余白で描く君との恋〜交換日記の相手は僕とは正反対の彼でした〜

「月宮!」

 僕に向かって大きく手を振っている。駅前の自販機と並んでいた鬼屋敷はその赤い機械と同じくらいの背丈だった。自販機の光を借りて暗闇の中発光している。

「あれ?なんでここにいるの?」

「今日はさ、月宮に来てほしい場所があって……行こ」

「え?こんな時間から?」

「うん。この時間にならないと誰もいなくならないから」

 僕の戸惑いを置き去りに鬼屋敷は僕の前を歩き出した。腕時計を見るともうすぐ十時になりそうだった。こんな時間に歩き慣れた道を進んでいくのはどこか非日常的で、何よりも目の前に鬼屋敷がいるのが不思議だった。

「ねぇ、学校行くの?」

「セーカイ。わかった?」

「そりゃあ、毎日同じ道通ってるから」

「はは、月宮もこの近道使うタイプなんだ」

 駅から高校へ行く道は、大通りを通っていく道とこの田んぼを突っ切っていく道がある。田んぼの方は道幅が狭いから、自転車通学の人はほとんど通らない。それによる遅くなると田んぼ道には街灯がないからほとんどの人が大通りを帰宅ルートに選んでいる気がする。それに一年に一回は誰かが田んぼに落ちて泥まみれ通学する人が出る。帰り道だったらよかったものの、急いでいる朝に起こってしまうのだ。

「鬼屋敷は?やっぱ自転車だから大通りの方?」

「うん。信号待たなくてもコンビニ行けるから。でも、こっちの方が静かだから偶にこっちから帰る時もある」

「へぇ、落ちないの?」

「田んぼに?はは、落ちねーよ」

「そりゃあそうだよね」

「月宮は?自転車乗らないの?家遠い?」

「そんなに遠くないけど、川の向こうだから橋渡らないといけなくて。橋の方まで出ていくより駅の方が近かったから……電車乗ってる間勉強とかできるしね」

 鬼屋敷の歩幅と僕の歩幅はやっぱり違って、彼に合わせると少し早歩きしないとついていけない。喋りながら背中を追っかけていると息が途切れてきた。
 いざ学校に着いてみれば、やっと呼吸が整えられた。

「門閉まってるけど、入っていいの?」

「うん。内緒だけど俺、何回か侵入してるから手筈は俺に任せて」

 どこか頼もしいその言葉に僕は頷いた。いつもの僕なら「こんなことしちゃダメ」なんて真面目な言葉をかけていただろう。けれど今は迷いなんてなかった。鬼屋敷についていけば、知らない世界に連れ出してくれるのだと疑いすらなかった。
 裏門に続くフェンスは身長ほどの高さで、鬼屋敷は難なく網目に足をかけて飛び越える。それに続くように僕も足をかけてよじ登るが、どうも鬼屋敷より足が短いようで少し苦戦する。それを見かけた鬼屋敷が手を貸してくれて、人生で一番高いところからのジャンプを無事決め、侵入に成功した。

「大丈夫?」

「大丈夫。それより、フェンスは乗り越えられたけど、どうやって中に入るの?」

 昨年の文化祭、前日にも関わらず部活動での出し物の準備が終わらず完全下校時間を過ぎた真っ暗な教室の中での作業に追われたことがあった。急いで教室棟から出ようとしたが、鍵がかかっており出られず、懐中電灯片手に見回りをしている教師に見つかり軽く説教をされた。
 今日も状況は変わってないはずだ。鍵はどこもちゃんと閉まっているはずだし、後者の中は全ての電気が消されている。それに十時を過ぎているが見回りの人がいて見つかるかもしれない。

「ジャーン。ここの鍵、緩くて簡単に外れんだよ。今日金曜日で教師はもう全員いないはずだけど、静かにね」

 しー、と唇に人差し指を当てた鬼屋敷は特別教室棟の一階の窓から身を屈めて中に入っていく。こっちは僕の方が通りやすい。静かな階段をコツコツ、と最小限の音を立てながら歩いていく。少しだけ今日ローファーで来てしまったことを悔やみながら、目の前を動く鬼屋敷のスニーカーについて行った。

 扉が開いたのは音楽室だった。机が全て後ろに片され、広々とした空間を厚いカーテンの隙間から一本の青白い月光が刺していた。

「初めて入った」

「芸術科目何取ってたの?」

「書道。すごい、広いね」

「そりゃあ月宮と顔合わせないわけだ」

 静かな教室に声が広がって吸い込まれていく。自然の明かりだけが差し込むこの教室でも鬼屋敷の姿はどこかはっきりと見えた。

「どうしてここに?」

「俺、どうしても月宮の弾くピアノが聴きたかったから。それにピアノが一番楽しいって言ってたから、見たかった」

 鬼屋敷はそう言ってグランドピアノの防塵布を取り去った。

「……音鳴らしたら、僕たち見つかっちゃわない?それに、本当に久しぶりだから上手く弾けるかわからない」

 そうは言っても、目の前にある鍵盤に触れずにいることは出来ない。近寄ってはその表面をゆっくりと撫でた。音が出ない程度に右手を滑らせて指を少しだけ沈める。その懐かしい感覚に夢中になって、左手も同じように鍵盤の上を滑らせた。

「大丈夫、かはわからないけど、見つかったらすぐ逃げよう。俺三回くらい見つかったことあるけど逃げ道完璧だか現行犯で捕まることはないから安心していいよ」

 全くもって安心できない鬼屋敷の言葉は今まで体感したことのないほどスリルがあって刺激的だった。

「鬼屋敷はどんな曲が聞きたい?」

「うーん。月宮の音が聞きたい」

 鬼屋敷の熱の籠った瞳に、僕の頭は音楽のことでいっぱいになった。
 ──鬼屋敷は僕に何を求めているのだろう。
 上手さ?それなら沢山練習したことのある曲だろうか。エチュード?それとも一度は聞いたことがある名曲?最近流行りの曲……は僕が疎いからわからないけど。
 逆に僕は鬼屋敷に何を聴いて欲しいのだろう。僕の音。楽譜通りに弾くんじゃなくて僕が好きなように弾いて良い。技術向上のためだとか、発表会のためだとか、伴奏だとか、そういった枠の中での演奏ではなく、自由な音。自分以外にその音を聴いてくれる人がいるってだけで心が弾んだ。

 椅子に浅く腰をかけて、息を吐いた。月の光が白を反射してまるで僕の指を誘導しているかのようだった。
 一音、心地の良い低い音を鳴らせばあとは勝手に指が動いていく。この曲に名前はない。今、僕の気持ちに連動して音が響く。自分でも驚くほどに優しくそして海の底へと沈んでいくように深い。柔らかい高音がそんな深海から手を差し伸べるように転がって歌う。まるで窮屈な暗がりから救い出すように。
 ふと僕は鬼屋敷を見た。
 音に合わせ、儚く舞う鬼屋敷は見惚れてしまうほどに美しかった。自然と体がそう動くのだろう。動いてしまうのだろう。爪先から指先まで洗練された動きをしていてつい目で追ってしまう。しなやかな体は自由自在に動き僕の音楽を吸い込んで形にしている。その耽美な表情はずっと僕だけを捉えていて、息もできなくなってしまう。一筋差し込んだ月光は鬼屋敷のためのスポットライトのようで、この教室は彼のためだけの舞台だった。
 ずっと、彼を見ていたい。ただただ、夢中になって指を動かした。終わってほしくない。いつまでもこの時間が続いてほしい。そんな想いを指先に乗せていく。

 あぁ、好きだな。鬼屋敷が好きだ。

 最後の一音。音が消えるまで僕は鍵盤から指が離せなかった。僕と鬼屋敷の荒い息遣いだけが教室に響き渡る。最後、鬼屋敷は僕の方へと指を伸ばし、真っ直ぐに僕を見つめていた。言葉こそないが、その手は僕のために伸ばされていた。
 その手を掴みたかった。けれど、手を伸ばしてしまったらこの時間が終わってしまう。
 静寂を切り裂いたのは、僕でも鬼屋敷でもない、第三者だった。

「やべ、見つかる」

 気づいた時には僕の右腕は鬼屋敷に掴まれていた。

「逃げんぞ」

 悪戯っぽく笑う鬼屋敷に僕も笑った。
 勢いよく扉を開けると、懐中電灯の光と共に何やらこちらに向かって叫んでいる男の声が聞こえた。僕たちを追いかけるため走っているのか、切羽詰まった声だった。僕は鬼屋敷に手を引かれて階段を降り、行きに使わなかった廊下を走り抜ける。大きな背中と揺れる髪を目に焼き付けるように、離れないように必死に走った。
 窓を開けた瞬間吹き抜けた風にやっと呼吸ができる。過去一の速度で後者を走り抜けて口の中はカラカラだった。楽しくて笑いながら走ったからだろう。

「ふふ、あははは」

「見られたかな」

「多分?もし見つかっても共犯だからね」

「キョーハン。良いね、月宮と共犯」

 追手が来ないことを息を潜めて確認しては、緊張が抜けて声を出して笑ってしまう。
僕も鬼屋敷も「共犯」という言葉の響きを口に出して確かめ合った。

「月宮、だいじょうぶ?」

 息も絶え絶えに心配そうに確認してくる鬼屋敷がおかしくてまた笑ってしまう。体育倉庫の陰に肩をくっつけてしゃがみ込んでゆっくりと息を整えた。

「うん。ちょっとびっくりしたけど、楽しかった。多分、今、人生で一番楽しい」

 そんな言葉じゃ今の気持ちを伝えるには足りなくて鬼屋敷の返答を待たずに言葉を続けた。

「ありがとう、僕を連れ出してくれて。久しぶりにピアノ弾けてすごく嬉しかった。誰かのためにピアノ弾いたことなんてなかったけど、鬼屋敷に聴いてほしいって思ってたからかな、感じてることが全部音になって出ていって気持ちよかった。僕一人だったらあんな音出せなかったから、鬼屋敷が僕のこと知ってくれて幸せ」

 それから、鬼屋敷のバレエがすごく綺麗だったこと、夜の音楽室のこと、初めてあんなに廊下を全力で走ったこと。まだまだ言いたいことは沢山あったけれど、それは鬼屋敷によって阻まれた。

「月宮」

「な、んう」

 一秒。声は鬼屋敷に吸い込まれていった。柔らかな熱が唇に触れる。伏せられたまつ毛が目の前にあって、遅れて頬に手のひらの感触が伝う。

「俺も、今が一番幸せ」

 コツ、と額が重なって至近距離で視線が絡まった。突然の出来事に頭の中は真っ白になってしまい、きゅっと結んだ口に程なくして二回目の熱が触れた。

 初めてのキス。
 夜の風が何度唇を撫でてもその熱はしっかりと残っている。時折その残った感触を指で確かめてみたりした。
 帰り道、僕たちは静かに来た道を歩いている。変わったことといえば、鬼屋敷はゆっくりと僕の歩幅に合わせて歩いていて、その右手と僕の左手は指を絡ませて間で揺れていることだ。
 夢を見ているようだが、繋いだ左手が甘く痺れて現実だと教えてくれる。お互い喋らずに、けれどもこの時間を噛み締めるようにひたすらゆっくりと歩いた。
 このままずっと道が続いていてほしい。帰りたくない。そう言ったら鬼屋敷は笑うだろうか。そう思うだけではどうにもならなくて、ぼんやりとした駅の光が暗闇の奥に見えてきた。

「帰したくねぇな」

「え」

「月宮のこと、帰したくない。離したくない」

 思わず鬼屋敷を見上げると困ったように笑っていた。

「僕だって、帰りたくないよ。もっと、鬼屋敷と一緒にいたい」

 重ねるようにそう言った。同じ気持ちだって伝えたかった。
 
「じゃあさ、俺の家くる?親いないし、ここから一駅だから歩けるし」

 鬼屋敷は立ち止まって少し照れてそう言った。けれど、繋いだ手を離すまいと強く握るから僕は握り返して頷いた。連れてって欲しかった。


 
 この辺りで一番大きいマンションの最上階に鬼屋敷の家はあった。玄関の鍵を探すまで手は繋いだままだった。心臓が破裂しそうなほど高鳴っていて、今日一番に緊張していた。鬼屋敷の家にお邪魔するのだ。好きな人の家に行くのだって初めてで、先走った気持ちだけでここまできてしまった事を後悔し始めた時には鍵が音を立てて開いた時だった。友達の家と同じわけにはいかないだろう。

「月宮?入っていいよ」

「あ、ありがとう。お邪魔します」

 開かれた扉の前で固まっていれば、優しい声が聞こえてきた。足を踏み入れ、背中で扉が閉まる。靴を脱ごうとしていた鬼屋敷が突然動きを止め、こちらに振り返った。

「っわ」

 鬼屋敷に抱きしめられた。僕は迷わずその背中に腕を回した。自分の気持ちを真っ直ぐに伝えていいのだとやっと分かったからだ。

「緊張してる?」

「……うん、すごく」

 カチコチに動かなくなった腕の中の僕を見かねて鬼屋敷が声をかける。
 上擦った声しか僕は出せなかった。そんな僕を見て鬼屋敷は優しく笑う。

「そういえば、お腹空いてない?なんか食べる?」

 「家になんかあったっけ」独り言のように呟きながらあやすように頭を撫でられ、その手は離れていった。

「あっのさぁ、鬼屋敷に触れられるのも触れるのも好きだから、沢山触っていい?……全部初めてだから上手くできないかもだけど」

「うん。嬉しい」


 鬼屋敷の家は見た目通り綺麗で広かった。大きなテレビとソファのあるリビングも、四人掛けのダイニングテーブルも、一人暮らしでは持て余しているのかどこか生活感が無かった。
 鬼屋敷が作ってくれたインスタントラーメンには卵とウインナーが入っていて美味しい。

「ラーメン何派?」

「強いて言うなら塩」

「あーぽい。鶏白湯と好きそう」

「鶏白湯も好き。僕の家の近くのラーメン屋で鶏白湯のすごい美味しいお店があるからよく行くよ」

「えー美味そ。今度一緒に行こうよ」

「うん、行きたい。鬼屋敷は?」

「俺?本気で悩むかも」

 一度箸を置いて頭を抱える鬼屋敷は呪文のように何かを唱え始める。一番を決めるのは僕だって難しい。正直いえば、今食べてる味噌ラーメンが一番美味しく感じているし。数十秒悩んだ挙句、醤油と豚骨が同票だと結論づけるのを麺を啜りながら僕は見ていた。
 
 お風呂を先に借りて、鬼屋敷の大きいTシャツを身に纏った。肩幅が違うのか、袖が半袖にしては長いし、元々ゆったりと着るものだからか裾は尻の下まで来ている。
 鏡を見れば湯気立つ自分がいて、自分から鬼屋敷と同じ匂いがすることに気づいてまた赤面した。水が滴る前髪をタオルで拭いて、そのまま顔を包み込む。一人になると嫌でも冷静になってしまうし、鬼屋敷を前にするとどうしたって乱れてしまう。心臓がバクバクして、頭がふわふわして、夢の中にいるような感覚。自分が自分じゃないみたいに制御が効かなくなる。鬼屋敷のことを好きだと自覚してしまったから、この症状がなんなのか心のどこかでははっきりと分かっているが、その気持ちをどうにか押し殺そうともう一人の僕が必死に理性を働かせていた。
 そう、僕の悪い癖。感情で突き進んで良い所にブレーキがかかってしまって、突き進んだとしてもこうやって一人自分の突飛な行いを反省し出す。
 小心者なのだ。相手の顔色ばかり窺って、失敗を常に恐れている。僕が、鬼屋敷を好きだと言う気持ちだけを押し付けて、相手にその気持ちがなかったら迷惑なだけだ。鬼屋敷は僕のことを友達としか思ってないかもしれないし、普段スキンシップが多い方なのかもしれないし、こういう好意を持たれた人間への扱いが上手いだけかもしれない。
 まとまらない思考を薙ぎ払うように火照った頬を軽く叩いて、鬼屋敷の自室へと冷たい廊下を歩いていった。

「上がりました。先に使わせてくれてありがとう。服も、ご飯も、布団も」

 僕が風呂に入っている間に鬼屋敷のベッドの隣に布団を敷いてくれていた。

「いーえ。ゆっくりできた?」

「うん」

「水、持ってきてあるから好きに飲んで」

「ありがとう」

 鬼屋敷に丁寧にもてなされてしまい、何をすべきなのか分からず彼の隣にちょこんと座った。

「服大きかった?」

「思ったより?身長ってまだ伸びるよね?」

「月宮別に背が低いわけないと思うけど。女の子と並んだら特に、すらっとしてるなって見てた」

「え、女子?いつ?」

「いつか忘れたけど、購買でパン買ってる時に見かけた。なんとなくさ、学校にいる時月宮いねぇかなぁって探しちゃうんだよね。そしたら偶々女子数人に囲まれてるとこ見てさ、月宮一切にニコリともしないし何話してんだろって思ってた。モテんね、月宮くん」

 こて、と僕の肩に頭を預けた鬼屋敷はそう言った。彼が見たのはきっと、授業でわからない所があったから教えてほしいと言った頼み事をされて上手く断る口実が見つけられない僕だろう。

「モテるってのは鬼屋敷のことでしょ。柳瀬モテないから勝手に鬼屋敷のこと僻んでたし」

「はは、俺は俺の好きな人にだけモテればそれで良いんだけど、ね?」

「……鬼屋敷はさ、身長高い人が好き?低い人?」

「んー考えたことなかったけど、月宮くらいが良いかな。抱きしめるのにちょうど良いし」

 鬼屋敷は、僕の首筋を嗅いでは「俺と同じ匂いがするね」と言って話を変えては徐に立ち上がった。

「俺も風呂入って来る。テレビ、好きなの見てて。……勉強でも良いけど」

 ニヤリと笑って、部屋を出ていった。


「あぁぁーーー」

 気の抜けた声が部屋の中に響いた。
 心臓に悪い。悪すぎる。ボス、とベッドにもたれ掛かって首に手を当てる。
 ──身長は僕くらいって、女子じゃ無理じゃん!
 大きな声で叫びたかったけれど、心の中になんとか留めた。そもそも借りたTシャツが思ったより大きかったって話だったはずなのに、何を聞いてしまったのだろう。
 勉強なんて集中できるはずもなく、でもこの静寂の中では心が休まらないから気を紛らわせるためにもテレビを付けた。
 金曜の深夜にやっている映画の番組が流れる。洋画の吹き替えは海外特有の言い回しを日本人に馴染みのある言葉に置き換えるから意味が変わってしまうこともあるだろう。訳されてしまえばそこに込められた思いや意味は伝わらない。直接伝えられた言葉をそのまま受け取るのが一番良いだろう。
 寄せては返す波。足の甲に海水がかかる程度だが、寄せる度に足元の砂を奪っていって体が沈んでいくような感覚に陥る。両足でしっかりと立っているのに不安になる。寄せられた波は僕を誘うくせに、すぐに引いていってしまうから。
 鬼屋敷に触れられると嬉しい。その話し声が心地良い。押し寄せられる感情に溺れてしまいたい。
 好きだ。
 僕に向けられる柔らかい笑顔も、優しさも、僕とは正反対の性格なところも、全部好き。
 ベッドに顔だけ埋めてまた唸る。冷静になんてなれない。ここは鬼屋敷の家で、鬼屋敷の服を着て、鬼屋敷の匂いに包まれているわけだから、どうしたって考えてしまう。流れ続ける映画の音だけを聞いてひたすら鬼屋敷のことを考えた。


「お待たせーって寝てる?」

「寝てない」

 くぐもった声を出すが顔を上げるタイミングがわからない。風呂上がりの鬼屋敷とか、直視できそうにない。

「暇だった?」

「忙しかった……すごく」

「はは、なんだそれ」

 鬼屋敷の声が近づいてきて、隣に腰掛けたのだと察知する。

「月宮の髪さ、すごいストレートだよね。乾くの早い?もうサラサラなんだけど」

「生まれつき。でもヘアアレンジとか絶対できない」

「セットする手間省けてサイコーじゃん。なぁ見て俺の」

 鬼屋敷の声に釣られてやっと顔をあげた。まだ濡れている髪は左右にぴょんぴょん跳ねている。

「すげー癖でしょ?朝大変なの」

「かわいい」

「まじ?えーかわいい?俺?」

 前髪を後ろに持っていってオールバックにしているため、いつもより顔がはっきりと見えた。本当に端正な顔立ちをしている。巫山戯るように鬼屋敷が迫ってきて、逃げられず、押し倒されるようにベッドに上半身を預けた。
 ぽた、ぽた、と落ちてくるのは鬼屋敷の髪の先から溢れる雫で、冷たいそれが一つ、僕の頬に落ちた。

「……かわいいし、かっこいい。僕、鬼屋敷のことが好きだから、世界で一番魅力的に見えて困る」

「俺も。月宮のことすげー好き。ねえ、目逸らさないでこっち見て」

「ん」

 どちらともなく、磁石のように互いに寄せられてキスをした。行き場のなくなっていた手を取られて指が絡まる。熱かった。なれないキスは息が吸えなくて苦しくて、それでも離れたくなくて、欲しくて、ひどくわがままなものだった。

「はあっ、やば、あたまくらくらする」

「ごめん。俺に夢中になってくれるのが嬉しくて、やりすぎた」

「ぎゅってしていい?」

 広げられた腕の中に飛び込んで、強く抱きしめた。へへ、と嬉しそうに笑えば同じ強さで締め付けられて、また笑い声が漏れた。

「あ、映画見てたんだ」

 テレビがついていることに気づいた鬼屋敷がそう言った。

「なんか付けたらやってた」

「へぇーどんな話?」

「うーんちゃんと見てないんだけど、バレリーナが実は殺人鬼?で、結構銃バンバン打ち込んでた。昼の顔と夜の顔が違う的なやつなのかな」
 
「面白い?」

「どうだろう。物語を面白く感じるかどうかって、主人公に共感できるかどうかが大きいから」

テレビの前に肩を寄せあって座った。くっついている右側があたたかくて、無意識に顔を傾けてしまう。

「殺人犯と月宮はかけ離れてるもんな」

「うん……でも、スリルを求める感じとか、何かによって快楽や救いを求める感じとか、相手を憎んだり愛したりする感覚はちゃんと見れば一緒って思えるかも。大人気の映画にも必ず批判する人が居るのは、その物語や主人公に共感できなかったからだろうね」

気づいたらつらつらと言葉を重ねていた。

「なんか凄いね、月宮は」

「屁理屈みたいなもんだよ」

斜に構えた事を言ってしまって、つまらない人だと思われてしまったかもしれない。

「もっと早く言おうと思ってたんだけど、鬼屋敷って本当にバレエ好きなんだね」

「そう見えた?」

「うん。僕の言葉では上手く言葉に出来ないんだけど、なんて表現したら良いんだろう」

今日一日があまりに濃すぎて夜の音楽室での出来事が昔のことのように思えてしまう。
映画の主人公のバレエダンサーと重ねて思い出した。
終演後の真っ暗の劇場。観客は誰も居ない。主人公は音もなく、舞台の上で静かに舞っている。笑っているのに、涙が絶えず頬を流れる。転んで嗚咽を漏らし、それでも床についた掌に力を入れて立ち上がる。悲しい舞だった。美しいけれど、鬼屋敷のそれとはかけ離れたものだ。
──鬼屋敷のはもっと、こう……

「天使みたいな美しさ」

「え?」

思わず声に出ていた。

「天使みたいだなって思った。あ、天使っていうのは僕が見た事のない存在の中で一番純粋で美しいものの喩えなんだけど。初めて世界史の教室で喋った時もそう思ったんだけど、踊ってる姿を見て思ったよ。鬼屋敷が伸ばす指の先には楽園がありそうだった。ずっとずっと見ていたくて、目に焼き付けたくて、息するのも忘れちゃうくらい、綺麗だった」

「綺麗とか純粋とか、俺から一番かけ離れた言葉だと思ってた」

少しして鬼屋敷がそう言った。

「僕の目には鬼屋敷がそう映ってるよ。目だけじゃなくて心にも」

「……ほんと、月宮だけだよ」

大きな手のひらで顔を覆って鬼屋敷は照れた。

「バレエ辞めたのはさ、誰も俺の事を見てくれなかったからなんだよね。両親は仕事が忙しいから一人でいることが多かったんだけど、毎日コツコツ練習して一番上手くなったら褒めてくれるかな、とか俺を認めてくれるかな、とか一緒にいる時間増えるかなとかガキなりに期待してたよ。でも実際、発表会にすら来たことは無かった。一番見て欲しい人に見られないなら誰かの前で踊る意味とかあんのかなって思ったりしてさ」

テレビを見ながら鬼屋敷は静かに話す。横顔にシーンが変わるごとに光が反射していた。

「舞台に立つのが嫌で辞めた。ずっとバレエやってたのはやっぱり根底に楽しいって気持ちがあったからだし、すっぱり辞めることも出来なくて、多分色々察した叔母さんが生徒じゃなくてアシスタントって立場を与えてくれてバレエに触れ続けられる機会をくれたんだと思う。まぁ、たまに静かな広い場所で踊りたくて夜学校忍び込んだりするんだけどね」

ひとりでに笑った鬼屋敷がこちらを向いた。

「だから、今日はすごく楽しかった。月宮が俺を見てくれて嬉しかった。ピアノも聞けて本当に良かった。月宮の音は優しくて柔らかくて、包み込んでくれるからさ、きっと俺の知らない部分が引き出されたんだろうね」

優しい顔をして彼は言う。悲しまないで生きる為に偽ってるだけで、きっと、ずっと、どこまでも優しくて愛情深い人なのだ。
気づいたら鬼屋敷の頬に触れていた。輪郭を確かめるように指を滑らせて何度かなぞる。

「僕が独り占めしちゃいたい」

ぽっかりと空いた心の穴も、表面にできた擦り傷も、癒す事が出来なくたって覆って世界から隠したかった。

「ほんと?俺の全部月宮にあげる」

ぐりぐりと、掌に頬を擦り付け僕の肩に顔を埋めた。

「僕も、ぜんぶ、んぅっ」

甘えるようにキスされて言葉は消されてしまった。