選択科目である世界史の授業は週に三日ある。
その度に離れた教室へと移動することになるのだが、同じ時間に組まれた日本史の授業は僕たちの教室を使っている。これは紛れもない選択科目差別ではないか、という議論は我々三人の中で幾度となく交わされているが、中山先生が職員室から僕たちの教室に来るより、僕たちが教室を移動した方が早いという結論に至る。中山先生はとてもふくよかでバルーンのような体型をしており、毎日ズボンをサスペンダーで固定しているインパクトのある教師だが、見た目とは裏腹に声が小さく半分は何を言っているのか聞き取れない。
そんな少し憂鬱な授業ではあるが、僕には密かな楽しみができたのだった。
教科書を忘れた一昨日、机の中に入っていた教科書の77ページの余白に短い感謝の言葉を書き殴っては元に戻した。
今日はちゃんと教科書を持ってきていたけれど、その教科書がまだ入りっぱなしなのか気になって、席に着くなり机の中に手を突っ込んでみれば、その教科書はまだあった。
一昨日、帰宅してから少しだけ、あれは都合の良い夢だったんじゃないかと考えた。だって、あまりに僕に都合が良かったから。僕を見ていた神様が哀れに思って一時的に助けてくれたのではないかとも考えた。しかしこの教科書は別の時間にこの席を使って世界史の授業を受けている人が置き勉しているだけのようだった。
その印に、僕が書いた文字の下に、
《イーエ。良かったな》
という文字が付け足されていた。
誰だろう。
このページを見たということは二年の僕のクラス以外の人。文字の感じからして男──他のページの歴史上の人物に全て落書きが施されているから九割五分男だろうか。誰かはわからないけれど、返事があったことが嬉しかった。授業中に誰かとこっそり話しているような背徳感も相まって僕はひたすらこの会話を続けようと必死にネタを探した。
《今日の中山セン、蝶ネクタイ》
そう書いてまた教科書を閉じる。相手が誰なのか詮索するようなものは相手も良い気がしないのではないかと考えて、教壇を軋ませる中山先生の日記みたいな事を書き記してしまった。
翌日、教科書を開けば返事がある。
《トゥイードルダムとトゥイードルディーの兄弟?》
その文字を見て僕は少し笑った。トゥイードルダムとトゥイードルディーは『鏡の国のアリス』に出てくる二人のそっくりな小男である。そして中山先生は挿絵の彼らにそっくりなのだ。ここに三つ子説が爆誕する。
教科書に落書きをするタイプで、僕のメッセージに返事を書いてくれる律儀な人。そこに、『鏡の国のアリス』を知っている人というのが追加された。小説をよく読む人なのだろうか。世界史を専攻する人だから他国の文化に興味がある人なのだろうか。この教科書の持ち主のことを想像しながら、またこの五十分で僕は何を書こうかと考える。世界史の授業がこんなに楽しみになるとは思ってもいなかった。
こんな調子で二週間が過ぎた。
週に三回、教科書の余白で行われる交換日記のようなものは続いていた。
《この机、ガタガタするからかえといた》
相手からのメッセージに、文字を書くたびにぐらぐらと揺れていた机が今日は揺れないことに気付かされる。違う時間に同じ何かを共有する非日常的な行為に、まだ見ぬ相手への思いが募っていく。
いつものように僕シミュレーションという名の妄想に耽る。
もし。もし、僕がこの教科書に待ち合わせ場所を書いたら、相手は来てくれるだろうか。僕のこの会いたいという気持ちに相手は応えてくれるのだろうか。
でも、相手を呼び出したとして僕は何をするべきなのだろうか。教科書を忘れて焦ってこの机の中を弄っていたらたまたまこの教科書を見つけて、勝手に借りて人のものに勝手に落書きしをして。まずはこの非礼を詫びるべきか。相手に謝って感謝して、それで……。あぁ、その続きは何も思い浮かばない。僕はこの相手とどうなりたいのだろう。友達?それとも……何を期待しているのだろうか。
ブンブンと一人頭を振って馬鹿馬鹿しい変な考えを断ち切った。
僕はまだ教科書のお礼をちゃんとしていない。今の僕に何ができるのかなんて限られていて、今日も教科書の余白にまた文字を残した。
《ココ、小テスト出た》
《さんきゅ助かる》
《教科書借りたお礼。こんなんじゃ足りないけど》
本当に、こんなんじゃ足りないけど。小さな世界に生きる僕にとって人生の最大のピンチじみた絶望を華麗に救ってくれた神アイテムだったから。相手が今日テストの勉強をしてなくて僕と同じように人生最大のピンチに直面するような羽目になっていたら、釣り合いは取れるのだが。
「月宮、今日この後暇?」
「この後?塾以外何もないけど」
HRが終わるなり、荷物をまとめる僕に柳瀬が声をかけてくる。既に鞄を背負った楠木も柳瀬の後ろに顔を出している。
「俺らも今日部活ない日だからさー、どっか寄ろうよ」
「こんな田舎に選択するほど寄る場所はないけどね」
「んじゃ、いつもんとこ早く行こうぜ。今日食うもん授業中考えてたんだけどさー」
柳瀬と楠木とのこの会話は最早定型文で、塾に向かう途中にあるファミレスに寄るのが常だった。というか、ファミレスしか選択肢は無い。
「んー……あ!待って、やっぱ待たなくていい。世界史の教室に忘れ物しちゃったっぽい」
「うげ、まじ?超遠いじゃん。明日じゃダメ?」
「今日自習で使おうと思ってたからさ、取り行ってくる」
「俺たちもついてこうか?」
「大丈夫。ってか柳瀬腹ぺこそうだし、楠木も先行ってて良いよ」
明らかに怠そうな顔をする柳瀬と心配するような顔をする楠木。その対比が面白くて僕は小さく笑った。
「んじゃ、後で集合な。月宮来るまでデート楽しもうね、楠木♡」
語尾にハートのついた甘ったるいふざけた声を出す柳瀬を無視して、「先行ってる」と楠木は僕に言って教室を出ていった。
さて、どうしたものか。厳密には忘れ物をしたのではなく、持ってきてしまったのだ。
やはり、この建物は移動しづらい。教室棟の四階に僕達の教室はあるが世界史の授業は並列された特別教室棟の空き教室で受けている。その教室に行くには、まず教室棟の二階まで降り、渡り廊下を渡って特別教室棟に出た後、三階に上ってその長い廊下を歩いた突き当たりにある。
太陽の光を全面に受ける教室棟とは違い、こっちの棟は日陰になっていて薄暗く、ひんやりと冷たい。一階が理科室三つ、二階が書道室や美術室、音楽室となっていて部活をする人で賑わっているが、三階は職員室と他は空き教室となっているため、一階上るだけでしんと静まり返るのだ。
僕は持ってきてしまった世界史の教科書を鞄から出した。
柳瀬が僕に着いてきてたら隣でずっと文句を言っていただろう。僕が最短で任務を遂行したとして、ファミレスに着くのは十分は遅れてしまう。ここから最短でファミレスに行くには階段降りて、渡り廊下で教室棟に戻るか中庭を突っ切って裏門から出るほうが早い?いや、ファミレスに行くなら裏門から出たほうが近いよな。
考え事をしながら歩いていたから僕は気づくのに遅れてしまった。
教室に先客がいたのだ。
彼の存在に気づいたのは、教室に一歩足を踏み入れてしまってからだ。ここから引き返すのは遅すぎるし、彼に気遣って教科書を戻すのをやめる、という訳にもいかない。
不幸中の幸いなのは、僕の用がある窓際の一番後ろの席ではなく、その隣の席に彼がいることだ。息を殺して僕は彼を入り口から観察する。腕を枕にして机に伏せている彼は寝ているのだろうか。ピクリとも動かない。少し開いた窓から流れ込む風にその柔らかな金色の髪が躍るように揺れている。
早まる心音を落ち着かせるように深呼吸をして僕は彼を起こさないように机に近づいた。
彼が起きる気配はない。静かに机の上に教科書を置いて、椅子を引く。ギギ、と鈍い音が教室に響いたが、無事教科書を元の場所に戻せた。
早く気づけて良かった、と内心自分のミスにフォローを入れた。僕と同じ絶望をあと少しで相手にも与えてしまうところだったのだ。
一安心、とほっと胸を撫で下ろして帰ろうと振り返った時、その鋭い目が僕を貫いた。
「っぎゃ」
「ぎゃ、は傷つく」
彼は僕を見て眠たげな声を出した。「ぎゃ」という短い言葉だけで止まった自分を褒めたい。心臓が激しく動いているようで良かった。止まってしまったと思ったから。何をそんなに驚いているのか不思議そうな彼を見て、僕はまた声を出しそうになった。
──鬼屋敷だ。
寝ていると思った人が起きていたという驚きに、その人が鬼屋敷であるという驚きが重なったからだ。
「あ、あの、もう放課後……」
「大丈夫、寝過ごした訳じゃないから」
そりゃそうだ。自分の口から出てきた言葉に自分で突っ込みたくなる。やってしまった。そもそもこの教室で最後の授業を受けたのは僕だ。彼が放課後この教室に来たという事実は僕が一番知っているはずだ。もう何をどうすればいいのかわからなくて勝手に口が動いてしまう。初対面の人になんて話せばいいのかなんてわからないし、まして相手は鬼屋敷。絶対に交わる事のない人なのだ。
「ごめんなさい、邪魔して」
「別に、俺も人を待ってただけだから」
一匹狼って噂されてるけど、誰かと連むんだ。あ、彼女かな。秘密の逢瀬?って、僕がいたらだめじゃんか。
「僕、もう出てく」
「いーよ。もう用済んだし。俺も帰る」
机に座ったまま上目遣いにこちらを見ていた鬼屋敷が少し笑ってそう言った。
それから立ち上がって、彼はグーっと伸びをする。爪先立ちになって背筋をまっすぐに伸ばし、ワイシャツの捲った袖から見える腕の範囲が広がって、長い指先は天井に届きそうだった。
僕は彼の仕草ひとつひとつから目が離せなくて、ただただ遠くなっていく背中を見つめる。教室を出たところで鬼屋敷はピタリと足を止めてこちらを振り返った。
「また」
「……また」
鬼屋敷の言葉をオウム返しのように繰り返せば、満足そうに微笑んで彼は僕の視界から消えていった。
「おーい、月宮?月宮まどかくん?」
柳瀬の声にハッとする。気づいたら僕はファミレスにいた。どうやってここから来たのか記憶にない。持ち手のないグラスに注がれた炭酸とポテト越しに柳瀬と楠木の顔がぼんやりと見えている。
「んーなに」
「何って、お前こそ何ぼーっとしてんの?めっちゃ時間かかってたけど手遅れだった?」
「んーなに?」
「だーかーらー!忘れ物はあったのかって聞いてるんですけどぉ?」
忘れ物、忘れ物……。そういえば僕は忘れ物をしたって嘘をついて、持ってきてしまった誰のかわからない世界史の教科書を返しに行って、でも教室に……
「……天使がいた」
「はぁ?何言ってんの……ちょっとアナタ今の聞いた?ウチの子がついにおかしくなっちゃったわよ」
「柳瀬、俺の飲み物になんか入れたでしょ」
「あらやだ!お気づき遊ばせ?お塩を少々。この時期、塩分補給も大切でしてよ」
甲高い裏声で話し続ける柳瀬と楠木の噛み合わない夫婦漫才に店内に流れる音楽が混ざって何ひとつ聞き取ることができない。
別れ際、「また」とこちらに向かって言う鬼屋敷はまるで天使のようだった。廊下の窓から差し込む西日を背中に纏い、少し長い淡く柔らかな金色の髪と真っ白なワイシャツから透けるシルエットが目に焼き付いて離れない。神様はおろか、天使なんて見たこともないけれど、そう思えるほど人間離れした美しさだった。
二週間ほど前、廊下ですれ違った時も思ったが鬼屋敷は顔が良い。綺麗な輪郭に鼻が高く、少し吊り上がった大きな目。一度見たら忘れることはない顔立ちで、凄まれるととても怖い。怖い人だと思っていたから、あの笑顔に僕の心は持っていかれてしまった。もっといろんな表情を見たい、と思ってしまったのだ。
凄まれた張本人、柳瀬に言ったら笑われるどころか変人扱いしてくるだろうな……って、柳瀬だ。そう言えばさっき僕に何か言っていた気がする。
「やなせ」
「お、やっと戻ってきたか?まじ、どうした?」
いやいや、どうした?はこちらの台詞だ。
「なんでお前ら僕の隣に座ってんの?」
「「いや、今さらかよ」」
真横で聞こえる二人の声が重なって、僕の脳を揺さぶった。
「んで?何、天使って。月宮可愛い子に告白でもされたの?」
僕の向かいに座り直した柳瀬と楠木が視線だけをこちらに向ける。餌を待つ雛のように口を開けた柳瀬に楠木がポテトを突っ込んでいく。
「はぁ?僕がされる訳ないでしょ」
「いや、お前自覚ないだけでモテてるからな」
「えーまたそれ?もう二年の夏になるけどさ、僕一回も告白されたことないよ」
「そりゃー話しかけづらいからねぇ。高嶺の花みたいな?勉強も運動もできておまけに見た目も良い完璧人間なクセしてさ、俺たち以外誰とも話さないからみんな遠慮してんのよ」
「そりゃ人と喋んの緊張するし、話す内容ないし、話したいと思わないし、意味ないし」
「はは、そう言うところだろうな〜」
「対人関係壊滅的すぎ」
「そういう柳瀬と楠木は?モテるの?」
「え?本人に言わせんの?」
「まあ、柳瀬はモテないよ」
「おいコラ楠木テメェ覚えとけよ」
すまし顔の楠木に柳瀬が戯れるように突っかかっていって、まぁモテはしないだろうと思った。でも彼の良さに気づいている人はいる。ちゃんと見ている人が、いる。
「でもあれよ、俺たちがモテないのはアイツ……鬼屋敷が女子掻っ攫ってるからであって、鬼屋敷がいなきゃ俺たちにだってチャンスあったはずなんだよなあ」
「俺たちって、俺も一緒にしないでくんない?」
「うるせー恋人いない時点で楠木くんは俺と同類なんだよ」
突然出てきた名前に僕はドキリとした。やっぱり女の子を待っていたのだろうか。放課後空き教室に来てくださいみたいな、少女漫画によく出てくる告白のシチュエーションだったのか。眠た気な顔も、微笑みも、僕ではなくて会う約束をしていた人に向けられるべきものだった気がしてきた。それを僕が盗んでしまったような気もするし。
いや待てよ、それに僕、思いとどまったが一瞬、あの教科書に「会いたい」とか書こうとしてたよな。あぁ危ない。告白紛いのことをしそうになっていたのだと思い知らされる。相手が誰かもわからないのに、こんな恋心じみたことを感じているのもおかしい。恋は盲目とはよく言ったものだ。
鬼屋敷も教科書の持ち主も、僕と交わることがないはずの人間で。
それでも着実に、近づいていることを知ってしまった。
その度に離れた教室へと移動することになるのだが、同じ時間に組まれた日本史の授業は僕たちの教室を使っている。これは紛れもない選択科目差別ではないか、という議論は我々三人の中で幾度となく交わされているが、中山先生が職員室から僕たちの教室に来るより、僕たちが教室を移動した方が早いという結論に至る。中山先生はとてもふくよかでバルーンのような体型をしており、毎日ズボンをサスペンダーで固定しているインパクトのある教師だが、見た目とは裏腹に声が小さく半分は何を言っているのか聞き取れない。
そんな少し憂鬱な授業ではあるが、僕には密かな楽しみができたのだった。
教科書を忘れた一昨日、机の中に入っていた教科書の77ページの余白に短い感謝の言葉を書き殴っては元に戻した。
今日はちゃんと教科書を持ってきていたけれど、その教科書がまだ入りっぱなしなのか気になって、席に着くなり机の中に手を突っ込んでみれば、その教科書はまだあった。
一昨日、帰宅してから少しだけ、あれは都合の良い夢だったんじゃないかと考えた。だって、あまりに僕に都合が良かったから。僕を見ていた神様が哀れに思って一時的に助けてくれたのではないかとも考えた。しかしこの教科書は別の時間にこの席を使って世界史の授業を受けている人が置き勉しているだけのようだった。
その印に、僕が書いた文字の下に、
《イーエ。良かったな》
という文字が付け足されていた。
誰だろう。
このページを見たということは二年の僕のクラス以外の人。文字の感じからして男──他のページの歴史上の人物に全て落書きが施されているから九割五分男だろうか。誰かはわからないけれど、返事があったことが嬉しかった。授業中に誰かとこっそり話しているような背徳感も相まって僕はひたすらこの会話を続けようと必死にネタを探した。
《今日の中山セン、蝶ネクタイ》
そう書いてまた教科書を閉じる。相手が誰なのか詮索するようなものは相手も良い気がしないのではないかと考えて、教壇を軋ませる中山先生の日記みたいな事を書き記してしまった。
翌日、教科書を開けば返事がある。
《トゥイードルダムとトゥイードルディーの兄弟?》
その文字を見て僕は少し笑った。トゥイードルダムとトゥイードルディーは『鏡の国のアリス』に出てくる二人のそっくりな小男である。そして中山先生は挿絵の彼らにそっくりなのだ。ここに三つ子説が爆誕する。
教科書に落書きをするタイプで、僕のメッセージに返事を書いてくれる律儀な人。そこに、『鏡の国のアリス』を知っている人というのが追加された。小説をよく読む人なのだろうか。世界史を専攻する人だから他国の文化に興味がある人なのだろうか。この教科書の持ち主のことを想像しながら、またこの五十分で僕は何を書こうかと考える。世界史の授業がこんなに楽しみになるとは思ってもいなかった。
こんな調子で二週間が過ぎた。
週に三回、教科書の余白で行われる交換日記のようなものは続いていた。
《この机、ガタガタするからかえといた》
相手からのメッセージに、文字を書くたびにぐらぐらと揺れていた机が今日は揺れないことに気付かされる。違う時間に同じ何かを共有する非日常的な行為に、まだ見ぬ相手への思いが募っていく。
いつものように僕シミュレーションという名の妄想に耽る。
もし。もし、僕がこの教科書に待ち合わせ場所を書いたら、相手は来てくれるだろうか。僕のこの会いたいという気持ちに相手は応えてくれるのだろうか。
でも、相手を呼び出したとして僕は何をするべきなのだろうか。教科書を忘れて焦ってこの机の中を弄っていたらたまたまこの教科書を見つけて、勝手に借りて人のものに勝手に落書きしをして。まずはこの非礼を詫びるべきか。相手に謝って感謝して、それで……。あぁ、その続きは何も思い浮かばない。僕はこの相手とどうなりたいのだろう。友達?それとも……何を期待しているのだろうか。
ブンブンと一人頭を振って馬鹿馬鹿しい変な考えを断ち切った。
僕はまだ教科書のお礼をちゃんとしていない。今の僕に何ができるのかなんて限られていて、今日も教科書の余白にまた文字を残した。
《ココ、小テスト出た》
《さんきゅ助かる》
《教科書借りたお礼。こんなんじゃ足りないけど》
本当に、こんなんじゃ足りないけど。小さな世界に生きる僕にとって人生の最大のピンチじみた絶望を華麗に救ってくれた神アイテムだったから。相手が今日テストの勉強をしてなくて僕と同じように人生最大のピンチに直面するような羽目になっていたら、釣り合いは取れるのだが。
「月宮、今日この後暇?」
「この後?塾以外何もないけど」
HRが終わるなり、荷物をまとめる僕に柳瀬が声をかけてくる。既に鞄を背負った楠木も柳瀬の後ろに顔を出している。
「俺らも今日部活ない日だからさー、どっか寄ろうよ」
「こんな田舎に選択するほど寄る場所はないけどね」
「んじゃ、いつもんとこ早く行こうぜ。今日食うもん授業中考えてたんだけどさー」
柳瀬と楠木とのこの会話は最早定型文で、塾に向かう途中にあるファミレスに寄るのが常だった。というか、ファミレスしか選択肢は無い。
「んー……あ!待って、やっぱ待たなくていい。世界史の教室に忘れ物しちゃったっぽい」
「うげ、まじ?超遠いじゃん。明日じゃダメ?」
「今日自習で使おうと思ってたからさ、取り行ってくる」
「俺たちもついてこうか?」
「大丈夫。ってか柳瀬腹ぺこそうだし、楠木も先行ってて良いよ」
明らかに怠そうな顔をする柳瀬と心配するような顔をする楠木。その対比が面白くて僕は小さく笑った。
「んじゃ、後で集合な。月宮来るまでデート楽しもうね、楠木♡」
語尾にハートのついた甘ったるいふざけた声を出す柳瀬を無視して、「先行ってる」と楠木は僕に言って教室を出ていった。
さて、どうしたものか。厳密には忘れ物をしたのではなく、持ってきてしまったのだ。
やはり、この建物は移動しづらい。教室棟の四階に僕達の教室はあるが世界史の授業は並列された特別教室棟の空き教室で受けている。その教室に行くには、まず教室棟の二階まで降り、渡り廊下を渡って特別教室棟に出た後、三階に上ってその長い廊下を歩いた突き当たりにある。
太陽の光を全面に受ける教室棟とは違い、こっちの棟は日陰になっていて薄暗く、ひんやりと冷たい。一階が理科室三つ、二階が書道室や美術室、音楽室となっていて部活をする人で賑わっているが、三階は職員室と他は空き教室となっているため、一階上るだけでしんと静まり返るのだ。
僕は持ってきてしまった世界史の教科書を鞄から出した。
柳瀬が僕に着いてきてたら隣でずっと文句を言っていただろう。僕が最短で任務を遂行したとして、ファミレスに着くのは十分は遅れてしまう。ここから最短でファミレスに行くには階段降りて、渡り廊下で教室棟に戻るか中庭を突っ切って裏門から出るほうが早い?いや、ファミレスに行くなら裏門から出たほうが近いよな。
考え事をしながら歩いていたから僕は気づくのに遅れてしまった。
教室に先客がいたのだ。
彼の存在に気づいたのは、教室に一歩足を踏み入れてしまってからだ。ここから引き返すのは遅すぎるし、彼に気遣って教科書を戻すのをやめる、という訳にもいかない。
不幸中の幸いなのは、僕の用がある窓際の一番後ろの席ではなく、その隣の席に彼がいることだ。息を殺して僕は彼を入り口から観察する。腕を枕にして机に伏せている彼は寝ているのだろうか。ピクリとも動かない。少し開いた窓から流れ込む風にその柔らかな金色の髪が躍るように揺れている。
早まる心音を落ち着かせるように深呼吸をして僕は彼を起こさないように机に近づいた。
彼が起きる気配はない。静かに机の上に教科書を置いて、椅子を引く。ギギ、と鈍い音が教室に響いたが、無事教科書を元の場所に戻せた。
早く気づけて良かった、と内心自分のミスにフォローを入れた。僕と同じ絶望をあと少しで相手にも与えてしまうところだったのだ。
一安心、とほっと胸を撫で下ろして帰ろうと振り返った時、その鋭い目が僕を貫いた。
「っぎゃ」
「ぎゃ、は傷つく」
彼は僕を見て眠たげな声を出した。「ぎゃ」という短い言葉だけで止まった自分を褒めたい。心臓が激しく動いているようで良かった。止まってしまったと思ったから。何をそんなに驚いているのか不思議そうな彼を見て、僕はまた声を出しそうになった。
──鬼屋敷だ。
寝ていると思った人が起きていたという驚きに、その人が鬼屋敷であるという驚きが重なったからだ。
「あ、あの、もう放課後……」
「大丈夫、寝過ごした訳じゃないから」
そりゃそうだ。自分の口から出てきた言葉に自分で突っ込みたくなる。やってしまった。そもそもこの教室で最後の授業を受けたのは僕だ。彼が放課後この教室に来たという事実は僕が一番知っているはずだ。もう何をどうすればいいのかわからなくて勝手に口が動いてしまう。初対面の人になんて話せばいいのかなんてわからないし、まして相手は鬼屋敷。絶対に交わる事のない人なのだ。
「ごめんなさい、邪魔して」
「別に、俺も人を待ってただけだから」
一匹狼って噂されてるけど、誰かと連むんだ。あ、彼女かな。秘密の逢瀬?って、僕がいたらだめじゃんか。
「僕、もう出てく」
「いーよ。もう用済んだし。俺も帰る」
机に座ったまま上目遣いにこちらを見ていた鬼屋敷が少し笑ってそう言った。
それから立ち上がって、彼はグーっと伸びをする。爪先立ちになって背筋をまっすぐに伸ばし、ワイシャツの捲った袖から見える腕の範囲が広がって、長い指先は天井に届きそうだった。
僕は彼の仕草ひとつひとつから目が離せなくて、ただただ遠くなっていく背中を見つめる。教室を出たところで鬼屋敷はピタリと足を止めてこちらを振り返った。
「また」
「……また」
鬼屋敷の言葉をオウム返しのように繰り返せば、満足そうに微笑んで彼は僕の視界から消えていった。
「おーい、月宮?月宮まどかくん?」
柳瀬の声にハッとする。気づいたら僕はファミレスにいた。どうやってここから来たのか記憶にない。持ち手のないグラスに注がれた炭酸とポテト越しに柳瀬と楠木の顔がぼんやりと見えている。
「んーなに」
「何って、お前こそ何ぼーっとしてんの?めっちゃ時間かかってたけど手遅れだった?」
「んーなに?」
「だーかーらー!忘れ物はあったのかって聞いてるんですけどぉ?」
忘れ物、忘れ物……。そういえば僕は忘れ物をしたって嘘をついて、持ってきてしまった誰のかわからない世界史の教科書を返しに行って、でも教室に……
「……天使がいた」
「はぁ?何言ってんの……ちょっとアナタ今の聞いた?ウチの子がついにおかしくなっちゃったわよ」
「柳瀬、俺の飲み物になんか入れたでしょ」
「あらやだ!お気づき遊ばせ?お塩を少々。この時期、塩分補給も大切でしてよ」
甲高い裏声で話し続ける柳瀬と楠木の噛み合わない夫婦漫才に店内に流れる音楽が混ざって何ひとつ聞き取ることができない。
別れ際、「また」とこちらに向かって言う鬼屋敷はまるで天使のようだった。廊下の窓から差し込む西日を背中に纏い、少し長い淡く柔らかな金色の髪と真っ白なワイシャツから透けるシルエットが目に焼き付いて離れない。神様はおろか、天使なんて見たこともないけれど、そう思えるほど人間離れした美しさだった。
二週間ほど前、廊下ですれ違った時も思ったが鬼屋敷は顔が良い。綺麗な輪郭に鼻が高く、少し吊り上がった大きな目。一度見たら忘れることはない顔立ちで、凄まれるととても怖い。怖い人だと思っていたから、あの笑顔に僕の心は持っていかれてしまった。もっといろんな表情を見たい、と思ってしまったのだ。
凄まれた張本人、柳瀬に言ったら笑われるどころか変人扱いしてくるだろうな……って、柳瀬だ。そう言えばさっき僕に何か言っていた気がする。
「やなせ」
「お、やっと戻ってきたか?まじ、どうした?」
いやいや、どうした?はこちらの台詞だ。
「なんでお前ら僕の隣に座ってんの?」
「「いや、今さらかよ」」
真横で聞こえる二人の声が重なって、僕の脳を揺さぶった。
「んで?何、天使って。月宮可愛い子に告白でもされたの?」
僕の向かいに座り直した柳瀬と楠木が視線だけをこちらに向ける。餌を待つ雛のように口を開けた柳瀬に楠木がポテトを突っ込んでいく。
「はぁ?僕がされる訳ないでしょ」
「いや、お前自覚ないだけでモテてるからな」
「えーまたそれ?もう二年の夏になるけどさ、僕一回も告白されたことないよ」
「そりゃー話しかけづらいからねぇ。高嶺の花みたいな?勉強も運動もできておまけに見た目も良い完璧人間なクセしてさ、俺たち以外誰とも話さないからみんな遠慮してんのよ」
「そりゃ人と喋んの緊張するし、話す内容ないし、話したいと思わないし、意味ないし」
「はは、そう言うところだろうな〜」
「対人関係壊滅的すぎ」
「そういう柳瀬と楠木は?モテるの?」
「え?本人に言わせんの?」
「まあ、柳瀬はモテないよ」
「おいコラ楠木テメェ覚えとけよ」
すまし顔の楠木に柳瀬が戯れるように突っかかっていって、まぁモテはしないだろうと思った。でも彼の良さに気づいている人はいる。ちゃんと見ている人が、いる。
「でもあれよ、俺たちがモテないのはアイツ……鬼屋敷が女子掻っ攫ってるからであって、鬼屋敷がいなきゃ俺たちにだってチャンスあったはずなんだよなあ」
「俺たちって、俺も一緒にしないでくんない?」
「うるせー恋人いない時点で楠木くんは俺と同類なんだよ」
突然出てきた名前に僕はドキリとした。やっぱり女の子を待っていたのだろうか。放課後空き教室に来てくださいみたいな、少女漫画によく出てくる告白のシチュエーションだったのか。眠た気な顔も、微笑みも、僕ではなくて会う約束をしていた人に向けられるべきものだった気がしてきた。それを僕が盗んでしまったような気もするし。
いや待てよ、それに僕、思いとどまったが一瞬、あの教科書に「会いたい」とか書こうとしてたよな。あぁ危ない。告白紛いのことをしそうになっていたのだと思い知らされる。相手が誰かもわからないのに、こんな恋心じみたことを感じているのもおかしい。恋は盲目とはよく言ったものだ。
鬼屋敷も教科書の持ち主も、僕と交わることがないはずの人間で。
それでも着実に、近づいていることを知ってしまった。

