居候、御曹司に恋をする

 遙は貧乏だ。
 親も兄弟もおらず、唯一の肉親であった祖母は三カ月前に亡くなった。長年の闘病の末とはいえ、本来悲しみに暮れる毎日を過ごすところだろう。ところが、厳しくも優しく、聡明で品性を大切にしていた祖母は最期にこう言い残した。
「貧乏暇なし」
 貧乏暇なし。今になって、どこまでクレバーで面白い人だったのだろうと思う。おかげでこの言葉は今や遙の原動力だ。勉学も、高校に入ってから始めた居酒屋のアルバイトも、悲しみを理由に休んでいる暇はない。幸い居候先は祖母が用意しておいてくれた。だからとにかく必死で生き抜くのだ。だってどうしたって、遙は貧乏なのだから。

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 この春から遙が通い始めた高校は、近隣の県を跨いで名を轟かせている私立の名門校である。有名大学への進学率が随一のそこへ、遙は奨学生として入学することを許された。奨学生は制服代から修学旅行代まですべて免除してもらえる。公立高校へ行くよりも金がかからないという理由だけで選んだのだった。
 入学してから半月、遙は金持ちばかりの中、誰に対しても付かず離れずの距離感で過ごしている。それは担任からの助言がきっかけだった。
「白石くん。保護者がいないこと、一条家の居候であること、アルバイト、奨学生、このことは隠したほうが良いかもしれない」
 入学前に突然遙の居候先を訪ねてきた担任は非常に言いにくそうにそう言った。つまりは下手に目立つなという警告である。きっと遙のことを思ってのことだろう。元々目立つつもりなどなかった遙は、金持ちの世界もなかなか大変なのだなとぼんやり思ったのだった。
 だからということでもないけれど、遙は基本的に話しかけられなければ誰とも話さない。今日も昼休みは自作の弁当を一人で食べるのだ。ランチバックから祖母と選んだ曲げわっぱの弁当箱を取り出して、しっかりと手を合わせる。きっとクラスメイトからは話しかけづらい変わり者と思われているだろう。
「湊、頼むよ」
「ねぇ、湊」
 このクラスには遙とは対照的な存在がいた。遙の後ろの席のいかにも不良な赤髪男子、一条湊である。彼はその見かけによらず学校一の人気者であり、同時に遙の居候先である一条家の次男坊だ。一条家とは、近隣では一条財閥として知られた名家である。遙の祖母は一条家の遠い親戚の恩人らしく、つまり一条家にとって遙は全くの無関係人間ということである。
「なあ、湊。今日こそはカラオケ行こう」
「んー、だるい」
「この前もそう言って来なかったの、俺覚えてるんだからな」
「湊が来れば隣のクラスの廣瀬さんも来るって言ってたんだよ。頼むよ」
「んー」
 湊はカラオケが好きではないのだろうか。人気者は大変だ。頭の隅でそんなことを考えながら、弁当箱をぱかりと開けた。今日は筑前煮と豚と茄子の炒め物。どちらも祖母から教わった遙の得意料理だ。
「白石くんが来るなら行ってもいいけど」
 湊の声に、思わず動きを止めた。白石くんというのは、どこのクラスの誰だろう。遙の他に白石という苗字の男子生徒がいただろうか。
「おーい、白石くん」
 これはまさか、この白石遙を呼んでいるのだろうか。
「白石遙くーん」
 フルネームを呼ばれてもまだ信じられない。それでも一応顔だけ向けてみると、気怠げな湊と目が合った。家ではほとんど顔を合わせないから知らなかったけれど、その顔は随分と甘い造形をしている。アーモンド型の目に通った鼻筋はそこらの俳優顔負けだ。なんだか知らなかったことがもったい気もするが、それも仕方がないことである。なぜなら遙は居候であるからだ。家主に気を使わせないように生きることは、居候の教科書があれば第一章に記されてるはずである。
「やっとこっち見た」
「え、なに……?」
 恐る恐る尋ねると、「だから、カラオケ行かない?」と首を傾げてくる。
「……行きたい、けど」
 つい本音でそう言ってしまってから、「行けない」と言った。本当は友達も欲しいし、カラオケとやらにも行ってみたい。でもそんな金も時間もないのだ。
「じゃあ、俺も行かない」
「えー、なんでだよぉ」
「白石くん、行こうよぉ」
 遙が求められているわけでもないのに、なんだか悪い気がしてきてしまう。
「誘ってくれたのに、ごめん」
 一応社交辞令として謝ると、湊の取り巻きの一人が遙の机の上に視線を投げていることに気がついた。彼の名前は、確か河村だった気がする。
「なにそれ、弁当?」
 途端に面白いものを見つけたとでもいうように、ほら見てみろよと嬉々として仲間を呼ぶ様子は、まるでそういうタイプの獣みたいだ。
「そんな茶色くて美味いの?家政婦変えたほうがいいんじゃないの」
 そう言いながらゲラゲラと笑われて、一瞬本気で顔が強張った。ひゅっと肝が冷えたけれど、慌てて取り繕う。ここで間違えたらいけない。
「わかってないな。これが美味しいんだよ」
「でもそんな弁当恥ずかしいだろ」
「じゃあ、河村くんのお弁当も見せてごらん」
 遙がそう言うと、河村はちょっと得意気に湊の隣の机に置いていた弁当袋を開けて、みるからに立派な弁当箱を開けた。唐揚げに綺麗な黄色の卵焼き、ミニトマト、多分ピーマンとパプリカの炒め物、トマトの煮込み料理まで入っていて、隅には新鮮そうなイチゴまで添えられている。
「うわあ、綺麗」
「これくらい普通だろ」
「そうかな。河村くんが喜ぶように頑張って作ってくれてるんだよ」
「そりゃ、白石くんの家政婦よりはね」
「赤がないのかな。それから緑と、黄色か。自分で作ったからさ。勉強になるよ。唐揚げちょうだい」
「なんでだよ」
 唐揚げの一つもくれないなんて、金持ちは案外ケチだ。そう思いつつも、仕上げにニコッと笑ってから前を向いた。そうして自分の弁当箱を見下ろす。確かに、河村の弁当とは別の何かみたいだ。祖母の作る弁当はもっと綺麗だった。茶色かったけれど、卵焼きの黄色とサヤエンドウの緑はあった気がする。遙は素朴で優しい弁当が好きだった。なんだか込み上げてくるものがあって、思わず立ち上がった。本当は余裕でいたいのに、急いで弁当箱をランチバックへと入れると、半ば逃げるように教室を後にした。

*******

 教室から出て行く後ろ姿を見送る。いつも凛と真っ直ぐに伸びた背中は、今日ばかりは悲しみに濡れているように見えた。
「あーあ、なんか気にしちゃったんじゃないの」
 湊の隣で窓枠に腰掛けていた松川という女子生徒がそう言うと、河村は少しだけ肩を竦めた。
「だって面白かったんだから仕方ねえじゃん。自分で作ってるとも思わなかったし。なあ、湊」
 同意を求められても困る。湊としては、今の一連は少しも面白いとは思わなかった。でも、最初にカラオケの誘いで巻き込んだのは湊だ。秘密の居候である遙。家では顔を合わさないし、ほとんどの家事は自分でこなしているらしい。そんな風に何にも染まらない遙のことは、まるで透明な水みたいだと思っていた。思わず大きく息を吐いて、湊は何も言わずに席を立った。
「湊?」
「着いてくるなよ」
 湊はそれだけ言い残すと、勘だけを頼りに遙の後を追いかけた。
 遙はすぐに見つかった。屋上へ続く扉を開けると、給水塔の影に彼のランチバックを見つけたのだ。学校の構造に詳しくない一年でも、屋上が立ち入り禁止であることは教えられている。一人になりたければ屋上に向かう確率は高いと思った自分を多少は褒めてやりたい。静かに扉を閉めて、ゆっくりと給水塔の方へと近づき、隠れるように屋上の地面に座っている遙の肩を静かに叩いた。驚いて振り返った彼の頬は涙に濡れていた。慌てて左手の甲で目元を擦る様子をみて言葉に詰まる。河村が触れたのは、彼が触れてほしくなかった領域だったのかもしれない。
「一条くん、どうしたの」
 まるで涙なんて流していないかのように取り繕いながら遙が尋ねてきた。箸を持った手元は膝に置いた弁当箱の中身をしきりに隠している。
「さっきは、巻き込んでごめん」
「え?あぁ、一条くんに話しかけられてなくても、どうせいつか絡まれてたよ」
 だから大丈夫と笑った顔は、無理をしているようにも、本当にそう思っているようにも見えた。
「でもさ、ごめん」
 隣にしゃがみ込みながら謝ると、遙は途端に表情を固くして膝の上に視線を落とした。
「……いいよ」
 それからしばしの沈黙が流れた。すると遙はちらりと湊を振り返って、「え、まだ何か用?」と宣った。本心から溢れ出たこの失礼な言葉は、この湊が浴びたことのないセリフだ。
「用というよりは」
「うん」
「気になるというか」
 どうして気になるのか、湊にもよくわからない。透明感あふれるこの男子生徒は、金持ちらしくないのにこの学校にいて、案外社交的なのに友達がいなくて、スクールカーストに左右されずに白石遙として立っている。そして何より、一条財閥の次男坊であるこの一条湊に少しも媚びず、靡かず、嫌悪もしない。とにかく不思議なクラスメイト兼居候なのだ。
「また泣いちゃったら、嫌だなと思って」
「……俺は泣いてないよ」
 俯きがちに嘘をついた遙は、少しすると湊をちらりと振り返った。
「自分で作った弁当だからさ、笑われても大丈夫」
「そんなもんなの?」
「うん」
 再び弁当箱を、厳密にいえば弁当箱の上に添えた手を見つめながらそう言った横顔。その目から堰を切ったように涙が溢れる様子は高尚な美術作品のように見えた。
「……もう、誰も、作ってくれないから」
 そう呟いた姿はいつも凛としている様子とは全く異なっていて、湊は何も言えなかった。

*******

 湊に背中を摩られながら、遙はだんだんと冷静になってきた。いくらセンチメンタルな気分になっていたとはいえ、何を泣いているのだろう。貧乏暇なし。本当は自作の弁当なんて腹に溜まればどうでもよくて、さっさと食べたら英語の勉強をするつもりだったのだ。
 遙は最後に手の甲で涙をぐいっと拭くと、よし、と覚悟を決めた。弁当箱を隠していた手を退けて、しっかりと見下ろす。きっと湊も見ていることだろう。でももう隠してやるもんかと、遙は思い切りおかずと白米を順に口に放り込んだ。
「白石くん」
「うん?」
 口をパンパンにしながら湊を振り返ると、彼はどこかムズムズとした様子で遙を上目遣いに見つめてきた。
「一口、ちょうだい」
 それは絶対に。
「やだよ」
 この期に及んで祖母の味を否定されたら、今度こそ大号泣だ。そう思ったのに、湊は眉尻を下げて懇願するように両手をあわせた。
「お願い。筑前煮も、茄子のやつも、超美味そう」
「……そんなに美味しくないよ」
「それは俺が決めるから」
 なんて高飛車な発言だろう。驚いているうちに勝手に箸を取られて、弁当箱を取り上げられる。湊は想像以上に綺麗な箸使いで、筑前煮の蓮根を一つ口に放り込んだ。
「うわ!美味しいよ」
「……本当?」
「うん!茄子のもいい?」
 そう聞いている時にはすでに茄子と大事な豚肉まで食べられていて、思わず「あぁ」と声が漏れた。そこで湊ははっとしたらしく、慌てて遙へ弁当箱を返すと立ち上がる。
「ごめん!すぐ俺の弁当も持ってくる。なんでも好きなおかず食べて」
「そんなのいいよ。もう放っておいてくれたら」
「無理。俺が白石くんと仲良くなりたいから」
 急いで入り口へとかけて行ったと思ったら、急に立ち止まって遙の方を振り返る。
「俺がいない時に泣いちゃダメだよ」
「はあ?」
「泣き顔、すごく可愛いから」
 呆気に取られているうちに、湊は屋上から去っていった。馬鹿にされているのか、それとも彼が変わり者なのか。学校でも浮いている赤髪は、校則違反に違いないのに誰に注意されることもないみたいだ。
「……変な子」
 でも、ああ見えてすごく思いやりがあるのかもしれない。遙は少しだけ減ってしまった弁当箱の中身をみて、小さな声で「ありがとう」と呟いた。

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 湊はちゃんと不良である。でも、夕食までには家に帰るようにしているのだ。それは弟の諒を一人にしないためだった。海外に赴任している両親に代わって、湊が小学一年の諒のためにできることはそれくらいだ。今日もおしゃべりな諒の話を聞きながら、彼の皿から減らないビーフシチューを気にしつつ、同時に湊自身の一日について考える。今日は少しだけいい日だったかもしれない。
「ねえ、湊。遙くんは?」
 自然と頭に思い浮かべていた人物の名前を挙げられて、湊は思わず咽せそうになった。慌てて取り繕って、首を傾げる。実際、遙のスケジュールについてはよく知らない。
「遙くんとね、昨日いっぱいおしゃべりしたんだ」
「え?」
「夜遅くに目が覚めてね、水飲みにキッチンに来たら料理してて」
「うん」
「それで、僕が寝るまでベッドのそばにいてくれた」
「……あんまり困らせるなよ」
「困らせてないよ!楽しそうだったもん」
「……ふーん」
 今度顔を合わせることがあれば謝罪と礼を言わないとだろうか。そう考えていると、突然玄関の方から大きな音が鳴り響いた。例えるなら、何か重たいものを勢いよく降ろしたような、悪く言えば誰かが倒れたような音。今日は家政婦も用事があると言ってすでに帰宅しているし、運転手などの使用人も別宅で休んでいるはずだ。チラリと諒を見ると、少し怯えたように身を竦ませている。
「ちょっと見てくるから、食べてな」
「いやだ。一緒に行く」
 足元にひっついてくる諒を庇いながら、リビングから出て長い廊下を歩き、湊は恐る恐る玄関の方を覗き込んだ。
「え?」
「遙くん!」
 遙がフローリングに突っ伏している。その異様な様子に慌てて駆け寄ると、その音に反応するかのように遙がぴくりと動いた。
「どうした、転んだ?」
 湊が頭上にしゃがみ込みながら尋ねると、遙はぼんやりと湊を見上げてふるふると首を横に振った。
「……大丈夫。ちょっと、寝てた」
「え、ここで?」
「大丈夫」
 ノロノロと起き上がろうとしている彼に触れてもいいものか逡巡しているうちに、諒が遙の手を取る。何となく先を越された気分になった。
「なんか、遙くん。すごく熱い」
 遙が慌てたように諒から手を離した。でもその手を、今度は湊が掴みとってみる。確かに燃えるように熱くて、思わず顔を顰めた。
「具合悪いんじゃないの?」
「い、いや。全然、大丈夫」
 しどろもどろと答えた遙に顔を近づけると、彼は分かりやすく視線を逸らした。
「ご、ごめん。風邪ひいたのかもしれなくて、バイトも早退したんだ。うつさないようにすぐ部屋に行くから」
「夕飯は?」
「大丈夫」
「食べたの?」
「……うん」
「何を?」
「……とにかく寝るから」
 やっと靴を脱いでからフローリングに上ろうとした遙は、半ば這うように立ちあがろうとして、もう一度床に突っ伏した。もしかして、見かけによらず相当な頑固者なのだろうか。湊はため息をついてから、遙の体をゆっくりと抱え上げた。