それから一週間が素早く過ぎて行った。
変わり映えのしない毎日だった。
一方的に怒ってしまったあの雨の月曜日以降、鬼屋敷には会っていない。それどころか世界から彼が消えてしまったのかのように彼の証が消えてしまった。廊下ですれ違うこともないし、机の中をいくら探しても世界史の教科書は見つからない。次彼に会った時、僕は彼にとって赤の他人に成り下がるのだろうか。鬼屋敷にとっては成り下がるも何もないかもしれないが。乾いた笑いが口からつい溢れ出る。
世界史の授業中、ずっと机の中に手を入れてないとわかっている何かを掴もうと指が勝手に動く。ぽっかりと空いてしまった穴をどうにか埋めようと体が動いてしまうのだろう。魔法の道具のようなあの教科書は僕を素直にしてくれた。あの教科書があれば、もう一度通じ合うことができると思っていたのに。いくら探したって、この虚しさからは抜け出せなかった。
「へくしょん」
変なくしゃみが出た。誰かが噂でもしたのだろうか。
「大丈夫?やっぱお前風邪引いたんじゃねぇの?」
「引いてないよ、元気だし」
いつもと変わらぬ昼休み、ぼんやりと窓に反射する柳瀬の顔を見て返事をした。柳瀬も自分が窓に映っていることに気づいたのか、窓を見ながら髪をいじりだす。夏だからと校則でなぜか禁止されているツーブロックにした柳瀬はご機嫌で登校をしてきたが、横を短くし過ぎて小山先生に怒られるのではないかとビクビクしている。廊下や教室で会うときは不自然に両手で頭の側面を抑えるし、体育の時は基本楠木の陰に隠れる。そんなスリルを楽しんでいるようにも見えるが、事あるごとに「俺の髪、変?」と聞いてくるのはやめて欲しい。楠木なんてここ三日くらいで聞かれ過ぎて、呆れて「いい加減気になるなら坊主にすれば?」なんてことを言い始めるし柳瀬は柳瀬で「野球部じゃないのに坊主はおかしいだろ」と怒っていた。「僧侶だって野球部じゃないけど坊主だよっていうか、僧侶も将棋部じゃん」そう続けて言う楠木も楠木で、言い争いになりそうでならない絶妙なトークを繰り広げる。二人は言いたいことを言い合うのに喧嘩にはならない。互いが互いのことを知り尽くしているからだろうか、阿吽の呼吸のような会話をする。それが羨ましいと思う。
「今日金曜だしね、後午後乗り切れば休みだし」
「そうそう、今週は模試もないし寝込めるよ」
「元気だから寝込まないけどね」
二人にそう言ってまた外を見た。今日はよく晴れている。雲ひとつなくて、おまけに風も無い。窓を閉め切っていても目覚ましのアラームのような忙しない蝉の声だけが聞こえてくる夏休み前の長閑な昼下がりだ。
「風邪といえば」
話題を切り出したのは楠木だ。いつもの淡々とした声に僕たちは無意識に視線を楠木に向けてしまう。
「鬼屋敷が謹慎処分になったんじゃ無いかって噂が出てて」
いつも唐突に出されるその名前に胸がズキン、と痛んだ。
「まじ?月曜に呼び出し喰らってたやつ?あいつ本当に何やったんだろうなーっていうか、なんでお前が知ってんだよ」
「なんでって、鬼屋敷囲碁部だし」
「「はぁ?」」
柳瀬と声が重なった。今まで何度も会話に登場した鬼屋敷だが、話題に出る度何も知りませんと言うような涼しい表情して話を聞いていた楠木が一番彼との接点を持っているとは誰も思わないだろう。
「まぁ幽霊部員だから部活に顔出してるところ見たことないけど。同じクラスの奴らがそんな話してた。三日も学校来てないから謹慎になったんじゃないかって。まあそれは噂なんだけど」
楠木の声をかき消すかのように心臓の鼓動がうるさくなる。どうしたら良いのか分からない。
「で、まぁ実際その中の一人が真相を確かめるために担任に鬼屋敷のことを聞いたらしいんだけど、夏風邪で寝込んでるだけって言われたんだとか言われてないんだとか」
「結局風邪かよ」
「最初に風邪といえばって言ったじゃん」
「言ってたねー。謹慎っていう筋はないの?」
「んーわかんないけど、謹慎の場合は掲示板に張り出されるらしいよ。注意喚起も込めてね。でもそれがないから、鬼屋敷が休んでんのとは直接の関係がない説が一番濃厚」
「へー」
都市伝説でも語るような口調で言葉を締めた楠木は話し終わって満足げに水分補給をしている。
謹慎でも風邪でも原因は僕にある。
謹慎ではないことに安堵しつつも、鬼屋敷が風邪を引いてしまったのは百パーセント僕のせいだ。
「なんか、やっぱ体調悪いかも。ほんとに」
「はぁ?まじ?」
「まじ。僕もう帰る。先生に上手く言っといてもらえる?」
「別に良いけど。貸しだかんな」
「俺が言っとこうか?柳瀬より上手くやれる自信あるし」
「楠木ありがとう。柳瀬も」
「えー俺ついで!?先に引き受けたのに!」
「恩着せがましいと嫌われるよ。月宮、お大事に」
「うるせー気をつけて帰れよな。なんかあったら連絡して」
「うん。二人ともありがとう」
二人に送り出されるようにして学校を後にした。
真昼の人通りの少ない道を歩く速度がだんだんと早くなっていく。
自分のせいにしているのは八割言い訳で、ただ心配だった。けれど、あんなこと言われて鬼屋敷に腹を立ててたはずなのに未練がましく心配してしまう自分を正当化したいだけだった。
初めて学校をサボって、高い位置にある太陽を浴びていることに少しドキドキする。鬼屋敷が絡むとやっぱり初めてのことが多い。頭の中ではごちゃごちゃ考えている癖に体が勝手に動いてしまう。
先週お邪魔したばかりの鬼屋敷の家へと迷いなく歩いていく。
途中薬局に寄って、カゴの中に色んなものを入れていく。熱さましシートとか、スポーツドリンクとかゼリーとか。カットフルーツも少し値段がするけど、パイナップルとスイカを買った。嫌いな食べ物はないって言ってたから、自分が風邪の時に食べられるものが基準になってしまったけれど、一人暮らしじゃ買い物に行くのも大変だろうと買い込んでしまってからちょっとだけ後悔する。重い。荷物も自分の行動も。
二人で手を繋いで歩いたこの道がやけに今は長く感じるし、そもそも仮病の可能性だってあるから家が近づくにつれて更に気が重くなっていく。けれど鬼屋敷が風邪を引いている可能性に賭けるしかなかった。もう一度僕から会いに行くきっかけを失いたくなかった。
それに別に鬼屋敷から言われた「友達じゃない」って言葉を間に受けているわけではない。だって僕に興味がなければ、手を繋ぐことは愚か、ハグだってキスだって、しないはずだし、「好き」って言葉だって向けられることはないから。だからなんであんなこと言ったのか、聞きたい。僕と鬼屋敷の間には線なんてないんだと、言いたい。守ってもらうんじゃなくて、隣で肩を並べたい。
マンションに到着して、チャイムを鳴らすのに何度も深呼吸をした。
──ピンポーン。ピンポーン。
チャイムが鳴って数十秒。
「はーい。あら?」
扉から出てきたのは綺麗な女性だった。予想すらしていなかった女性の登場に、体が凍ってしまったかのように足が固まって動けない。何か話さないとと思っても、口が上手く動かない。誰なんだろう。鬼屋敷の何、なんだろう。
「あ、あの」
「あらあら、まぁ!入って〜」
その女性は僕の爪先から頭のてっぺんまで見渡して、笑顔を見せては弾んだ声で僕を招き入れた。一瞬、部屋を間違えたかと思った。けれど玄関には見慣れた鬼屋敷のスニーカーがあって、間違ってはいないと確信した。ではこの女性が誰なのか。背が高く、とてもスリムな人だった。ボディラインがはっきりとわかるスポーツウェアを着ていて、長い髪を後ろで一つにまとめている。鬼屋敷のお母さんにしては少し若い気がするが、それでも彼とどことなく雰囲気が似ていた。
「えっと、これ、きやし……はるか、くんに。その、風邪引いたって聞いて」
初めて鬼屋敷のことを名前で呼んだ。そんなことにも胸が跳ねてしまう。
「やっぱり同じ高校の子ね〜!なになに?遥のために色々買ってきてくれたの?えー良い子すぎない?ありがとね。君名前なんて言うの?ここまで暑かったでしょ?リビング冷房効いてるから涼んでいきな〜あ、飲み物も出すよ」
「月宮まどかって言います……お邪魔します」
お姉さんの矢継ぎの言葉に気押されて、そのまま帰ると言う道を塞がれてしまった。買ってきたものを受け取ってくれたってことは、鬼屋敷は本当にダウンしているのだろう。そして、このお姉さんは彼の看病にここに訪れたのだろうか。
「まどかくん!良い名前だね。もー友達いるなら私に教えてくれたって良いのにあいつ。それにしてもよく家分かったね」
「先週一度お邪魔させてもらってて」
「まじ?」
先を歩くお姉さんがフクロウのように首を回転させて驚いたようにこちらを見る。
「遥が誰かを家に呼ぶなんて初めてじゃない?私が家に来るのでさえ嫌がんのに」
「そうなんですか」
「そうそう〜」と、呑気な相槌を打ちながらお姉さんはキッチンに消えていった。お姉さんと鬼屋敷の関係を自分から聞くことはできないが、やっぱり鬼屋敷が僕に少しだけ心を開いてくれていたことを知れてざわついていた心が落ち着く。
「ねぇ、遥、学校でどんな感じなの?」
「はるか……君とは、クラスが違うからあまり接点ないんですけど、放課後よく一緒に話したりしてて、すごく優しい人だなって思います」
「遥、まどか君に優しいんだ」
「はい。話しやすくて、多分波長が合うんだと思います。あ、あとバレエがとても上手くて」
「え?遥踊ってたの?」
お姉さんがまた驚いて大きな声を出し、テーブルに置かれたグラスが揺れた。
「ありさ?誰か来てんの?」
聞き慣れた声が後ろからした。
「あ、遥起きた?めっちゃイケメンのお友達があんたの看病に学校向け出してきてくれてさ」
「……来た時点で俺呼べよ」
「色んな話聞きたくてあんたのこと忘れてたわ」
あっけらかんとお姉さんはそう言い放って大きな声で笑った。僕は鬼屋敷の顔が見れなくて、そのまま席を立とうとした。
「あ、じゃあ僕もう帰ります」
「えーまどか君もう帰るの?つか遥、友達できたなら私に紹介しなさいよ」
「なんでだよガキでもねぇのに。つか月宮は友達じゃねーし」
あぁ、ほら。
心臓が張り裂けるように痛くなって、居た堪れなくなる。友達では無いのに友達って偽ってここに居座ってるみたいで途端に逃げたくなった。中途半端に浮かした腰をどうすることもできずにいれば、後ろから肩をぐう、と押さえつけられその重さにまた尻をつく。ふんわり香るのは鬼屋敷のいつもの匂いで、自分の体温より熱いものが首の周りを占めた。
「友達じゃなくて、月宮は俺が世界で一番大事で超大好きな人だから」
僕の耳元ではっきりと、そう言った。
「……あ、ぇ?」
ぎゅう、と鬼屋敷が僕を後ろから抱きしめているのだと遅れて気づいた。わけがわからなくて頭がパンクしそうだったし、なんだか恥ずかしくて体が熱い。目の前にいるお姉さん、ありささんは凄いニヤけ顔をしていて反応に困る。
「つかさ、ありさもう教室始まるから行けば?」
「あっはは、私を睨むな睨むな、別にまどか君取らないよ。良かったね、まどか君来てくれて。ふ、ふふふ、久しぶりにあんたの必死な顔見たわ」
自分の太ももをバシバシ叩きながらありささんはおかしそうに笑って、「余裕なさすぎっ、ガキじゃんかよ」って過呼吸になりそうになっていた。
「月宮、俺の部屋行こ」
こっそり僕に耳打ちをして腕を引っ張られる。
「えーじゃあさ、一つだけ教えてよ」
「なんだよ」
「あんた達、見た目正反対だけど、どうやって出会ったの?」
「どうやってって……交換日記?」
「ヒィーマジ?交換日記?今時?」
予想外の返答に息が止まりそうになっているありささんが僕に聞いてくるからこくりと頷く事しかできなかった。本当のことだから。
「本当に偶然で」
「じゃあ、運命の相手なんだ」
納得したようにありささんはそう言って、僕と鬼屋敷を交互に見た。
「遥、良かったね。こんな良い子があんたのことちゃんと見てくれて」
ありささんは、目を細めて微笑んだ。鬼屋敷に似た、どこまでも優しく愛おしさの溢れた笑みだった。
「まどか君、ゆっくりしていってね。遥喜んでるし。お邪魔虫の私はもう行くけど、今度二人でお茶でもしようよ。私にもまどかくん大事にさせて〜」
「しねーしさせねーよ」
「ケチケチすんな。あ、遥今度レッスンない時まどか君連れてスタジオ来なね」
ありささんはひとしきり笑ってそう言った後、家を出ていった。
すんなりと僕の存在を受け入れてくれた彼女は何者だろうか。僕たちに向けられた眼差しと言葉に胸があたたかくなり、呼吸がしやすくなった。
変わり映えのしない毎日だった。
一方的に怒ってしまったあの雨の月曜日以降、鬼屋敷には会っていない。それどころか世界から彼が消えてしまったのかのように彼の証が消えてしまった。廊下ですれ違うこともないし、机の中をいくら探しても世界史の教科書は見つからない。次彼に会った時、僕は彼にとって赤の他人に成り下がるのだろうか。鬼屋敷にとっては成り下がるも何もないかもしれないが。乾いた笑いが口からつい溢れ出る。
世界史の授業中、ずっと机の中に手を入れてないとわかっている何かを掴もうと指が勝手に動く。ぽっかりと空いてしまった穴をどうにか埋めようと体が動いてしまうのだろう。魔法の道具のようなあの教科書は僕を素直にしてくれた。あの教科書があれば、もう一度通じ合うことができると思っていたのに。いくら探したって、この虚しさからは抜け出せなかった。
「へくしょん」
変なくしゃみが出た。誰かが噂でもしたのだろうか。
「大丈夫?やっぱお前風邪引いたんじゃねぇの?」
「引いてないよ、元気だし」
いつもと変わらぬ昼休み、ぼんやりと窓に反射する柳瀬の顔を見て返事をした。柳瀬も自分が窓に映っていることに気づいたのか、窓を見ながら髪をいじりだす。夏だからと校則でなぜか禁止されているツーブロックにした柳瀬はご機嫌で登校をしてきたが、横を短くし過ぎて小山先生に怒られるのではないかとビクビクしている。廊下や教室で会うときは不自然に両手で頭の側面を抑えるし、体育の時は基本楠木の陰に隠れる。そんなスリルを楽しんでいるようにも見えるが、事あるごとに「俺の髪、変?」と聞いてくるのはやめて欲しい。楠木なんてここ三日くらいで聞かれ過ぎて、呆れて「いい加減気になるなら坊主にすれば?」なんてことを言い始めるし柳瀬は柳瀬で「野球部じゃないのに坊主はおかしいだろ」と怒っていた。「僧侶だって野球部じゃないけど坊主だよっていうか、僧侶も将棋部じゃん」そう続けて言う楠木も楠木で、言い争いになりそうでならない絶妙なトークを繰り広げる。二人は言いたいことを言い合うのに喧嘩にはならない。互いが互いのことを知り尽くしているからだろうか、阿吽の呼吸のような会話をする。それが羨ましいと思う。
「今日金曜だしね、後午後乗り切れば休みだし」
「そうそう、今週は模試もないし寝込めるよ」
「元気だから寝込まないけどね」
二人にそう言ってまた外を見た。今日はよく晴れている。雲ひとつなくて、おまけに風も無い。窓を閉め切っていても目覚ましのアラームのような忙しない蝉の声だけが聞こえてくる夏休み前の長閑な昼下がりだ。
「風邪といえば」
話題を切り出したのは楠木だ。いつもの淡々とした声に僕たちは無意識に視線を楠木に向けてしまう。
「鬼屋敷が謹慎処分になったんじゃ無いかって噂が出てて」
いつも唐突に出されるその名前に胸がズキン、と痛んだ。
「まじ?月曜に呼び出し喰らってたやつ?あいつ本当に何やったんだろうなーっていうか、なんでお前が知ってんだよ」
「なんでって、鬼屋敷囲碁部だし」
「「はぁ?」」
柳瀬と声が重なった。今まで何度も会話に登場した鬼屋敷だが、話題に出る度何も知りませんと言うような涼しい表情して話を聞いていた楠木が一番彼との接点を持っているとは誰も思わないだろう。
「まぁ幽霊部員だから部活に顔出してるところ見たことないけど。同じクラスの奴らがそんな話してた。三日も学校来てないから謹慎になったんじゃないかって。まあそれは噂なんだけど」
楠木の声をかき消すかのように心臓の鼓動がうるさくなる。どうしたら良いのか分からない。
「で、まぁ実際その中の一人が真相を確かめるために担任に鬼屋敷のことを聞いたらしいんだけど、夏風邪で寝込んでるだけって言われたんだとか言われてないんだとか」
「結局風邪かよ」
「最初に風邪といえばって言ったじゃん」
「言ってたねー。謹慎っていう筋はないの?」
「んーわかんないけど、謹慎の場合は掲示板に張り出されるらしいよ。注意喚起も込めてね。でもそれがないから、鬼屋敷が休んでんのとは直接の関係がない説が一番濃厚」
「へー」
都市伝説でも語るような口調で言葉を締めた楠木は話し終わって満足げに水分補給をしている。
謹慎でも風邪でも原因は僕にある。
謹慎ではないことに安堵しつつも、鬼屋敷が風邪を引いてしまったのは百パーセント僕のせいだ。
「なんか、やっぱ体調悪いかも。ほんとに」
「はぁ?まじ?」
「まじ。僕もう帰る。先生に上手く言っといてもらえる?」
「別に良いけど。貸しだかんな」
「俺が言っとこうか?柳瀬より上手くやれる自信あるし」
「楠木ありがとう。柳瀬も」
「えー俺ついで!?先に引き受けたのに!」
「恩着せがましいと嫌われるよ。月宮、お大事に」
「うるせー気をつけて帰れよな。なんかあったら連絡して」
「うん。二人ともありがとう」
二人に送り出されるようにして学校を後にした。
真昼の人通りの少ない道を歩く速度がだんだんと早くなっていく。
自分のせいにしているのは八割言い訳で、ただ心配だった。けれど、あんなこと言われて鬼屋敷に腹を立ててたはずなのに未練がましく心配してしまう自分を正当化したいだけだった。
初めて学校をサボって、高い位置にある太陽を浴びていることに少しドキドキする。鬼屋敷が絡むとやっぱり初めてのことが多い。頭の中ではごちゃごちゃ考えている癖に体が勝手に動いてしまう。
先週お邪魔したばかりの鬼屋敷の家へと迷いなく歩いていく。
途中薬局に寄って、カゴの中に色んなものを入れていく。熱さましシートとか、スポーツドリンクとかゼリーとか。カットフルーツも少し値段がするけど、パイナップルとスイカを買った。嫌いな食べ物はないって言ってたから、自分が風邪の時に食べられるものが基準になってしまったけれど、一人暮らしじゃ買い物に行くのも大変だろうと買い込んでしまってからちょっとだけ後悔する。重い。荷物も自分の行動も。
二人で手を繋いで歩いたこの道がやけに今は長く感じるし、そもそも仮病の可能性だってあるから家が近づくにつれて更に気が重くなっていく。けれど鬼屋敷が風邪を引いている可能性に賭けるしかなかった。もう一度僕から会いに行くきっかけを失いたくなかった。
それに別に鬼屋敷から言われた「友達じゃない」って言葉を間に受けているわけではない。だって僕に興味がなければ、手を繋ぐことは愚か、ハグだってキスだって、しないはずだし、「好き」って言葉だって向けられることはないから。だからなんであんなこと言ったのか、聞きたい。僕と鬼屋敷の間には線なんてないんだと、言いたい。守ってもらうんじゃなくて、隣で肩を並べたい。
マンションに到着して、チャイムを鳴らすのに何度も深呼吸をした。
──ピンポーン。ピンポーン。
チャイムが鳴って数十秒。
「はーい。あら?」
扉から出てきたのは綺麗な女性だった。予想すらしていなかった女性の登場に、体が凍ってしまったかのように足が固まって動けない。何か話さないとと思っても、口が上手く動かない。誰なんだろう。鬼屋敷の何、なんだろう。
「あ、あの」
「あらあら、まぁ!入って〜」
その女性は僕の爪先から頭のてっぺんまで見渡して、笑顔を見せては弾んだ声で僕を招き入れた。一瞬、部屋を間違えたかと思った。けれど玄関には見慣れた鬼屋敷のスニーカーがあって、間違ってはいないと確信した。ではこの女性が誰なのか。背が高く、とてもスリムな人だった。ボディラインがはっきりとわかるスポーツウェアを着ていて、長い髪を後ろで一つにまとめている。鬼屋敷のお母さんにしては少し若い気がするが、それでも彼とどことなく雰囲気が似ていた。
「えっと、これ、きやし……はるか、くんに。その、風邪引いたって聞いて」
初めて鬼屋敷のことを名前で呼んだ。そんなことにも胸が跳ねてしまう。
「やっぱり同じ高校の子ね〜!なになに?遥のために色々買ってきてくれたの?えー良い子すぎない?ありがとね。君名前なんて言うの?ここまで暑かったでしょ?リビング冷房効いてるから涼んでいきな〜あ、飲み物も出すよ」
「月宮まどかって言います……お邪魔します」
お姉さんの矢継ぎの言葉に気押されて、そのまま帰ると言う道を塞がれてしまった。買ってきたものを受け取ってくれたってことは、鬼屋敷は本当にダウンしているのだろう。そして、このお姉さんは彼の看病にここに訪れたのだろうか。
「まどかくん!良い名前だね。もー友達いるなら私に教えてくれたって良いのにあいつ。それにしてもよく家分かったね」
「先週一度お邪魔させてもらってて」
「まじ?」
先を歩くお姉さんがフクロウのように首を回転させて驚いたようにこちらを見る。
「遥が誰かを家に呼ぶなんて初めてじゃない?私が家に来るのでさえ嫌がんのに」
「そうなんですか」
「そうそう〜」と、呑気な相槌を打ちながらお姉さんはキッチンに消えていった。お姉さんと鬼屋敷の関係を自分から聞くことはできないが、やっぱり鬼屋敷が僕に少しだけ心を開いてくれていたことを知れてざわついていた心が落ち着く。
「ねぇ、遥、学校でどんな感じなの?」
「はるか……君とは、クラスが違うからあまり接点ないんですけど、放課後よく一緒に話したりしてて、すごく優しい人だなって思います」
「遥、まどか君に優しいんだ」
「はい。話しやすくて、多分波長が合うんだと思います。あ、あとバレエがとても上手くて」
「え?遥踊ってたの?」
お姉さんがまた驚いて大きな声を出し、テーブルに置かれたグラスが揺れた。
「ありさ?誰か来てんの?」
聞き慣れた声が後ろからした。
「あ、遥起きた?めっちゃイケメンのお友達があんたの看病に学校向け出してきてくれてさ」
「……来た時点で俺呼べよ」
「色んな話聞きたくてあんたのこと忘れてたわ」
あっけらかんとお姉さんはそう言い放って大きな声で笑った。僕は鬼屋敷の顔が見れなくて、そのまま席を立とうとした。
「あ、じゃあ僕もう帰ります」
「えーまどか君もう帰るの?つか遥、友達できたなら私に紹介しなさいよ」
「なんでだよガキでもねぇのに。つか月宮は友達じゃねーし」
あぁ、ほら。
心臓が張り裂けるように痛くなって、居た堪れなくなる。友達では無いのに友達って偽ってここに居座ってるみたいで途端に逃げたくなった。中途半端に浮かした腰をどうすることもできずにいれば、後ろから肩をぐう、と押さえつけられその重さにまた尻をつく。ふんわり香るのは鬼屋敷のいつもの匂いで、自分の体温より熱いものが首の周りを占めた。
「友達じゃなくて、月宮は俺が世界で一番大事で超大好きな人だから」
僕の耳元ではっきりと、そう言った。
「……あ、ぇ?」
ぎゅう、と鬼屋敷が僕を後ろから抱きしめているのだと遅れて気づいた。わけがわからなくて頭がパンクしそうだったし、なんだか恥ずかしくて体が熱い。目の前にいるお姉さん、ありささんは凄いニヤけ顔をしていて反応に困る。
「つかさ、ありさもう教室始まるから行けば?」
「あっはは、私を睨むな睨むな、別にまどか君取らないよ。良かったね、まどか君来てくれて。ふ、ふふふ、久しぶりにあんたの必死な顔見たわ」
自分の太ももをバシバシ叩きながらありささんはおかしそうに笑って、「余裕なさすぎっ、ガキじゃんかよ」って過呼吸になりそうになっていた。
「月宮、俺の部屋行こ」
こっそり僕に耳打ちをして腕を引っ張られる。
「えーじゃあさ、一つだけ教えてよ」
「なんだよ」
「あんた達、見た目正反対だけど、どうやって出会ったの?」
「どうやってって……交換日記?」
「ヒィーマジ?交換日記?今時?」
予想外の返答に息が止まりそうになっているありささんが僕に聞いてくるからこくりと頷く事しかできなかった。本当のことだから。
「本当に偶然で」
「じゃあ、運命の相手なんだ」
納得したようにありささんはそう言って、僕と鬼屋敷を交互に見た。
「遥、良かったね。こんな良い子があんたのことちゃんと見てくれて」
ありささんは、目を細めて微笑んだ。鬼屋敷に似た、どこまでも優しく愛おしさの溢れた笑みだった。
「まどか君、ゆっくりしていってね。遥喜んでるし。お邪魔虫の私はもう行くけど、今度二人でお茶でもしようよ。私にもまどかくん大事にさせて〜」
「しねーしさせねーよ」
「ケチケチすんな。あ、遥今度レッスンない時まどか君連れてスタジオ来なね」
ありささんはひとしきり笑ってそう言った後、家を出ていった。
すんなりと僕の存在を受け入れてくれた彼女は何者だろうか。僕たちに向けられた眼差しと言葉に胸があたたかくなり、呼吸がしやすくなった。

