春色レンズ

春色レンズ
 奏にとっての死活問題、その一。
 この春、アコースティックギター部の部員が二年生の奏一人になったこと。
 奏にとっての死活問題、そのニ。
 このままでは愛する部活が廃部に追い込まれる可能性が高いこと。
 奏にとっての死活問題、その三。
 実は一人の部活動を気に入っていること。
 
 つまり、部活動を続けたい気持ちはあるのに、部員を増やす気は特にないのである。
 新年度が始まって数週間。先週まで、形だけは一丁前にチラシを配り、部員集めはしてきた。でも、ギターや音楽が好きな生徒はみんな軽音学部へと入部してしまうのである。これは奏にはどうすることもできないことだ。
 今日も奏は一人、北校舎の一番隅にある生物準備室でギターを弾きながら歌を歌う。アコースティックギターは歌をのせるのにちょうど良い。優しい音色が世界を作り、どこまでも広がるのだ。せっかくならと、今日は春の歌を選んだ。春の歌というより、これは恋の歌かもしれない。奏にとってはまだ見ぬ恋。目を瞑ると窓からの風を感じて、曲と世界が調和して心地よい。 
 カシャリ。 
 突然世界が崩れた。驚いて目を開けると、換気のために少しだけ開けておいた入り口に、カメラを構えた男子生徒が立っていた。
「へ?」
 思わず間抜けな声が出た。その瞬間に、もう一度カシャリ。
 目を丸くして固まっていると、カメラを下ろした男子生徒と目が合った。
「え、え?」
 彼の名前は奏でも知っている。この春入学したばかりの一年生、橘真白だ。彼はとにかく綺麗な容姿をしていて、その美しさから入学早々誰よりも目立っていた。そんな真白が、平凡よりも地味寄りの奏の姿を撮っている。
「な、なに」
「あ、喋った」
 そうしてまたカシャリ。奏は慌てて顔を覆って隠した。カシャリ。
「やめてよ、なんで撮るの」
 顔を覆いながら嘆くと、真白が入室する気配。異様な状況に震えてしまう。指の間から目の前を覗くと、美しい顔が真正面まで来ていた。
「なんでって、そんなの決まってるじゃないですか」
 なぜだか嬉しそうな様子が恐ろしい。震える奏に対して、真白は嬉々として続けた。
「奏先輩が最高だからです」

*******

 奏は最近げっそりとしている自覚がある。
「奏、大丈夫か?」
 唯一の友人である圭太に尋ねられるほどには酷いのかもしれない。
「大丈夫じゃない!助けてよ」
「何をだよ」
「それが」
 奏は圭太に顔を寄せ、声を潜めた。
「橘真白、知ってるだろ」
「もちろん」
「俺が部活してると、あの子が写真を撮ってくるんだ」
 あの日から毎日だ。おかげで呑気に歌っている場合ではなくなった。それなのに、真白は生物準備室へとやってくると奏に歌うように強要する。とんだカツアゲである。
「お前、それは流石に嘘」
「えぇ!」
「橘真白が俺らみたいな存在を視界に入れるわけがない」
「でも本当なんだってば」
「それは夢だよ、大丈夫。一人で部活してる副作用だ」
「夢じゃない」
「他の奴には言うなよ。虚言癖があるって思われたら大変だからな」
 友人にまで嘘つき呼ばわりをされるだなんて、余計にげっそりである。奏が恨めしく思いながら圭太を見ると、彼は肩を竦めて「まあまあ」と言った。
「確かにお前はよく見ると可愛い。よく見るとな。特に変じゃないって感じ」
「全然褒めてない」
「つまり、俺にはお前の魅力はわかるけど、橘真白が写真を撮りたくなる要素はない」
 そんなこと、言われなくてもわかっている。だから困っているのだ。
「まあ、あれじゃないの。生物準備室の亡霊だと思われてるのかもな」
「亡霊」
「それか、座敷童」
 そう言われると、なぜだか少し腑に落ちた。確かに奏は座敷童感があるかもしれない。真白は奏というよりは、生物準備室の異様な雰囲気に好奇心を抱いているのだろう。
 ただ問題は少しも解決してはいないのだ。今日も部活に行きたいのに、気が重い。
 それでも生物準備室を訪れたのは、奏にとって他に居場所がないからだ。隠していたギターを持ち出して、きっちりと扉を閉める。代わりに窓をいつもより少し多く開けて、自分は入り口の扉に寄りかかって床に胡座をかいた。こうすれば、いつも廊下側から現れる真白にも見つからないだろう。ポロンポロンとギターを鳴らすと心が落ち着く。チューニングを済ませて、今日は何の曲を歌おうか。今日みたいに爽やかな日は、明るくて爽快な歌が良いだろう。目を瞑って息を吸い込むと、換気が十分ではないためかいつもよりもっと埃臭い。でも気にせず、ギターの音色に乗せて喉を震わせた。
 カシャリ。
 最悪だ。ここ最近悩まされていたから、幻聴が聞こえるのかもしれない。でも気にしないことに決めた。ここからサビにかけての盛り上がりが好きなのだ。カシャリ。カシャリ。幻聴は続くけれど、最後まで歌いきる。余韻までしっかり楽しんで、我ながら完璧だったはずだ。満足して目を開ける。
「ひぇっ」
 自分でも驚くほどに間抜けな声が出た。窓の向こう側に、確かにカメラがある。
「はい、笑って」
 笑えるもんか。顔を引き攣らせていると、カメラの向こうから美しい瞳が現れた。なぜだか呆れたような表情をしている。瞳の持ち主である真白は「よいしょ」と言いながら窓枠を軽々と飛び越えてきた。
「うわ!」
 突然の侵入に奏が驚いていると、真白はさらに呆れたように首を傾げた。
「そろそろ慣れてくれませんか」
「慣れるわけないだろ!許可もしてない」
「毎日撮ってるのに、反応が新鮮すぎるよ」
「毎日撮らないで」
「いや、最高な被写体がいれば撮るでしょ」
 真白はそう言うと、先程まで奏が歌っていた曲を口ずさみながらカメラを操作し始めた。この隙に逃げてしまおうか。そう考えてこっそりと立ちあがろうとすると、それを遮るように真白がカメラの画面を見せてきた。
「見て」
「……え?」
 画面を覗き込んで驚いた。薄暗い部屋に光が差し込んで、ギターを抱えた少年が座り込んでいる。状況から見れば少年は奏で間違いないのに、まるで孤独で美しい物語の中のようだ。思わず真白を見上げた。
「ね。最高でしょ」
 頷いても良いものか悩む。認めてしまったら、まるでナルシストみたいだ。でも、一瞬の煌めきが確かに写真に収められていた。
「だから、明日からも撮りますよ」
「そ、それは困る」
「撮ります。そうしたら、俺はいつでも思い出せるから」
「……思い出すって?」
「奏先輩の歌、ギターの音色。初めて会った日も言ったでしょ。最高だって」
 正直、それが真白にとって何になるというのか。何もメリットがないではないか。
「先輩の歌を初めて聴いたのは部活見学の日」
 何か突然語り出した。真白は遠くを見ながらうっとりと言葉を紡いでいく。
「歌声に導かれてこの扉から覗いた時、鳥肌が立ちました。この一瞬を残さないといけないって思ったんです」
「は、はあ」
「正直カメラに興味はないけど、先輩には写真の儚さがよく似合う」
 真白は綺麗な瞳で奏のことを確かに捉えると、にこりと微笑んだ。
「廃部の危機なんでしょ」
「え?ま、まあ」
「廃部になったら学校で歌えないって聞きました」
「そ、そうなの?それは知らない」
 正直、廃部になっても勝手に歌えるものだと思っていた。
「だから俺と手を組みますよ」
「……どういうこと?」
 真白が得意気に鼻を鳴らした。
「俺が写真部を代表してアコギ部の広報係になります。一緒に部の存続をかけて頑張ります」
 理解が追いつかない。必死で思考を巡らせる。
「真白くん、ギター好きなの?」
 唯一の可能性を思いついて尋ねると、真白は少しだけ顔を顰めた。
「まさか。俺が好きなのは、奏先輩です」

*******

 知らせは突然やってきた。
「悪いけど、五月中に部員があと四人は集まらないと廃部だな」
 顧問の言葉がぐるぐると頭の中を回る。せめて奏が所属している間は温情をかけてくれると淡い期待をしていた。
「生物準備室も、本来は生物研究部が使いたいらしいからな」
 そんな謎の部活、本当にあるのだろうか。疑問を抱きつつも考える。もしも廃部となって生物準備室を追い出されたら、奏はどこで歌ったら良いのだろう。
「もちろん、部活じゃないんだから、学校での演奏は許可できない」
「えぇ!」
「当たり前だろ。水原を許したら他の生徒だってなんでも許されることになる。秩序が乱れる」
 悔しいけれど、それは確かにそうかもしれない。
「でも良かったな」
「え、なにがですか」
 今の所、良い要素だなんて一つもないではないか。そう思うのに、顧問はどこか楽しそうに笑っている。
「一年の橘が広報してくれるんだろ」
「……なんでそれを知ってるんですか」
「もちろん、俺が許可をしたからな」
 どうやらすでに根回しされているらしい。真白はガックリと肩を落とした。
 職員室を後にしながら、生物準備室へ向けてトボトボと歩く。去年までは第二音楽準備室が部室だった。でも軽音学部の増員のために追い出されたのだ。追いやられた先の生物準備室。最初の一週間は気味が悪かった謎のホルマリン漬け、剥製、骨格標本。今では薄暗いのに光が差し込むあの部屋が好きだ。でも、どうにもならないのかもしれない。すでに五月。あと一ヶ月弱でどう事態が好転すると言うのだろう。これは、やはり真白に広報をしてもらうしかないのだろうか。
「でもなぁ」
 気が進まない。だって、あのやたらと美しい少年は奏を揶揄うのだ。よりによって好きだなんて、面白くもない冗談で奏を頻繁に困らせる。
「でも、やらないと廃部ですよ」
 突然耳元で聞こえた声に、体がピャッと跳ねた。振り返ると真白が楽しそうに笑っている。
「ね。ちゃんと顧問の先生にも話をして、準備万端なんです」
「あのねぇ」
「あとは、最高な奏先輩がどれだけ最高か、学校中に知らしめるだけ」
「最高なのは俺じゃなくてアコースティックギターなの」
「試しに路上ライブしてみませんか。いや、路上ライブというか、校庭ライブ」
「や、やらないよ」
「なんで?」
 なんでもなにも、人前で歌うだなんて真白には荷が重すぎる。
「無理なもんは無理なの」
「じゃあ、俺が適当に弾いちゃいますよ」
「え!」
 この「え!」は、驚きや悲観的なものではなく、むしろやってくれるのかという喜びの「え!」である。それが通じたのか、真白は肩を竦めて首を横に振った。
「まさか、嘘ですよ。俺はアコギ部員じゃないですから」
「なんでだよ。入ってよぉ」
 学校中から注目の的である真白が入部したら、集客効果ならぬ集部員効果が十分にあるだろう。
「入部なんかしたら俺もアコギ弾くんでしょ。写真が撮れないじゃないですか。そんなのつまらない」
「つまらないって」
「俺は奏先輩を撮りたいんだから。奏先輩の作る世界を捉えたい。奏先輩の世界に無闇に入って壊したくないです」
 どこまでも不思議な子だ。我ながら複雑な顔をして真白を見ていると、突然右手を掬い取られた。そしてそのまま勢いよく引かれる。
「校庭ライブの練習しますよ。選曲はキャッチーなのが良いですね」
「だから、やらないって。俺がギター弾いて何になるの」
「ギター弾いて、ちゃんと大きな声で歌ってください。この俺が惚れたんですから、部員の十人や二十人くらいならすぐ集まります」
 惚れたなんて絶対嘘だ。そう思うのに褒め言葉が少し嬉しいのだから、真白は罪な男である。
「あ、真白くんだ」
「真白くん」
「なんで手繋いでるの」
 廊下の途中で女子生徒の集団が真白に話しかける。繋がれた手を必死で離そうとすると、かえってぎゅっと力を入れられてしまった。
「この人は奏先輩。俺の好きな人なんだ」
 女子生徒たちが驚く姿に居た堪れなくなる。
「嘘、嘘!」
 クラスの女子とも話したことがないのに、奏は必死になって女子生徒たちに弁解した。彼女たちは顔を見合わせている。真白は繋いだ手をブンブンと振って楽しそうだ。
「そうそう、みんな。再来週の金曜日、花壇の前でライブするんだ」
「ライブ?」
「友達呼んで来てね」
「真白くんが歌うの」
「まさか。奏先輩だよ。最高なんだ」
 馬鹿野郎と叫ばなかった自分を褒めてやりたい。
「来なくて良いです。最高じゃないし、こちらの真白くんは本当に歌わないので、絶対に来ないで!」
 半ば叫びながらその場を後にした。振り解こうにもどうしても離れない手を引いて、最早逃走だ。
 必死に生物準備室までくると、今度は本気でその手を振り解いた。勢いよく真白を振り返る。かなり頭にきた。
「真白くん!」
「はい?」
 真白は能天気に笑っている。
「君って最低!」
「……え?」
 真白は意外だとでも言いたそうに目を丸くした。頭がおかしくなりそうだ。
「毎日毎日毎日。好きだの、最高だの、歌えだの!いい加減にして」
 もうどうしようもなくて泣きそうだ。むしろすでに目に涙が溜まっている気がする。それが恥ずかしくて情けない。
「俺は、真白くんとは何もかも違う。平凡で地味で、美しくもなければ才能もない。薄暗い生物準備室にさえ居場所をもらえないかもしれない存在なんだから」
 真白はカメラで撮った写真さえ美しく煌めいている。その上、綺麗で性格も明るく、人に好かれて何をやっても上手なのだろう。真白と奏は人間性や生き様に天と地の差があるのだ。怒りだか悲しみだか、自分でもよくわからないけれど体が震える。
「いい加減にして欲しいのはこちらですけど」
 真白が吐き捨てるようにそう言った。彼は、どう見ても怒っている。美しい顔には表情がなく、それが氷のように綺麗だ。思わず真白の顔を凝視する。
「よくもまあ、俺の奏先輩をそんな風に言いますね」
「……え?」
 今、なんと言われたのだろうか。
「俺の奏先輩は美しいです。才能もある。ギターを弾いて歌う姿は格別です」
「え、えっと」
「本当は誰にも見せたくない。でも、見てもらわないと先輩の魅力はずっとこの暗い部屋の中。廃部になったらこの居場所すらなくなるんでしょ」
 居場所の問題はその通りだ。五月を過ぎたらこの学校で歌うことはできない。自宅は壁の薄い四畳半のアパートだから、小さな音でも練習できない。それこそ死活問題であるのは間違いない。黙ったままの奏を、真白は鋭い眼光で貫いた。
「先輩の魅力を、俺が証明するって言ってるんです。俺が全責任を負います」
 言葉すら美しい後輩だ。あまりの美しさと説得力。それに対して無力な自分自身が居た堪れなくて、思わず悔し涙が溢れた。

*******

 悔し涙を流したあの日は月曜日だっただろうか。今日が木曜日。もう三日ほどまともにギターに触れていなかった。だって、生物準備室で真白に会ってしまったら最悪だ。まだ許していない。でもそろそろギターを弾かないと、せっかく習得したなけなしの技術が衰えてしまいそうだ。
「奏、大変だ!」
 放課後、今日も帰るか悩んでいたところで、すでに帰宅したはずの圭太が慌てたように教室へ戻ってきた。
「どうしたんだよ」
「お前を題材にした個展が開かれてる」
「……はあ!?」
 奏を題材にした個展とは一体。慌てて立ち上がると、圭太の後に続いて教室を飛び出した。
 現場へ辿り着くと、奏は唖然とした。花壇の横に設置された掲示板と、勝手に増設されたらしいホワイトボード。それらにさまざまな大きさの写真が貼り付けられている。光が差し込む薄暗い部屋で、空気がキラキラと輝く様子。美しく静かな世界でギターを抱えた少年の姿、横顔、後ろ姿。顔ははっきりと出ていない。でも確かに、これは真白が撮影した奏に違いなかった。
「最初は綺麗な写真だとしか思わなかったんだけど、やっぱり奏だよね」
「う、うん」
「お前の話、本当だったんだな」
 圭太の指さす場所を見上げると、そこには個展名が大きな文字で書かれていた。
「橘真白の愛する世界」
 ゆっくりと読み上げて、頭を抱えた。題名の下には文章が貼り付けてある。
「再来週金曜日、この場所でアコースティックギター部のライブを開催します。入部は大歓迎。ただし、写真や動画撮影は禁止」
 読み上げた圭太が奏の背中を優しく撫でた。
「お前、可哀想だな。こんなキャラじゃないのに」
「うぅ……」
 こんなことになるだなんて。あの日以来の本気泣きができそうだ。とにかく、写真を剥がそう。そう決意して写真に手を伸ばすと、腕を華奢な手が掴んだ。
「真白くんの作品にさわらないで」
「そうよ。真白くんの愛する世界なんだから」
「写真部に入ったなんて意外だと思ったけど、こんなに上手なんだ」
「私も入部しようかな」
 真白の人気は絶大なのに、再来週のアコースティックギター部のライブとやらに興味を示す人間は一人もいないらしい。そもそもやらないけれど、少し切なさを感じるのは何故だろうか。
「橘真白本人にやめさせた方がいいかもな」
 圭太のアドバイスに、奏は仕方なく頷いた。
 圭太と別れて迷わず向かったのは生物準備室だ。ここに来れば、きっと真白は姿を現すはずである。そう思ったのに、待てど暮らせど真白は現れなかった。どうしたものか。そう考えながらも、奏は生物準備室の隅に置いたギターが気になってしまう。弾きたくて、歌いたくて、うずうずするのだ。とうとう我慢の限界で、奏はギターに手を伸ばした。
 窓際の椅子に座り、ポロンポロンとチューニングをしてジャランと音を鳴らす。優しい音色に癒される。思わず微笑んで、ギターを優しく撫でた。
 カシャリ。
 ハッと顔を上げた。キョロキョロと見回すけれど、どこにも真白の姿はない。幻聴だったのだろうか。首を傾げて、少しだけ宙を見上げる。何を歌おうか。
 カシャリ。
 今度は確かに聞こえた気がして、思わずギターを抱えて立ち上がった。カシャリ、カシャリ。音のする方を目で辿る。
「うわ!」
 骨格標本越しにカメラのレンズが煌めいた。
「な、何やってるんだよ!」
「待ち伏せ作戦です。どうせ来るだろうと思って」
 真白は骨格標本をそうっと動かすと、棚の奥からのそりと現れた。立ち上がって制服の埃を払うと、にこりとカメラを構える。
「はい、久しぶりの再会」
 カシャリ。真白は満足そうに画面を覗いて、それから少しだけ頭を下げた。
「奏先輩、ごめんなさい」
「……え?」
「俺が悪かったです」
 突然の謝罪に言葉を失う。奏の気持ちが伝わったのだろうか。戸惑っていると、真白は美しい形の眉を下げて、見るからにしょんぼりとしてみせた。
「順序を間違えました」
「順序?」
 確かに順序は間違えまくりだとは思う。奏の気持ちは無視をして、ずっと突っ走っていた自覚があるのだろうか。勝手な個展のことを問い詰める前に、ちゃんと話を聞くべきかもしれない。
「まず、今までも伝えていましたが、俺は奏先輩に惚れています」
「……だから」
 またわかりやすい嘘をつくものだ。思わず呆れると、真白は大真面目な顔で口元に人差し指をあてた。
「静かに。俺が話してますよ」
 なんて自分勝手なのだろう。そう思うのに、思わず「ごめんなさい」と言ってしまった自分が情けない。
「つまり俺は、奏先輩のことを愛しています」
「はい?」
「ギターに嫉妬するほど、本当は写真を誰にも見せたくないほど」
「あんな大々的に個展を開いておきながらよく言うよ」
「身を切る思いで写真を貼ったんです。俺の宝物なのに」
 真白はそう言うと、カメラを大切そうに抱きしめた。そして奏をしっかりと見つめる。
「見てください、可哀想な俺。本当はカメラじゃなくて、先輩を抱きしめたいんですよ」
「えぇ……」
「奏先輩、大好き。歌声に惚れたと思ったのに、先輩の世界を好きになって、気がついたら先輩を好きになってた」
「はあ」
「全責任を負うって言ったでしょ。俺は先輩のために、アコギ部員を増やします。もし増えなかった時は、その時は」
 どうするつもりだろうと黙っていると、真白は大きく息を吸い込んでから口を開いた。
「先輩と結婚します」
「なになに!?」
「防音の部屋を借りて一緒に住みましょう。学生ですから、同棲から」
「いや、あの」
「俺も一人暮らしですから身軽です。先輩もでしょ」
 なぜ知っているのだろう。思わず目を丸くすると、真白は大きく頷いた。
「どちらにしても、俺が先輩の歌とギターを守ります」
 ふわりと浮かべられた笑顔。その表情はとても綺麗で、奏は混乱の中にもかかわらず、少しだけ見惚れてしまうのだった。
 
*******

 あれは本気の目だった。絶対に冗談なはずなのに、本気に見えたのだ。だからこんなにも悩んでいる。
 もう月曜日になってしまった。つまりは来週の金曜日、アコースティックギター部としてライブをしなければならない。奏が歌うことで部員集めに効果があるのかもわからない。それなのにライブをする方向に思考が向かうのは、部員を集めて部の存続を決めないと奏は真白と結婚しなければならないらしいからだ。いや、結婚ってなんだ。そんなの無理なのに、何を悩むことがあるのか。そうわかっているのに、あの男ならやりかねないと思っている自分がいる。
 頭の中が忙しくて、思わず天を仰いだ。手元には大好きなギターがあるのに集中できない。
「さて、ライブでは何を歌いますか」
「うわあ!」
 久しぶりに窓からの登場だ。彼はカメラを抱えると、いつかのように窓枠を身軽に飛び越えてきた。
「マジで勘弁してよ」
 胸を押さえながらそう言うと、真白は得意気に笑顔を見せる。
「安心して。ライブは俺が絶対に成功させるから」
「だって、歌うのは俺でしょ」
 思わずムキになると、真白は目を丸くしてパアッと表情を輝かせた。
「歌う気になってくれたんだ!嬉しい」
「あ、いや」
「俺の好きな曲リクエストしても良い?もちろん、別の曲を歌っても良いから」
「だから」
 奏の抵抗虚しく、真白はポケットからスマートフォンを取り出すとプレイリストを開いた。そして流れ出した曲は。
「あ、この曲」
 明るくて優しくて可愛らしい恋の歌だ。奏も好きなテイストだけれど、この曲はコードが難しい。少し挑戦しては諦めていた曲である。
「あとね、この曲」
 次の曲はしっとりとしたバラードだ。これは少し哲学的で、やはり恋の曲なのかもしれない。真白の選曲センスは奏の好みと似ていた。
「弾けそう?」
「わからない、けど」
 弾けそうなコードだけ奏でて、簡単にメロディーを口ずさむ。やっぱり、難しいけど楽しい。
「すごい!さすが俺の奏先輩」
 手を叩いて褒められると悪い気はしない。照れ臭くて思わず笑うと、真白が「あ」と声を上げた。
「今の顔、可愛い」
「……へ?」
「撮りたかった。もう一回その顔して」
「いや、無理だよ」  
「えぇ」
 残念そうに唇を尖らせる。でも、奏はやれと言われて表情を整えられるタイプの人間ではない。
「まあいいや。これからずっと一緒にいる予定なので、またシャッターチャンスを狙います」
 真白はカメラを掲げて、完璧な笑顔を見せた。
 それから少しだけ一緒に過ごして、真白は珍しく用事があると言って先に帰って行った。少しだけホッとするのは、真白の顔が美しすぎるからかもしれない。女の子のように可憐なのに確かに精悍で、絶妙なバランスが綺麗なのだ。もし奏がカメラ小僧だったら絶対に被写体として選びたい。いや、それは流石に恐れ多いだろうか。一人で考えながらギターを片付けて、生物準備室を後にする。今日はアルバイトだ。
 北校舎をゆっくりと歩いていると、多目的室が賑わっていた。ここは写真部の部室である。真白が入部したことによって部員がかなり増えたらしい。
「真白の写真、綺麗だよね」
「アコギ部の広報を頑張るって張り切ってるからな」
 漏れ聞こえてくる声に自然と耳を傾けてしまう。
「でもさ、あの被写体誰?本当にアコギ部?」
「真白は本気で可愛い人だって言ってるけど、多分写真が上手いだけなんだろうな」
 悪意はないのだろう。でも、奏の心はずんと重くなった。結局みんな真白にしか興味がないのだ。アコースティックギターの音色も、もちろん奏の歌声にも、全く興味がない。つまり、地味で平凡な奏がライブを行うなんて恥ずかしいことなのではないだろうか。
「やっぱり、やめようかな」
 小さく呟く。それが絶対に正解だとわかるのに、なぜだか心がざわついた。

*******

 真白の人生は順風満帆である。そこそこ金持ちで、実家から遠い学校にも援助を受けて通わせてもらえている。何より容姿も性格も割と良い方である自覚があり、手先も器用な方だ。そんな真白は今、人生始まって以来の最大の困難に立ち向かっていた。
 まさか高校一年の春、年上の男子生徒に心奪われるなんて誰が思うだろうか。女の子には勝手にモテまくってきた人生なのに、苦労なんてしたことがないのに。薄暗い生物準備室から聞こえてきた歌声を聞いて以降、自分でも意味がわからないままに好きになってしまった。最初はもちろん葛藤があった。でも彼を想うだけで世界が煌めいて、彼の全てを自分のものにしたくなる。気がついたら帰宅部志望にもかかわらず、あまりにも小規模な写真部に入部するほどには大好きになっていた。
「お前さ、最近変すぎる」
 久しぶりに会った親友は眉を顰めながらそう言った。初めて訪れたハンバーガーショップは夕方の賑わいを見せている。自分で買ったのにもかかわらずポテトをつまむわけにはいかない。油でカメラが汚れたら困るのだ。
「そろそろカメラしまえよ」
「いやだ。俺の奏先輩が泣く」
 水原奏。猛烈に好意を伝えても少しも靡いてくれない先輩。でも、どう考えても泣くのは真白の方だ。
「マジで、変すぎる。ちょっと面白いな」
 親友は同性の真白から見ても綺麗な顔だ。中学の頃は二人揃うとよく注目を集めていたものだ。でも一緒にいて楽しくはあっても、世界はあまり煌めかないのである。やはり奏が特別なのだ。
「そろそろ彼女でも作れば?」
「はあ?奏先輩がいるのに、無理無理」
「だって先輩はお前のこと少しも好きじゃないんだろ?」
「いつか好きになる。大丈夫」
「だって、なんて告白して無視されてるんだっけ」
「……愛してる。結婚したい」
 大体そんな感じだ。親友は微妙な顔をして大きく頷いた。
「いや、お前に言ってないからな」
「当たり前だろ。勘弁して」
 親友は首を竦めてそう言うと、豪快にハンバーガーを齧った。そしてもごもごと咀嚼をすると、何かを決めたかのように頷いた。
「お前のために言うけどな、無理だと思っておいた方が良いよ」
「……」
「世の中そんなに甘くない」
「……うん」
 そうだ。この真白がいくら追いかけても、少しも良い兆しが見えない。
「まぁ、俺は応援するけどね」
 見るからに落ち込んだ真白を思ってか、親友が優しくそう言った。
「さんきゅ」
 奏は本当にライブをするだろうか。正直、アコースティックギター部の部員が増えようが廃部になろうが真白には関係ない。でも、大好きな奏の世界を、真白の世界を守りたいのだ。エゴだとわかっていてもやめられない。真白は大きく溜息をついた。
 
*******
 
「……愛してる。結婚したい」
 ハンバーガーショップでのアルバイト中、ゴミ箱を片付けているときに確かに聞こえてきた声。誰でもない、真白の声だ。まさかアルバイト先にも現れたのかと怯えたところで、視界にとらえたのは美しい男子高校生の二人組。片方が真白で、もう片方は他校の制服である。見間違いでなければ、他校生の方がこくりと頷いた。
 ひゅっと息を吸い込んだ。動悸を感じて胸を抑える。慌ててバックヤードへと下がった。今のはなんだろう。告白に見えけれど、まさか。
 奏はハッとして口元を覆った。
「もしかして、あの子が本命?」
 真白は奏のことを好きだなんだと言っていたけれど、あれはやはり全部嘘だったのだ。奏はずっと揶揄われていたということか。
「やっぱり綺麗な子が好きなんじゃん」
 妙に納得しながらも、がっかりしている自分がいる。冗談でも好意を向けられたことなんてなかったから、虚無感が強いのかもしれない。
「やっぱり、やめよう」
 ライブだなんて柄にもないことしたくない。誰にも選ばれない奏が歌う意味なんてないのだ。あんなに迷惑していたのに悲しく感じる自分がバカみたいに思えた。
 でも、そう思う自分自身に対して、少しだけ心が反抗してくる。胸がツキツキと痛んで落ち着かない。この気持ちはなんだろうか。
「奏くん、表掃除してきてくれる」
「あ、はい!」
 反射で答えてから、今はまずいと思った。でも今更断れない。奏は顔を隠しながらゆっくりと店内を通り過ぎ、外へと出た。ほっとしたのも束の間、背後で扉の開く気配。身を硬直させて、様子を伺ってみる。
「でもさ、写真は楽しいんだろ」
 写真という言葉に、さらに固まった。
「まあね。被写体は先輩だけだけど」
 答えるのは、やはり真白の声だ。
「そんなに良いんだ」
「うん。奏先輩の写真は、俺の世界」
 ドクリ。
 心臓が大きく鳴った。恋人相手にそんなことを言って良いのだろうか。勝手に焦る奏に対して、真白の恋人はなんでもないことのように相槌を打った。
「ふーん。そういうの、いいね」
 これが愛されている余裕というものなのだろうか。驚く奏を置いて、二人の声は遠ざかっていく。声が完全に聞こえなくなったところで、いつの間にか止めていた息を吐き出した。
 アルバイトを終えて家に帰った時、思わず狭い玄関にしゃがみ込んだ。考えすぎて脳みそが疲れた。もう何もできない。そう思いながらも、のそのそと靴を脱ぐ。家庭の事情で一人暮らしをしている奏には、世話を焼いてくれる人なんていない。疲れても明日の自分のために動くしかないのだ。暗い四畳半にたどり着くと、そのまま畳に突っ伏した。ひんやりとした井草に頬をつけたまま考えるのは真白のことである。
 正直、真白の写真はすごいとしか思っていなかった。この奏が美しく煌めいて見えるだなんて不思議だったけれど、それは彼の技量によるものだとしか思わなかったのだ。ところが今日少しだけわかった。真白が撮る写真は確かに真白の世界なのだ。あんなに綺麗な恋人ができても、奏の写真を真白の世界と言ってくれた。
「やろうかな」
 静かに呟いたら、心がすうっとした。部の存続ももちろん大切だ。でも、奏の歌を、ギターを、真白は周囲に伝えたいと言ってくれた。真白の世界には確かに奏の音があって、それを大切に写真で表現してくれている。世界にそんな人がいるだなんて、こんなに幸せなことはないのではないだろうか。そう思うと、腹の奥が据わった気がした。
 奏はのそりと起きた。こうなったら曲選びだ。難しいと思っていた曲もきちんとコードを書き起こしてみよう。恥ずかしくても、観客はいなくても、真白だけは見ていてくれるはずだ。それだけで、奏には十分な気がした。

*******

 ポロリポロリ。カシャリ、カシャリ。ポロリ、カシャリ。
 シャッター音も気にせず演奏を続けるのは必死だからだ。ライブ本番まであと十日しかない。
「奏先輩」
「……ん?」
「ちょっとは構ってよ」
 真白の声にやっと顔を上げると、思いがけず至近距離に美しい顔があった。ドキリと胸が鳴ったのはなぜだろう。
「い、忙しいの」
「それでも構って」
「無理」
 視線を逸らして、ギターを触る手元を無意味に凝視する。不思議と顔が熱くなりそうだ。
「先輩」
「うん」
「先輩ってば」
 優しく頬に添えられた手で顔を上げられる。綺麗な瞳と目が合うと、本当に顔が熱くなった。目を丸くする真白と、目を逸せない奏。
「顔、熱いけど大丈夫?」
 両手で顔を包まれると余計に熱くなる。奏はその手を振り払うように顔を乱暴に振った。
「大丈夫。今、ライブのために頑張ってるところ」
「……え?」
 驚いた様子の真白をチラリと見て、彼の喉元に視線を落ち着ける。
「俺、ライブ、やる」
「え、本当?」
 こくりと頷く。言ってしまったからには死ぬ気で練習しなければならないだろう。望むところだと息を吸い込むと、真白の腕が首に巻き付いてきた。
「うわ!」
 驚いたらすぐに離れていったけれど、それにしても顔が近すぎる。
「奏先輩の歌、届けましょう。天にまで!」
「大袈裟だよ」
「宇宙まで!」
 興奮した様子の真白を見ながら、気がつけば頬を緩ませる。それに気づいた瞬間に思わず顔を手で覆った。今、もしかして可愛いとか思ったんじゃないだろうか。
「なんですか、先輩。今日も可愛すぎますね」
 優しい微笑みに、胸がキュンと音を立てた。冗談ではなく、確かに音がした。この奏が可愛いわけがないのに、彼の言葉を信じたくなる。
「じゃあ、俺は帰ります」
「え?」
 思わず名残惜しくて声が出た。慌てて口を噤んだけれど、真白には聞こえたらしい。
「なんですか、寂しい?」
「い、いや。全然」
「そうですよね」
 真白はふっと息を吐いて、ゆっくりと立ち上がった。
「先輩の邪魔はできませんから。俺は俺なりに頑張ります」
 ひらりと手を振って去っていく後ろ姿。生物準備室が明らかに暗くなった。そこで気がついた。真白がいる時、生物準備室がキラキラと喜んで見える。
「浄化されるのかな」
 真白の持つ美しさが羨ましい。奏はジャランとギターの音色を響かせた。

 *******

 授業、練習、アルバイト。この十日間、ほとんど毎日その繰り返しだった。練習は上手く進まない時もあったけれど、だんだんと形になってきたのではないだろうか。それでも人に見せられる状態になったのかはわからない。奏は奏の世界しかわからないからだ。
「ねえ、真白くん」
 今日もカメラを構える真白に呼びかけると、彼は律儀に構えを崩して「ん?」と答えた。
「俺、上手になってるかな」
「うん、全曲良いよ。俺、大好き」
 にこりと笑顔を向けられると、奏も自然と笑顔になる。
「ふふ。可愛い」
 真白は口癖のようにそう言うと、今日も練習半ばにもかかわらず立ち上がった。
「もう行くの?」
「うん」
「その、デ、デート?」
 恐る恐る尋ねた自分の心理がわからない。真白は目を丸くすると首を傾げた。
「奏先輩と?行く?」
「行かない!」
 また揶揄われた。思わず唇を尖らせると、真白は楽しそうに笑いながら「じゃあね」と生物準備室から去っていった。一段暗くなった部屋で溜息をつく。近頃先輩としての威厳が足りなくなった気がする。もともとないに等しかったけれど、最近は揶揄われてばかりだ。でも不思議と嫌ではなくて、なんなら彼の好きな曲を練習している自分がいる。奏は自分で書き起こしたコード表を譜面台に置いた。真白の好きな明るい恋の曲だ。やはり難しくて、思ったように指が動かない。出来れば本番で歌いたいけれど、本番までに完成しなかったら恥ずかしいからこっそり練習をしている。本番は明後日だ。あと一箇所だけ、そこさえ流れるように弾けたら完成するのに。
 そして、あっという間にライブ当日になった。心臓を何度も吐き出しそうになりながら迎えた放課後。最後まで生物準備室で練習したけれど、結局真白の好きな曲は完璧に弾けなかった。それが奏という人間だ。やはり、平凡で地味で、美しくもなければ才能もない。でも、唯一あるのは負けん気だ。せっかくならその他に用意した三曲は歌い上げたい。生物準備室から窓の外を見上げて、大きく息を吸い込んだ。
「先輩」
 トクリ。優しい声に心臓が音を立てた。振り返ると、真白が廊下に立っている。
「先輩。お客さん、たくさんいますよ」
「そ、そうなの?」
「俺が集めました」
 顔が固まる。震える手を必死で握りしめて、落ち着けと自分に言い聞かせた。真白ほどの人気があれば集客など容易いのだろう。でもその中でどれだけの人が最後まで聴いてくれるだろうか。
「ねえ、奏先輩。聞いて」
 真白が生物準備室へと入ってくる。部屋がキラキラと煌めいて、まるでこの部屋が奏のすべてに思えた。
「俺の奏先輩」
「俺のって」
「最後まで聞いてください」 
 真剣な様子に思わず息を呑む。黙って見つめると、真白は表情を崩さずに口を開いた。
「観客なんて関係ないから」
「……え?」
「できたら、俺のために歌って」
「真白くんのために」
「そうだよ。そしたら俺は、きっと満足する」
 それはどう言う意味だろうか。不思議に思って聞き返そうとすると、真白は黙って首を横に振った。
「意味は聞かないで。大丈夫。俺の世界を信じて」
 真白の世界。奏の歌は、真白の世界なのだ。そう思うと、なぜだか自信が湧いてきた。
 ギターを抱えて花壇前に向かう。
「す、すご」
 観客はざっと五十人はいるだろうか。最前列で圭太が手を振っている。いつか真白が廊下で誘っていた女子生徒や、顧問。あとは真新しい制服が目立つから、きっと一年生ばかりなのだろう。後ろをついてきていた真白を振り返ると、彼は大きく頷いて奏の背中をそっと押した。
 奏は花壇前に用意された椅子に座って、そっと足を組んだ。その上にギターを乗せて、ポロリと最初の曲を始める。少しざわついたのは、自己紹介すらしなかったからかもしれない。歌い始めてからそのことに気づいたけれど、奏には少しも余裕がなかった。
 一曲目は春にぴったりの恋歌だ。真白と最初に出会った日、いやあれは襲撃された日と言った方が良いかもしれない。廊下からカメラを向けられて唖然としたものだ。思い出すと緊張がほぐれるのが不思議だった。
 二曲目は今日のような爽やかな日にぴったりの明るい爽快な歌。初めて好きだと言われた日に歌っていた記憶が蘇る。胸の奥がキュンと疼いて、自然と喉が開いた。
 三曲目は真白が好きだと言ったバラードだ。ゆったりと空間に浸透するように歌う。その時になって、やっと観客の様子に気がついた。奏の癖でずっと目を瞑っていたのだ。観客はしんと聴いてくれている。今更目を開くのは怖くて、奏は最後の一音まで心を込めて歌い上げた。ギターの音色が止んで、空間が静まり返る。もしかしたら目を開けても誰もいないのかもしれない。その可能性に気がついて怖くなった。
 パラパラ、パチパチ。
 ゆっくりと聞こえ始めた拍手に、恐る恐る目を開けた。大多数の観客がまだそこにいて、奏のために手を叩いてくれている。
「すごいよ!本当に奏!?」
 圭太が目を丸くしている。拍手は鳴り止まない。こんなに嬉しいことがあるだろうか。
「奏先輩、アンコールだよ」
「え゙っ」
 拍手が揃い始めて、本気でアンコールを促されているらしい。この展開は予想していなかった。どうしよう。
 奏は慌てて目を瞑った。他に何か弾けただろうか。思い浮かぶのは、いくら練習しても弾けなかったあの曲だけだ。ふと真白を見上げる。カメラを下げた彼がじっと奏を見つめている。
「そうだ。下手でも、間違えても、真白のために歌おう」
 小さな声で自分に言い聞かせる。息を大きく吸い込んだ。真白の世界を信じよう。
 指をゆっくりと弦の上に配置する。そして丁寧に指で弾いた。
「あ、この曲」
 女子生徒の声が聞こえた。ざわめきを分析すると、この曲はみんな好きらしい。それなら尚更嬉しくて、奏は一生懸命に歌った。それまでも必死だったけれど、このアンコールはまた違う。心から、真白のことを想いながら歌うのだ。
 なぜこんなに真白が気になるのだろう。美しくて、強引で、変わり者。失礼で、それなのに誰よりも可愛い。こんな風に誰かを思うのは初めてだから、何もわからないのだ。でも確かなことは、彼には他に想う人がいるということ。胸がはち切れそうで、でも愛おしい。歌いながらそんなことを考えていたら、気がついたら難しい部分を迎えていた。指が予想に反して軽やかに動く。あれ、なんか弾けた。真白を想っていたら弾けてしまった。自分自身に驚いているうちに、曲が終わる。ゆっくりと目を開いた。盛大な拍手の中、奏の目に映ったのは真白の背中だった。
 
*******

 結果的に、アコースティックギター部には新入部員が十名も入った。部は存続が決定し、部室として第二音楽準備室を取り戻したのである。でも奏の心は暗闇に包まれていた。昨年度末まで使用していた部屋に違いないのに、生物準備室の方が明るく、キラキラと煌めいていた気がする。
 ライブの日から真白には会えていなかった。所詮は真白が会いに来なければ姿を目にすることすら出来ない関係性なのである。そのことが辛くて、泣きたいほど切なかった。
 部活動の後、後輩たちを見送ってから奏は生物準備室へと向かった。生物研究部が部室にしているらしいと聞いたけれど、そこには誰もいなかった。今日はどうしてか暗いこの場所は、確かに奏の居場所だった。奏の世界で、真白の世界だった。
「馬鹿だ」
 思わず溢れた。気がついたらこんなに好きだ。誰よりも好きで、今すぐに会いたい。そういえばクラスすら知らない。それでも探しに行きたいほど好きだ。
「先輩」
 幻聴かもしれない。そう思うのに奏はゆっくりと振り返った。
「真白くん」
 そこには確かに真白がいた。首からはカメラを下げておらず、今日はただの美少年だ。
「先輩、俺に会いたくなっちゃったんだ」
 また揶揄われている。ムッとするのに、否定できない。その通りだからだ。
「……冗談だよ」
 冗談。あんなに綺麗な恋人がいるのだから当然なのに、胸が痛くて涙が溢れそうになる。
「……俺が会いたくなっちゃったの」
 嘘つけ。そう言いたいのに言葉が出ない。真白がゆっくりと部屋に入ってきた。近づかれると息ができなくて、思わず後退りする。すると真白は傷ついたように顔を歪めて足を止めた。
「知ってるよ。先輩は俺のことなんて好きじゃない。ちゃんとわかってる」
「……え?」
「でも俺は、やっぱり好きなんだ。観客に嫉妬するほど、俺のために歌ってるって信じたくなるほど」
 奏よりも先に、真白の瞳から涙が溢れた。あまりの美しさに、目が離せない。
「誰でもなく、奏先輩が好き。どうしよう、俺」
 俯いた真白は肩を震わせている。まさか、本当に奏を好きだと言っているのだろうか。嬉しいと思う。でも、受け入れるわけにはいかない。
「俺も真白くんが好きだよ。でも、真白くんには俺なんかより素敵な恋人がいるだろ」
「……ん?」
「え?」
 奏が聞き返すとゆっくりと顔を上げる。
「いないけど」
「だ、だって、ハンバーガーショップにいた綺麗な子は?」
「ハンバーガーショップ?えっと、琢磨のことかな」
「……琢磨くんって、綺麗な子?」
「綺麗ではあるけど、あいつのことなんて一生撮らないよ。意味がないから」
 時が止まる。真白の目が一気に見開かれた。
「え、待って!今、俺のこと好きって言った?」
 言っただろうか。まさか、言ってしまったのだろうか。少し思い返してみると、どさくさに紛れて確かに言ったかもしれない。
「言った、かな」
 首を傾げながら答えると、真白が距離を縮めて両手を掬い取った。
「言ったよね。俺のこと好きなの?」
「う、うん。多分」
「多分!?」
「いや、その。真白くんのために曲を練習して歌うくらいには、好き」
「なんてこった!」
 なんてこった、とは。
「カメラがない!この瞬間に、カメラがない!」
「本当だね」
「両思いの瞬間なのに」
 嘆く真白はこんなにも変なのに、奏には相変わらず美しくて可愛らしく見える。だから握られた手を優しく引いた。距離が一気に縮んで、美しい顔が目の前だ。
「大丈夫。俺も覚えてるから」
 なるべく上手に笑顔を作ると、真白の顔がふわりと近づいた。一瞬触れた唇。思わず体が固まる。真白のまつ毛がふるりと震えた。
「やっぱり最高。俺の奏先輩」
 
*******

 誰かと離れたくないと思うのは久しぶりだった。奏は真白と手を繋いだまま、空が夕焼けに染まるまで生物準備室で過ごした。
「ギターがあればなあ」
 今なら最高の歌を歌える気がする。素敵な歌を真白にプレゼントできる気がするのに、相棒は第二音楽準備室だ。
「いいよ、あんなもん」
「うぇ!?」
 まさかの暴言に、奏は素っ頓狂な子をあげた。
「な、なんてことを」
「当たり前でしょ。ずっと嫉妬してんの。ギターだかバターだか知らないけど、奏先輩は俺のだから」
 こんな乱暴を言われているのに可愛いと思ってしまうのは恋のせいだろう。思わず吹き出してしまう。
「ちょっと、俺は本気だからね」
「はいはい」
「あー、写真部やめよ」
「え、なんで?」
「だってアコギ部に行くと他の部員も映り込むんでしょ。そんなの俺の世界じゃない」
「いや、みんなのことも撮ってよ」
「いやだ」
「意地悪だな」
 少し呆れるけれど、なんだか嬉しいのだから困ったものだ。
「じゃあさ」
 これは思いつきだ。意味はない。
「早く結婚しよう」
 本当に、深い意味なんてない。試しに言ってみたのだ。それなのに真白は綺麗な瞳を潤ませて、ふわりと笑った。