ぼくの青春は、屋上から始まった

 
  一度、廊下で声をかけられたことがある。
 彼は突然、「テニス部にはいらないか」と言ったのだ。
 ぼくは思った、こいつ、何を考えているのだろうか、と。
 見ればわかるたろう、このガタイを。これが、テニスをする身体か。
 ばかばかしいから、口も利かなかったが、彼のことは覚えていた。あの顔を、忘れる者はいないだろう。


*

ぼくは中瀬川丈流(なかせがわたける)
 あの時まで、中学も高校も、通過駅だと思っていた。
 ゴールはもっと先にある。

 終着駅に着いた時、ぼくはやりたいことをやる。スポーツも、恋も、旅も。それまでは、勉強一筋。

 あれは高校1年の2学期のはじめの頃だった。
 昼食の時の教室はうるさいから、ぼくはさっさと弁当をもって屋上に上がり、食べながら、勉強していた。

 昼食はいつもおにぎりだ。ぼくのリクエストで、母さんの手作り。片手で持って食べながら、本が読めるからだ。

 ぼくは屋上にお気に入りのベンチがあり、そこは適当に明るく、風も吹いて、第一、誰にも邪魔されない場所なのだった。

 それなのに。
 そんなある日、屋上に、あいつが現れた。
 ひとりではない。女子とふたりで。

 ふたりとは、青山元気(あおやまげんき)佐藤明己(さとうメイ)だった。
 隣りのクラスだが、彼の顔は知っている。彼が、廊下で、声をかけてきたやつだ。

 青山は長身のイケメンで、テニス部。女子から人気があるが、彼にはすでに決まった女子がいる。それが佐藤明己。
 佐藤はアイドルのような顔をしている。あのふたりはお似合いで、ふたりが付き合っていることは有名で、みんな憧れている。

 青山がテニスをしているところを見ている佐藤の誇らしい顔、英語のクラスで指名されてたどたどしく英語を読み上げる佐藤を心配している青山の表情、ふたりがどれほど仲がよいかということは、噂には無関心、無関係なぼくでさえも知ってはいた。
 
 でも、口をきいたことなどない。
 あの華やかなふたりとぼくとは、共通点も接点もなかった。

「中瀬川くん、ここいい?」
 佐藤がかわいい顔で言ったから、ぼくはうんと頷いた。口が米でいっぱいだったからだ。

 ぼくがふたりを座らせるために横にずれようとしたら、
「いいの、そのままで」
 と佐藤が言って、ぼくの左側に座り、青山が「おっす」と右側に座った。

(これ、なんかおかしくない)

 そう言おうとしたけれど、ふたりはそれぞれにランチを出して、食べ始めた。
 佐藤のは卵焼きやソーセージのはいった弁当で、青山は袋からパンを出して、かじっていた。カレーコロッケパンだ。ぼくの好きなやつ。においが流れてくる。

「中瀬川くんは、おにぎりっすか」
 と青山が首を伸ばした。
「うん」
 ぼくはどきっとした。彼とちゃんと目を見て会話をしたのが、初めてだったからだ。

(彼がぼくの名前を呼んだ!)

「中身は何?」
 と佐藤が覗き込んだ。「えっ、肉?」
「うん。これは夕食の残り」
「自分で作ったの?」
「いや、母親が。だから、食べるまで、何がはいっているかわからない。1個目は納豆だった」

「じゃ、3個目は何かしら」
 佐藤の瞳は近くで見ると、茶色っぽい。
「何かな」
「コンビニ以外のおにぎりなんて、長いこと食べていないなぁ。食いてえ」

(そうか、そんなに食いたいのか)
 
 だから、ぼくは青山と目が合った時、目で合図して、後ろで、3個目のおにぎりを彼に渡してやった。すると、彼はもう一個のパンを渡してくれた。

 突然、ぼくがパンを、青山がおにぎりをもっていたので、佐藤が驚いた。
「あら、どうなっちゃったの。3個目、なに?」
 
 おにぎりの3個目は山菜おにぎりだった。
「中瀬川くんのママ、栄養のこと、よく考えているのね」
「そうかな」
「そうだよ。愛されているよね」
 そう言って佐藤が青山に相槌を求めた。

「うん。おまえんちのおふくろ、働いてるの?」
「うん、シングルマザー。短大の講師やってる」

「すごいな」
「そうかな。青山んところ?」
「うちはおふくろはいない。おれ、おやじと住んでんだ」
「そうか」

「でも、元気のお父さんはずっとタイだよ、仕事で」
「工場、建てている」
「元気はもう3カ月もひとりなんだよ」
「そっか」

「メイのところも再婚で、つまり、おれら3人、誰も両親、そろってないわけか」
「今は、そういう子、多いよね」
 と佐藤がぼくにソーセージをくれた。

「ありがとう。なつかしい。これ、タコソーセージだ」
「メイは小さなガキが3人もいて、毎日、自分でみんなの弁当作っているんだ」
「ガキじゃないよ。双子の妹ふたりと弟ひとり。父親違いね。いや、でも、ほんと、ガキだわ。もう手に負えない」

「何歳?」
「4 歳と6歳がふたり」

(こりゃ、大変だ)

 気がついたら、ぼくは自然と会話ができていて、自分でも驚いた。その日から、ぼく達は友達になり、すぐに苗字で呼ぶのをやめて、元気、メイ、タケルと呼ぶようになったのだった。

*

 ベンチの座り順は決まっていて、左から、ぼく、メイ、元気で、元気とぼくはいつもメイの後ろで、食べものを交換した。

 ある時、ぼくがパンを受け取ろうと手を伸ばしたら、その手をぎゅっと握られた。冗談でやっているのだと思ったけど、かなり長い間、握られていた。

 元気のほうを見たら、何もない顔をして、空を見ながら、おにぎりをほうばっていた。

「今日の中身、なに」
 とメイが聞いた。
「昆布」
「そっちのは何?」

 元気はまだぼくの手を握ったままだ。
「1個目がシャケで、これが梅」
「今日のは定番だな。この間、コロッケがはいっていた。おれ、シャケの食いたかった」
「今度、あげるよ」
「サンキュー」
 ようやく元気が手を離した。

 その夜、どうして元気がぼくの手を握り続けていたのか考えながら、手の平を見つめた。手の平を頬につけてみる。冗談に決まっている。

(それ以外に、なにがある?)

*

 その日はメイが欠席をしていて、屋上には元気がひとりで現れた。
「おっす」

 ぼく達は並んで座った。元気が近すぎて、腕が触れたので、ぼくが少しずれると、元気がぼくのほうにずれたから、また腕がくっついた。

「メイは病気?」
「いや。あそこんちは子供がよく風邪をひいたりするから、時々、休むけど、メイは元気だ。ははは。元気はおれの名前だ」

「じゃ、どうしたの?」
「ビザの手続きとか。メイは、近くアメリカに行くんだ」
「今時、旅行?」
「いいや」

 メイは父親がアメリカ人のエンジニアで、カリフォルニアに住んでいる。18歳までに2年住まないと、アメリカ国籍がもらえないのだという。

「やっぱ、メイはハーフだったのか」
「気がつかなかった?」
「そうかなとは思ったけど」
「タレントプロダクションから、スカウトされたことも、3回くらいある」

「メイはそういうの、嫌いなの?」
「うん。無視してた」

「メイは英語、できるの?」
「できない。日本に住むから英語なんか必要でないと言っていたし、ひどいものだ」

「じゃ、どうして」
「アメリカになんか行く気なかったけど、あそこんち、ガキが3人もいるし、母親がメイに頼りっきりで忙しすぎる。カリフォルニアの父親が見かねて、呼び寄せたんじゃないかな。メイも悩んだみたいだけど、つい最近、決めたんだ」
「さみしくなるな」
「まぁな」

*
 
 その週末、ぼくは元気とメイのデートに付き合うことになった。といっても、こぶつき。メイの母親が同窓会に参加するので、3人の子供を連れて、水族館へ行くというものだった。
 
メイが双子に、見学する前に、トイレに行きたいかと聞くと、行かないというのに、2分後にはひとりが行きたいといいだし、用を済ませて戻ったら、もうひとりが行くと言い出したりして、てんやわんや。

 メイがどこへでも行きたがる4歳男子の手を引き、元気がひとりの女子、もうひとりをぼくが責任をもつことになった。
 途中で、4歳児が行方不明になった。

「捜してくるから、ここで待っていて」
 とメイが言うと、ふたりの女子がついていくと泣いたけれど、なんとかアイスでなだめて、クラゲの青い水槽の近くで待つことになった。

「メイは大変なんだ。学校から帰ると、いつもこうなんだから」
 元気の顔が愛しさにあふれていた。

(うらやましいほどの、やさしい横顔)

「メイがいなくなると、元気はさみしくなるな」
「さみしくはなるけど、タケルは誤解していないか」
「誤解って、何が」
「おれ達、付き合っていないぜ」
「付き合っているだろ?」

「だけど、おまえが想像しているような付き合いじゃない」
「想像って」
「おれ達は幼なじみで、小学校の頃、家が隣り同士。お互いの両親が離婚して、離れ離れになったけど、高校にはいって再会した」

「そうなんだ。ずい分、親しそうに見えたけど」
「親しいことは親しいけど、そういうじゃないから」

 その時、双子がクラゲに夢中になっているのを見て、元気がぼくに短いキスをした。

(えっ)

「メイとは、こういう関係じゃないから、誤解すんな」
「誤解とか、そういうんじゃないだろ。ぼく達、別に」
「別に、なんだよ」
 その時、メイが弟を背負って戻ってきたので、会話はそこで終わった。


*
  電車を降りると土砂降りで、眠たがっている3人の子供を歩かせるのは無理なので、メイはタクシーで帰ることにした。

「ふたりは、大丈夫?」
「おれたちのことは心配ない。早く帰らないと風邪ひいたら、大変だ」
 ぼく達は4人をタクシーに乗せた。

「少し、待つか」
「予報では、降るって言ってなかったのにな」
「なんか、止みそうにない」
 と元気が暗い空を見上げた。「待つか、走るか」

「家はどこ?」
 元気の家は遠くて、ぼくのアパートのほうが近いことがわかった。

「じゃ、うちまで走ろう。走れるか」
「おれ、テニス部だぜ。おまえこそ大丈夫なのか」

 家に着くと、ずぶ濡れになったぼく達を見て、母さんが大笑いした。

(ここは笑う場面か。心配するものではないか)

「冷えたでしょ。まずはお風呂にはいってきなさい。その間に、夕食作るから。特別においしいもの」

「はい」
 と元気が元気な返事をした。

「タオルと着替えは出しておいたから、タケル、一緒にはいっちゃいなさい」
「一緒っすか」
 と元気。

(ぼくは、いやだよ)

「お湯と時間の節約にもなるし。何も女子とはいるわけじゃないんだから、恥ずかしがることないでしょ」
「ないっす。おれ、合宿でいつもやってますから」
「そうよね。タケル、いい機会だもの。背中を流してもらえばいいでしょ」
 
 ぼくは恥ずかしがっているのも変なので、仕方なく、脱衣所まで行った。

(あいつが出てくるのを待てばいい)

「おまえのおふくろ、進んでいるな」
「進んでいるんじゃなくて、無知なんだよ。先にはいってくれ」
「タケルは」
「おまえが出てきたら、交代だ」
「おまえ、恥ずかしがっているのか」
「まさか」

 その時、元気がいつものようにぼくの手を握ったかと思うと、引き寄せて、またキスをした。

(今日はこれで2度目だ)

「すぐに、はいってこいよ」
 元気はそう言って、風呂場にはいって行った。ドアの曇りガラスに、彼の身体が映っていた。

(なんか、どきどきした)

 鼻歌が聞こえた。

 ぼくはいつまでもそこに立っているわけにはいかないから、服を脱ぎ、ドアをあけて、おそるおそる中にはいって行った。

 元気はバスタブにいて、ぼくを見上げていた。髪が乱れて、頬が少しピンク色になっている。

 ぼくもじろじろ見たけど、元気もじろじろ見た。あっちはバスタブの中だけど、こっちはすっぽんぽんときている。

「元気、やめろ。こっちを見るな」
「そんなにかくしてはいってこなくても、いいだろ」
「やだよ」
「寒いだろ。はいってこい。はいる前に、よく洗えよ」
「うるさい奴だな」
 
 ぼくはバスタブにはいって、にやにや見ている元気にお湯をかけてやった。
「やったな」
 と元気も負けずにお湯をかけたから、ぼくももっとかけてやった。
 
  元気がぼくの首を押さえて、バスタブの中にぐっとつけたから、ぼくはもがいて、手足をばたばたさせた。

「あんたたち、お風呂で、遊ばないで」
 という母さんの声が聞こえた。

 元気が手を離したので、ぼくはようやく息ができた。
「おまえ、殺す気かよ」

「しーっ」
 元気は人差し指を自分の唇に当てた。
 そして、近づいてきて、またキスをした。

(これで3回目だ)

「おまえ、キス魔か」
 とぼくが睨んだ。

「おまえはきらいか。きらいなら、もうしない」
「……きらい、ではない」
「好きか」
「……」
「じゃ、本格的なのをしよう」

「それは困る」
「どうして」
「母さんが、そばにいるじゃないか」
「いない所なら、いいのか」
「……考えておく」

 風呂から上がると母さんが「これ」と牛乳をさしだした。
「冷たくて、うまい」
 と元気。「おまえのおふくろ気が利くな」
「普通だろ」

「口についている」
 元気が、ぼくの口の周りに付いたミルクをタオルで拭いた。

(やめろっつうの)

 母親が見ていて、ふふふと笑った。

(ぼくはいろんな意味で恥ずかしい。赤くなった)

「元気さんのようなお友達ができて、本当によかったわ。タケルにはこれまで勉強ばっかりで、友達がいなくて、いつもひとり。だから、将来、どうなるかしらって心配していたのよ」
「そんなの、余計なお世話だよ」

「おばさん、おれ、タケルの世話をしますから、心配しないでください」
「おまえ、うるさい」

「私ね、タケルが大学卒業するまで懸命に働こうと決めているの。でも、卒業したら勤めをやめて、バックパック背負って、世界中を旅するのが夢なの。その時、タケルをひとりにしておけないと思っていたけど、でも、元気さんがいるなら」

「まかせてください。おれも、弁護士になるつもりですから」
「そんな話、聞いてない。おまえ、テニス選手じゃないのかよ」
「あれは無理。おれは、どんなにがんばっても、世界レベルにはなれない」
「弁護士にはなれるのかよ」
「がんばるっす」

「そうなの。すばらしいわ。うれしいわ」
「何なら、早目に、旅行に出かけてもいいですよ。人生は一度ですからね。タケルのことはおれにまかせて」

「本当?」
「本当ですよ。おれ達もいつか」
「えっ」
「いや、何でもないです」

*
 というわけで、なぜか元気は母さんの信頼を得たようで、ぼくは戸惑った。しかし、ぼくの気持ちはまだ決まってはいない。

 元気を嫌いかというと、嫌いではない。好きかというと好きだ。

(というか、実は眠れないほど、大好きだ)

 最初に元気を見た時、あまりにかっこよすぎたし、かわいいガールフレンドがそばにいたし、こんな人間と友達になれるはずがないと思っていたのに、それがあちらからやって来た。迫ってきた。

 ある日、元気が真剣な顔で言った。
「タケル、T大学の一番やさしい学科はどこだ」
「どうしたんだ」
「タケルと同じ大学に行きたいと思ってさ」

「別に同じ大学に行かなくても、同じ東京に住んでいるんだから」
「行動範囲を同じにしたい。いつも一緒にいたいんだ。いやか」
「いやじゃないけど」
「おれ、がんばれば法学部にはいれるか」

「本気だったのか。この間、言ったこと」
「本気だ。できればタケルと同じ大学に行って、弁護士になりたい」
「なって、どうするんだよ」
「できたら、同じ事務所で働いて、いつか、タケルが弁護士事務所をもったら、雇ってほしい」

「どういう思考なんだよ。朝から晩まで一緒だと、かえって、疲れてしまわないか」
「それが不思議とならないんだよ。タケルとなら」
「ぼくとなら」
「うん。いつか、タケルの母さんみたいに、世界旅行をしたいな、ふたりで」

*

あの 風呂以来、ぼく達はキスをしていない。

(きらいというわけではないのだし、考えることはあるのだが、はまりそうでこわいのだ。だから、ぼくは避けている。勉強に集中しなくっちゃ)

 ある日、元気はぼくにテニスを教えてくれると言った。

「勉強ばかりでは身体に悪い。運動が必要だ。習いたいか」
「うん」
「じゃ、教えてやる。おまえが1ポイントでも取れれば、キス1回だ」
「なんだ、それ」
「ほしくはないのか」
「……」

(ほしくないわけではないけど……。そんなこと言わすな)

「1セット取れた場合は、それ以上」
「それ以上って、なんだ」
「自分で考えろ」
「でも、信用おけねー」
 と元気が叫んだ。「おまえはわざとポイントを取らないようにするかもしれねー」
「しないよ」

「じゃ、これはどうだ。おれが期末テスト、どの教科でも、40点以上とれたらキスで、50以上なら、それ以上」
「低すぎるだろ」
「じゃ、50 と60」
「70 と80でいけよ」
「60と70」
「うん」
「よし、がんばる」

*

 いつもの屋上に、元気がやってきた。
「メイから写真が届いたぞ」
「おお、ドレス着て、めかしている。もうアメリカ人だな」
「プラムといって、高校のパーティだ。こいつがデートの相手だ。ジャックと言うんだ」
 隣りに映っているブラッド・ピットみたいな男子を指さした。
「ジャック、かっこいい」

「おっ、キスしている写真があるじゃないか」
 ぼくが写真を覗き込んでいると、こっちこっちと元気が呼んだ。

 ぼくが近づくと、元気はぼくの顔をぐっと引き寄せてキスをして、片手で写真を撮った。
「こういうの、まずいだろう」
「なにがさ」
「ぼく達がキスなんて」

「おれは平気だけど。おまえは、何か言われたら困るのか」
「いや、そういうわけじゃないけど」

「これ、上手く撮れてない。角度悪すぎ」
と元気が何度か、撮り直した。

(何度キスしたのか、分からなくなった)

「We love each other」
 元気がそう書いてメイに送付した。
 
 待っていたかのようにすぐにリプライがきた。

「I knew, since you guys held hands in my back。ばか」
(知っていたよ。あの後ろで、ふたりが手を握りあっていた時から。ばか)
 と書いてあった。
 
(メイにはとっくにばれていたようだ。ぼくもあの時から、元気が好きだったんだ。
 いつか旅に出たいな、きみとふたりで)
               

                   了