向夏
窓から流れ込む風がじっとりとした熱気を運んでくる季節。そこに爽やかさなどなく、ただただ暑い。比較的日が当たらないこの特別教室棟もしっかりと気温が上がってて、なのに空き教室だから冷房は付いていなくて、扇風機だけなのは如何かと思う。
《暑すぎる。冷房無いのクソ》
《抗議したい。あとアイス食べたい。ソーダかレモン》
《ソーダがいい。中セン、絶対薄いハンカチじゃ汗拭いきれない》
《なんか今日も蝶ネクタイ》
《赤?見た。なんかそんなペンギンいたよな》
赤い蝶ネクタイをつけたペンギン……なんのキャラクターだろ。授業終わったら調べよう。
他愛もないこの交換日記は季節が移ろい行く中、今も続いている。今時スマホじゃなくて、手書きでやり取りをしている人はほとんどいないだろう。僕は相手の連絡先はおろか、未だにこの交換日記の相手が誰なのかすら分からない。まあ、SNSをあまり使わない僕からしたら、こうやって週に三回、世界史の授業の時にやりとりできるだけで十分楽しい。毎日、相手の返事をソワソワしながら待つのも、なんて返事しようか考えるのも僕にとって初めてのことだった。
それにしても連絡先を手に入れることはそんなにも心動かされるようなものなのだろうか。
昨日、帰りに昇降口へ向かう階段の踊り場で女の子が泣いていた。友達らしき女の子に慰められていたがどうも連絡先を聞いたのに断られてしまったそうだ。まぁまぁな声量で慰められていたため、聞こうとしなくてもそんな内容が聞こえてきたが、「もー鬼屋敷のやつ!」と続く怒っているような声に僕はつい歩くスピードを緩めてしまった。きっとその女の子は鬼屋敷に少なからず気があったのだろう。そして鬼屋敷はなぜ彼女の申し出を断ったのだろうか。彼女がいるから?意外と一途なのか?いや彼女が束縛しているのか?それとも僕みたいに人付き合いが苦手なのか。……最後のが一番可能性が低いな。
鬼屋敷。この教室に入る度に思い出してしまう。あの微笑みも、伸びをする姿も、声も、全部鮮明に覚えている。思い出してはこうやって、知らない彼に思いを馳せてしまうのだった。
「暑い。暑すぎる」
「またそれ」
今にも倒れそうなゾンビのような体勢ででダラダラと廊下を歩く柳瀬の後ろをいつものように歩く。
「暑い以外逆に言葉が出てこない」
「早く教室戻ろう。冷房効いてるから」
「昼に自販機で買った炭酸がぬるかったんだけどあれ、入れたばっかりだったのか熱くなっちゃってるのかどっちだと思う?」
「俺も体育の後紙パック買ったけどぬるかった」
「楠木も?まじ?涼しい顔して飲んでおいてアレぬるかったの?俺、お前が飲んでんのが冷たそうで羨ましかったから、死を覚悟して昼買いに行ったのに」
柳瀬は振り返り楠木の顔を見て大袈裟に驚いている。柳瀬の表情のバリエーションは尽きないのか、また見たことのない表情をしている。一方楠木は全く表情を変えることはない。
「てかさ、自販機が外付けなのが悪くない?室内に置けばよくない?てか飲み物買うのにわざわざ外出ないと買えないのおかしくない?こんなに暑いのに!こんな暑い中俺はさ、死を覚悟して俺は」
段々とムキになって熱弁する柳瀬の後ろから、見知った顔が近づいてきた。
「あ」
気づいたら声に出ていた。すれ違う時一瞬視線が重なった、気がした。
少し遅れて柳瀬も楠木も僕の視線の先を追ってそれから彼の姿が見えなくなるまで黙っていた。
「あ、ってお前、鬼屋敷と知り合いだったわけ?」
「えっ、ち、違うけど。柳瀬前に鬼屋敷にぶつかって怖がってたから」
「そうだった、そうだった。忘れてたわ」
「またぶつからなくて良かったな。二回目は流石に命の保証はない」
「だよなぁ。見た?アイツの顔」
見た。左頬に痣ができていて、目の下には血の滲んだ痕があった。見てしまった。
まだできたばかりの傷のようで痛々しい。僕は柳瀬の言葉にこくりと頷くことしかできなかった。
「喧嘩かな」
「やっぱヤベェ奴と繋がってんのかな。顔の傷だけで済んでるってことは勝ったんかな」
「痴話喧嘩の可能性もあるよな」
「うわーありそう。でも、女子にあんなにひでぇ傷つけられるか?普通」
「確かに……月宮どうした、さっきから黙って」
「なんでもない」
「ま、知ったところで俺たちには関係ねーしどうでもいいか」
あっけらかんと柳瀬は言って、鬼屋敷よりも大事なのは自販機だからと線を引いた。
なんでもなくはない。飲み込んだ言葉と共に心臓に何かが刺さって痛かった。想像することはいくらだって出来たって、僕は本当のことを知ることができない。「俺たちには関係ない」という柳瀬の言葉が頭の中で反芻する。柳瀬や楠木と鬼屋敷は確かに違う。僕たちの普通と彼の普通はきっとどこか違う。違うと決めつけてそこに無意識に線を引いている。そして僕はその線を越えることができない。それが今、とてつもなくもどかしくて堪らない。知りたい。僕は鬼屋敷の事を知りたいのだ。
という、先走った気持ちだけでやってしまった。
今、僕の手には新品の絆創膏がある。
塾での自習中、勉強に身が入らず、悶々とした気持ちを発散するように帰り際寄ったコンビニで気づいたら買っていた。別に渡せるわけも無いのに何をやっているんだろう。コンビニなんかに寄ったから、電車を一本逃してしまってあと三十分ホームで待たなきゃ帰ることすらできない。誰もいない、薄暗いホームに立って肩を落としてため息を吐いた。
無人のこの駅には改札はなく、ICカードタッチ機のみ。駅の外には自販機があるが、階段を登った先にあるホームには何もない。時計すらない。蛍光灯も一本チカチカと点滅している。
時刻は午後九時三十三分。次の電車は十時四分だ。何もすることがなくて、唯一設置されている木造の軋むベンチに腰掛けて線路のその先に視線を向けた。
聞こえてくるのは絶え間ない虫の声。時折木々の葉が音を立てる。この時間になっても気温は下がらず、それでも昼間に比べて呼吸しやすい風が吹き横髪が顔にかかった。手で払い除けながら、富士山に向かって伸びる街明かりを眺めた。この時間になると空の色と富士山の色は一緒になって見分けがつかないが、麓を照らす住宅街の灯りでなんとなくの輪郭が見えてくる。それにこの時期は光の道ができて山頂に向かって細い光が繋がって見える。
ここから見る景色が好きだ。自分しか知らない、宝物のようだった。
程なくしてコツ、コツ、と階段を登ってくる音が近づいてくる。
この時間に誰だろうか。うちの学校の生徒はほとんどがチャリ通だから、朝同じ制服の人を見かけることはあっても、帰りはバラバラでほとんど見かけることはない。サラリーマンだろうか、夜遅くまで大変だな、なんて思いながらその足音が誰のものなのか気になって階段の方へと視線を向けた。
「「あ」」
声が重なった。
相手の驚いて大きく見開かれた瞳には僕の驚いた顔が映っていることだろう。
時が止まってしまったように数秒互いに動きが止まる。するり、と力の抜けた指先から持ちっぱなしになっていた箱が音を立てて転がった。
「あ」
僕は彼から視線を外し、急いで地面に落ちた箱を拾い上げてはまたベンチに座り直した。
「こんな時間まで何してたの?」
彼はそう言って、当たり前のように僕の隣に腰をかけた。僕は無意識に少しだけ端に寄る。
「……塾。自習しててその帰り。……その、鬼屋敷は?」
僕は鬼屋敷の顔を見れずに真っ直ぐ無人の反対ホームを見ながら答えた。
「名前、知ってるんだ」という小さな声が聞こえた気がする。
「俺?俺はーバイト」
「バイト!?」
続くその返答に思わず勢いよく顔を覗いた。
「え、なに?」
「それって、ヤバいやつ?」
「ヤバいやつって。君、俺の変な噂信じてる?」
今度は鬼屋敷が探るような目で僕の顔を覗いてくる。ジリジリと押されるような威圧感に首だけが後ろに引いていく。
「噂……でもほら火のないところに煙はなんちゃらって言うし」
そう言いながら鬼屋敷の顔をしっかりと見れば頬には既に絆創膏が貼られていた。その綺麗な顔につけられた傷の理由とかなんのバイトしてるのかとか聞きたいことは沢山あるけど、鬼屋敷を前にするとうまく言葉が出てこない。
「ていうか、バイト、校則違反だから断れない感じのやつかと思っただけ」
「はは、バイト禁止なの忘れてた。別にヤバイやつじゃねぇよ。叔母さんの手伝いって感じ。あ、俺の両親今海外出張中でさ、一人暮らし認めてもらう代わりの手伝いってだけ」
「そうなんだ」
「あ、今安心したでしょ」
鬼屋敷の言葉にホッと胸を撫で下ろしたのを見透かされてた。ニヤリと笑う鬼屋敷の後ろから吹く強い風が僕の心を突き抜けた。
「別に。鬼屋敷の叔母さんは何やってる人なの?……答えたくなかったら答えなくて大丈夫だけど」
「バレエ教室だよ。子どものための。あの人元プロバレエダンサーだから」
「すごい。じゃあ鬼屋敷も?バレエ教えてるの?」
「教えるっていうかアシスタントだけどね」
「へぇ」
「似合わないっしょ、こんな見た目だし」
僕の反応に慌てて鬼屋敷が付け足した。感心というか、納得してしまって薄い反応になっていたのだろう。あの日、世界史の教室で鬼屋敷と言葉を交わした日、眠たそうな体を伸ばす仕草がとても綺麗だった。姿勢が良く、骨の位置が僕とは違うのではないかと考えたり、体感体格の良さから何か運動をやっているのかと考えたりしていたから。
というか、子ども向けの教室に鬼屋敷がいるなんて初恋泥棒すぎないか。
「めっちゃ似合ってる」
「ほんとう?」
「ほんと。前に教室で会った時、鬼屋敷のこと綺麗だなって思ってたから。ってその、変な意味じゃなくて、そのまんまの意味なんだけど、なんか、バレエやってて納得しったってだけで」
言い訳のように言葉を連ねて一人赤くなる。あぁ間違えた。今すぐ顔を隠したい。けれどそんな僕の言葉に鬼屋敷は「嬉しい」って言うから顔を背けることなんてできなかった。
「そんなこと、初めて言われた」
照れているのか鬼屋敷は口元に手を添えた。少し泳いでいる視線になんだか同じ気持ちのような気がして、こっちまで嬉しくなってくる。
「ていうかさ、さっきからずっと思ってたんだけど、それ何持ってんの?」
話題を逸らすように鬼屋敷が指差したのは僕の手の中の箱だった。隠すタイミングを失ってずっと両手で握ったままになっていた。
「あ、これ」
「絆創膏?」
手の中を覗き込んだ鬼屋敷が僕が言葉を発する前にそう言って、行く手を阻む。一番触れられたくないものだったし、誤魔化しの文言は用意されていない。
「えっと、僕よく怪我するからさ」
「どっか怪我してんの?見してみ?」
先ほどよりも少し低い心配そうな声で言われて嘘をつくのが心痛い。それに長袖のシャツの腕を数回捲った鬼屋敷と違って、僕は半袖で腕丸出しだし、露出部分は傷一つ無いのだから見せるも何も無い。
「今はどこもしてなくて、その」
「その?」
今怪我してないのに、絆創膏握りしめている状況の不可解さは僕が一番わかっている。使わないならその自分の横に置いてある鞄に仕舞っておけばいいのだ。
まだ、鬼屋敷の頬に絆創膏が貼られていなければ良かったのに。そうしたら苦しさは残るが、絆創膏自体の出番は果たすことができたはずだ。そもそも鬼屋敷に会う予定なんてなくて、この絆創膏を見られるはずじゃなかった。もっと言えばこの絆創膏は自分のためのものじゃないし。
言葉の続きを鬼屋敷に急かされ何か言わなければこの息苦しい沈黙から逃れることはできない。
「その、これは、あの……今日学校ですれ違った時、顔怪我してるの見ちゃって、それで気づいたら買ってて。あ、でも、なんも考えなしに買っちゃっただけで、普通に考えて僕鬼屋敷と関わりないし、渡せるはずも会えるはずもきっかけも無いって分かってたんだけど、放課後とか自習の間とかぐるぐる考えちゃって、痛そうだな、大丈夫かなって……」
語るに落ちる。まとまらない気持ちをまとまらないまま全部吐き出してしまった。それも、本人に。
「ごめん。なんか僕、本当に変な奴でごめん」
変な汗が出てくる。ヤバイ奴って絶対思われた。こんなことしたの初めてだけど、もうここまで言ってしまったら弁明の余地など残されてない。気にしないで、とかそんな言葉では取り返しもつかないだろう。あぁ、ただ、消えたい。今座っているベンチがパカって開いて奈落の底に落ちたい。絶対落ちたい。
自分では事態を収集することができなくて、そっと目を伏せて地面の凹凸を見つめた。返事がないのが怖い。
それに、だ。僕が絆創膏を渡さなくたって、傷の手当てをしてくれる人が鬼屋敷の周りにいるって事実をホームで彼を見た瞬間に悟っていたのに、なんでこんなどうでもいいことを言ってしまったのだろう。
「あー痛い、痛いかも」
鬼屋敷の棒読み声に顔を上げた。
左頬を大袈裟に押さえている左手に僕の視線が追いついたところでその手は外された。見えたのは絆創膏の外された生傷で、鬼屋敷の行動に思考が追いつかない。
「それ、俺に貼ってよ」
「え」
「ココ、早く貼ってくんないと痛いなー」
僕の目をじっと見て強請るように少し首を傾げる鬼屋敷に言われるがまま、新品の箱を開けそこから一枚取り出した。
血は既に止まっているようだが、傷部分にパッドを乗せる。鬼屋敷は僕が触れると目を閉じた。伏せられたまつ毛の長さに気を取られつつ、慎重に貼ろうとするも手が震えてなかなか指の動きが定まらない。
「……まだ?」
「もうちょっと、まって、がんばってるから」
「ん。がんばって」
長い前髪が巻き込まれないように、ピシっと張って絆創膏が浮かないように優しく指の腹で押さえた。
「できたよ、っわ」
頬から指が離れる前に鬼屋敷の手が僕の右手を包み込んだ。柔らかな肌の感触と鬼屋敷の体温に包まれる。すり、と僕の手のひらに頬を擦り寄せ鬼屋敷は目を開いた。
「ありがと、月宮」
「僕の名前」
「知ってるよ。月宮まどか、いい名前だね」
聞きたいことが沢山ある。鬼屋敷を前にすると、聞きたいことで溢れかえる。知りたいことが増えていく。
「痛くない?」
「痛くないよ。月宮が絆創膏貼ってくれたから」
鬼屋敷の優しさに僕は言葉が詰まった。
「この傷、どうしたの?」
「んーなんか、昼飯屋上で食ってたら知らない三年の男が当然殴りかかってきて『俺の女横取りすんな』って。殴ってっから言うんじゃなくて、用件言ってから殴ってほしいよマジで」
「鬼屋敷は?殴り返したの?」
「いや?無視した。心当たり無かったし、やり返したら多分向こうじゃなくて俺が教師に怒られる羽目になるしな。目つけられてるから」
相手の三年の男は子分みたいな友達みたいなやつに抑えられて屋上から退場したらしい。数分後、その子分みたいな友達みたいなやつが再び鬼屋敷の前に来て、「あいつの彼女が一方的に鬼屋敷のことが好きになっちゃってそれを知って激怒している」と説明して謝ってきたという。
この場合だと、痴話喧嘩と検討をつけた楠木の推理が一番近い。
それに鬼屋敷が人を傷つける人間じゃないことを知れて嬉しかった。
「鬼屋敷はいい人だね、屋上は立ち入り禁止だけど」
「ははっ、俺ダメダメだな」
鬼屋敷は僕の手を握ったままそう笑った。
「あ、絆創膏いる?替えにも使うだろうし、これあげる。多分だけど、僕より怪我多そうだし」
差し出した箱を見て鬼屋敷は首を振る。
「これ、月宮が持っててよ。で、もし俺がまた怪我したら月宮がこうやって俺に貼って」
熱い。僕は今どんな顔をしているのだろう。心臓の音が重なっている手のひらから伝わってしまっているのではないだろうか。自分の心音が耳から聞こえてきて、ドクン、ドクン、と脈打つ音はいつの間にかガタン、ゴトン、という電車の音に変わっていった。
待ちに待った電車の到着に体が離れた。車内に乗り込んでも人っこ一人おらず、一車両貸切状態の中隣り合って座る。
「俺、今日超ラッキーだったな」
「え、殴られたのに?」
「殴られたのもだよ。俺いつもチャリ通なんだけど、自転車漕ぐ気分じゃねーって思い立って電車にしたんだよね。バイトも行きたく無かったけど、行って良かった」
「良かったの?」
「うん。月宮に会えたから」
そう言って鬼屋敷はにっこりと笑った。
「僕もだよ。鬼屋敷と話せて良かった」
「あぁ、そういえばさっき月宮が俺たちに接点ないって言ってたけどさ」
──間もなく梅木ー梅木です。お降りの際は、一番前の車両のドアからお降りください。
「ん?なに?」
「俺と月宮の接点」
そう言いながら鬼屋敷が降りる準備を進める。
「あ、うん」
「教科書」
目の前に立った鬼屋敷が僕に顔を近づけるように腰を屈めてそう言った。
「また、世界史の授業で」
そう言い残して開かれた扉から鬼屋敷はこちらに手を振って出ていった。僕は鬼屋敷の背中で扉が閉まり、電車が次の駅に向けて発車したところでやっと「また」と言葉にする。
「あーーー」
「教科書」「世界史の授業」。鬼屋敷の声で再生される二つのワードに僕は低い声を吐きながら勢いよく後頭部を窓にぶつけた。
神様とやらはやはりいるのだろうか。僕たちを見ているのだろうか。
超ラッキーだったのは僕の方だろう。ここ一ヶ月夢中になっていたものが一本の線で繋がってしまったのだ。
気になっていた教科書で交換日記をしていた相手は同じく気になっていた鬼屋敷遥だったってことだ。信じられないが辻褄は合う。
教科書を返しに行った日、鬼屋敷は僕が教科書を返すのを見て「用が済んだ」と言っていた。待っていたのだろう、僕が来るのを。でもなぜあの日の放課後に会ったのかはわからない。世界史の勉強を家でしたくて教科書を持って帰ろうと思ったのかもしいれないし、僕と同じように交換日記の相手が誰だか知りたくなったからかもしれない。そんな淡い期待すら湧き上がってくる。全ては偶然に過ぎないのに、その一つ一つに意味があるような気がしてならないのだ。だって、あんなに無駄に買ってしまったと思っていた絆創膏が大活躍してしまった。まだ右手に残っている鬼屋敷の体温がじんわりと心までもを温めるようだった。
知りたかった鬼屋敷の一面を知れて嬉しい。「また」と言う言葉を僕に言ってくれるのが何より嬉しかった。
一ヶ月前までぼんやりと、ただこなすだけの毎日ががらりと変わっていくような気がした。
窓から流れ込む風がじっとりとした熱気を運んでくる季節。そこに爽やかさなどなく、ただただ暑い。比較的日が当たらないこの特別教室棟もしっかりと気温が上がってて、なのに空き教室だから冷房は付いていなくて、扇風機だけなのは如何かと思う。
《暑すぎる。冷房無いのクソ》
《抗議したい。あとアイス食べたい。ソーダかレモン》
《ソーダがいい。中セン、絶対薄いハンカチじゃ汗拭いきれない》
《なんか今日も蝶ネクタイ》
《赤?見た。なんかそんなペンギンいたよな》
赤い蝶ネクタイをつけたペンギン……なんのキャラクターだろ。授業終わったら調べよう。
他愛もないこの交換日記は季節が移ろい行く中、今も続いている。今時スマホじゃなくて、手書きでやり取りをしている人はほとんどいないだろう。僕は相手の連絡先はおろか、未だにこの交換日記の相手が誰なのかすら分からない。まあ、SNSをあまり使わない僕からしたら、こうやって週に三回、世界史の授業の時にやりとりできるだけで十分楽しい。毎日、相手の返事をソワソワしながら待つのも、なんて返事しようか考えるのも僕にとって初めてのことだった。
それにしても連絡先を手に入れることはそんなにも心動かされるようなものなのだろうか。
昨日、帰りに昇降口へ向かう階段の踊り場で女の子が泣いていた。友達らしき女の子に慰められていたがどうも連絡先を聞いたのに断られてしまったそうだ。まぁまぁな声量で慰められていたため、聞こうとしなくてもそんな内容が聞こえてきたが、「もー鬼屋敷のやつ!」と続く怒っているような声に僕はつい歩くスピードを緩めてしまった。きっとその女の子は鬼屋敷に少なからず気があったのだろう。そして鬼屋敷はなぜ彼女の申し出を断ったのだろうか。彼女がいるから?意外と一途なのか?いや彼女が束縛しているのか?それとも僕みたいに人付き合いが苦手なのか。……最後のが一番可能性が低いな。
鬼屋敷。この教室に入る度に思い出してしまう。あの微笑みも、伸びをする姿も、声も、全部鮮明に覚えている。思い出してはこうやって、知らない彼に思いを馳せてしまうのだった。
「暑い。暑すぎる」
「またそれ」
今にも倒れそうなゾンビのような体勢ででダラダラと廊下を歩く柳瀬の後ろをいつものように歩く。
「暑い以外逆に言葉が出てこない」
「早く教室戻ろう。冷房効いてるから」
「昼に自販機で買った炭酸がぬるかったんだけどあれ、入れたばっかりだったのか熱くなっちゃってるのかどっちだと思う?」
「俺も体育の後紙パック買ったけどぬるかった」
「楠木も?まじ?涼しい顔して飲んでおいてアレぬるかったの?俺、お前が飲んでんのが冷たそうで羨ましかったから、死を覚悟して昼買いに行ったのに」
柳瀬は振り返り楠木の顔を見て大袈裟に驚いている。柳瀬の表情のバリエーションは尽きないのか、また見たことのない表情をしている。一方楠木は全く表情を変えることはない。
「てかさ、自販機が外付けなのが悪くない?室内に置けばよくない?てか飲み物買うのにわざわざ外出ないと買えないのおかしくない?こんなに暑いのに!こんな暑い中俺はさ、死を覚悟して俺は」
段々とムキになって熱弁する柳瀬の後ろから、見知った顔が近づいてきた。
「あ」
気づいたら声に出ていた。すれ違う時一瞬視線が重なった、気がした。
少し遅れて柳瀬も楠木も僕の視線の先を追ってそれから彼の姿が見えなくなるまで黙っていた。
「あ、ってお前、鬼屋敷と知り合いだったわけ?」
「えっ、ち、違うけど。柳瀬前に鬼屋敷にぶつかって怖がってたから」
「そうだった、そうだった。忘れてたわ」
「またぶつからなくて良かったな。二回目は流石に命の保証はない」
「だよなぁ。見た?アイツの顔」
見た。左頬に痣ができていて、目の下には血の滲んだ痕があった。見てしまった。
まだできたばかりの傷のようで痛々しい。僕は柳瀬の言葉にこくりと頷くことしかできなかった。
「喧嘩かな」
「やっぱヤベェ奴と繋がってんのかな。顔の傷だけで済んでるってことは勝ったんかな」
「痴話喧嘩の可能性もあるよな」
「うわーありそう。でも、女子にあんなにひでぇ傷つけられるか?普通」
「確かに……月宮どうした、さっきから黙って」
「なんでもない」
「ま、知ったところで俺たちには関係ねーしどうでもいいか」
あっけらかんと柳瀬は言って、鬼屋敷よりも大事なのは自販機だからと線を引いた。
なんでもなくはない。飲み込んだ言葉と共に心臓に何かが刺さって痛かった。想像することはいくらだって出来たって、僕は本当のことを知ることができない。「俺たちには関係ない」という柳瀬の言葉が頭の中で反芻する。柳瀬や楠木と鬼屋敷は確かに違う。僕たちの普通と彼の普通はきっとどこか違う。違うと決めつけてそこに無意識に線を引いている。そして僕はその線を越えることができない。それが今、とてつもなくもどかしくて堪らない。知りたい。僕は鬼屋敷の事を知りたいのだ。
という、先走った気持ちだけでやってしまった。
今、僕の手には新品の絆創膏がある。
塾での自習中、勉強に身が入らず、悶々とした気持ちを発散するように帰り際寄ったコンビニで気づいたら買っていた。別に渡せるわけも無いのに何をやっているんだろう。コンビニなんかに寄ったから、電車を一本逃してしまってあと三十分ホームで待たなきゃ帰ることすらできない。誰もいない、薄暗いホームに立って肩を落としてため息を吐いた。
無人のこの駅には改札はなく、ICカードタッチ機のみ。駅の外には自販機があるが、階段を登った先にあるホームには何もない。時計すらない。蛍光灯も一本チカチカと点滅している。
時刻は午後九時三十三分。次の電車は十時四分だ。何もすることがなくて、唯一設置されている木造の軋むベンチに腰掛けて線路のその先に視線を向けた。
聞こえてくるのは絶え間ない虫の声。時折木々の葉が音を立てる。この時間になっても気温は下がらず、それでも昼間に比べて呼吸しやすい風が吹き横髪が顔にかかった。手で払い除けながら、富士山に向かって伸びる街明かりを眺めた。この時間になると空の色と富士山の色は一緒になって見分けがつかないが、麓を照らす住宅街の灯りでなんとなくの輪郭が見えてくる。それにこの時期は光の道ができて山頂に向かって細い光が繋がって見える。
ここから見る景色が好きだ。自分しか知らない、宝物のようだった。
程なくしてコツ、コツ、と階段を登ってくる音が近づいてくる。
この時間に誰だろうか。うちの学校の生徒はほとんどがチャリ通だから、朝同じ制服の人を見かけることはあっても、帰りはバラバラでほとんど見かけることはない。サラリーマンだろうか、夜遅くまで大変だな、なんて思いながらその足音が誰のものなのか気になって階段の方へと視線を向けた。
「「あ」」
声が重なった。
相手の驚いて大きく見開かれた瞳には僕の驚いた顔が映っていることだろう。
時が止まってしまったように数秒互いに動きが止まる。するり、と力の抜けた指先から持ちっぱなしになっていた箱が音を立てて転がった。
「あ」
僕は彼から視線を外し、急いで地面に落ちた箱を拾い上げてはまたベンチに座り直した。
「こんな時間まで何してたの?」
彼はそう言って、当たり前のように僕の隣に腰をかけた。僕は無意識に少しだけ端に寄る。
「……塾。自習しててその帰り。……その、鬼屋敷は?」
僕は鬼屋敷の顔を見れずに真っ直ぐ無人の反対ホームを見ながら答えた。
「名前、知ってるんだ」という小さな声が聞こえた気がする。
「俺?俺はーバイト」
「バイト!?」
続くその返答に思わず勢いよく顔を覗いた。
「え、なに?」
「それって、ヤバいやつ?」
「ヤバいやつって。君、俺の変な噂信じてる?」
今度は鬼屋敷が探るような目で僕の顔を覗いてくる。ジリジリと押されるような威圧感に首だけが後ろに引いていく。
「噂……でもほら火のないところに煙はなんちゃらって言うし」
そう言いながら鬼屋敷の顔をしっかりと見れば頬には既に絆創膏が貼られていた。その綺麗な顔につけられた傷の理由とかなんのバイトしてるのかとか聞きたいことは沢山あるけど、鬼屋敷を前にするとうまく言葉が出てこない。
「ていうか、バイト、校則違反だから断れない感じのやつかと思っただけ」
「はは、バイト禁止なの忘れてた。別にヤバイやつじゃねぇよ。叔母さんの手伝いって感じ。あ、俺の両親今海外出張中でさ、一人暮らし認めてもらう代わりの手伝いってだけ」
「そうなんだ」
「あ、今安心したでしょ」
鬼屋敷の言葉にホッと胸を撫で下ろしたのを見透かされてた。ニヤリと笑う鬼屋敷の後ろから吹く強い風が僕の心を突き抜けた。
「別に。鬼屋敷の叔母さんは何やってる人なの?……答えたくなかったら答えなくて大丈夫だけど」
「バレエ教室だよ。子どものための。あの人元プロバレエダンサーだから」
「すごい。じゃあ鬼屋敷も?バレエ教えてるの?」
「教えるっていうかアシスタントだけどね」
「へぇ」
「似合わないっしょ、こんな見た目だし」
僕の反応に慌てて鬼屋敷が付け足した。感心というか、納得してしまって薄い反応になっていたのだろう。あの日、世界史の教室で鬼屋敷と言葉を交わした日、眠たそうな体を伸ばす仕草がとても綺麗だった。姿勢が良く、骨の位置が僕とは違うのではないかと考えたり、体感体格の良さから何か運動をやっているのかと考えたりしていたから。
というか、子ども向けの教室に鬼屋敷がいるなんて初恋泥棒すぎないか。
「めっちゃ似合ってる」
「ほんとう?」
「ほんと。前に教室で会った時、鬼屋敷のこと綺麗だなって思ってたから。ってその、変な意味じゃなくて、そのまんまの意味なんだけど、なんか、バレエやってて納得しったってだけで」
言い訳のように言葉を連ねて一人赤くなる。あぁ間違えた。今すぐ顔を隠したい。けれどそんな僕の言葉に鬼屋敷は「嬉しい」って言うから顔を背けることなんてできなかった。
「そんなこと、初めて言われた」
照れているのか鬼屋敷は口元に手を添えた。少し泳いでいる視線になんだか同じ気持ちのような気がして、こっちまで嬉しくなってくる。
「ていうかさ、さっきからずっと思ってたんだけど、それ何持ってんの?」
話題を逸らすように鬼屋敷が指差したのは僕の手の中の箱だった。隠すタイミングを失ってずっと両手で握ったままになっていた。
「あ、これ」
「絆創膏?」
手の中を覗き込んだ鬼屋敷が僕が言葉を発する前にそう言って、行く手を阻む。一番触れられたくないものだったし、誤魔化しの文言は用意されていない。
「えっと、僕よく怪我するからさ」
「どっか怪我してんの?見してみ?」
先ほどよりも少し低い心配そうな声で言われて嘘をつくのが心痛い。それに長袖のシャツの腕を数回捲った鬼屋敷と違って、僕は半袖で腕丸出しだし、露出部分は傷一つ無いのだから見せるも何も無い。
「今はどこもしてなくて、その」
「その?」
今怪我してないのに、絆創膏握りしめている状況の不可解さは僕が一番わかっている。使わないならその自分の横に置いてある鞄に仕舞っておけばいいのだ。
まだ、鬼屋敷の頬に絆創膏が貼られていなければ良かったのに。そうしたら苦しさは残るが、絆創膏自体の出番は果たすことができたはずだ。そもそも鬼屋敷に会う予定なんてなくて、この絆創膏を見られるはずじゃなかった。もっと言えばこの絆創膏は自分のためのものじゃないし。
言葉の続きを鬼屋敷に急かされ何か言わなければこの息苦しい沈黙から逃れることはできない。
「その、これは、あの……今日学校ですれ違った時、顔怪我してるの見ちゃって、それで気づいたら買ってて。あ、でも、なんも考えなしに買っちゃっただけで、普通に考えて僕鬼屋敷と関わりないし、渡せるはずも会えるはずもきっかけも無いって分かってたんだけど、放課後とか自習の間とかぐるぐる考えちゃって、痛そうだな、大丈夫かなって……」
語るに落ちる。まとまらない気持ちをまとまらないまま全部吐き出してしまった。それも、本人に。
「ごめん。なんか僕、本当に変な奴でごめん」
変な汗が出てくる。ヤバイ奴って絶対思われた。こんなことしたの初めてだけど、もうここまで言ってしまったら弁明の余地など残されてない。気にしないで、とかそんな言葉では取り返しもつかないだろう。あぁ、ただ、消えたい。今座っているベンチがパカって開いて奈落の底に落ちたい。絶対落ちたい。
自分では事態を収集することができなくて、そっと目を伏せて地面の凹凸を見つめた。返事がないのが怖い。
それに、だ。僕が絆創膏を渡さなくたって、傷の手当てをしてくれる人が鬼屋敷の周りにいるって事実をホームで彼を見た瞬間に悟っていたのに、なんでこんなどうでもいいことを言ってしまったのだろう。
「あー痛い、痛いかも」
鬼屋敷の棒読み声に顔を上げた。
左頬を大袈裟に押さえている左手に僕の視線が追いついたところでその手は外された。見えたのは絆創膏の外された生傷で、鬼屋敷の行動に思考が追いつかない。
「それ、俺に貼ってよ」
「え」
「ココ、早く貼ってくんないと痛いなー」
僕の目をじっと見て強請るように少し首を傾げる鬼屋敷に言われるがまま、新品の箱を開けそこから一枚取り出した。
血は既に止まっているようだが、傷部分にパッドを乗せる。鬼屋敷は僕が触れると目を閉じた。伏せられたまつ毛の長さに気を取られつつ、慎重に貼ろうとするも手が震えてなかなか指の動きが定まらない。
「……まだ?」
「もうちょっと、まって、がんばってるから」
「ん。がんばって」
長い前髪が巻き込まれないように、ピシっと張って絆創膏が浮かないように優しく指の腹で押さえた。
「できたよ、っわ」
頬から指が離れる前に鬼屋敷の手が僕の右手を包み込んだ。柔らかな肌の感触と鬼屋敷の体温に包まれる。すり、と僕の手のひらに頬を擦り寄せ鬼屋敷は目を開いた。
「ありがと、月宮」
「僕の名前」
「知ってるよ。月宮まどか、いい名前だね」
聞きたいことが沢山ある。鬼屋敷を前にすると、聞きたいことで溢れかえる。知りたいことが増えていく。
「痛くない?」
「痛くないよ。月宮が絆創膏貼ってくれたから」
鬼屋敷の優しさに僕は言葉が詰まった。
「この傷、どうしたの?」
「んーなんか、昼飯屋上で食ってたら知らない三年の男が当然殴りかかってきて『俺の女横取りすんな』って。殴ってっから言うんじゃなくて、用件言ってから殴ってほしいよマジで」
「鬼屋敷は?殴り返したの?」
「いや?無視した。心当たり無かったし、やり返したら多分向こうじゃなくて俺が教師に怒られる羽目になるしな。目つけられてるから」
相手の三年の男は子分みたいな友達みたいなやつに抑えられて屋上から退場したらしい。数分後、その子分みたいな友達みたいなやつが再び鬼屋敷の前に来て、「あいつの彼女が一方的に鬼屋敷のことが好きになっちゃってそれを知って激怒している」と説明して謝ってきたという。
この場合だと、痴話喧嘩と検討をつけた楠木の推理が一番近い。
それに鬼屋敷が人を傷つける人間じゃないことを知れて嬉しかった。
「鬼屋敷はいい人だね、屋上は立ち入り禁止だけど」
「ははっ、俺ダメダメだな」
鬼屋敷は僕の手を握ったままそう笑った。
「あ、絆創膏いる?替えにも使うだろうし、これあげる。多分だけど、僕より怪我多そうだし」
差し出した箱を見て鬼屋敷は首を振る。
「これ、月宮が持っててよ。で、もし俺がまた怪我したら月宮がこうやって俺に貼って」
熱い。僕は今どんな顔をしているのだろう。心臓の音が重なっている手のひらから伝わってしまっているのではないだろうか。自分の心音が耳から聞こえてきて、ドクン、ドクン、と脈打つ音はいつの間にかガタン、ゴトン、という電車の音に変わっていった。
待ちに待った電車の到着に体が離れた。車内に乗り込んでも人っこ一人おらず、一車両貸切状態の中隣り合って座る。
「俺、今日超ラッキーだったな」
「え、殴られたのに?」
「殴られたのもだよ。俺いつもチャリ通なんだけど、自転車漕ぐ気分じゃねーって思い立って電車にしたんだよね。バイトも行きたく無かったけど、行って良かった」
「良かったの?」
「うん。月宮に会えたから」
そう言って鬼屋敷はにっこりと笑った。
「僕もだよ。鬼屋敷と話せて良かった」
「あぁ、そういえばさっき月宮が俺たちに接点ないって言ってたけどさ」
──間もなく梅木ー梅木です。お降りの際は、一番前の車両のドアからお降りください。
「ん?なに?」
「俺と月宮の接点」
そう言いながら鬼屋敷が降りる準備を進める。
「あ、うん」
「教科書」
目の前に立った鬼屋敷が僕に顔を近づけるように腰を屈めてそう言った。
「また、世界史の授業で」
そう言い残して開かれた扉から鬼屋敷はこちらに手を振って出ていった。僕は鬼屋敷の背中で扉が閉まり、電車が次の駅に向けて発車したところでやっと「また」と言葉にする。
「あーーー」
「教科書」「世界史の授業」。鬼屋敷の声で再生される二つのワードに僕は低い声を吐きながら勢いよく後頭部を窓にぶつけた。
神様とやらはやはりいるのだろうか。僕たちを見ているのだろうか。
超ラッキーだったのは僕の方だろう。ここ一ヶ月夢中になっていたものが一本の線で繋がってしまったのだ。
気になっていた教科書で交換日記をしていた相手は同じく気になっていた鬼屋敷遥だったってことだ。信じられないが辻褄は合う。
教科書を返しに行った日、鬼屋敷は僕が教科書を返すのを見て「用が済んだ」と言っていた。待っていたのだろう、僕が来るのを。でもなぜあの日の放課後に会ったのかはわからない。世界史の勉強を家でしたくて教科書を持って帰ろうと思ったのかもしいれないし、僕と同じように交換日記の相手が誰だか知りたくなったからかもしれない。そんな淡い期待すら湧き上がってくる。全ては偶然に過ぎないのに、その一つ一つに意味があるような気がしてならないのだ。だって、あんなに無駄に買ってしまったと思っていた絆創膏が大活躍してしまった。まだ右手に残っている鬼屋敷の体温がじんわりと心までもを温めるようだった。
知りたかった鬼屋敷の一面を知れて嬉しい。「また」と言う言葉を僕に言ってくれるのが何より嬉しかった。
一ヶ月前までぼんやりと、ただこなすだけの毎日ががらりと変わっていくような気がした。

