一条家に初めて訪れた時、遙はまだ中学生だった。学生服にエナメルバッグを提げ、その他の荷物は祖母の形見の入った風呂敷が一つ。祖母の気配を抱きしめながら、遙なりに心細かったことを覚えている。
なぜそんなことを思い出すのか。高熱に浮かされているからか、それとも、あの日あまりの存在感に圧倒された豪華なシャンデリアを眺めているからか。
一条家の居間にある立派なソファに寝かされ、数十分が経った。異様に居心地が悪いのは幼い瞳が熱心に見つめてくるからだ。
「遙くん」
「……ん?」
一条家の三男、一条諒。彼はテーブルを挟んだ向かいのソファにちょこりと座り、遙をしきりに観察している。
昨晩、諒とはたくさん話をした。深夜の料理中に起きて来たと思ったらやたらと話しかけられて、全然寝ないものだから彼の部屋まで付き添ったのだ。そうしているとなぜだか祖母のことを思い出してしまって、諒が寝るまで彼の近くを離れられなかった。おかげで盛大に寝不足になった。
「遙くん、喉乾いた?」
「……もう大丈夫。ありがとう」
先ほどから何度水を勧められたことか。そろそろその優しさにも疲れていたら、どこからか湊が現れた。
「諒、ありがとう」
「遙くん、いっぱい水飲んだよ」
まるで小動物扱いだ。少しだけ面白くなるけれど、笑う元気もない。湊は諒の頭を撫でると、今度は遙の側にやって来て枕元にしゃがみ込んだ。
「白石くん、病院に行くよ」
「……病院?」
「うん。うちの行きつけの病院。診てくれるって」
「い、行かない」
「だめ」
「だって、迷惑が」
家主に迷惑をかけない。居候の教科書、第一章一項だ。
「病院にも連絡。連れて行く運転手、あとは諒と留守番する執事を手配して。これで行かない方が迷惑」
「そ、そうか。でもお金が」
「うちはいつもツケだから大丈夫」
「……ツケ?」
ツケとは何か。だいたいのイメージはできるけれど、やったことがないからわからない。ツケ、ツケ、と繰り返していると、湊は小さく溜息をついた。呆れられただろうかと思った瞬間、肩と脚を抱え、持ち上げられる。さっきぶりのお姫様抱っこだ。
「ツケ。しかも俺が勝手に手配したんだから、白石くんに払わせるわけないでしょ」
至近距離で顔を覗き込まれる。あまりの造形の美しさに一瞬見惚れたことがどうしてか悔しくて、もうどうにでもなれと目を閉じた。
*******
リムジンというものに初めて乗った。どんな構造かはわからないけれど、広すぎる車内は随分と快適だった。
「ありがとうございました。帰りは適当に帰るので」
病院に到着して車から降りる間際にそう告げると、湊は「はいはい」と言いながら一緒に降りて来た。
それから全ての手続きを湊が行い、気がついたらベッドに寝かされて検査と点滴を受けていた。その間、湊は何をするわけでもなくずっと側にいて、目が合えば安心させるようにふわりと微笑むから非常に心臓に悪かった。
所要時間は二時間強。ずっと待っていたらしいリムジンに乗せられて家に帰る頃には夜も更けていた。車を降りてから玄関までがいつも以上に長く感じる。
「知恵熱って、本当にあるんだね」
湊が遙の肩を支えながらそう言った。検査の結果、感染症は否定されて、心因性の高熱と診断されたのだ。人にうつさないと分かれば安心である。
「知恵熱体質だから」
「ふーん、知恵熱体質ねぇ」
こうなるまで忘れていたけれど、昔はよく熱を出していた。ご飯を食べてよく寝ていても、無理をするとすぐに体調を崩してしまう。高校一年にもなって体調管理ができないなんて恥ずかしすぎる。最悪な居候だ。
「一条くん」
玄関に入る直前で呼びかけると、湊は「なに?」と横から顔を覗き込んできた。
「迷惑かけて、ごめん」
「迷惑?」
「こんな遅くに、諒くんもいるのに」
「うちは使用人が多いから大丈夫。それに、俺は病人を病院に連れて行っただけ」
「でも」
「白石くんだって、俺が玄関でぶっ倒れたら病院に連れて行くでしょ」
「そうだけど、俺は居候なのに」
居候失格。居候の免許があれば剥奪レベルだ。湊は黙ったまま遙の背中を優しく撫でて、玄関を開けた。
「白石くんは居候なのにさ」
そっと促されて家に入ったところで、湊が口を開いた。
「昨日、諒を寝かしつけてくれたんでしょ」
まさか湊が知っていると思わなくて、少しだけ驚いた。
「家でも学校でも気を遣って、アルバイトまで頑張って。夜遅くに家事や料理をして、昨日は諒の相手。体調崩すのは当たり前」
当たり前。その視点はなかった。湊の言葉が不思議と胸に染み入る。
「諒も白石くんのことが好きみたいだから、あんまり遠慮しないでよ。明日から一緒に食事でもどう?」
湊なりに相当気を遣ってくれているに違いない。それはわかるけれど、その提案は少し重荷だ。
「……でも、一条くんのお弁当知っちゃったから」
「お弁当?」
今日の昼、初めて湊と昼食を共にしたのだ。遙の弁当のおかずを奪ったお詫びとして広げられた綺麗な弁当は、箸をつけることすら恐れ多く感じた。
「あんなに立派なお弁当、初めて見た。きっと三食すべて豪華なんだと思うんだ。そんな食費、払えないから」
正直、湊と食べるご飯は楽しかった。嬉しくて美味しくて、久しぶりの感覚だったのだ。でも、遙は居候。甘えてなんかいられない。自分の立ち位置を見誤らないように。そう言い聞かせる遙の前で、湊は小さく息を吐いた。
「白石くん、俺はこの家が嫌い」
「え?」
唐突な言葉に思わず息を呑む。
「でもね、初めて感謝してるかも。だって、白石くんが百人いても養える財力はあるはずだから」
「そ、そんなに?」
純粋に目を丸くすると、湊は優しい表情で遙の顔を覗き込んできた。
「俺は嘘つかないよ。不良だけどね」
*******
遙が倒れた時、湊は自分を責めた。同じ家に暮らしているのに、彼が無理をしていることに限界になるまで気が付かなかったのだ。
だから翌朝、湊は早めに起きて、遙の部屋をノックした。静かに聞こえる足音。そしてゆっくりと開いた扉の先には、すでに制服を着た遙がいた。
「なんだよ、びっくりしたなぁ」
目を丸くした遙に、湊の方がびっくりだ。
「学校、行くつもりなの?」
あれほど高熱だったのだ。無理をすべきでないことくらい誰にでもわかる。それでも遙はこくりと頷いた。
「授業に遅れたら大変だから。貧乏暇なし」
彼の頑固さでは、きっと何を言っても聞かないだろう。だから湊はすぐにでも登校する気満々の遙を物理的にとっ捕まえて、そのまま食卓に連行したのだった。
ご機嫌な諒と三人で朝食を摂り、登校は当然一条家のリムジンに誘おうとしたのに、遙は逃げるように先に行ってしまった。ただ今日は遙の分の昼食も家政婦に用意して貰ったため、昼休みに購買へ向かう遙をまたまた物理的にとっ捕まえたのだった。
腕を引いて向かったのは屋上だ。誰もいないそこは呼吸をするのが少し楽だ。
「一条くん、勘弁してよ」
なにやら喚いている遙を給水塔の影に座らせると、湊は抱えていた重箱を彼の前に置いて広げた。
「勘弁してあげるから、一緒にお弁当食べよう」
「……今日もすごいな」
呆気に取られる遙に箸を渡して促すと、彼は湊の顔をチラリと見てからミートボールを一つ食べた。その姿に満足して、湊も箸をつける。いつもの卵焼きが、今日は少し甘い気がする。
「白石くんってさ、いつもバイトのせいで帰りが遅いの」
「うん。昨日も、今日も、明日もバイト」
「体調大丈夫なの」
「熱はないから。人にもうつらないみたいだし」
「人にうつらなくても、白石くんが倒れたら大変だよ」
「大丈夫だよ。貧乏暇なし」
貧乏暇なし。なんだかすごい言葉だ。そのことばを口にする意味は、湊には一生わからないのかもしれない。
「一条くんは、変な子だ」
デザートの苺を見つめながらそう言った遙に、思わず首を傾げる。湊からしてみたら、遙の方がよっぽど普通ではない。
「髪は赤い。ピアスはするのにネクタイはしない。あまりにも不良すぎる」
「そうでしょ」
「でも、すごく優しい」
しみじみと言われると照れてしまう。湊は持ち前のポーカーフェイスで苺を食べながら取り繕った。
「優しいかな?あんまり言われないけどね」
「優しい以外の要素がありすぎるのかも。罪だね」
遙はまるで閃いたかのようにそう言うと、苺を大切そうに持ちながらぱくりと一口で食べた。
*******
目を開くと、知っているどこかの天井だった。少し黄ばんだ壁紙に、消えかけている蛍光灯、粗末な油の匂い。頭も背中も痛いのは、寝転がっている場所が硬すぎるのだろう。そう気づいたけれど、動く気になれない。
ガチャリと開いたのはこの部屋の扉だろう。ゆっくりと視線を巡らせると、扉からアルバイト先である居酒屋の店長が顔を出していた。そこでハッとした。居酒屋の更衣室にある長いベンチをくっつけて、そこで寝こけていたのだ。
「て、店長!すみません」
慌てて起きあがろうにも緩慢な動作になってしまう。
「いや、まだ閉店時間じゃないから大丈夫。しばらく横になってから帰るように言ったのは俺だしね」
「はい。でも、すみません」
やっと上体を起こして、更衣室の壁掛け時計を見る。シフト終わりから約二時間が経っていた。
「それで、白石くん。君の保護者って、綺麗な男の子で間違いない?」
「……え?」
「ほら、一応一人で帰すのも心配だし、白石くん全然起きないからさ。履歴書の保護者欄の連絡先に電話したんだよ。そしたら赤い髪の綺麗な子が、保護者ですって」
「え!?」
「連れてきちゃったけど、良い?」
「え、えぇ!?」
遙が驚いているなかで、店長の後ろから湊が顔を出した。そして中途半端な体勢の遙を見て、呆れたように溜息をつく。
「遙」
「え?」
「遙、帰るよ」
遙、遙、遙。
遙とは、この白石遙のことだろうか。久しぶりに聞いた自分の名前はあまりに優しい響きで。馬鹿にしているのかと思うより先に、遙は思わずこくりと頷いてしまうのだった。
なぜそんなことを思い出すのか。高熱に浮かされているからか、それとも、あの日あまりの存在感に圧倒された豪華なシャンデリアを眺めているからか。
一条家の居間にある立派なソファに寝かされ、数十分が経った。異様に居心地が悪いのは幼い瞳が熱心に見つめてくるからだ。
「遙くん」
「……ん?」
一条家の三男、一条諒。彼はテーブルを挟んだ向かいのソファにちょこりと座り、遙をしきりに観察している。
昨晩、諒とはたくさん話をした。深夜の料理中に起きて来たと思ったらやたらと話しかけられて、全然寝ないものだから彼の部屋まで付き添ったのだ。そうしているとなぜだか祖母のことを思い出してしまって、諒が寝るまで彼の近くを離れられなかった。おかげで盛大に寝不足になった。
「遙くん、喉乾いた?」
「……もう大丈夫。ありがとう」
先ほどから何度水を勧められたことか。そろそろその優しさにも疲れていたら、どこからか湊が現れた。
「諒、ありがとう」
「遙くん、いっぱい水飲んだよ」
まるで小動物扱いだ。少しだけ面白くなるけれど、笑う元気もない。湊は諒の頭を撫でると、今度は遙の側にやって来て枕元にしゃがみ込んだ。
「白石くん、病院に行くよ」
「……病院?」
「うん。うちの行きつけの病院。診てくれるって」
「い、行かない」
「だめ」
「だって、迷惑が」
家主に迷惑をかけない。居候の教科書、第一章一項だ。
「病院にも連絡。連れて行く運転手、あとは諒と留守番する執事を手配して。これで行かない方が迷惑」
「そ、そうか。でもお金が」
「うちはいつもツケだから大丈夫」
「……ツケ?」
ツケとは何か。だいたいのイメージはできるけれど、やったことがないからわからない。ツケ、ツケ、と繰り返していると、湊は小さく溜息をついた。呆れられただろうかと思った瞬間、肩と脚を抱え、持ち上げられる。さっきぶりのお姫様抱っこだ。
「ツケ。しかも俺が勝手に手配したんだから、白石くんに払わせるわけないでしょ」
至近距離で顔を覗き込まれる。あまりの造形の美しさに一瞬見惚れたことがどうしてか悔しくて、もうどうにでもなれと目を閉じた。
*******
リムジンというものに初めて乗った。どんな構造かはわからないけれど、広すぎる車内は随分と快適だった。
「ありがとうございました。帰りは適当に帰るので」
病院に到着して車から降りる間際にそう告げると、湊は「はいはい」と言いながら一緒に降りて来た。
それから全ての手続きを湊が行い、気がついたらベッドに寝かされて検査と点滴を受けていた。その間、湊は何をするわけでもなくずっと側にいて、目が合えば安心させるようにふわりと微笑むから非常に心臓に悪かった。
所要時間は二時間強。ずっと待っていたらしいリムジンに乗せられて家に帰る頃には夜も更けていた。車を降りてから玄関までがいつも以上に長く感じる。
「知恵熱って、本当にあるんだね」
湊が遙の肩を支えながらそう言った。検査の結果、感染症は否定されて、心因性の高熱と診断されたのだ。人にうつさないと分かれば安心である。
「知恵熱体質だから」
「ふーん、知恵熱体質ねぇ」
こうなるまで忘れていたけれど、昔はよく熱を出していた。ご飯を食べてよく寝ていても、無理をするとすぐに体調を崩してしまう。高校一年にもなって体調管理ができないなんて恥ずかしすぎる。最悪な居候だ。
「一条くん」
玄関に入る直前で呼びかけると、湊は「なに?」と横から顔を覗き込んできた。
「迷惑かけて、ごめん」
「迷惑?」
「こんな遅くに、諒くんもいるのに」
「うちは使用人が多いから大丈夫。それに、俺は病人を病院に連れて行っただけ」
「でも」
「白石くんだって、俺が玄関でぶっ倒れたら病院に連れて行くでしょ」
「そうだけど、俺は居候なのに」
居候失格。居候の免許があれば剥奪レベルだ。湊は黙ったまま遙の背中を優しく撫でて、玄関を開けた。
「白石くんは居候なのにさ」
そっと促されて家に入ったところで、湊が口を開いた。
「昨日、諒を寝かしつけてくれたんでしょ」
まさか湊が知っていると思わなくて、少しだけ驚いた。
「家でも学校でも気を遣って、アルバイトまで頑張って。夜遅くに家事や料理をして、昨日は諒の相手。体調崩すのは当たり前」
当たり前。その視点はなかった。湊の言葉が不思議と胸に染み入る。
「諒も白石くんのことが好きみたいだから、あんまり遠慮しないでよ。明日から一緒に食事でもどう?」
湊なりに相当気を遣ってくれているに違いない。それはわかるけれど、その提案は少し重荷だ。
「……でも、一条くんのお弁当知っちゃったから」
「お弁当?」
今日の昼、初めて湊と昼食を共にしたのだ。遙の弁当のおかずを奪ったお詫びとして広げられた綺麗な弁当は、箸をつけることすら恐れ多く感じた。
「あんなに立派なお弁当、初めて見た。きっと三食すべて豪華なんだと思うんだ。そんな食費、払えないから」
正直、湊と食べるご飯は楽しかった。嬉しくて美味しくて、久しぶりの感覚だったのだ。でも、遙は居候。甘えてなんかいられない。自分の立ち位置を見誤らないように。そう言い聞かせる遙の前で、湊は小さく息を吐いた。
「白石くん、俺はこの家が嫌い」
「え?」
唐突な言葉に思わず息を呑む。
「でもね、初めて感謝してるかも。だって、白石くんが百人いても養える財力はあるはずだから」
「そ、そんなに?」
純粋に目を丸くすると、湊は優しい表情で遙の顔を覗き込んできた。
「俺は嘘つかないよ。不良だけどね」
*******
遙が倒れた時、湊は自分を責めた。同じ家に暮らしているのに、彼が無理をしていることに限界になるまで気が付かなかったのだ。
だから翌朝、湊は早めに起きて、遙の部屋をノックした。静かに聞こえる足音。そしてゆっくりと開いた扉の先には、すでに制服を着た遙がいた。
「なんだよ、びっくりしたなぁ」
目を丸くした遙に、湊の方がびっくりだ。
「学校、行くつもりなの?」
あれほど高熱だったのだ。無理をすべきでないことくらい誰にでもわかる。それでも遙はこくりと頷いた。
「授業に遅れたら大変だから。貧乏暇なし」
彼の頑固さでは、きっと何を言っても聞かないだろう。だから湊はすぐにでも登校する気満々の遙を物理的にとっ捕まえて、そのまま食卓に連行したのだった。
ご機嫌な諒と三人で朝食を摂り、登校は当然一条家のリムジンに誘おうとしたのに、遙は逃げるように先に行ってしまった。ただ今日は遙の分の昼食も家政婦に用意して貰ったため、昼休みに購買へ向かう遙をまたまた物理的にとっ捕まえたのだった。
腕を引いて向かったのは屋上だ。誰もいないそこは呼吸をするのが少し楽だ。
「一条くん、勘弁してよ」
なにやら喚いている遙を給水塔の影に座らせると、湊は抱えていた重箱を彼の前に置いて広げた。
「勘弁してあげるから、一緒にお弁当食べよう」
「……今日もすごいな」
呆気に取られる遙に箸を渡して促すと、彼は湊の顔をチラリと見てからミートボールを一つ食べた。その姿に満足して、湊も箸をつける。いつもの卵焼きが、今日は少し甘い気がする。
「白石くんってさ、いつもバイトのせいで帰りが遅いの」
「うん。昨日も、今日も、明日もバイト」
「体調大丈夫なの」
「熱はないから。人にもうつらないみたいだし」
「人にうつらなくても、白石くんが倒れたら大変だよ」
「大丈夫だよ。貧乏暇なし」
貧乏暇なし。なんだかすごい言葉だ。そのことばを口にする意味は、湊には一生わからないのかもしれない。
「一条くんは、変な子だ」
デザートの苺を見つめながらそう言った遙に、思わず首を傾げる。湊からしてみたら、遙の方がよっぽど普通ではない。
「髪は赤い。ピアスはするのにネクタイはしない。あまりにも不良すぎる」
「そうでしょ」
「でも、すごく優しい」
しみじみと言われると照れてしまう。湊は持ち前のポーカーフェイスで苺を食べながら取り繕った。
「優しいかな?あんまり言われないけどね」
「優しい以外の要素がありすぎるのかも。罪だね」
遙はまるで閃いたかのようにそう言うと、苺を大切そうに持ちながらぱくりと一口で食べた。
*******
目を開くと、知っているどこかの天井だった。少し黄ばんだ壁紙に、消えかけている蛍光灯、粗末な油の匂い。頭も背中も痛いのは、寝転がっている場所が硬すぎるのだろう。そう気づいたけれど、動く気になれない。
ガチャリと開いたのはこの部屋の扉だろう。ゆっくりと視線を巡らせると、扉からアルバイト先である居酒屋の店長が顔を出していた。そこでハッとした。居酒屋の更衣室にある長いベンチをくっつけて、そこで寝こけていたのだ。
「て、店長!すみません」
慌てて起きあがろうにも緩慢な動作になってしまう。
「いや、まだ閉店時間じゃないから大丈夫。しばらく横になってから帰るように言ったのは俺だしね」
「はい。でも、すみません」
やっと上体を起こして、更衣室の壁掛け時計を見る。シフト終わりから約二時間が経っていた。
「それで、白石くん。君の保護者って、綺麗な男の子で間違いない?」
「……え?」
「ほら、一応一人で帰すのも心配だし、白石くん全然起きないからさ。履歴書の保護者欄の連絡先に電話したんだよ。そしたら赤い髪の綺麗な子が、保護者ですって」
「え!?」
「連れてきちゃったけど、良い?」
「え、えぇ!?」
遙が驚いているなかで、店長の後ろから湊が顔を出した。そして中途半端な体勢の遙を見て、呆れたように溜息をつく。
「遙」
「え?」
「遙、帰るよ」
遙、遙、遙。
遙とは、この白石遙のことだろうか。久しぶりに聞いた自分の名前はあまりに優しい響きで。馬鹿にしているのかと思うより先に、遙は思わずこくりと頷いてしまうのだった。



