居候、御曹司に恋をする

「……なんてね」
 そう言われた瞬間、一気に体が冷たくなった。荒くなりそうな呼吸を耐える。ひりつく喉、震える手。
「……俺は必死だったのに」
 振り絞った声は、小さいけれど確かに紡がれた。
「え?」
「そんな冗談、ひどいよ」
 目を丸くした湊を睨みつける。少しでもキスをしたかったと思った自分が惨めで、どうしようもなく情けない。目の前が滲んで揺れる。
「遙?」
「もう知らない」
 湊の横を通り過ぎて荷物を取った。自分でも何に対して怒っているのかわからない。悲しくて、悔しくて。衝動のままに、戸惑う湊を置いて教室を後にした。

*******

 ドーナツ屋で過ごす時間は今日も普段通りだ。特に洗い物は頭の中を整理させるにはちょうど良い。冷静になると、自分自身の不可解な感情に気がついてしまう。そもそもキスがしたかっただなんておかしいのだ。いくら美しく優しくても、湊は同性である。きっと本当にただの冗談だったのに、それを間に受けて意味もわからず怒るだなんて最高にどうかしていた。
「もしかして、謝らなくちゃいけないかなぁ」
「誰に?」
 突然話しかけられたことで初めて言葉が口から漏れていたことに気がついた。くるりと振り返ると敦が遙の顔を覗き込んでいる。
「あ、いや」
 慌てて取り繕おうとすると、泡で手が滑った。手を伸ばしても間に合わず、カシャンと音がした時にはグラスが床の上で割れていた。
「す、すみません」
 慌ててしゃがんでガラスの破片に手を伸ばす。拾おうとしたところで横から腕を掴まれた。
「危ないからいいよ」
「でも、俺が」
「大丈夫。突然話しかけてごめんね」
 敦の指示で箒と塵取りを使って破片を集めた。そして丁寧に掃除機までかけ終えると、彼は遙の頭に優しく手を置いた。
「そんな顔しなくて良いよ。俺が悪かったから」
「絶対に僕が悪いです。こんな失敗するなんて。ごめんなさい」
 気分がさらに落ち込む。実は先ほどラズベリーのドーナツも売り切れてしまった。最悪な誕生日だ。小さく溜息をつくと、敦が顔を覗き込んできた。
「じゃあさ、今晩付き合ってくれる?」
「何にですか」
「そりゃ、デートでしょ」
 そう言うと、敦はにこりと人好きのする笑顔を見せた。

*******

 閉店作業の後、敦に連れられてやってきたのは駅の近くにあるハンバーグ専門店だった。外食だなんていつぶりだろうか。居酒屋の賄い以外、外で食事をする機会なんてなかった。家政婦には連絡を入れておいたけれど、それで良かっただろうか。こういう時の作法がわからなくて、我ながらずっと挙動不審だ。
「なんでも選びなよ」
 差し出されたメニュー表を見て驚いた。こんな金額、払えない。
「僕は、目玉焼きで」
「目玉焼きはトッピングだよ。ハンバーグ頼まなくちゃ」
「いや、僕は」
「ご馳走するって。当たり前でしょ」
 キョロリと上目遣いに見上げてみる。敦は楽しそうに笑って、「デートなんだから」と言った。
 結局肉の種類やら焼き加減やらはすべて敦に決めてもらって、先に提供されたオレンジジュースをストローで飲む。遙が知っているオレンジジュースよりも随分と味が濃かった。
「白石くんは可愛いよね」
「え、可愛いですかね」
「可愛いよ。それに、迂闊」
 迂闊。今日の遙には心にくる言葉だ。特にどのあたりが迂闊だろうかと考える。自分で分かりうる範囲では、考え事をしてグラスを割る迂闊さは確かにあるかも知れない。そうしているうちにすぐにハンバーグが届いた。落ち込みながら食べたハンバーグは、それでもこの世のものではないくらい美味しかった。
「美味しかったです。あまりにも、最高でした」
 デザートまでご馳走になってから、送ってくれるという敦に甘えて家までの道を並んで歩く。ラズベリーのドーナツは食べられなかったけれど、誕生日の食事としては大満足だ。
「あはは!喜んでくれたなら良かったよ」
「本当にごちそうさまでした」
「いいえ。デートなのでお気になさらず」
 デートという言葉を使われるたびにドギマギしてしまうのは、遙がデートをしたことがないからだろうか。ちらりと隣を見上げた先には、美しいというよりは精悍な横顔がある。一条家は今頃何をしているだろうか。遙はどうしようもなく寂しくなった。
「これって、本当にデート、ですか」
 気づいた時には口から漏れていた。敦の優しさはよくわかっているつもりだ。きっと遙を元気づけようと誘ってくれたに違いない。それでも、初めてデートをするならば、その相手は。
「きっと白石くんは、一条家の坊ちゃんとが良いよね」
「あ、いや。そういうわけでは」
「だから迂闊だって言ったでしょ。好きでもない男とデートするだなんて」
「俺はすごく好きですよ、敦さんのこと」
「ほら、そういうところも迂闊」
「迂闊ですか」
「迂闊だよ」
 敦はそう言うと息を小さく吐いた。
「でも良いよ、今日はデートじゃないってことにしてあげる。特別だよ」
 その一言で遙は心底安心してしまった。遙はやはりおかしい。単なる男同士の食事だ。どんな表現をされようが、深く考えなくても良いはずだ。でも、デートと言われるとどうしても苦しいのである。自分の心に素直になると、答えは一つだ。
 一条家の前まで来ると、敦は遙に柔らかく微笑んで向き直った。
「今日はありがとう。付き合ってくれて楽しかった」
「僕も、敦さんと過ごせて楽しかったです」
「じゃあ、また遊ぼうね」
「はい」
「デートしたくなったら、いつでもどうぞ」
「あはは!はい」
 敦は遙のことを好きなのか、そうでないのか。よくわからないけれど、遙よりもずっと大人な敦のことは心から好きだと思った。なかなかその場を離れない敦に見送られて大きな門を入ると、玄関までの道を歩く。居候が家主を好きになった場合、ペナルティはあるのだろうか。いや、ペナルティがなくても、好きになること自体が御法度なのかもしれない。
「遙」
 玄関先、ふと上から聞こえてきた声に、心臓が大きく跳ねた。声のする方を見上げると、湊が自室の窓からこちらを見ている。
「み、湊」
「こんな時間まで何してたの」
「敦さんが、ご馳走してくれて」
「……ふーん」
 そのままガラガラという音を立てて窓が閉まった。胸がキュウっとなって、放課後のことを思い出してしまう。今の態度を見るに、湊は遙にまったく興味がないのだろう。所詮は財閥の御曹司と居候、学校の人気者とただのクラスメイトだ。そんなの当たり前だと思うのに、心は納得しないらしい。胸が痛くて苦しくて、思わず大きく息を吐いた。
 その瞬間だった。勝手に開いた玄関扉。その先には珍しく険しい顔をした湊がいて、遙をじっと見つめていた。
「なんで入ってこないの」
「え、えっと」
 ひとまず、放課後の態度を謝ろう。そう思うのに、上手く言葉が出てこない。
「……ご飯、楽しかった?」
「え?あ、うん」
 湊から話しかけられたことが嬉しくて少し笑顔を浮かべて見せると、湊は不服そうな顔で「ふーん」と言った。何か間違えただろうか。もしかしたら放課後の態度を怒っているのかもしれない。
「そ、それよりも、今日はその」
 なんと言うのが正解だろうか。まずは謝る。それから、気持ちを。いや、まさか。好きだなんて言わない方が良いに決まっている。
「あの時」
 先に湊が口を開いた。
「キスすれば良かったなんて言って、ごめん」
「……え?」
「迂闊だった。遙は、嫌だったよね」
 湊はどうしてか傷ついたような顔をして、遙から視線をそらした。遙にはそれが不思議だった。正直、傷ついたのは遙の方ではないだろうか。確かに湊にひどい態度はとったのかもしれないけれど、冗談を言ったのは湊である。謝りたいはずなのに、少しイライラする。負けん気の強さは生まれつきなのだ。気がついたら口を開いていた。
「……嫌というか」
「うん」
「むしろ嫌じゃなかったというか」
 遙は賢いはずだ。今でも高校のテストでは一位以外取ったことがない。それなのに。
 目の前の湊が少しだけ目を見開いた。
「嫌じゃなかったから、冗談だったことに傷ついたんだと思う。俺、湊なら嫌じゃない。嘘でも、好きだって、大好きだって言われて嬉しかったから」
 こんなことを言うだなんて馬鹿にも程がある。もうこの家には住めないだろう。
「じゃあ、そういうことだから」
 すでに目をまん丸に見開いている湊の隣を通り過ぎて玄関に入る。衝動で言葉を紡ぐだなんて遙らしくない。でも、もう仕方がなかった。そう思ってあげないと遙自身が可哀想だ。大きく息をつく。
 その瞬間、背後に衝撃が走った。体温に包まれて、転びそうになるところをなんとか耐える。
「遙ってやっぱり可愛い。でも、だめだよ」
 そうだ。だめに決まってる。自分でもわかっているから、湊の言葉に涙が出そうになった。