夏休みはとにかく働くのだ。邪念を捨て、働いて働いて稼ぎまくる。そのつもりでいた。それなのに、夏休み初日。ドーナツ屋の制服を着た遙の隣には、同じ制服に身を包んだ湊が立っていた。
「遙、次はどうしたらいい」
「あ、えっと、ストロベリーが少ないから補充しよう」
「はーい」
何が楽しいのか、湊はずっとご機嫌だ。御曹司にとっては初めてのアルバイトらしい。ドーナツを補充している湊を気にしつつ、接客のためにレジに立つ。あとでレジの仕方も教えよう。そう考えながらもいつも通り会計をしているつもりなのに、今日はなんだか客がソワソワしていて不思議である。
「あの」
話しかけてきたのは遙と同じ年くらいの女性だった。
「はい、どうされましたか」
女性の視線はショーケースの方へ向いている。
「あの赤髪の人って、一条湊くんですか」
自分の名前が聞こえたのか、湊が顔を上げた。
「そうですけど」
湊がそう答えると、店内の女性が急にざわめいた。「なんで湊くんがいるの」「本物だ」「雑誌と同じね」「かっこいい」だなんて聞こえてくる。知っていたつもりだったけれど、思っていた以上にすごい人気だ。
その日以降、ドーナツ屋は今まで以上に繁盛するようになった。遙たちは大忙しで、息つく暇もない。
「さすが湊さん。すごいね」
食器類をバックヤードへと持っていくと、皿洗いをしていた敦がそう言った。
「有名人なんですね」
「まあ、白石くんも人気だけどね」
「僕は普通ですよ。名前を聞かれることもほとんどないし」
「みんな俺に聞くんだよ。教えませんよって言ったら、みんな来なくなったけど」
「僕の名前くらい、教えて良いのに」
「また変な男でも現れたら大変でしょ」
確かにそうかもしれない。そうやって遙を守ってくれていたのだとわかって感謝を伝えようとすると、敦がちらりと遙を見遣った。
「白石くんは可愛いからね」
「……えっと」
可愛いと言われるのは正直照れ臭い。でも湊に言われる時よりもドキドキしないのだ。同じ「可愛い」なのに、何が違うのか。恋というものは不思議だ。
「何やってんすか」
振り返ると、客から下げた食器をトレーに載せた湊がいた。ずんずん近づいてきてトレーごとシンクに置くと、遙の手を掴んで引っ張る。
「忙しすぎるんだから、すぐ戻ってきてよ」
「ご、ごめん」
それからの湊はずっと不機嫌だった。客には愛想良く接するものの、ふとした拍子に見せる無表情が少し怖い。
それでも一日何とか仕事を終えた帰り道、湊はむすっとしながら遙の手を握ってきた。誰かに見られるのではないかと気が気ではないものの、すでに日も暮れて人の気配がないから大丈夫だろうか。
「敦くん、遙のこと好きだよね」
「好きというか、仕事仲間だからね。優しい人だし」
「ふん、それだけじゃないと思うけど」
不機嫌にそう言われると、今日はすごく悪いことをしたのではないかと思ってしまう。
「ごめんね。少し話してただけだったんだけど」
「……可愛いって言われてた」
「うん。敦さん、面倒見良いから」
「それだけじゃないと思うけど」
再び冷たく言い切られて、なんだか無性に寂しくなった。大好きな人と、大好きな人だ。好きの種類は違うけれど、二人とも好きだからこそ寂しい。少し俯くと、隣から聞こえてきた大きな溜息。湊にもいろいろな思いがあるのかもしれない。
「遙はさ、俺のことが好きだよね」
「うん」
「どれくらい好き?」
「湊となら、なんでもできるくらい。どこまでも行けるくらい。それくらい好き」
「……じゃあ良いよ。今日は許してあげる」
きゅっと手を握りしめられたことが嬉しくて少し揺らすと、湊は何かを諦めたように笑った。
そうして歩いていると、湊が思い出したように口を開いた。
「そういえば、遙の誕生日っていつ?」
「もう過ぎたよ。七月十五日」
「え!?ちょっと待って。俺らが付き合った記念日の前日?それって……、敦くんと遙がご飯行った日じゃないの?」
「あー、そうだったかも」
よく覚えているなと感心してしまう。今思えば、クラスメイトに絡まれて、湊の言葉に傷ついて、ラズベリードーナツを買えなくて、美味しいハンバーグを食べた。そして、湊に大好きだと言われた日でもある。最悪なことも嬉しいこともあった思い出の誕生日だ。
「なんで言ってくれなかったの」
「高校生にもなって、わざわざ誕生日のことなんて言わないでしょ」
「俺には言ってよ」
せっかく治りかけていた機嫌が急降下だ。それを察して、遙は湊の顔を上目遣いに覗き込んだ。
「うん、ごめんね」
湊は何か言いたそうにしたけれど、最後には自分を納得させるようにこくりと頷いた。
「近いうちにお祝いしようね」
「いいって」
「良くない。俺がしたいの」
「そう?ありがとう」
その気持ちが嬉しい。誕生日を祝いたいと言ってくれる人がいて、それが好きな人だなんて、なんて幸せなのだろうか。
「実は、来月俺も誕生日なんだ。親と親戚とパーティーすると思うんだよね」
「パーティー?それはすごいね」
「いや、全くすごくないよ。退屈だから、遙は来なくていい」
「……そうなの?」
硬い表情と、伏せられた目。それって、と考える。もちろん、居候として身をわきまえるつもりではいたけれど、これは拒絶だろうか。居候の貧乏人と仲良くしていることが知られたら恥ずかしいのかもしれない。何か立場が不利になる可能性もあるのかもしれない。少しショックではあるけれど、仕方がないことだ。
「じゃあさ」
気を取り直して、なるべく明るい声をだす。
「パーティーが終わったら、湊のために一曲歌うよ」
「え、遙が?」
「うん。ハッピーバースデーの歌、最高な感じで歌ってあげる」
「あはは!嬉しい」
湊は顔を上げると、遙の提案に心底楽しそうに笑ってくれた。
*******
気まぐれで始めたドーナツ屋のアルバイトは案外楽しい。もちろん確実に遙のことを好きな敦を見張る目的もあったけれど、今では良い社会勉強になるなと思っていた。
「湊くん、オールドファッションとストロベリードーナツ一つずつ、それからカフェオレください」
「はーい」
知らない人間に名前で呼ばれる事には慣れている。幼い頃から名前と噂が勝手に一人歩きする環境のなかで生きてきた。それこそ昔は周囲の期待に応えるためにも良い子でいようと努力した記憶がある。でも、少しの綻びであっという間に悪い噂は広がるのだ。それなら最初から良い子でいない方が良いと、髪を染めて制服を着崩すようになったのが中学の頃。我ながら悪くなりきれず中途半端な気もするけれど、別に悪さをしたいわけではないから今のグレ方がちょうど良いのだろう。
客が帰った後のテーブルを片付ける。皿を重ねてグラスと一緒にトレーに載せ、机を丁寧に拭いていく。我ながら良い仕事ぶりに満足した時、カランコロンと来客を知らせる音が響いた。
「いらっしゃいませ」
そう言って扉の方を見る。
「あ」
そう小さく漏らしたのは、そこに河村とその仲間が五人ほどいたからだ。遙に絡んでいたところを目撃したあの日からなんとなく距離を置いていたけれど、彼らなりに色々考えているらしいことは湊も理解していた。
「いらっしゃいませ!……あ、河村くん」
ちょうどバックヤードから戻ってきた遙が目を丸くして、河村と湊を交互に見た。
「机くっつけるからね。ちょっと待ってて」
遙はそう言うとホールに出てきて、四人席と二人席をくっつけた。
「どうぞ」
ひとまず遙に任せて、トレーをバックヤードへ持っていく。それでも彼らのことが気になって少しだけ急いでホールに戻ると、思いがけず遙が河村たちと談笑していた。
「河村くんってドーナツ食べるんだ」
「当たり前だろ。食べるよ」
「可愛いじゃん」
「ふん。そんな黄色い制服、高校生なのによく着れるな」
「俺も湊も顔が可愛いからね。河村くんはどうかな」
「なんだと」
「そうそう、注文したかったら真っ直ぐ挙手してね。真っ直ぐじゃないと誰も来ないからね」
「嘘つけ」
湊は笑いを噛み殺しながらカウンター内で作業を進めて、数分後、控えめに手を挙げた河村たちの注文をとりに向かった。
「はーい、何食べるの。ちゃんと金持ってきたんだろうな」
「持ってきたよ。……あと、この前は、悪かったよ。できたらあいつにも、言っておいて」
遠くで接客をする遙に視線を向けながらそう言った河村は、やはり反省はしているらしい。
「あんまり気にしてないよ。あんまり」
ちょっとは気にしている。そう匂わせたのは、今後も遙に少しでも危害を加えたら許さないと思っているからだ。ただ、河村の立場も複雑であることは理解している。河村の親は一条財閥が経営する会社の子会社をやっているのだ。恐らく日頃から湊と仲良くするように言われているのだろう。そんな事情は子供には関係ないと思っているものの、無関係でいられると信じるほど幼くはない。
湊は注文を確かに取ると、遙と協力して商品を用意していく。湊と遙はまるで阿吽の呼吸で、結構好きな時間だ。
「河村くん、反省してるみたいだね」
なぜだか遙が嬉しそうだ。笑顔を向けられると蕩けそうなほど可愛い。冗談でなく、今していること、抱えている問題、全部全部投げ出して連れ去りたくなった。でもそれは現実的ではないから、ひとまず仕事に専念する。ドリンクを少しだけ多く淹れてやったのは幸せのお裾分けのつもりだ。
河村たちは騒ぎも邪魔もせず、大人しくドーナツを味わうとテイクアウトまでして帰って行った。
「なんか、可愛いよね」
カウンター内で並んで作業をしていると遙が呟いた。
「河村たちのこと?」
「うん。悪い子だけど、案外素直だよね」
ふふ、と笑った顔はあまりにも可愛らしいけれど、聞き捨てならない。
「可愛いだなんて、やめて」
「え?」
「他人に言わない。俺に言って」
「可愛いって言われたいの?」
「いや、可愛いって言われたいというか、俺以外に言うべきではないというか」
「なんだよ、それ」
遙が吹き出し笑いをする。それすら可愛いけれど、湊は納得がいかない。むすっとしながら作業をしていると、しばらくして遙がピトリとくっついてきた。これは非常に珍しい現象である。
「湊、可愛いね」
「いいよ、もう」
そうは言っても、内心かなり嬉しい。ちゃんと不機嫌なふりができているだろうか。
「ずっとずっとかっこいいなって思ってたんだけどさ。今は可愛い」
ちらりと視線を向けるとふわりと微笑まれて、次の瞬間には離れていってしまった体温が惜しくなった。でもあと一秒長くくっつかれていたら、それこそ可愛すぎて食べてしまったかもしれなかったから良かったのかもしれない。
帰り道、湊は人の気配がなくなった路地で遙の手を掬い取った。手を繋ぐといつも周りを気にする遙だけれど、今日はすぐにきゅっと握り返してくれる。
「ねえ、湊」
「ん?どうしたの」
「今度さ、ラズベリーのドーナツ買ってよ」
「良いけど、急にどうしたの?」
湊が尋ねると、遙は戸惑いがちにゆっくりと口を開いた。
「河村くんたちに絡まれてたあの日。誕生日だったから、一番好きなラズベリーのドーナツが余ったらお祝いに買おうとしたの。でも売り切れちゃったんだ。そこからなんとなく食べられないでいたんだよね」
遙の言葉に、湊は胸が痛くなった。遙の気持ちを思うと、なんて誕生日だろうかと切なくなる。誕生日を一人で祝おうと思った遙は、ドーナツが売り切れた時どう思ったのだろう。
「でもね、今日スッキリしたから。もう食べて良いかなって思えたんだ」
「もちろん買ってあげるよ。全部買ってあげる。一生買ってあげる」
「そんなにはいらないよ。一個でいいんだ」
「ラズベリーだけでいいの?他には?」
「ラズベリーだけでいいよ。ラズベリーが一番好きだから」
湊にとってラズベリーは多種多様なドーナツの中でも主役にならない存在だった。それなのに、ラズベリーという存在がこんなにも愛おしくなるとは。きっと甘酸っぱいラズベリーが一番好きな遙が愛おしいのだ。
そんな愛おしい遙には内緒だが、今日は遙の誕生祝いをするつもりである。準備をする関係で今日になっただけだけれど、河村たちとの確執がなくなった今日という日で良かったかもしれない。祝いの席にラズベリーのドーナツがないことは申し訳ない気がするものの、諒と家政婦と使用人たちと盛大に祝うつもりである。
「湊の誕生日、来週だね」
遙が嬉々としてそう言った。
「あー、うん」
「パーティー、楽しみだね。俺は裏方頑張るよ」
「裏方って?」
「あれ、知らなかった?給仕係が少ないから手伝ってって言われてるんだよ」
「はあ?ダメだよ。遙にそんなことさせられない」
「いいの、いいの。俺も祝いたいし、それに、バイト代くれるって」
誰が遙にそんなことを頼んだのだろうか。正直、腑が煮え繰り返りそうになる。それなのに遙はご機嫌に繋いだ手を揺らすから、湊は冷静になれと自分に言い聞かせ、ふうと息を吐いた。
「パーティーだなんて名前だけで、めちゃくちゃつまんないやつだよ」
「別にパーティー楽しむわけじゃないもん。給仕係だから」
「納得いかない。やっぱりやめない?」
「俺は楽しみ。湊を祝うために頑張るんだ」
まるで聞く耳を持たない遙に、仕方がないかと溜息をつく。きっと給料はそこそこ良いのだろう。すでに鼻歌を歌っている遙を横から見つめる。遙は苦労に慣れすぎているのだ。おそらく湊が知らない苦労をたくさんしてきたのだろう。誕生日をドーナツ一つでいいだなんて、湊の価値観とは随分と異なる。それが美しい気もして、そういう遙が好きなのだ。ただ、正しいことかわからないけれど、いつかドーナツだけでは不満だと言わせたい。湊があげられるものは全部あげたいのだ。
「俺の誕生日の前に、遙の誕生日祝いだよ」
「うん、ドーナツ楽しみ」
「ふふ、可愛い」
門に着くと、湊はこっそりとインターフォンを押した。それから遙を玄関まで連れていく。長い道のりを経て、玄関を入った瞬間に大きなクラッカーの音。目を丸くして呆気に取られた様子の遙は、状況を理解すると満面の笑顔を見せた。
「遙、次はどうしたらいい」
「あ、えっと、ストロベリーが少ないから補充しよう」
「はーい」
何が楽しいのか、湊はずっとご機嫌だ。御曹司にとっては初めてのアルバイトらしい。ドーナツを補充している湊を気にしつつ、接客のためにレジに立つ。あとでレジの仕方も教えよう。そう考えながらもいつも通り会計をしているつもりなのに、今日はなんだか客がソワソワしていて不思議である。
「あの」
話しかけてきたのは遙と同じ年くらいの女性だった。
「はい、どうされましたか」
女性の視線はショーケースの方へ向いている。
「あの赤髪の人って、一条湊くんですか」
自分の名前が聞こえたのか、湊が顔を上げた。
「そうですけど」
湊がそう答えると、店内の女性が急にざわめいた。「なんで湊くんがいるの」「本物だ」「雑誌と同じね」「かっこいい」だなんて聞こえてくる。知っていたつもりだったけれど、思っていた以上にすごい人気だ。
その日以降、ドーナツ屋は今まで以上に繁盛するようになった。遙たちは大忙しで、息つく暇もない。
「さすが湊さん。すごいね」
食器類をバックヤードへと持っていくと、皿洗いをしていた敦がそう言った。
「有名人なんですね」
「まあ、白石くんも人気だけどね」
「僕は普通ですよ。名前を聞かれることもほとんどないし」
「みんな俺に聞くんだよ。教えませんよって言ったら、みんな来なくなったけど」
「僕の名前くらい、教えて良いのに」
「また変な男でも現れたら大変でしょ」
確かにそうかもしれない。そうやって遙を守ってくれていたのだとわかって感謝を伝えようとすると、敦がちらりと遙を見遣った。
「白石くんは可愛いからね」
「……えっと」
可愛いと言われるのは正直照れ臭い。でも湊に言われる時よりもドキドキしないのだ。同じ「可愛い」なのに、何が違うのか。恋というものは不思議だ。
「何やってんすか」
振り返ると、客から下げた食器をトレーに載せた湊がいた。ずんずん近づいてきてトレーごとシンクに置くと、遙の手を掴んで引っ張る。
「忙しすぎるんだから、すぐ戻ってきてよ」
「ご、ごめん」
それからの湊はずっと不機嫌だった。客には愛想良く接するものの、ふとした拍子に見せる無表情が少し怖い。
それでも一日何とか仕事を終えた帰り道、湊はむすっとしながら遙の手を握ってきた。誰かに見られるのではないかと気が気ではないものの、すでに日も暮れて人の気配がないから大丈夫だろうか。
「敦くん、遙のこと好きだよね」
「好きというか、仕事仲間だからね。優しい人だし」
「ふん、それだけじゃないと思うけど」
不機嫌にそう言われると、今日はすごく悪いことをしたのではないかと思ってしまう。
「ごめんね。少し話してただけだったんだけど」
「……可愛いって言われてた」
「うん。敦さん、面倒見良いから」
「それだけじゃないと思うけど」
再び冷たく言い切られて、なんだか無性に寂しくなった。大好きな人と、大好きな人だ。好きの種類は違うけれど、二人とも好きだからこそ寂しい。少し俯くと、隣から聞こえてきた大きな溜息。湊にもいろいろな思いがあるのかもしれない。
「遙はさ、俺のことが好きだよね」
「うん」
「どれくらい好き?」
「湊となら、なんでもできるくらい。どこまでも行けるくらい。それくらい好き」
「……じゃあ良いよ。今日は許してあげる」
きゅっと手を握りしめられたことが嬉しくて少し揺らすと、湊は何かを諦めたように笑った。
そうして歩いていると、湊が思い出したように口を開いた。
「そういえば、遙の誕生日っていつ?」
「もう過ぎたよ。七月十五日」
「え!?ちょっと待って。俺らが付き合った記念日の前日?それって……、敦くんと遙がご飯行った日じゃないの?」
「あー、そうだったかも」
よく覚えているなと感心してしまう。今思えば、クラスメイトに絡まれて、湊の言葉に傷ついて、ラズベリードーナツを買えなくて、美味しいハンバーグを食べた。そして、湊に大好きだと言われた日でもある。最悪なことも嬉しいこともあった思い出の誕生日だ。
「なんで言ってくれなかったの」
「高校生にもなって、わざわざ誕生日のことなんて言わないでしょ」
「俺には言ってよ」
せっかく治りかけていた機嫌が急降下だ。それを察して、遙は湊の顔を上目遣いに覗き込んだ。
「うん、ごめんね」
湊は何か言いたそうにしたけれど、最後には自分を納得させるようにこくりと頷いた。
「近いうちにお祝いしようね」
「いいって」
「良くない。俺がしたいの」
「そう?ありがとう」
その気持ちが嬉しい。誕生日を祝いたいと言ってくれる人がいて、それが好きな人だなんて、なんて幸せなのだろうか。
「実は、来月俺も誕生日なんだ。親と親戚とパーティーすると思うんだよね」
「パーティー?それはすごいね」
「いや、全くすごくないよ。退屈だから、遙は来なくていい」
「……そうなの?」
硬い表情と、伏せられた目。それって、と考える。もちろん、居候として身をわきまえるつもりではいたけれど、これは拒絶だろうか。居候の貧乏人と仲良くしていることが知られたら恥ずかしいのかもしれない。何か立場が不利になる可能性もあるのかもしれない。少しショックではあるけれど、仕方がないことだ。
「じゃあさ」
気を取り直して、なるべく明るい声をだす。
「パーティーが終わったら、湊のために一曲歌うよ」
「え、遙が?」
「うん。ハッピーバースデーの歌、最高な感じで歌ってあげる」
「あはは!嬉しい」
湊は顔を上げると、遙の提案に心底楽しそうに笑ってくれた。
*******
気まぐれで始めたドーナツ屋のアルバイトは案外楽しい。もちろん確実に遙のことを好きな敦を見張る目的もあったけれど、今では良い社会勉強になるなと思っていた。
「湊くん、オールドファッションとストロベリードーナツ一つずつ、それからカフェオレください」
「はーい」
知らない人間に名前で呼ばれる事には慣れている。幼い頃から名前と噂が勝手に一人歩きする環境のなかで生きてきた。それこそ昔は周囲の期待に応えるためにも良い子でいようと努力した記憶がある。でも、少しの綻びであっという間に悪い噂は広がるのだ。それなら最初から良い子でいない方が良いと、髪を染めて制服を着崩すようになったのが中学の頃。我ながら悪くなりきれず中途半端な気もするけれど、別に悪さをしたいわけではないから今のグレ方がちょうど良いのだろう。
客が帰った後のテーブルを片付ける。皿を重ねてグラスと一緒にトレーに載せ、机を丁寧に拭いていく。我ながら良い仕事ぶりに満足した時、カランコロンと来客を知らせる音が響いた。
「いらっしゃいませ」
そう言って扉の方を見る。
「あ」
そう小さく漏らしたのは、そこに河村とその仲間が五人ほどいたからだ。遙に絡んでいたところを目撃したあの日からなんとなく距離を置いていたけれど、彼らなりに色々考えているらしいことは湊も理解していた。
「いらっしゃいませ!……あ、河村くん」
ちょうどバックヤードから戻ってきた遙が目を丸くして、河村と湊を交互に見た。
「机くっつけるからね。ちょっと待ってて」
遙はそう言うとホールに出てきて、四人席と二人席をくっつけた。
「どうぞ」
ひとまず遙に任せて、トレーをバックヤードへ持っていく。それでも彼らのことが気になって少しだけ急いでホールに戻ると、思いがけず遙が河村たちと談笑していた。
「河村くんってドーナツ食べるんだ」
「当たり前だろ。食べるよ」
「可愛いじゃん」
「ふん。そんな黄色い制服、高校生なのによく着れるな」
「俺も湊も顔が可愛いからね。河村くんはどうかな」
「なんだと」
「そうそう、注文したかったら真っ直ぐ挙手してね。真っ直ぐじゃないと誰も来ないからね」
「嘘つけ」
湊は笑いを噛み殺しながらカウンター内で作業を進めて、数分後、控えめに手を挙げた河村たちの注文をとりに向かった。
「はーい、何食べるの。ちゃんと金持ってきたんだろうな」
「持ってきたよ。……あと、この前は、悪かったよ。できたらあいつにも、言っておいて」
遠くで接客をする遙に視線を向けながらそう言った河村は、やはり反省はしているらしい。
「あんまり気にしてないよ。あんまり」
ちょっとは気にしている。そう匂わせたのは、今後も遙に少しでも危害を加えたら許さないと思っているからだ。ただ、河村の立場も複雑であることは理解している。河村の親は一条財閥が経営する会社の子会社をやっているのだ。恐らく日頃から湊と仲良くするように言われているのだろう。そんな事情は子供には関係ないと思っているものの、無関係でいられると信じるほど幼くはない。
湊は注文を確かに取ると、遙と協力して商品を用意していく。湊と遙はまるで阿吽の呼吸で、結構好きな時間だ。
「河村くん、反省してるみたいだね」
なぜだか遙が嬉しそうだ。笑顔を向けられると蕩けそうなほど可愛い。冗談でなく、今していること、抱えている問題、全部全部投げ出して連れ去りたくなった。でもそれは現実的ではないから、ひとまず仕事に専念する。ドリンクを少しだけ多く淹れてやったのは幸せのお裾分けのつもりだ。
河村たちは騒ぎも邪魔もせず、大人しくドーナツを味わうとテイクアウトまでして帰って行った。
「なんか、可愛いよね」
カウンター内で並んで作業をしていると遙が呟いた。
「河村たちのこと?」
「うん。悪い子だけど、案外素直だよね」
ふふ、と笑った顔はあまりにも可愛らしいけれど、聞き捨てならない。
「可愛いだなんて、やめて」
「え?」
「他人に言わない。俺に言って」
「可愛いって言われたいの?」
「いや、可愛いって言われたいというか、俺以外に言うべきではないというか」
「なんだよ、それ」
遙が吹き出し笑いをする。それすら可愛いけれど、湊は納得がいかない。むすっとしながら作業をしていると、しばらくして遙がピトリとくっついてきた。これは非常に珍しい現象である。
「湊、可愛いね」
「いいよ、もう」
そうは言っても、内心かなり嬉しい。ちゃんと不機嫌なふりができているだろうか。
「ずっとずっとかっこいいなって思ってたんだけどさ。今は可愛い」
ちらりと視線を向けるとふわりと微笑まれて、次の瞬間には離れていってしまった体温が惜しくなった。でもあと一秒長くくっつかれていたら、それこそ可愛すぎて食べてしまったかもしれなかったから良かったのかもしれない。
帰り道、湊は人の気配がなくなった路地で遙の手を掬い取った。手を繋ぐといつも周りを気にする遙だけれど、今日はすぐにきゅっと握り返してくれる。
「ねえ、湊」
「ん?どうしたの」
「今度さ、ラズベリーのドーナツ買ってよ」
「良いけど、急にどうしたの?」
湊が尋ねると、遙は戸惑いがちにゆっくりと口を開いた。
「河村くんたちに絡まれてたあの日。誕生日だったから、一番好きなラズベリーのドーナツが余ったらお祝いに買おうとしたの。でも売り切れちゃったんだ。そこからなんとなく食べられないでいたんだよね」
遙の言葉に、湊は胸が痛くなった。遙の気持ちを思うと、なんて誕生日だろうかと切なくなる。誕生日を一人で祝おうと思った遙は、ドーナツが売り切れた時どう思ったのだろう。
「でもね、今日スッキリしたから。もう食べて良いかなって思えたんだ」
「もちろん買ってあげるよ。全部買ってあげる。一生買ってあげる」
「そんなにはいらないよ。一個でいいんだ」
「ラズベリーだけでいいの?他には?」
「ラズベリーだけでいいよ。ラズベリーが一番好きだから」
湊にとってラズベリーは多種多様なドーナツの中でも主役にならない存在だった。それなのに、ラズベリーという存在がこんなにも愛おしくなるとは。きっと甘酸っぱいラズベリーが一番好きな遙が愛おしいのだ。
そんな愛おしい遙には内緒だが、今日は遙の誕生祝いをするつもりである。準備をする関係で今日になっただけだけれど、河村たちとの確執がなくなった今日という日で良かったかもしれない。祝いの席にラズベリーのドーナツがないことは申し訳ない気がするものの、諒と家政婦と使用人たちと盛大に祝うつもりである。
「湊の誕生日、来週だね」
遙が嬉々としてそう言った。
「あー、うん」
「パーティー、楽しみだね。俺は裏方頑張るよ」
「裏方って?」
「あれ、知らなかった?給仕係が少ないから手伝ってって言われてるんだよ」
「はあ?ダメだよ。遙にそんなことさせられない」
「いいの、いいの。俺も祝いたいし、それに、バイト代くれるって」
誰が遙にそんなことを頼んだのだろうか。正直、腑が煮え繰り返りそうになる。それなのに遙はご機嫌に繋いだ手を揺らすから、湊は冷静になれと自分に言い聞かせ、ふうと息を吐いた。
「パーティーだなんて名前だけで、めちゃくちゃつまんないやつだよ」
「別にパーティー楽しむわけじゃないもん。給仕係だから」
「納得いかない。やっぱりやめない?」
「俺は楽しみ。湊を祝うために頑張るんだ」
まるで聞く耳を持たない遙に、仕方がないかと溜息をつく。きっと給料はそこそこ良いのだろう。すでに鼻歌を歌っている遙を横から見つめる。遙は苦労に慣れすぎているのだ。おそらく湊が知らない苦労をたくさんしてきたのだろう。誕生日をドーナツ一つでいいだなんて、湊の価値観とは随分と異なる。それが美しい気もして、そういう遙が好きなのだ。ただ、正しいことかわからないけれど、いつかドーナツだけでは不満だと言わせたい。湊があげられるものは全部あげたいのだ。
「俺の誕生日の前に、遙の誕生日祝いだよ」
「うん、ドーナツ楽しみ」
「ふふ、可愛い」
門に着くと、湊はこっそりとインターフォンを押した。それから遙を玄関まで連れていく。長い道のりを経て、玄関を入った瞬間に大きなクラッカーの音。目を丸くして呆気に取られた様子の遙は、状況を理解すると満面の笑顔を見せた。



