七月初旬にもなると、日中はほとんど猛暑だ。それでもドーナツ屋はいつも涼しく、遙は快適に働いていた。ただ、少しだけ困っていることもある。
「遙くん、りんごジュース」
諒が背の高いカウンター席によじ登りながらそう言った。諒は土日の昼になると必ず店までやって来て、リムジンを外に待たせたまま遙の前でりんごジュースを飲み、美味しそうにドーナツを頬張るのだ。よりにもよって一番忙しい時間帯である。それでも立場上、敦も遙も文句は言えない。
「それで僕はお父さんのビルよりも大きくなって、悪者の乗った車を踏み潰したんだ」
「それはすごいね」
昨日見た夢の話に対して感心したように相槌を打つと、諒は嬉しそうに笑ってストロベリーチョコレートのドーナツをカプリと食べた。
「遙くんは、どんな夢みた?」
もごもご言いながら無垢な瞳に見つめられると、心臓がドキリと跳ねた。
昨日の夢は、諒の兄である湊が出てきた。晴れた空の下、水が煌めいていた。その中で突然抱きしめられて、こう言われたのだ。
「俺のそばから離れないでね」
その言葉にも驚いたところに、ふわりと浮かべられた微笑み。
「ひえっ」
思わず拭いていたカップを落としそうになった。
「遙くん?」
「な、なんでもない。昨日の夢は、ドーナツになっちゃう夢だった」
「えっ、何味だった?」
「チョコレート味」
「すげえ」
感嘆する諒に顔を見られないように、作業をするふりをしてカウンター内にしゃがみ込んだ。あの日の夢を見るなんて恥ずかしい。顔が熱い気がして、両手で頬を包み込んだ。水仕事で冷えた手が熱を冷ましてくれるだろうか。
きっと湊は何も考えていないのだろう。居候兼クラスメイトの遙に対してスキンシップをとり、優しくしてくれているだけだ。それなのに、どうしてこんなに胸が高鳴るのか。
カランコロンとドアベルが鳴ったことで、遙はハッとして立ち上がった。仕事を放棄するわけにはいかない。
「いらっしゃいませ」
声をかけながら視線を向けると、そこには猫背の男が立っていた。怪しい出立は見覚えがある。少し考えて思い至った。最近あまり見かけないと思っていたけれど、連日店を覗き込んできた男に違いない。男はショーケースを眺めるわけでもなく、店内をぐるりと見回している。初めての来店に戸惑っているのだろうか。
「ちょっと待っててね」
諒にそう言って、遙は男の元へと近づいた。
「いらっしゃいませ。何かお探しですか」
背丈は遙より高く、思ったよりも大柄だ。女性客の多い店内ではかなり目立っている。男はぶつぶつと何かを呟いたと思ったら、突然遙へ顔を近づけてきた。
「えっ」
思わず後退りして避けると、男はそこで動きを止めて大きく舌打ちをした。
「君、名前は」
「ぼ、僕ですか?」
なぜ名前を聞くのだろうか。不審な様子に混乱してすぐに反応できない。すると今度は大きな声で「おいっ」と怒鳴られる。賑わっていた店内が一気に静まり返った。これは店員として遙がなんとかしなければいけない。ひとまず苗字だけでも名乗るべきだろうか。
「ダメだよ!」
焦る遙を助けるように諒の声が聞こえてきた。諒はカウンター席から飛び降りて、遙へと近づいてくる。
「知らない人には名前教えない。おじさん誰ですか」
男の目の色が一層怪しくなった。遙の肝が冷える。
「何か用ですか」
気づいた時には振り上げられた手。遙は必死になって諒を抱きしめた。
「おっさん、何やってんの」
冷たい声に、男の唸り声。ゆっくりと顔を上げると、そこには男の腕を捻りあげる湊がいた。
「一条くん」
湊はそのまま男を外へと連れて行き、諒が待たせていたリムジンに詰め込んだ。そこまで見てやっと胸を撫で下ろす。諒の顔を覗き込むと、状況を何も理解していないようできょとんとしていた。
「遙くんって、いい匂いがするね」
諒の言葉に、遙まできょとんとしてしまう。
「ドーナツの匂い?」
「ううん。水色のお花みたいな匂い」
二人で頓珍漢な会話をしていると、湊が店内に戻ってきた。女性客のざわめきの意味は遙にもよくわかる。きっと赤髪の救世主が、頼もしいだけでなくあまりにも美しかったからだろう。
「二人とも、怪我はない?」
遙がこくりと頷くのと同時に、諒が興奮したように湊の足元へと駆け寄った。
「湊!遙くんは僕が守った」
「すごいじゃん。ありがとう」
湊は諒の頭を優しく撫でると、今度は遙に視線を向けてきた。
「遙は大丈夫だった?」
そう聞かれた途端に恐怖が現実味を帯びてきた。体が震えて、目の前があっという間に滲む。とにかく必死だった。今もまだ、諒に何かあったらと思うと怖くてたまらない。はらりと溢れた涙が情けなくてぎゅっと目を瞑る。ゴシゴシと涙を拭った手を、湊に優しく包まれた。そしてそのままバックヤードへと連れていかれる。
「怖かったね」
ふわりと抱きしめられる。そういえば、ずっと怖かった気がする。毎日外から覗き込まれていた時も、自分から接客のために話しかけた時も。つまりは、もっと遙に危機感があれば、諒も他の客も危険に晒すことはなかったのではないだろうか。謝りたいのに、言葉が上手く出てこない。
「ごめん」
遙より先にそう言ったのは湊だった。
「もっと早く助けたかったな」
ふるふると首を横に振ると頭を優しく撫でられた。そしてそっと顔を覗き込まれる。
「でも、あんまり人前で泣いちゃダメだって。可愛いんだから」
幼い子供に聞かせるように「わかった?」と首を傾げる。
「……一条くんは、優しすぎる」
「そうかな」
「諒くんを巻き込んで、ごめん」
「あぁ、あいつは大丈夫だよ」
改めて涙が溢れそうになったけれど、グッと堪える。
「これからはもっともっと、迷惑かけないように気をつける」
遙がそう言うと、湊は眉尻を下げてやれやれと首を横に振った。
「困った子だな。なんにもわかってない」
そう言って遙の頬を拭うと、ふわりと微笑んだ。
「俺が守るから」
*******
「俺が守るから」
思い返すだけで胸がギュッとなって、うっかり空へ浮かんでしまいそうになる。でもわかっているのだ。あの言葉は遙を安心させるための言葉である。遙を守ると言う意味ではなく、遙のためにも諒を守ると言うことだろう。わかっているけど、まるで遙を想っているように聞こえたことが嬉しくて、どうしようもなく切なかった。
「はぁ」
思わず何度目かの溜息。勝手な勘違いは良くない。あの一連はすべて兄弟愛である。遙は一人っ子だから、兄弟愛が眩しいのだ。それを近くで見つめるだけでも幸せではないか。
今日は花壇の水遣り当番だ。前回の当番日は湊が飼育小屋で作業をしていた。でも今日は校庭の隅に一人きりである。七月の放課後の日差しを浴びながらシャワーノズルを握って花壇に水を放つと、花も土も空気も水も、全てが喜んでいるように見えた。
「いっぱい飲みな。ハッピーバースデー」
今日は遙の誕生日である。きっと天国にいる祖母以外は誰も知らない誕生日。ただただ普通の一日として過ぎていくだけだ。この後はいつも通りドーナツ屋でのアルバイトが待っている。もし最後まで売れ残ったら、一番好きなラズベリーのドーナツを自分のために買おうと思っていた。鼻歌を歌いながら水遣りを終えるとホースを片付ける。きっと花くらいは遙を祝ってくれたはずだ。
「さて、行くか」
小さな声でそう呟いた時、背後に気配を感じた。振り返ると、あまり仲良くないクラスメイトが数人。そもそも仲の良いクラスメイトなんていなかったなと思ったことが少し寂しかった。
「白石くん」
話しかけてきたのは、いつか遙のお弁当を揶揄ってきた河村だ。あの日以降、遙は基本的に屋上で昼食を食べていた。
「ちょっと話があるんだけど」
「うん、どうしたの」
「最近、湊がつれないんだよね」
それが遙と関係があるのだろうか。確かに昼食はいつも湊と食べているけれど、それは湊の意思であるはずだ。
「俺、疑ってるんだよね」
「疑ってるって、何を?」
「湊、好きな人がいるんじゃないかなって」
好きな人、好きな人、と口の中で繰り返した。あまりピンと来ない。それなのに、心はずしりと重たくなった。湊に好きな人がいたとしても、遙には関係ないのに、なぜショックを受けているのだろうか。
「俺ら、その相手が白石くんなんじゃないかって思ってるんだ」
「へ?」
思わず間抜けな声が漏れた。瞬きを繰り返して、首を捻る。
「それは、ないと思うけど」
なんせ遙は迷惑ばかりかける居候なのだ。湊が優しい御曹司というだけで、遙自身には好かれる理由がまるでないと思う。
「最近の湊はそう思われても仕方がないくらい白石くんを構ってる」
「そうかな」
「でもね、実際本当のことなんてどうでもいいんだよね。ただ、俺たちはそういう噂を流すことくらいできるってこと。わかるでしょ」
「……え?」
「一条家の御曹司が庶民の男に夢中だなんて、格好のネタだと思うよ」
ひゅっと息を吸い込んだ。その言葉で全てが理解できたのだ。遙は伊達や酔狂で学年一位をとっているわけではない。なるべく冷静に、ゆっくりと口を開いた。
「つまり目的は、一条くんを陥れたいわけではないってことだね。俺への贔屓が目に余るって?」
「さすが、話が早いね。成績は学年で一番だもんね」
彼らは湊がそばにいないと自分たちの立場が不利になると思っているのだ。
「可哀想だな」
思わず口をついて出た言葉に、河村たちはギョッとしたように目を見開いた。すぐに表情が怒りへと変わる様子に、内心焦りつつも表面上は平常心を装う。ここで負けるわけにはいけないのだ。
「可哀想ってなんだよ」
「そんなふうに生きてたら君たちが可哀想だよ」
「はぁ?」
本気で意味がわからないのか、それとも納得したくないのか。遙が真剣に見つめ返すと大股で近づいてくる。遙自身は既にムキになって立ち向かっているけれど、本当は恐ろしくてたまらない。それでも必死で踏ん張った。
「何やってんの」
ドスのきいた声は、すぐには湊のものだとわからなかった。その場にいる全員で視線を向ける。湊の表情は声の割に柔らかで、それが何よりも恐ろしく感じられた。
「湊、帰ってなかったのか」
河村が声を震わせながらそう言うと、彼はこくりと頷いて遙の元へと近づいてきた。
「なに、帰ってなかったら悪い?」
「い、いや」
仲間同士で顔を見合わせる彼らは本当に名門校の生徒なのだろうか。まるで悪さがばれそうな時の反応そのものだ。きっと話をどこまで聞かれていたのか気になって仕方がないのだろう。正直それは遙にもわからないけれど、そっと心を決めて、静かに口を開いた。
「湊って、俺のことが好きなんだってね」
湊のアーモンド型の瞳が驚いたように見開かれた。守られてばかりの自分を変えたくて、勇気を出した。何よりも、「湊」と呼ぶことに一番勇気が必要だった。自分の心を認めてしまうようで怖かったのだ。でも言ってしまったら、後はどうにでもなれだ。
「それって本当?」
湊を見上げながら首を傾げる。湊にならこの意図が伝わるだろう。
「……好き?まさか」
湊の口から溢れた言葉。これは確かに遙が望んでいた言葉である。彼らの目の前で否定させたら下手な噂を流せないだろうと思ったのだ。それなのにどうしてか喉元がひりついて息が苦しい。
「悪いけど、好きどころの騒ぎじゃないよ」
「……ん?」
「とっくに大好き」
「え?いや、ちょ、ちょっと」
「俺に媚びないし全然靡かないの。それに利用もしないし嫌いもしない」
湊は遙の顔を覗き込んで、花が綻ぶような微笑みを向けてきた。あまりの美しさに息を呑むと、次の瞬間には河村たちに向き直る。
「お前らのことも割と好きだったけど、遙を脅すような真似は許さないよ」
それだけ言うと、湊は混乱している遙の手を引いた。足をもつれさせながら湊の後に続いて歩いているうちに、だんだんと冷静になってくる。湊は遙を大好きだと言ったのだ。大好きって、つまりは好きよりももっと好きと言うことだ。いやいや、冷静になれ。あれはパフォーマンスに違いない。それでも、大好きと言ってくれた。それだけで頭の中をいっぱいにしていると、気がついたら教室の前についていた。誰もいない放課後の教室は窓が全開に開いていて、ふわりと風が通り抜けていく。遙と湊のスクールバッグだけが各々の机に置かれていた。
「ねえ、遙」
「ん?」
湊が教室に入ったところで突然立ち止まった。前を向いているために、表情は伺えない。
「ごめん」
「何が?」
「嫌な思いさせたよね」
「別に俺は大丈夫。それよりも、あんなこと言ってよかったわけ?」
遙に好きだなんて、大好きだなんて言って、本当に良かったのだろうか。口に出したら余計に不安になってしまう。
「遙は、迷惑だった?」
いつも自信に溢れている湊から気弱に尋ねられる。
「……いや、大丈夫、だけど」
ドギマギしながらそう答えると、湊がゆっくりと振り返った。伏せられた睫毛がふるふると揺れている。
「……湊って、呼んでくれたね」
「う、うん、ごめん。あれね、すごく緊張した」
反射で謝ると、湊の瞼がふわりと上がった。優しく緩んだ目元が美しく、可愛らしい。
「困ったな。キスくらいすればよかった」
頬に添えられた手は湿っていた。胸の中で心臓がドクドクと脈打っている。息が苦しい。泣きそうなのはどうしてだろうか。ぎゅっと口を引き結んで、まるで子どもみたいに湊を見上げた。湊はハッと目を見開いて、再び目を伏せる。そして静かにこう言った。
「……なんてね」
「遙くん、りんごジュース」
諒が背の高いカウンター席によじ登りながらそう言った。諒は土日の昼になると必ず店までやって来て、リムジンを外に待たせたまま遙の前でりんごジュースを飲み、美味しそうにドーナツを頬張るのだ。よりにもよって一番忙しい時間帯である。それでも立場上、敦も遙も文句は言えない。
「それで僕はお父さんのビルよりも大きくなって、悪者の乗った車を踏み潰したんだ」
「それはすごいね」
昨日見た夢の話に対して感心したように相槌を打つと、諒は嬉しそうに笑ってストロベリーチョコレートのドーナツをカプリと食べた。
「遙くんは、どんな夢みた?」
もごもご言いながら無垢な瞳に見つめられると、心臓がドキリと跳ねた。
昨日の夢は、諒の兄である湊が出てきた。晴れた空の下、水が煌めいていた。その中で突然抱きしめられて、こう言われたのだ。
「俺のそばから離れないでね」
その言葉にも驚いたところに、ふわりと浮かべられた微笑み。
「ひえっ」
思わず拭いていたカップを落としそうになった。
「遙くん?」
「な、なんでもない。昨日の夢は、ドーナツになっちゃう夢だった」
「えっ、何味だった?」
「チョコレート味」
「すげえ」
感嘆する諒に顔を見られないように、作業をするふりをしてカウンター内にしゃがみ込んだ。あの日の夢を見るなんて恥ずかしい。顔が熱い気がして、両手で頬を包み込んだ。水仕事で冷えた手が熱を冷ましてくれるだろうか。
きっと湊は何も考えていないのだろう。居候兼クラスメイトの遙に対してスキンシップをとり、優しくしてくれているだけだ。それなのに、どうしてこんなに胸が高鳴るのか。
カランコロンとドアベルが鳴ったことで、遙はハッとして立ち上がった。仕事を放棄するわけにはいかない。
「いらっしゃいませ」
声をかけながら視線を向けると、そこには猫背の男が立っていた。怪しい出立は見覚えがある。少し考えて思い至った。最近あまり見かけないと思っていたけれど、連日店を覗き込んできた男に違いない。男はショーケースを眺めるわけでもなく、店内をぐるりと見回している。初めての来店に戸惑っているのだろうか。
「ちょっと待っててね」
諒にそう言って、遙は男の元へと近づいた。
「いらっしゃいませ。何かお探しですか」
背丈は遙より高く、思ったよりも大柄だ。女性客の多い店内ではかなり目立っている。男はぶつぶつと何かを呟いたと思ったら、突然遙へ顔を近づけてきた。
「えっ」
思わず後退りして避けると、男はそこで動きを止めて大きく舌打ちをした。
「君、名前は」
「ぼ、僕ですか?」
なぜ名前を聞くのだろうか。不審な様子に混乱してすぐに反応できない。すると今度は大きな声で「おいっ」と怒鳴られる。賑わっていた店内が一気に静まり返った。これは店員として遙がなんとかしなければいけない。ひとまず苗字だけでも名乗るべきだろうか。
「ダメだよ!」
焦る遙を助けるように諒の声が聞こえてきた。諒はカウンター席から飛び降りて、遙へと近づいてくる。
「知らない人には名前教えない。おじさん誰ですか」
男の目の色が一層怪しくなった。遙の肝が冷える。
「何か用ですか」
気づいた時には振り上げられた手。遙は必死になって諒を抱きしめた。
「おっさん、何やってんの」
冷たい声に、男の唸り声。ゆっくりと顔を上げると、そこには男の腕を捻りあげる湊がいた。
「一条くん」
湊はそのまま男を外へと連れて行き、諒が待たせていたリムジンに詰め込んだ。そこまで見てやっと胸を撫で下ろす。諒の顔を覗き込むと、状況を何も理解していないようできょとんとしていた。
「遙くんって、いい匂いがするね」
諒の言葉に、遙まできょとんとしてしまう。
「ドーナツの匂い?」
「ううん。水色のお花みたいな匂い」
二人で頓珍漢な会話をしていると、湊が店内に戻ってきた。女性客のざわめきの意味は遙にもよくわかる。きっと赤髪の救世主が、頼もしいだけでなくあまりにも美しかったからだろう。
「二人とも、怪我はない?」
遙がこくりと頷くのと同時に、諒が興奮したように湊の足元へと駆け寄った。
「湊!遙くんは僕が守った」
「すごいじゃん。ありがとう」
湊は諒の頭を優しく撫でると、今度は遙に視線を向けてきた。
「遙は大丈夫だった?」
そう聞かれた途端に恐怖が現実味を帯びてきた。体が震えて、目の前があっという間に滲む。とにかく必死だった。今もまだ、諒に何かあったらと思うと怖くてたまらない。はらりと溢れた涙が情けなくてぎゅっと目を瞑る。ゴシゴシと涙を拭った手を、湊に優しく包まれた。そしてそのままバックヤードへと連れていかれる。
「怖かったね」
ふわりと抱きしめられる。そういえば、ずっと怖かった気がする。毎日外から覗き込まれていた時も、自分から接客のために話しかけた時も。つまりは、もっと遙に危機感があれば、諒も他の客も危険に晒すことはなかったのではないだろうか。謝りたいのに、言葉が上手く出てこない。
「ごめん」
遙より先にそう言ったのは湊だった。
「もっと早く助けたかったな」
ふるふると首を横に振ると頭を優しく撫でられた。そしてそっと顔を覗き込まれる。
「でも、あんまり人前で泣いちゃダメだって。可愛いんだから」
幼い子供に聞かせるように「わかった?」と首を傾げる。
「……一条くんは、優しすぎる」
「そうかな」
「諒くんを巻き込んで、ごめん」
「あぁ、あいつは大丈夫だよ」
改めて涙が溢れそうになったけれど、グッと堪える。
「これからはもっともっと、迷惑かけないように気をつける」
遙がそう言うと、湊は眉尻を下げてやれやれと首を横に振った。
「困った子だな。なんにもわかってない」
そう言って遙の頬を拭うと、ふわりと微笑んだ。
「俺が守るから」
*******
「俺が守るから」
思い返すだけで胸がギュッとなって、うっかり空へ浮かんでしまいそうになる。でもわかっているのだ。あの言葉は遙を安心させるための言葉である。遙を守ると言う意味ではなく、遙のためにも諒を守ると言うことだろう。わかっているけど、まるで遙を想っているように聞こえたことが嬉しくて、どうしようもなく切なかった。
「はぁ」
思わず何度目かの溜息。勝手な勘違いは良くない。あの一連はすべて兄弟愛である。遙は一人っ子だから、兄弟愛が眩しいのだ。それを近くで見つめるだけでも幸せではないか。
今日は花壇の水遣り当番だ。前回の当番日は湊が飼育小屋で作業をしていた。でも今日は校庭の隅に一人きりである。七月の放課後の日差しを浴びながらシャワーノズルを握って花壇に水を放つと、花も土も空気も水も、全てが喜んでいるように見えた。
「いっぱい飲みな。ハッピーバースデー」
今日は遙の誕生日である。きっと天国にいる祖母以外は誰も知らない誕生日。ただただ普通の一日として過ぎていくだけだ。この後はいつも通りドーナツ屋でのアルバイトが待っている。もし最後まで売れ残ったら、一番好きなラズベリーのドーナツを自分のために買おうと思っていた。鼻歌を歌いながら水遣りを終えるとホースを片付ける。きっと花くらいは遙を祝ってくれたはずだ。
「さて、行くか」
小さな声でそう呟いた時、背後に気配を感じた。振り返ると、あまり仲良くないクラスメイトが数人。そもそも仲の良いクラスメイトなんていなかったなと思ったことが少し寂しかった。
「白石くん」
話しかけてきたのは、いつか遙のお弁当を揶揄ってきた河村だ。あの日以降、遙は基本的に屋上で昼食を食べていた。
「ちょっと話があるんだけど」
「うん、どうしたの」
「最近、湊がつれないんだよね」
それが遙と関係があるのだろうか。確かに昼食はいつも湊と食べているけれど、それは湊の意思であるはずだ。
「俺、疑ってるんだよね」
「疑ってるって、何を?」
「湊、好きな人がいるんじゃないかなって」
好きな人、好きな人、と口の中で繰り返した。あまりピンと来ない。それなのに、心はずしりと重たくなった。湊に好きな人がいたとしても、遙には関係ないのに、なぜショックを受けているのだろうか。
「俺ら、その相手が白石くんなんじゃないかって思ってるんだ」
「へ?」
思わず間抜けな声が漏れた。瞬きを繰り返して、首を捻る。
「それは、ないと思うけど」
なんせ遙は迷惑ばかりかける居候なのだ。湊が優しい御曹司というだけで、遙自身には好かれる理由がまるでないと思う。
「最近の湊はそう思われても仕方がないくらい白石くんを構ってる」
「そうかな」
「でもね、実際本当のことなんてどうでもいいんだよね。ただ、俺たちはそういう噂を流すことくらいできるってこと。わかるでしょ」
「……え?」
「一条家の御曹司が庶民の男に夢中だなんて、格好のネタだと思うよ」
ひゅっと息を吸い込んだ。その言葉で全てが理解できたのだ。遙は伊達や酔狂で学年一位をとっているわけではない。なるべく冷静に、ゆっくりと口を開いた。
「つまり目的は、一条くんを陥れたいわけではないってことだね。俺への贔屓が目に余るって?」
「さすが、話が早いね。成績は学年で一番だもんね」
彼らは湊がそばにいないと自分たちの立場が不利になると思っているのだ。
「可哀想だな」
思わず口をついて出た言葉に、河村たちはギョッとしたように目を見開いた。すぐに表情が怒りへと変わる様子に、内心焦りつつも表面上は平常心を装う。ここで負けるわけにはいけないのだ。
「可哀想ってなんだよ」
「そんなふうに生きてたら君たちが可哀想だよ」
「はぁ?」
本気で意味がわからないのか、それとも納得したくないのか。遙が真剣に見つめ返すと大股で近づいてくる。遙自身は既にムキになって立ち向かっているけれど、本当は恐ろしくてたまらない。それでも必死で踏ん張った。
「何やってんの」
ドスのきいた声は、すぐには湊のものだとわからなかった。その場にいる全員で視線を向ける。湊の表情は声の割に柔らかで、それが何よりも恐ろしく感じられた。
「湊、帰ってなかったのか」
河村が声を震わせながらそう言うと、彼はこくりと頷いて遙の元へと近づいてきた。
「なに、帰ってなかったら悪い?」
「い、いや」
仲間同士で顔を見合わせる彼らは本当に名門校の生徒なのだろうか。まるで悪さがばれそうな時の反応そのものだ。きっと話をどこまで聞かれていたのか気になって仕方がないのだろう。正直それは遙にもわからないけれど、そっと心を決めて、静かに口を開いた。
「湊って、俺のことが好きなんだってね」
湊のアーモンド型の瞳が驚いたように見開かれた。守られてばかりの自分を変えたくて、勇気を出した。何よりも、「湊」と呼ぶことに一番勇気が必要だった。自分の心を認めてしまうようで怖かったのだ。でも言ってしまったら、後はどうにでもなれだ。
「それって本当?」
湊を見上げながら首を傾げる。湊にならこの意図が伝わるだろう。
「……好き?まさか」
湊の口から溢れた言葉。これは確かに遙が望んでいた言葉である。彼らの目の前で否定させたら下手な噂を流せないだろうと思ったのだ。それなのにどうしてか喉元がひりついて息が苦しい。
「悪いけど、好きどころの騒ぎじゃないよ」
「……ん?」
「とっくに大好き」
「え?いや、ちょ、ちょっと」
「俺に媚びないし全然靡かないの。それに利用もしないし嫌いもしない」
湊は遙の顔を覗き込んで、花が綻ぶような微笑みを向けてきた。あまりの美しさに息を呑むと、次の瞬間には河村たちに向き直る。
「お前らのことも割と好きだったけど、遙を脅すような真似は許さないよ」
それだけ言うと、湊は混乱している遙の手を引いた。足をもつれさせながら湊の後に続いて歩いているうちに、だんだんと冷静になってくる。湊は遙を大好きだと言ったのだ。大好きって、つまりは好きよりももっと好きと言うことだ。いやいや、冷静になれ。あれはパフォーマンスに違いない。それでも、大好きと言ってくれた。それだけで頭の中をいっぱいにしていると、気がついたら教室の前についていた。誰もいない放課後の教室は窓が全開に開いていて、ふわりと風が通り抜けていく。遙と湊のスクールバッグだけが各々の机に置かれていた。
「ねえ、遙」
「ん?」
湊が教室に入ったところで突然立ち止まった。前を向いているために、表情は伺えない。
「ごめん」
「何が?」
「嫌な思いさせたよね」
「別に俺は大丈夫。それよりも、あんなこと言ってよかったわけ?」
遙に好きだなんて、大好きだなんて言って、本当に良かったのだろうか。口に出したら余計に不安になってしまう。
「遙は、迷惑だった?」
いつも自信に溢れている湊から気弱に尋ねられる。
「……いや、大丈夫、だけど」
ドギマギしながらそう答えると、湊がゆっくりと振り返った。伏せられた睫毛がふるふると揺れている。
「……湊って、呼んでくれたね」
「う、うん、ごめん。あれね、すごく緊張した」
反射で謝ると、湊の瞼がふわりと上がった。優しく緩んだ目元が美しく、可愛らしい。
「困ったな。キスくらいすればよかった」
頬に添えられた手は湿っていた。胸の中で心臓がドクドクと脈打っている。息が苦しい。泣きそうなのはどうしてだろうか。ぎゅっと口を引き結んで、まるで子どもみたいに湊を見上げた。湊はハッと目を見開いて、再び目を伏せる。そして静かにこう言った。
「……なんてね」



