱くなった。目を丸くする耀生と、目を逸せない千春。
「顔、熱いけど大丈夫?」
両手で顔を包まれると余計に熱くなる。千春はその手を振り払うように顔を乱暴に振った。
「大丈夫。今、ライブのために頑張ってるところ」
「……え?」
驚いた様子の耀生をチラリと見て、彼の喉元に視線を落ち着ける。
「俺、ライブ、やる」
「え、本当?」
こくりと頷く。言ってしまったからには死ぬ気で練習しなければならないだろう。望むところだと息を吸い込むと、耀生の腕が首に巻き付いてきた。
「うわ!」
驚いたらすぐに離れていったけれど、それにしても顔が近すぎる。
「千春先輩の歌、届けましょう。天にまで!」
「大袈裟だよ」
「宇宙まで!」
興奮した様子の耀生を見ながら、気がつけば頬を緩ませる。それに気づいた瞬間に思わず顔を手で覆った。今、もしかして可愛いとか思ったんじゃないだろうか。
「なんですか、先輩。今日も可愛すぎますね」
優しい微笑みに、胸がキュンと音を立てた。冗談ではなく、確かに音がした。この千春が可愛いわけがないのに、彼の言葉を信じたくなる。
「じゃあ、俺は帰ります」
「え?」
思わず名残惜しくて声が出た。慌てて口を噤んだけれど、耀生には聞こえたらしい。
「なんですか、寂しい?」
「い、いや。全然」
「そうですよね」
耀生はふっと息を吐いて、ゆっくりと立ち上がった。
「先輩の邪魔はできませんから。俺は俺なりに頑張ります」
ひらりと手を振って去っていく後ろ姿。生物準備室が明らかに暗くなった。そこで気がついた。耀生がいる時、生物準備室がキラキラと喜んで見える。
「浄化されるのかな」
耀生の持つ美しさが羨ましい。千春はジャランとギターの音色を響かせた。
◆
授業、練習、アルバイト。この十日間、ほとんど毎日その繰り返しだった。練習は上手く進まない時もあったけれど、だんだんと形になってきたのではないだろうか。それでも人に見せられる状態になったのかはわからない。千春は千春の世界しかわからないからだ。
「ねえ、耀生くん」
今日もカメラを構える耀生に呼びかけると、彼は律儀に構えを崩して「ん?」と答えた。
「俺、上手になってるかな」
「うん、全曲良いよ。俺、大好き」
にこりと笑顔を向けられると、千春も自然と笑顔になる。
「ふふ。可愛い」
耀生は口癖のようにそう言うと、今日も練習半ばにもかかわらず立ち上がった。
「もう行くの?」
「うん」
「その、デ、デート?」
恐る恐る尋ねた自分の心理がわからない。耀生は目を丸くすると首を傾げた。
「千春先輩と?行こっか」
「行かない!」
また揶揄われた。思わず唇を尖らせると、耀生は楽しそうに笑いながら「じゃあね」と生物準備室から去っていった。一段暗くなった部屋で溜息をつく。近頃先輩としての威厳が足りなくなった気がする。もともとないに等しかったけれど、最近は揶揄われてばかりだ。でも不思議と嫌ではなくて、なんなら彼の好きな曲を練習している自分がいる。千春は自分で書き起こしたコード表を譜面台に置いた。耀生の好きな明るい恋の曲だ。やはり難しくて、思ったように指が動かない。出来れば本番で歌いたいけれど、本番までに完成しなかったら恥ずかしいからこっそり練習をしている。本番は明後日だ。あと一箇所だけ、そこさえ流れるように弾けたら完成するのに。
そして、瞬く間にライブ当日になった。心臓を何度も吐き出しそうになりながら迎えた放課後。最後まで生物準備室で練習したけれど、結局耀生の好きな曲は完璧に弾けなかった。それが千春という人間だ。やはり、平凡で地味で、美しくもなければ才能もない。でも、唯一あるのは負けん気だ。せっかくならその他に用意した四曲は歌い上げたい。生物準備室から窓の外を見上げて、大きく息を吸い込んだ。
「先輩」
トクリ。
優しい声に心臓が音を立てた。振り返ると、耀生が廊下に立っている。
「先輩。お客さん、たくさんいますよ」
「そ、そうなの?」
「俺が集めました」
顔が固まる。震える手を必死で握りしめて、落ち着けと自分に言い聞かせた。耀生ほどの人気があれば集客など容易いのだろう。でもその中でどれだけの人が最後まで聴いてくれるだろうか。
「ねえ、千春先輩。聞いて」
耀生が生物準備室へと入ってくる。部屋がキラキラと煌めいて、まるでこの部屋が千春のすべてに思えた。
「俺の千春先輩」
「俺のって」
「最後まで聞いてください」
真剣な様子に思わず息を呑む。黙って見つめると、耀生は表情を崩さずに口を開いた。
「観客なんて関係ないから」
「……え?」
「できたら、俺のために歌って」
「耀生くんのために」
「そうだよ。そしたら俺は、きっと満足する」
それはどう言う意味だろうか。不思議に思って聞き返そうとすると、耀生は黙って首を横に振った。
「意味は聞かないで。大丈夫。俺の世界を信じて」
耀生の世界。千春の歌は、耀生の世界なのだ。そう思うと、コンコンと自信が湧いてきた。意を決して、ギターを抱えて花壇前に向かう。
「す、すご」
観客はざっと五十人はいるだろうか。最前列で圭太が手を振っている。いつか耀生が廊下で誘っていた女子生徒や、顧問。あとは真新しい制服が目立つから、きっと一年生ばかりなのだろう。後ろをついてきていた耀生を振り返ると、彼は大きく頷いて千春の背中をそっと押した。
千春は花壇前に用意された椅子に座って、そっと足を組んだ。その上にギターを乗せて、ポロリと最初の曲を始める。少しざわついたのは、自己紹介すらしなかったからかもしれない。歌い始めてからそのことに気づいたけれど、千春には少しも余裕がなかった。
一曲目は春にぴったりの昭和の恋歌だ。桜の舞い散る入学式の日、耀生を初めて見た日に歌った。あの日が、千春にとっては確かに始まりだった。最後の余韻まで響かせて、キュッとギターの弦を止める。そしてすぐに、二曲目に入った。本当は拍手を待つべきだったのだろうけれど、目を開けることさえ怖かったのだ。
二曲目は、太陽の曲。耀生に初めて襲撃された日に歌っていた曲だ。廊下からカメラを向けられて唖然としたものだ。思い出すと緊張がほぐれるのが不思議だった。
三曲目は今日のような爽やかな日にぴったりの明るい爽快な歌。初めて好きだと言われた日に歌っていた記憶が蘇る。胸の奥がキュンと疼いて、自然と喉が開く。確か、あの日は初めて窓から侵入されたなと思うと、口角が緩んだ。
四曲目は耀生が好きだと言ったバラードだ。ゆったりと空間に浸透するように歌う。その時になって、やっと観客の様子に気になり始めた。観客はしんと聴いてくれている。今更目を開くのは怖い。震えそうになるけれど、千春は最後の一音まで心を込めて歌い上げた。ギターの音色が止んで、空間が静まり返る。もしかしたら目を開けても誰もいないのかもしれない。その可能性が怖くて、瞼にギュッと力を入れた。
パラパラ、パチパチ。
ゆっくりと聞こえ始めた拍手。恐る恐る目を開けた。大多数の観客がまだそこにいて、千春のために手を叩いてくれている。
「すごいよ!本当に千春!?」
圭太が目を丸くしている。トクトクと胸を叩く心臓の音が聞こえる。拍手は鳴り止まない。こんなに嬉しいことがあるだろうか。
「千春、アンコール」
「え゙っ」
拍手が揃い始めて、本気でアンコールを促されているらしい。この展開は予想していなかった。相棒のギターを見下ろす。他に何か弾けただろうか。思い浮かぶのは、いくら練習しても弾けなかったあの曲だけだ。ふと耀生を見上げる。カメラを下げた耀生は、じっと千春だけを見つめている。
「そうだ」
小さくつぶやいた。
「下手でも、間違えても、耀生のために歌おう」
自分に言い聞かせて、息を大きく吸い込んだ。耀生の世界を信じよう。
指をゆっくりと弦の上に配置する。きゅっと弦が鳴る音。右手は一音ずつ、丁寧に弦を弾く。
「あ、この曲」
女子生徒の声が聞こえたのを最後に、千春は自分の世界に入って一生懸命に歌った。ここまでもずっと必死で歌っていたけれど、このアンコールはまた違う。心から、耀生のことを想いながら歌うのだ。
なぜこんなに耀生が気になるのだろう。美しくて、強引で、変わり者。失礼で、それなのに誰よりも可愛い。こんな風に誰かを思うのは初めてで、何もわからないのだ。でも確かなことは、彼には他に想う人がいるということ。胸がはち切れそうで、でも愛おしい。歌いながらそんなことを考えていたら、気がついたら難しい部分の直前だった。ギュッと心臓が鳴ったけれど、予想に反して指が軽やかに動く。あれ、なんか弾けてしまった。耀生を想っていたら弾けてしまったのだ。自分自身に驚いているうちに、曲が終わる。ゆっくりと目を開いた。盛大な拍手。頬を緩ませて見上げる。千春の目に映ったのは耀生の背中だった。
◆
結果的に、アコースティックギター部には新入部員が十名も入った。部は存続が決定し、部室として第二音楽準備室を取り戻したのである。でも千春の心は暗闇に包まれていた。昨年度末まで使用していた部屋に違いないのに、生物準備室の方が明るく、キラキラと煌めいていた気がする。
ライブの日から耀生には会えていなかった。所詮は耀生が会いに来なければ姿を目にすることすら出来ない関係性なのである。そのことが辛くて、泣きたいほど切なかった。
第二音楽準備室から窓の外を眺める。そろそろ五月も終わる。木々は緑に色づいて、桜色のかけらも残っていない。
部活の後、後輩たちを見送ってから千春は生物準備室へと向かった。生物研究部が部室にしているらしいと聞いたけれど、そこには誰もいなかった。今日はどうしてか暗いこの場所は、確かに千春の居場所だった。千春の世界で、耀生の世界だった。千春が足踏み入れると、微かな風で紙が舞い落ちる。拾い上げると、それは桜色のギターのチラシだった。
「馬鹿だ」
思わず溢れた。気がついたらこんなに好きだ。誰よりも好きで、今すぐに会いたい。そういえばクラスすら知らない。それでも探しに行きたいほど好きだ。
「千春先輩」
幻聴かもしれない。そう思うのに千春はゆっくりと振り返った。
「耀生くん」
そこには確かに耀生がいた。首からはカメラを下げておらず、今日はただの美少年だ。
「先輩、俺に会いたくなっちゃったんだ」
また揶揄われている。ムッとするのに、否定できない。その通りだからだ。
「……冗談だよ」
冗談。あんなに綺麗な恋人がいるのだから当然なのに、胸が痛くて涙が溢れそうになる。
「……俺が会いたくなっちゃったの」
嘘つけ。そう言いたいのに言葉が出ない。耀生がゆっくりと部屋に入ってきた。近づかれると息ができなくて、思わず後退りする。すると耀生は傷ついたように顔を歪めて足を止めた。
「知ってるよ。先輩は俺のことなんて好きじゃない。ちゃんとわかってる」
「……え?」
「でも俺は、やっぱり好きなんだ。観客に嫉妬するほど、俺のために歌ってるって信じたくなるほど」
千春よりも先に、耀生の瞳から涙が溢れた。あまりの美しさに、目が離せない。
「誰でもなく、千春先輩が好き。どうしよう、俺」
俯いた耀生は肩を震わせている。まさか、本当に千春を好きだと言っているのだろうか。嬉しいと思う。でも、耀生を想うあれほど綺麗な子がいるのだ。受け入れるわけにはいかない。
「俺も耀生くんが好きだよ。でも、耀生くんには俺なんかより素敵な恋人がいるだろ」
「……ん?」
「え?」
千春が聞き返すとゆっくりと顔を上げる。
「いないけど」
「だ、だって、ハンバーガーショップにいた綺麗な子は?」
「ハンバーガーショップ?えっと、琢磨のことかな」
「……琢磨くんって、綺麗な子?」
「綺麗ではあるけど、あいつのことなんて一生撮らないよ。意味がないから」
時が止まる。耀生の目が一気に見開かれた。
「えっ、待って!今、俺のこと好きって言った?」
言っただろうか。まさか、言ってしまったのだろうか。少し思い返してみると、どさくさに紛れて確かに言ったかもしれない。
「言った、かな」
首を傾げながら答えると、耀生が距離を縮めて両手を掬い取った。手からチラシがひらりと落ちる。
「言ったよね。俺のこと好きなの?」
「う、うん。多分」
「多分!?」
「いや、その。耀生くんのために曲を練習して歌うくらいには、好き」
「なんてこった!」
なんてこった、とは。
「カメラがない!この瞬間に、カメラがない!」
「本当だね」
「両思いの瞬間なのに」
嘆く耀生はこんなにも変なのに、千春には相変わらず美しくて可愛らしく見える。だから握られた手を優しく引いた。距離が一気に縮んで、美しい顔が目の前だ。
「大丈夫。俺も覚えてるから」
なるべく上手に笑顔を作ると、耀生の顔がふわりと近づいた。一瞬触れた唇。思わず体が固まる。耀生のまつ毛がふるりと震えた。
「やっぱり最高。俺の千春先輩」
◆
誰かと離れたくないと思うのは久しぶりだった。千春は耀生と手を繋いだまま、空が夕焼けに染まるまで生物準備室で過ごした。
「ギターがあればなあ」
今なら最高の歌を歌える気がする。素敵な歌を耀生にプレゼントできる気がするのに、相棒は第二音楽準備室だ。
「いいよ、あんなもん」
「えぇ!?」
まさかの暴言に、千春は素っ頓狂な声をあげた。
「な、なんてことを」
「当たり前でしょ。ずっと嫉妬してんの。ギターだかバターだか知らないけど、千春先輩は俺のだから」
こんな乱暴を言われているのに可愛いと思ってしまうのは恋のせいだろう。思わず吹き出してしまう。
「ちょっと、俺は本気だからね」
「はいはい」
面白くてくすくす笑っていると、耀生は天井を仰ぎ見た。
「あー、写真部やめよ」
「え、なんで?」
「だってアコギ部に行くと他の部員も映り込むんでしょ。そんなの俺の世界じゃない」
「いや、みんなのことも撮ってよ」
「いやだ」
「意地悪だな」
少し呆れるけれど、なんだか嬉しいのだから困ったものだ。
「じゃあさ」
これは思いつきだ。意味はない。本当に。
「早く結婚しよう」
本当に、深い意味なんてない。試しに言ってみたのだ。それなのに耀生は綺麗な瞳を潤ませて、ふわりと笑った。
この春、アコースティックギター部の部員が二年生の千春一人になったこと。
千春にとっての死活問題、そのニ。
このままでは愛する部活が廃部に追い込まれる可能性が高いこと。
千春にとっての死活問題、その三。
実は「一人でやる部活動」を気に入っていること。
つまり、部活動を続けたい気持ちはあるのに、部員を増やす気は特にないのである。
それでも今日の入学式に向けて、一応は新入部員募集のチラシを用意した。紙いっぱいに描いたのは、千春の相棒。木目が綺麗なアイボリーのアコースティックギター。ふと思い立って桜色に塗ったら、見事なまでに何の絵だかわからなくなった。
このチラシを配ると思うと気が重い。風に散りゆく桜の下、千春は俯き加減に体育館から出てくる新入生を待った。
「千春」
名前を呼ばれて振り返る。いつの間にか隣に立っていたのは唯一の友人、帰宅する準備万端の吉田圭太だ。彼の視線は千春の手元、つまりは桜色のギターに向いている。
「それ、千春が描いたの」
圭太の言葉に、千春は慌ててチラシの表を胸に押し当てた。
「あれか、ピンクカブトムシ」
真剣な顔でそう言った圭太は、まだ興味津々にチラシを覗き込もうとする。
「……これは、ギター」
「えっ」
なかなかの衝撃を受けたらしい彼は、なぜだかわざとらしく桜を見上げた。
「千春は、あれだな。創造力があるな」
「……今更フォローしたって遅いよ」
千春は小さく溜息をついた。
「もういいや。ギター弾きに行こうかな」
ピンクカブトムシとやらを配る勇気はない。体育館のあたりがざわついてきたことがわかって、むしろ本格的に撤退を決める。
「待て待て、千春。新入生は見ていこうぜ」
「なんでだよ」
「先輩風吹かしたいから」
「帰宅部のくせに」
「あっ、新入生じゃないか」
圭太のせいで逃げるタイミングを失ってしまった。我ながら微妙な顔をして立ち竦む。いつの間にか吹奏楽部とサッカー部に挟まれ、活気の中で気配を消した。
突然、強い春風が吹いた。桜の花が舞い散って、新入生たちを包んでいる。その中の一人と目があった瞬間、あまりの衝撃に目を見開いた。
「すげえな」
圭太も同じ人物を見ているのだろう。千春は頷くことさえ忘れた。本当に男子高校生だろうか。まるで全身が光っているように美しい。彼は色々な部活からチラシを受け取り、たまに話を聞く様子を見せながら徐々に近づいてくる。誰もが彼を待ち望んでいる空気だ。
「じゃあ、俺は帰るな」
圭太の声に我に返る。千春も慌てて頷いた。
圭太と手を振り合って、向かったのは生物準備室だ。昨年度、先輩たちが引退するまでは第二音楽準備室が部室だった。ところが部員が千春一人になった瞬間に、生物準備室に追いやられたのだ。北校舎の一階にある、一番奥の狭い部屋。ガラリと開けると、いつも埃と木と、薬品が混ざったような匂いがする。人体模型に骨格標本。ホルマリン漬けの瓶。本物なのか微妙な剥製。特に、鷹だか鷲の目が少し怖い。それでもここは、千春の城だ。ドアは少し開けておく。そして、部屋の奥の窓も全開に開けた。こうしないと、歌うたびに埃のせいで咳が出るのだ。
「さて」
千春の声は、小さな部屋に溶け込んだ。人体模型の隣に隠してあるギターを手に取って、窓際に置いた丸椅子に腰掛ける。足を軽く組んで、ギターを構えた。硬くなった指先が弦に触れる。優しい響きに、頬が緩んだ。アコースティックギターは歌をのせるのにちょうど良い。優しい音色が世界を作り、どこまでも広がるのだ。
チューニングを済ませると宙を見上げる。
「んー、何歌おう」
右手でアイボリーを撫でて、それからそっと目を瞑った。
せっかくなら、春の歌だ。軽く弦を弾き、アルぺジオを奏でる。窓から風が吹き込んで、生物準備室の空気をかき混ぜた。息を吸い込んで、声を響かせる。昭和の女性アイドルが歌った春の歌。春の歌というより、これは恋の歌かもしれない。千春にとってはまだ見ぬ恋。優しいメロディーに春の空気が混じり、世界が調和していく。誰に聴かせるわけでもない。それでも最後の一音まで、千春は心を込めて歌い上げた。空間に溶けていくギターの音。我ながら最高の仕上がりに、思わずネック部分に頬を寄せた。
そうやって空が夕日に染まるまで、千春はギターと音楽を奏で続けた。一枚も配れなかったチラシは、一応頑張った証拠として一枚だけ生物準備室に飾り、他は千春が一人で暮らす四畳半のアパートに持ち帰った。証拠隠滅、完全犯罪である。それでも、職員室のコピー機で二十枚も刷ったことを、心の底から謝りたかった。
畳の上には、小さなテレビとちゃぶ台、そこにチラシの束が増えた。たまに隣の部屋から調子はずれの歌が聞こえてくる。おかげさまで壁の薄さを理解しているため、家では歌えないのである。
千春は高校入学と同時に家を出た。家族の不和が理由だ。親戚の紹介で入ったこのオンボロアパート。
「そうか、一年経ったのか」
あっという間の一年だ。静かで、辛くて、想像以上に快適な一年。千春はおもむろに、点滅する電球を見上げた。入居した日からずっとチカチカしている。いつか替えようと思いながら、今日まで放置してきたのだ。
「まだ消えないでね。ちょっと面倒だからね」
素直にそう囁いた瞬間、図ったように暗くなった。
◆
入学式の日から今日で何日目だろうか。四畳半のカーテンを静かに開けると、見事なまでの快晴だ。
アコースティックギター部には今日も誰も来ないだろう。そんな部活があることすら、新入生は知らないかもしれない。それでも千春は七時には家を出た。毎日のルーティン、朝練習に向かうのである。乾いたアスファルトを叩くローファーの音。校門を入ると、すでに運動部が走り込みをしていた。邪魔をしないように校庭の隅を通って、寄り道せずに北校舎の生物準備室へ向かう。ガラリと扉を開けると、窓から差し込む朝の光に、埃がチラチラと光って見えた。相変わらずひっそりとした空気の中、剥製と目を合わせないように窓を開け、ギターを手に取る。軽くチューニングをして、千春は小さく咳払いをした。朝の一曲は、太陽をモチーフにした歌に決めた。今日という日が、平凡でも少しくらいは良い日になるように、ゆったりと弦を弾く。朝は喉が開かない。それでも目を瞑って、息を吸い込んだ。ギターの音色に乗って生物準備室を漂う明るい歌詞。今日も楽しくてたまらない。
カシャリ
生物準備室に響いた異質な音。世界が崩れた。ギターの不協和音が響く中、驚いて目を開ける。相変わらず不気味で薄暗い世界が広がるだけだと思った。でも次の瞬間、強烈な違和感。換気のために少しだけ開けておいた入り口に、カメラを構えた男子生徒が立っている。
「へ?」
思わず間抜けな声が出た。その瞬間に、もう一度カシャリ。
目を丸くして固まっていると、カメラを下ろした男子生徒と目が合った。
「え、え?」
彼の名前は千春でも知っている。新入生であり学校一の有名人、白井耀生。入学式の日。桜の花びらが舞う中、その美しさは誰よりも目立っていたことが思い出される。そんな耀生が、平凡よりも地味寄りの千春へカメラを向ける。
「な、なに」
「あ、喋った」
またカシャリ。千春は慌てて顔を伏せた。カシャリ。
「撮らないでよ」
顔を腕で覆いながら嘆くと、耀生が入室する気配。あまりにも異様な状況に、体の芯から震えてしまう。上履きが木の床を歩く音と、静かな衣擦れ。恐る恐る目の前を覗くと、信じられないほど美しい顔が真正面まで来ていた。
「なんでって、そんなの決まってるじゃないですか」
形の良い眉、長い睫毛、綺麗な目。嬉しそうな表情に、ゾワリと鳥肌が立った。
「千春先輩が最高だからです」
満面の笑みは、生物準備室の中で輝いた。
◆
夕方のホームルーム前。教室の空気が一番穏やかになるその時間にもかかわらず、千春はげっそりとしていた。
「千春、大丈夫か?」
唯一の友人である圭太に尋ねられるほどには酷いのかもしれない。
「大丈夫じゃない。助けてよ」
切実に懇願するような声が出る。圭太は瞬きをして首を傾げた。
「何をだよ」
「それが」
千春は圭太に顔を寄せ、なるべく声を潜めた。
「白井耀生、知ってるだろ。入学式で見たすごい新入生」
「もちろん」
「俺が部活してると、あの子が写真を撮ってくるんだ」
あの朝から三日連続だ。朝練習を諦めて昼練習にしてみても現れるし、夕方は毎日やってくる。おかげで呑気に歌っている場合ではなくなった。それは耀生のせいなのに、彼は生物準備室へとやってくると千春に歌うように強要する。とんだカツアゲである。
「お前、それは流石に嘘」
「えぇ!」
大きな声が出た。まさか信じてもらえないとは思っていなかったのだ。
「白井耀生が俺らみたいな存在を視界に入れるわけがない」
「でも本当なんだってば」
「それは夢だよ、大丈夫。一人で部活してる副作用だ」
「夢じゃない」
必死で訴えかける千春に対して、圭太は「千春」と諭すように名前を呼んだ。
「いいか、他の奴には言うなよ。虚言癖があるって思われたら大変だからな」
信じてもらえないどころか嘘つき呼ばわりをされるだなんて、余計にげっそりである。恨めしく思いながら圭太を見上げると、彼は肩を竦めて「まあまあ」と言った。
「確かにお前はよく見ると可愛い。よく見るとな。特に変じゃないって感じ」
「全然褒めてない。むしろこっそり貶してるな」
「つまりな、俺にはお前の魅力はわかるよ。だけど、白井耀生が写真を撮りたくなる要素はない」
そんなこと、言われなくてもわかっている。全校生徒が息を呑むほどに美しい耀生が、どうして千春なんかを撮るのか。それが全くわからないから困っているのだ。
「まあ、あれじゃないの。生物準備室の亡霊だと思われてるのかもな」
「亡霊……」
「それか、座敷童」
そう言われると、なぜだか少し腑に落ちた。確かに千春は座敷童感があるかもしれない。耀生は千春というよりは、生物準備室の異様な雰囲気に好奇心を抱いているのだろう。
ただ、それがわかっても問題は少しも解決していないのだ。今日もこれから部活に行きたいのに、溜息が漏れるほどには気が重い。
それでも千春は、相変わらず薄暗い生物準備室を訪れた。他にギターを弾ける場所がないからだ。ギターを持ち出して、今日はきっちりと扉を閉める。代わりに窓をいつもより少し多く開けて、自分は入り口の扉に寄りかかって床に胡座をかいた。こうすれば、いつも廊下側から現れる耀生にも見つからないだろう。ポロンポロンとギターを鳴らすと心が落ち着く。窓の外には青い空の下で葉桜が風に揺れている。今日は何の曲を歌おうか。そう考えると、段々と心が弾んできた。今日みたいに爽やかな日は、明るくて爽快な歌が良いだろう。千春の心もきっと晴れる。目を瞑って息を吸い込むと、いつもより重い埃の匂い。本当は換気がしたいなと思いつつも、ギターの音色に乗せて喉を震わせた。
カシャリ。
最悪だ。ここ最近悩まされていたから、幻聴が聞こえるのかもしれない。でも気にしないことに決めた。だって彼の侵入経路は絶っている。ここからサビにかけての盛り上がりが好きなのだ。カシャリ。カシャリ。幻聴は続くけれど、最後まで歌いきる。
ギターの余韻までしっかり楽しんで、我ながら完璧だったはずだ。ふわりと目を開ける。
「ひぇっ」
自分でも驚くほどに間抜けな声が出た。パチパチと瞬きを繰り返す。窓の外に、確かにカメラがある。
「はい、笑って」
笑えるもんか。顔を引き攣らせていると、カメラの向こうから美しい瞳が現れた。なぜだか呆れたような表情をして、瞳の持ち主である耀生は「よいしょ」と言いながら窓枠を軽々と飛び越えてきた。
「うわ!」
生物準備室の空気がかき混ぜられる。目を丸くした千春に、耀生はさらに呆れたように首を傾げた。
「そろそろ慣れてくれませんか」
「慣れるわけないだろ!許可もしてない」
「毎日撮ってるのに、反応が新鮮すぎるよ」
「毎日撮らないで」
「いや、最高な被写体がいれば撮るでしょ」
耀生はそう言うと、先程まで千春が歌っていた曲を口ずさみながらカメラを操作し始めた。この隙に逃げてしまおうか。こっそりと立ちあがろうとすると、それを遮るように耀生がカメラの画面を見せてきた。
「見て」
「……え?」
画面を覗き込んで驚いた。場所は確かに薄暗い生物準備室。見慣れているはずの場所に、ギターを抱えた少年が座り込んでいる。状況から見れば少年は千春で間違いない。それなのに、まるで孤独で美しい物語の中のようだ。思わず耀生を見上げた。
「ね。最高でしょ」
頷きかけて、誤魔化すように瞬きをした。ここで認めてしまったら、まるでナルシストみたいだ。でも、本来ないはずの千春の煌めきのようなものが、確かに写真に収められていた。
「だから、明日からも撮りますよ」
当然のように告げられたことに、慌てて首を横に振る。
「そ、それは困る」
「撮ります。そうしたら、俺はいつでも思い出せるから」
思わず眉を寄せた。
「……思い出すって?」
「千春先輩の歌、ギターの音色。初めて会った日も言ったでしょ。最高だって」
最高という言葉は、まるで信じられない。人に聴かせるような代物ではないはずだ。さらには、それが耀生にとって何になるというのか。
「先輩の歌を初めて聴いたのは入学式の後。桜の花びらが舞っていました」
何か突然語り出した。耀生は遠くを見ながら、うっとりと言葉を紡いでいく。
「歌声に導かれてこの扉から覗いた時、鳥肌が立ちました。この一瞬を残さないといけないって思ったんです」
「は、はあ」
「正直カメラに興味はありません。でも、先輩には写真の儚さがよく似合う」
耀生は綺麗な瞳で千春のことを確かに捉えると、にこりと微笑んだ。窓から風が吹き込んで、二人をくるりと包み込む。
「廃部の危機なんでしょ」
「え?」
「先輩、一人きりだって」
気にしていないはずなのに、少しだけ胸が痛くなる。
「それに、廃部になったら学校で歌えないって聞きました」
「そ、そうなの?それは知らない」
唖然としながら耀生を見る。正直、廃部になっても勝手に歌えるものだと思っていた。そんな千春をちらりと見て、耀生はそっと腰を屈めた。美しい顔がグッと近づいてくる。
「だから、俺と手を組みますよ」
耀生からふわりと香るのは、春というよりは夏のような爽やかさだ。心臓を跳ねさせながらも、千春は小首を傾げた。
「……それは、どういうこと?」
耀生が得意気に鼻を鳴らして、にこりと微笑む。
「俺が写真部を代表してアコギ部の広報係になります」
「えっ?」
全く理解が追いつかない。必死で思考を巡らせる。
「一緒に部の存続をかけて頑張ります」
戸惑う千春に対して、意思の強そうな煌めく瞳。彼は本気のようだ。でも、どうしても納得できない。
「……耀生くんは、そんなにギターが好きなの?」
唯一の可能性を思いついて尋ねると、耀生は少しだけ顔を顰めた。それから腰を伸ばして姿勢を正し、千春を見つめる。
「まさか。俺が好きなのは、千春先輩です」
◆
知らせは突然やってきた。
「悪いけど、五月中に部員があと四人は集まらないと廃部だな」
職員室に呼び出されたと思ったら、突然の最終通告だ。顧問の発した言葉がぐるぐると頭の中を回る。せめて千春が所属している間は温情をかけてくれると淡い期待をしていた。
「生物準備室も、本来は生物研究部が使いたいらしいからな」
そんな謎の部活、本当にあるのだろうか。自分のことは棚に上げて、疑問を抱きつつも考える。もしも廃部となって生物準備室を追い出されたら、千春はどこで歌ったら良いのだろう。
「もちろん、部活じゃなくなるんだから、学校での演奏は許可できない」
「えぇ!」
「当たり前だろ。水原を許したら他の生徒だってなんでも許されることになる。秩序が乱れる」
反論しようとして、結局口を噤んだ。悔しいけれど、確かにその通りかもしれない。
「でも良かったな」
「えっ、なにがですか」
今の所、良い要素だなんて一つもないではないか。そう思うのに、顧問はどこか楽しそうに笑っている。
「一年の白井が広報してくれるんだろ」
「……なんでそれを知ってるんですか」
「もちろん、俺が許可をしたからな」
どうやらすでに根回しされているらしい。千春はガックリと肩を落とした。
職員室を後にして、生物準備室へ向けてトボトボと歩く。第二準備室から追い出された先の生物準備室。薄暗くても、朝と夕どちらも独特な光に染まるあの部屋が、今では結構好きだ。ただ、すでに五月。あと一ヶ月弱でどう事態が好転すると言うのだろう。窓の外はこんなにも晴れているのに、心はしんみりと沈み込む。やはり、耀生に広報をしてもらうしかないのだろうか。
「でもなぁ」
全く気が進まない。だって、あのやたらと美しい少年は、毎日息をするように千春を揶揄うのだ。よりによって好きだなんて、面白くもない冗談で千春を頻繁に困らせる。
「でも、やらないと廃部ですよ」
突然耳元で聞こえた声に、体がピャッと跳ねた。聞き覚えのある声に振り返ると、耀生が楽しそうに笑っている。
「ね。ちゃんと顧問の先生にも話をして、準備万端なんです」
本格的に頭痛がしそうで、思わず額に指をやった。
「あのねぇ」
「あとは、最高な千春先輩がどれだけ最高か、学校中に知らしめるだけ」
「最高なのは俺じゃなくてアコースティックギターなの」
「試しに路上ライブしてみませんか。いや、路上ライブというか、校庭ライブ」
「や、やらないよ」
「なんで?」
なんでもなにも、人前で歌うだなんて千春には荷が重すぎる。その上、千春の歌を誰が聴くというのだろうか。
「無理なもんは無理なの」
「じゃあ、俺が適当に弾いちゃいますよ」
「えっ!」
この「えっ!」は、驚きや悲観的なものではなく、むしろやってくれるのかという喜びの「えっ!」である。それが通じたのか、耀生は肩を竦めて首を横に振った。
「まさか、嘘ですよ。俺はアコギ部員じゃないですから」
「なんでだよ。入ってよぉ」
学校中から注目の的である耀生が入部したら、集客効果ならぬ集部員効果が十分にあるだろう。
「入部なんかしたら俺もアコギ弾くんでしょ。写真が撮れないじゃないですか。そんなのつまらない」
「つまらないってそんな。ギター楽しいよ?」
耀生は再びフルフルと首を横に振った。
「俺は千春先輩を撮りたいんだから。千春先輩の作る世界を捉えたい。千春先輩の世界に無闇に入って壊したくないです」
どこまでも不思議な子だ。我ながら複雑な顔をして耀生を見ていると、突然右手を掬い取られた。思ったよりも大きく、温かい手。そのまま勢いよく引かれると、ふわりと爽やかな匂いがした。
「さあ、校庭ライブの練習しますよ。選曲はキャッチーなのが良いですね」
「だからやらないって。俺がギター弾いて何になるの」
「ギター弾いて、ちゃんと大きな声で歌ってください。この俺が惚れたんですから、部員の十人や二十人くらいならすぐ集まります」
惚れたなんて絶対嘘だ。そう思うのに褒め言葉が少し嬉しいのだから、千春は短絡的だし、耀生は罪な男である。
「あ、耀生くんだ」
「耀生くん」
「なんで手繋いでるの」
廊下の向こうから歩いてきた女子生徒の集団が、賑やかに耀生に話しかける。繋がれた手を必死で離そうとすると、かえってぎゅっと力を入れられてしまった。
「この人は千春先輩。俺の好きな人なんだ」
女子生徒たちが驚いて、顔を見合わせる姿。純粋に居た堪れなくなって、必死で首を横に振った。
「嘘、嘘!」
クラスの女子とも話したことがないのに、千春は懸命に女子生徒たちに弁解した。耀生は繋いだ手をブンブンと振って楽しそうだ。
「そうそう、みんな。再来週の金曜日、花壇の前でライブするんだ」
信じられない。目を見開いて耀生を見た。
「ライブ?」
「友達呼んで来てね」
「耀生くんが歌うの」
「まさか。千春先輩だよ。最高なんだ」
馬鹿野郎と叫ばなかった自分を褒めてやりたい。その代わり、表情まで使って一生懸命に否定する。
「来なくて良いです。最高じゃないし、こちらの耀生くんは本当に歌わないので、絶対に来ないで!」
半ば叫びながらその場を後にした。振り解こうにもどうしても離れない手を引いて、最早逃走だ。後ろからは楽しそうな笑い声がついてくる。
必死に生物準備室までくると、今度は本気でその手を振り解いた。そして勢いよく耀生を振り返る。
「耀生くん!」
「はい?」
耀生は能天気に笑っている。
「君って最低!」
「……え?」
耀生は意外だとでも言いたそうに目を丸くした。頭がおかしくなりそうだ。
「毎日毎日毎日。好きだの、最高だの、歌えだの!いい加減にして」
もうどうしようもなくて泣きそうだ。いや、すでに目に涙が溜まっている気がする。それが恥ずかしくて情けない。
「俺は、耀生くんとは何もかも違う。平凡で地味で、美しくもなければ才能もない。薄暗い生物準備室にさえ居場所をもらえないかもしれない存在なんだ」
耀生はカメラで撮った平凡な被写体さえ美しく煌めいて捉えられる。その上、綺麗で性格も明るく、何をやっても上手なのだろう。耀生と千春は人間性や生き様に天と地の差があるのだ。怒りだか悲しみだか、自分でもよくわからないけれど体が震える。怒りを表現するために精一杯睨みつけると、耀生は大きく息を吐き出した。
「いい加減にして欲しいのはこちらですけど」
吐き捨てるようにそう言った彼は、どう見ても怒っている。美しい顔には表情がなく、それが氷のように綺麗だ。思わず耀生の顔を凝視してしまう。
「よくもまあ、俺の千春先輩をそんな風に言いますね」
今、なんと言われたのだろうか。俺の、とか言ってなかっただろうか。
「俺の千春先輩は美しいです。才能もある。ギターを弾いて歌う姿は格別です」
「え、えっと」
「本当は誰にも見せたくない。でも、見てもらわないと先輩の魅力はずっとこの暗い部屋の中。廃部になったらこの居場所すらなくなるんでしょ」
居場所の問題はその通りだ。五月を過ぎたらこの学校で歌うことはできない。自宅は壁の薄い四畳半のアパート。小さな音でも練習できない。それこそ死活問題であるのは間違いない。黙ったままの千春を、耀生は鋭い眼光で貫いた。
「先輩の魅力を、俺が証明するって言ってるんです。俺が全責任を負います」
言葉すら美しい後輩だ。あまりの美しさと説得力。それに対して無力な自分自身が居た堪れなくて、思わず悔し涙が溢れた。
◆
悔し涙を流したあの日は月曜日だっただろうか。今日が木曜日。もう三日ほどまともにギターに触れていなかった。そろそろ摂取不足による禁断症状が出そうだけれど、生物準備室で耀生に会ってしまったら最悪だ。なぜこんなことで悩まなければならないのだろう。ぼんやりと机を見つめて、溜息をつく。
「千春、大変だ!」
腹を括ってギターを弾きに行くか、さっさと帰るか。その二択で悩んでいたところで、すでに帰宅したはずの圭太が慌てたように教室へ戻ってきた。その並ではない様子に、思わず首を傾げる。
「どうしたんだよ」
「お前を題材にした個展が開かれてる」
「……はあ!?」
千春を題材にした個展とは一体。慌てて立ち上がると、圭太の後に続いて教室を飛び出した。
現場へ辿り着くと、千春は唖然とした。花壇の横に設置された掲示板と、勝手に増設されたらしいホワイトボード。それらにさまざまな大きさの写真が貼り付けられている。光が差し込む薄暗い部屋で、空気がキラキラと輝く様子。美しく静かな世界でギターを抱えた少年の姿、横顔、後ろ姿。顔ははっきりと出ていない。でも確かに、これは耀生が撮影した千春に違いなかった。
「最初は綺麗な写真だとしか思わなかったんだけど、やっぱり千春だよね」
「う、うん」
「お前の話、本当だったんだな」
圭太の指さす場所を見上げると、そこには個展名が大きな文字で書かれていた。
「白井耀生の愛する世界」
ゆっくりと読み上げて、頭を抱えた。題名の下には文章が貼り付けてある。
「再来週金曜日、この場所でアコースティックギター部のライブを開催します。入部は大歓迎。ただし、写真や動画撮影は禁止」
読み上げた圭太が千春の背中を優しく撫でた。
「お前、可哀想だな。こんなキャラじゃないのに」
「うぅ……」
こんなことになるだなんて。とにかく、写真を剥がそう。そう決意して写真に手を伸ばすと、千春の腕を華奢な手が掴んだ。
「耀生くんの作品にさわらないで」
「そうよ。耀生くんの愛する世界なんだから」
ポカンと口を開けて、女子生徒たちと写真を交互に見る。
「写真部に入ったなんて意外だと思ったけど、こんなに上手なんだ」
「私も入部しようかな」
耀生の人気は絶大なのに、再来週のアコースティックギター部のライブとやらに興味を示す人間は一人もいないらしい。当然やるつもりはないのに、少し切なさを感じるのは何故だろうか。
「白井耀生本人にやめさせた方がいいかもな」
圭太のアドバイスに、千春は仕方なく頷いた。
圭太と別れて迷わず向かったのは生物準備室だ。ここに来れば、きっと耀生は姿を現すはずである。そう思ったのに、待てど暮らせど耀生は現れない。暗い部屋で立ち尽くして、千春は一体何をしているのだろうか。時折窓から風が入るだけの静かな生物準備室。ぼーっと立ち尽くしていると妙にウズウズして、部屋の隅に置いたギターが気になってしまう。弾きたくて、歌いたくて、ぎゅっと口を引き結んだ。そして十秒後、とうとう我慢の限界で、千春はギターに手を伸ばした。
窓際の椅子に座り、ポロンポロンとチューニングをしてジャランと音を鳴らす。優しい音色に癒される。思わず微笑んで、ギターを優しく撫でた。
カシャリ。
ハッと顔を上げた。キョロキョロと見回すけれど、どこにも耀生の姿はない。幻聴だったのだろうか。首を傾げて、少しだけ宙を見上げる。今日は何を歌おうか。
カシャリ。
今度は確かに聞こえた気がして、思わずギターを抱えて立ち上がった。カシャリ、カシャリ。音のする方を目で辿る。
「うわ!」
骨格標本越しに、カメラのレンズが煌めいた。
「な、何やってるんだよ!」
「待ち伏せ作戦です。どうせ来るだろうと思って」
耀生は骨格標本をそうっと動かすと、棚の奥からのそりと現れた。カメラを庇いながら立ち上がって制服の埃を払うと、にこりとカメラを構える。
「はい、久しぶりの再会ですね」
カシャリ。顔が引き攣ってほぼ変顔だったはずだ。それでも耀生は満足そうに画面を覗いて、それから少しだけ頭を下げた。
「千春先輩、ごめんなさい」
「……え?」
「俺が悪かったです」
突然の謝罪に言葉を失う。千春の気持ちが伝わったのだろうか。真剣に戸惑っていると、耀生は美しい形の眉を下げて、見るからにしょんぼりとしてみせた。
「順序を間違えました」
「順序?」
確かに順序は間違えまくりだとは思う。千春の気持ちは無視をして、ずっと突っ走っていた自覚があるのだろうか。勝手な個展のことを問い詰める前に、ちゃんと話を聞くべきかもしれない。
「まず、今までも伝えていましたが、俺は千春先輩に惚れています」
「……だから」
またわかりやすい嘘をつくものだ。思わず呆れると、耀生は大真面目な顔で口元に人差し指をあてた。
「静かに。俺が話してますよ」
なんて自分勝手なのだろう。そう思うのに、思わず「ごめんなさい」と言ってしまった自分が情けない。
「つまり俺は、千春先輩のことを愛しています」
「はい?」
「ギターに嫉妬するほど、本当は写真を誰にも見せたくないほど」
「あんな大々的に個展を開いておきながらよく言うよ」
「身を切る思いで写真を貼ったんです。俺の宝物なのに」
耀生はそう言うと、カメラを大切そうに抱きしめた。そして千春をしっかりと見つめる。
「見てください、可哀想な俺。本当はカメラじゃなくて、先輩を抱きしめたいんですよ」
「えぇ……」
なんて反応したら良いかすらわからない。そんな千春に対して、耀生は姿勢を正した。真っ直ぐに見つめられると、どうしてか動けなくなる。
「千春先輩、大好き。歌声に惚れたと思ったのに、先輩の世界を好きになって、気がついたら先輩を好きになってた」
「……はあ」
「全責任を負うって言ったでしょ。俺は先輩のために、アコギ部員を増やします。もし増えなかった時は、その時は」
どうするつもりだろうと黙っていると、耀生は大きく息を吸い込んでから口を開いた。
「先輩と結婚します」
「なになに!?」
「防音の部屋を借りて一緒に住みましょう。学生ですから、同棲から」
「いや、あの」
「俺も一人暮らしですから身軽です。先輩もでしょ」
なぜ知っているのだろう。思わず目を丸くすると、耀生は大きく頷いた。
「どちらにしても、俺が先輩の歌とギターを守ります」
ふわりと浮かべられた笑顔。その表情はとても綺麗で、千春は混乱の中にもかかわらず、少しだけ見惚れてしまうのだった。
◆
あれは本気の目だった。絶対に冗談なはずなのに、本気に見えたのだ。だからこんなにも悩んでいる。
もう月曜日になってしまった。つまりは来週の金曜日、アコースティックギター部としてライブをしなければならない。千春が歌うことで部員集めに効果があるのかもわからない。それなのにライブをする方向に思考が向かうのは、部員を集めて部の存続を決めないと千春は耀生と結婚しなければならないらしいからだ。いや、結婚ってなんだ。そんなの無理なのに、何を悩むことがあるのか。ただ、あの男ならやりかねないと思っている自分がいる。
頭の中が忙しくて、思わず天を仰いだ。手元には大好きなギターがあるのに、どうしても集中できない。
「さて、ライブでは何を歌いますか」
「うわあ!」
久しぶりに窓からの登場だ。彼はカメラを抱えると、いつかのように窓枠を身軽に飛び越えてきた。
「マジで勘弁してよ」
胸を押さえながらそう言うと、耀生は得意気に笑顔を見せた。
「安心して。ライブは俺が絶対に成功させるから」
「だって、歌うのは俺でしょ」
思わずムキになると、耀生は目を丸くしてパアッと表情を輝かせた。
「歌う気になってくれたんだ!嬉しい」
「あ、いや」
「俺の好きな曲リクエストしても良い?もちろん、別の曲を歌っても良いから」
「だから」
千春の抵抗虚しく、耀生はポケットからスマートフォンを取り出すとプレイリストを開いた。そして流れ出した曲は。
「あ、この曲」
平成の時代に流行した、可愛らしい恋の歌だ。千春も好きなテイストだけれど、この曲はコードが難しい。少し挑戦しては諦めていた曲である。
「あとね、この曲」
次の曲はしっとりとしたバラードだ。これは少し哲学的で、やはり恋の曲なのかもしれない。耀生の選曲センスは千春の好みと似ていた。
「弾けそう?」
「わからない、けど」
弾けそうなコードだけ鳴らして、簡単にメロディーを口ずさむ。難しいけれど楽しい。
「すごい!さすが俺の千春先輩」
目を輝かせた耀生に手を叩いて褒められる。照れ臭くて笑みを溢すと、耀生が「あっ」と声を上げた。
「今の顔、可愛い」
「……へ?」
「撮りたかった。もう一回その顔して」
「いや、無理だよ」
「えぇ」
残念そうに唇を尖らせる。でも、千春はやれと言われて表情を整えられるタイプの人間ではない。
「まあいいや。これからずっと一緒にいる予定なので、またシャッターチャンスを狙います」
耀生はカメラを掲げて、完璧な笑顔を見せた。
「さて、今日はそろそろ帰ります」
じゃあね、と言いながら、手を振ってきちんと廊下から出ていくその姿に少しだけホッとする。それは、耀生の顔が美しすぎるからだろうか。瞼を伏せると影を作る長いまつ毛も、輝く瞳も。女の子のように可憐なのに確かに精悍で、絶妙なバランスが綺麗なのだ。もし千春がカメラ小僧だったら絶対に被写体として選びたい。いや、それは流石に恐れ多いだろうか。一人で考えながらギターを片付けて、千春も生物準備室を後にする。今日はアルバイトだ。
北校舎をゆっくりと歩いていると、多目的室が賑わっていた。ここは写真部の部室となっている。聞く話によると、耀生が入部したことによって部員がかなり増えたらしい。
「耀生の写真、本当に綺麗だよね」
「アコギ部の広報を頑張るって張り切ってるからな」
漏れ聞こえてくる声に自然と耳を傾けてしまう。
「でもさ、あの被写体誰?本当にアコギ部?」
「耀生は本気で可愛い人だって言ってるけど、多分写真が上手いだけなんだろうな」
悪意はないのだろう。でも、千春の心はずんと重くなった。結局みんな耀生にしか興味がないのだ。アコースティックギターの音色も、もちろん千春の歌声にも、全く興味がない。つまり、地味で平凡な千春がライブを行うなんて恥ずかしいことなのではないだろうか。心が沈み込んでいく。
「やっぱり、やめようかな」
小さく呟く。それが絶対に正解だとわかるのに、なぜだか心がざわついた。
◆
耀生の人生は順風満帆である。そこそこ金持ちで、実家から遠い学校にも援助を受けて通わせてもらえている。容姿も性格も割と良い方である自覚があり、手先も器用な方だ。そんな耀生は今、人生始まって以来の最大の困難に立ち向かっていた。
まさか高校一年の春、年上の男子生徒に心奪われるなんて誰が思うだろうか。女の子には勝手にモテまくってきた人生。苦労なんてしたことがない。それなのに薄暗い生物準備室から聞こえてきた歌声を聞いて以降、自分でも意味がわからないままに好きになってしまった。最初はもちろん葛藤があった。でも彼を想うだけで世界が煌めいて、彼の全てを自分のものにしたくなる。気がついたら帰宅部志望にもかかわらず、合法的に写真を撮るためだけに写真部に入部するほどには大好きになっていた。
「お前さ、最近変すぎる」
久しぶりに会った親友は眉を顰めながらそう言った。初めて訪れたハンバーガーショップは夕方の賑わいを見せている。自分で買ったのにもかかわらずポテトをつまむわけにはいかない。油でカメラが汚れたら困るのだ。
「そろそろカメラしまえよ」
「いやだ。俺の千春先輩が泣く」
水原千春。猛烈に好意を伝えても少しも靡いてくれない先輩。でも、どう考えても泣くのは耀生の方だ。
「マジで、変すぎる。ちょっと面白いな」
親友は同性の耀生から見ても綺麗な顔だ。中学の頃は二人揃うとよく注目を集めたものだ。でも一緒にいて楽しくはあっても、世界はあまり煌めかないのである。やはり千春が特別なのだ。
「そろそろ彼女でも作れば?」
「はあ?千春先輩がいるのに、無理無理」
「だって先輩はお前のこと少しも好きじゃないんだろ?」
「いつか好きになる。大丈夫」
「だって、なんて告白して無視されてるんだっけ」
「……愛してる。結婚したい」
大体そんな感じだ。親友は微妙な顔をして大きく頷いた。
「異常者寄りだな」
親友はそう言うと、豪快にハンバーガーを齧った。そしてもごもごと咀嚼をすると、何かを決めたかのように耀生を見た。
「お前のために言うけどな、無理だと思っておいた方が良いよ」
「……」
「世の中そんなに甘くない」
「……うん」
そうだ。この耀生がいくら追いかけても、少しも良い兆しが見えない。
「まぁ、俺は応援するけどね」
見るからに落ち込んだ耀生を思ってか、親友が優しくそう言った。
「さんきゅ」
千春は本当にライブをするだろうか。正直、アコースティックギター部の部員が増えようが廃部になろうが耀生には関係ない。でも、大好きな千春の世界を、耀生の世界を守りたいのだ。エゴだとわかっていてもやめられない。耀生は大きく溜息をついた。
◆
「……愛してる。結婚したい」
ハンバーガーショップでのアルバイト中、ゴミ箱を片付けているときに確かに聞こえてきた声。誰でもない、耀生の声だ。まさかアルバイト先にも現れたのかと怯えたところで、視界にとらえたのは美しい男子高校生の二人組。片方が耀生で、もう片方は他校の制服である。見間違いでなければ、耀生の言葉に他校生の方がこくりと頷いた。
ひゅっと息を吸い込んだ。動悸を感じて胸を抑える。慌ててバックヤードへと下がった。今のはなんだろう。告白に見えけれど、まさか。
千春はハッとして口元を覆った。
「もしかして、あの子が本命?」
耀生は千春のことを好きだなんだと言っていたけれど、あれはやはり全部嘘だったのだ。千春はずっと揶揄われていたということか。
「……やっぱり綺麗な子が好きなんじゃん」
妙に納得しながらも、がっかりしている自分がいる。冗談でも好意を向けられたことなんてなかったからそもそも耐性がないのである。本気になんてしていないつもりだった。それなのに、心が一気に萎み込んだ。
「やっぱり、やめよう」
ライブだなんて柄にもないことしたくない。誰にも選ばれない千春が歌う意味なんてないのだ。
でも、そう思う自分自身に対して、少しだけ心が反抗してくる。胸がツキツキと痛んで落ち着かない。この気持ちはなんだろうか。
「千春くん、表掃除してきてくれる」
「あ、はい!」
反射で答えてから、今はまずいと思った。でも今更断れない。千春は顔を隠しながらゆっくりと店内を通り過ぎ、外へと出た。ほっとしたのも束の間、背後で扉の開く気配。身を硬直させて、様子を伺う。
「でもさ、写真は楽しいんだろ」
写真という言葉に、さらに固まった。
「まあね。被写体は先輩だけだけど」
答えるのは、やはり耀生の声だ。
「そんなに良いんだ」
「うん。千春先輩の写真は、俺の世界」
ドクリ。
心臓が大きく鳴った。恋人相手にそんなことを言って良いのだろうか。勝手に焦る千春に対して、耀生の恋人はなんでもないことのように相槌を打った。
「ふーん。そういうの、いいね」
これが愛されている余裕というものなのだろうか。驚く千春を置いて、二人の声は遠ざかっていく。声が完全に聞こえなくなったところで、いつの間にか止めていた息を吐き出した。
アルバイトを終えて家に帰ると、千春は思わず狭い玄関にしゃがみ込んだ。考えすぎて脳みそが疲れた。もう何もできない。そう思いながらも、のそのそと靴を脱ぐ。世話を焼いてくれる人なんていない。疲れても明日の自分のために動くしかないのだ。暗い四畳半にたどり着くと、そのまま畳に突っ伏した。ひんやりとした井草に頬をつけたまま考えるのは、結局耀生のことである。
正直、耀生の写真はすごいとしか思っていなかった。この千春が美しく煌めいて見えるだなんて不思議だったけれど、それは彼の技量によるものだとしか思わなかったのだ。ところが今日少しだけわかった。耀生が撮る写真は確かに耀生の世界なのだ。あんなに綺麗な恋人ができても、千春の写真を耀生の世界と言ってくれた。
「……やろうかな」
静かに呟いたら、心がすうっとした。部の存続ももちろん大切だ。でも、千春の歌を、ギターを、耀生は周囲に伝えたいと言ってくれた。耀生の世界には確かに千春の音があって、それを大切に写真で表現してくれている。世界にそんな人がいるだなんて、こんなに幸せなことはないのではないだろうか。そう思うと、腹の奥が据わった気がした。
千春はのそりと起きた。こうなったら曲選びだ。難しいと思っていた曲もきちんとコードを書き起こしてみよう。恥ずかしくても、観客はいなくても、耀生だけは見ていてくれるはずだ。それだけで、千春には十分な気がした。
◆
ポロリポロリ。カシャリ、カシャリ。ポロリ、カシャリ。
シャッター音も気にせず演奏を続けるのは必死だからだ。ライブ本番まであと十日しかない。
「千春先輩」
「……ん?」
「ちょっとは構ってよ」
耀生の声にやっと顔を上げると、思いがけず至近距離に美しい顔があった。ドキリと胸が鳴ったのはなぜだろう。
「い、忙しいの」
「それでも構って」
「無理」
視線を逸らして、ギターを触る手元を無意味に凝視する。不思議と顔が熱くなりそうだ。
「先輩」
「うん」
「先輩ってば」
優しく頬に添えられた手で顔を上げられる。綺麗な瞳と目が合うと、本当に顔が熱くなった。目を丸くする耀生と、目を逸せない千春。
「顔、熱いけど大丈夫?」
両手で顔を包まれると余計に熱くなる。千春はその手を振り払うように顔を乱暴に振った。
「大丈夫。今、ライブのために頑張ってるところ」
「……え?」
驚いた様子の耀生をチラリと見て、彼の喉元に視線を落ち着ける。
「俺、ライブ、やる」
「え、本当?」
こくりと頷く。言ってしまったからには死ぬ気で練習しなければならないだろう。望むところだと息を吸い込むと、耀生の腕が首に巻き付いてきた。
「うわ!」
驚いたらすぐに離れていったけれど、それにしても顔が近すぎる。
「千春先輩の歌、届けましょう。天にまで!」
「大袈裟だよ」
「宇宙まで!」
興奮した様子の耀生を見ながら、気がつけば頬を緩ませる。それに気づいた瞬間に思わず顔を手で覆った。今、もしかして可愛いとか思ったんじゃないだろうか。
「なんですか、先輩。今日も可愛すぎますね」
優しい微笑みに、胸がキュンと音を立てた。冗談ではなく、確かに音がした。この千春が可愛いわけがないのに、彼の言葉を信じたくなる。
「じゃあ、俺は帰ります」
「え?」
思わず名残惜しくて声が出た。慌てて口を噤んだけれど、耀生には聞こえたらしい。
「なんですか、寂しい?」
「い、いや。全然」
「そうですよね」
耀生はふっと息を吐いて、ゆっくりと立ち上がった。
「先輩の邪魔はできませんから。俺は俺なりに頑張ります」
ひらりと手を振って去っていく後ろ姿。生物準備室が明らかに暗くなった。そこで気がついた。耀生がいる時、生物準備室がキラキラと喜んで見える。
「浄化されるのかな」
耀生の持つ美しさが羨ましい。千春はジャランとギターの音色を響かせた。
◆
授業、練習、アルバイト。この十日間、ほとんど毎日その繰り返しだった。練習は上手く進まない時もあったけれど、だんだんと形になってきたのではないだろうか。それでも人に見せられる状態になったのかはわからない。千春は千春の世界しかわからないからだ。
「ねえ、耀生くん」
今日もカメラを構える耀生に呼びかけると、彼は律儀に構えを崩して「ん?」と答えた。
「俺、上手になってるかな」
「うん、全曲良いよ。俺、大好き」
にこりと笑顔を向けられると、千春も自然と笑顔になる。
「ふふ。可愛い」
耀生は口癖のようにそう言うと、今日も練習半ばにもかかわらず立ち上がった。
「もう行くの?」
「うん」
「その、デ、デート?」
恐る恐る尋ねた自分の心理がわからない。耀生は目を丸くすると首を傾げた。
「千春先輩と?行こっか」
「行かない!」
また揶揄われた。思わず唇を尖らせると、耀生は楽しそうに笑いながら「じゃあね」と生物準備室から去っていった。一段暗くなった部屋で溜息をつく。近頃先輩としての威厳が足りなくなった気がする。もともとないに等しかったけれど、最近は揶揄われてばかりだ。でも不思議と嫌ではなくて、なんなら彼の好きな曲を練習している自分がいる。千春は自分で書き起こしたコード表を譜面台に置いた。耀生の好きな明るい恋の曲だ。やはり難しくて、思ったように指が動かない。出来れば本番で歌いたいけれど、本番までに完成しなかったら恥ずかしいからこっそり練習をしている。本番は明後日だ。あと一箇所だけ、そこさえ流れるように弾けたら完成するのに。
そして、瞬く間にライブ当日になった。心臓を何度も吐き出しそうになりながら迎えた放課後。最後まで生物準備室で練習したけれど、結局耀生の好きな曲は完璧に弾けなかった。それが千春という人間だ。やはり、平凡で地味で、美しくもなければ才能もない。でも、唯一あるのは負けん気だ。せっかくならその他に用意した四曲は歌い上げたい。生物準備室から窓の外を見上げて、大きく息を吸い込んだ。
「先輩」
トクリ。
優しい声に心臓が音を立てた。振り返ると、耀生が廊下に立っている。
「先輩。お客さん、たくさんいますよ」
「そ、そうなの?」
「俺が集めました」
顔が固まる。震える手を必死で握りしめて、落ち着けと自分に言い聞かせた。耀生ほどの人気があれば集客など容易いのだろう。でもその中でどれだけの人が最後まで聴いてくれるだろうか。
「ねえ、千春先輩。聞いて」
耀生が生物準備室へと入ってくる。部屋がキラキラと煌めいて、まるでこの部屋が千春のすべてに思えた。
「俺の千春先輩」
「俺のって」
「最後まで聞いてください」
真剣な様子に思わず息を呑む。黙って見つめると、耀生は表情を崩さずに口を開いた。
「観客なんて関係ないから」
「……え?」
「できたら、俺のために歌って」
「耀生くんのために」
「そうだよ。そしたら俺は、きっと満足する」
それはどう言う意味だろうか。不思議に思って聞き返そうとすると、耀生は黙って首を横に振った。
「意味は聞かないで。大丈夫。俺の世界を信じて」
耀生の世界。千春の歌は、耀生の世界なのだ。そう思うと、コンコンと自信が湧いてきた。意を決して、ギターを抱えて花壇前に向かう。
「す、すご」
観客はざっと五十人はいるだろうか。最前列で圭太が手を振っている。いつか耀生が廊下で誘っていた女子生徒や、顧問。あとは真新しい制服が目立つから、きっと一年生ばかりなのだろう。後ろをついてきていた耀生を振り返ると、彼は大きく頷いて千春の背中をそっと押した。
千春は花壇前に用意された椅子に座って、そっと足を組んだ。その上にギターを乗せて、ポロリと最初の曲を始める。少しざわついたのは、自己紹介すらしなかったからかもしれない。歌い始めてからそのことに気づいたけれど、千春には少しも余裕がなかった。
一曲目は春にぴったりの昭和の恋歌だ。桜の舞い散る入学式の日、耀生を初めて見た日に歌った。あの日が、千春にとっては確かに始まりだった。最後の余韻まで響かせて、キュッとギターの弦を止める。そしてすぐに、二曲目に入った。本当は拍手を待つべきだったのだろうけれど、目を開けることさえ怖かったのだ。
二曲目は、太陽の曲。耀生に初めて襲撃された日に歌っていた曲だ。廊下からカメラを向けられて唖然としたものだ。思い出すと緊張がほぐれるのが不思議だった。
三曲目は今日のような爽やかな日にぴったりの明るい爽快な歌。初めて好きだと言われた日に歌っていた記憶が蘇る。胸の奥がキュンと疼いて、自然と喉が開く。確か、あの日は初めて窓から侵入されたなと思うと、口角が緩んだ。
四曲目は耀生が好きだと言ったバラードだ。ゆったりと空間に浸透するように歌う。その時になって、やっと観客の様子に気になり始めた。観客はしんと聴いてくれている。今更目を開くのは怖い。震えそうになるけれど、千春は最後の一音まで心を込めて歌い上げた。ギターの音色が止んで、空間が静まり返る。もしかしたら目を開けても誰もいないのかもしれない。その可能性が怖くて、瞼にギュッと力を入れた。
パラパラ、パチパチ。
ゆっくりと聞こえ始めた拍手。恐る恐る目を開けた。大多数の観客がまだそこにいて、千春のために手を叩いてくれている。
「すごいよ!本当に千春!?」
圭太が目を丸くしている。トクトクと胸を叩く心臓の音が聞こえる。拍手は鳴り止まない。こんなに嬉しいことがあるだろうか。
「千春、アンコール」
「え゙っ」
拍手が揃い始めて、本気でアンコールを促されているらしい。この展開は予想していなかった。相棒のギターを見下ろす。他に何か弾けただろうか。思い浮かぶのは、いくら練習しても弾けなかったあの曲だけだ。ふと耀生を見上げる。カメラを下げた耀生は、じっと千春だけを見つめている。
「そうだ」
小さくつぶやいた。
「下手でも、間違えても、耀生のために歌おう」
自分に言い聞かせて、息を大きく吸い込んだ。耀生の世界を信じよう。
指をゆっくりと弦の上に配置する。きゅっと弦が鳴る音。右手は一音ずつ、丁寧に弦を弾く。
「あ、この曲」
女子生徒の声が聞こえたのを最後に、千春は自分の世界に入って一生懸命に歌った。ここまでもずっと必死で歌っていたけれど、このアンコールはまた違う。心から、耀生のことを想いながら歌うのだ。
なぜこんなに耀生が気になるのだろう。美しくて、強引で、変わり者。失礼で、それなのに誰よりも可愛い。こんな風に誰かを思うのは初めてで、何もわからないのだ。でも確かなことは、彼には他に想う人がいるということ。胸がはち切れそうで、でも愛おしい。歌いながらそんなことを考えていたら、気がついたら難しい部分の直前だった。ギュッと心臓が鳴ったけれど、予想に反して指が軽やかに動く。あれ、なんか弾けてしまった。耀生を想っていたら弾けてしまったのだ。自分自身に驚いているうちに、曲が終わる。ゆっくりと目を開いた。盛大な拍手。頬を緩ませて見上げる。千春の目に映ったのは耀生の背中だった。
◆
結果的に、アコースティックギター部には新入部員が十名も入った。部は存続が決定し、部室として第二音楽準備室を取り戻したのである。でも千春の心は暗闇に包まれていた。昨年度末まで使用していた部屋に違いないのに、生物準備室の方が明るく、キラキラと煌めいていた気がする。
ライブの日から耀生には会えていなかった。所詮は耀生が会いに来なければ姿を目にすることすら出来ない関係性なのである。そのことが辛くて、泣きたいほど切なかった。
第二音楽準備室から窓の外を眺める。そろそろ五月も終わる。木々は緑に色づいて、桜色のかけらも残っていない。
部活の後、後輩たちを見送ってから千春は生物準備室へと向かった。生物研究部が部室にしているらしいと聞いたけれど、そこには誰もいなかった。今日はどうしてか暗いこの場所は、確かに千春の居場所だった。千春の世界で、耀生の世界だった。千春が足踏み入れると、微かな風で紙が舞い落ちる。拾い上げると、それは桜色のギターのチラシだった。
「馬鹿だ」
思わず溢れた。気がついたらこんなに好きだ。誰よりも好きで、今すぐに会いたい。そういえばクラスすら知らない。それでも探しに行きたいほど好きだ。
「千春先輩」
幻聴かもしれない。そう思うのに千春はゆっくりと振り返った。
「耀生くん」
そこには確かに耀生がいた。首からはカメラを下げておらず、今日はただの美少年だ。
「先輩、俺に会いたくなっちゃったんだ」
また揶揄われている。ムッとするのに、否定できない。その通りだからだ。
「……冗談だよ」
冗談。あんなに綺麗な恋人がいるのだから当然なのに、胸が痛くて涙が溢れそうになる。
「……俺が会いたくなっちゃったの」
嘘つけ。そう言いたいのに言葉が出ない。耀生がゆっくりと部屋に入ってきた。近づかれると息ができなくて、思わず後退りする。すると耀生は傷ついたように顔を歪めて足を止めた。
「知ってるよ。先輩は俺のことなんて好きじゃない。ちゃんとわかってる」
「……え?」
「でも俺は、やっぱり好きなんだ。観客に嫉妬するほど、俺のために歌ってるって信じたくなるほど」
千春よりも先に、耀生の瞳から涙が溢れた。あまりの美しさに、目が離せない。
「誰でもなく、千春先輩が好き。どうしよう、俺」
俯いた耀生は肩を震わせている。まさか、本当に千春を好きだと言っているのだろうか。嬉しいと思う。でも、耀生を想うあれほど綺麗な子がいるのだ。受け入れるわけにはいかない。
「俺も耀生くんが好きだよ。でも、耀生くんには俺なんかより素敵な恋人がいるだろ」
「……ん?」
「え?」
千春が聞き返すとゆっくりと顔を上げる。
「いないけど」
「だ、だって、ハンバーガーショップにいた綺麗な子は?」
「ハンバーガーショップ?えっと、琢磨のことかな」
「……琢磨くんって、綺麗な子?」
「綺麗ではあるけど、あいつのことなんて一生撮らないよ。意味がないから」
時が止まる。耀生の目が一気に見開かれた。
「えっ、待って!今、俺のこと好きって言った?」
言っただろうか。まさか、言ってしまったのだろうか。少し思い返してみると、どさくさに紛れて確かに言ったかもしれない。
「言った、かな」
首を傾げながら答えると、耀生が距離を縮めて両手を掬い取った。手からチラシがひらりと落ちる。
「言ったよね。俺のこと好きなの?」
「う、うん。多分」
「多分!?」
「いや、その。耀生くんのために曲を練習して歌うくらいには、好き」
「なんてこった!」
なんてこった、とは。
「カメラがない!この瞬間に、カメラがない!」
「本当だね」
「両思いの瞬間なのに」
嘆く耀生はこんなにも変なのに、千春には相変わらず美しくて可愛らしく見える。だから握られた手を優しく引いた。距離が一気に縮んで、美しい顔が目の前だ。
「大丈夫。俺も覚えてるから」
なるべく上手に笑顔を作ると、耀生の顔がふわりと近づいた。一瞬触れた唇。思わず体が固まる。耀生のまつ毛がふるりと震えた。
「やっぱり最高。俺の千春先輩」
◆
誰かと離れたくないと思うのは久しぶりだった。千春は耀生と手を繋いだまま、空が夕焼けに染まるまで生物準備室で過ごした。
「ギターがあればなあ」
今なら最高の歌を歌える気がする。素敵な歌を耀生にプレゼントできる気がするのに、相棒は第二音楽準備室だ。
「いいよ、あんなもん」
「えぇ!?」
まさかの暴言に、千春は素っ頓狂な声をあげた。
「な、なんてことを」
「当たり前でしょ。ずっと嫉妬してんの。ギターだかバターだか知らないけど、千春先輩は俺のだから」
こんな乱暴を言われているのに可愛いと思ってしまうのは恋のせいだろう。思わず吹き出してしまう。
「ちょっと、俺は本気だからね」
「はいはい」
面白くてくすくす笑っていると、耀生は天井を仰ぎ見た。
「あー、写真部やめよ」
「え、なんで?」
「だってアコギ部に行くと他の部員も映り込むんでしょ。そんなの俺の世界じゃない」
「いや、みんなのことも撮ってよ」
「いやだ」
「意地悪だな」
少し呆れるけれど、なんだか嬉しいのだから困ったものだ。
「じゃあさ」
これは思いつきだ。意味はない。本当に。
「早く結婚しよう」
本当に、深い意味なんてない。試しに言ってみたのだ。それなのに耀生は綺麗な瞳を潤ませて、ふわりと笑った。



