余白で描く君との恋〜交換日記の相手は僕とは正反対の彼でした〜

初夏

 爽やかな風がカーテンを柔らかく靡かせ午後の教室の流れ込む。衣替えをしたばかりの半袖の袖がひらりと揺れた。何度も繰り返してきたはずの新しい季節を運ぶこの風の匂いを、僕はまた忘れてしまっていたらしい。教科書が勝手に捲られてしまうのを止めるように紙の端を指で止めた。全てが僕を置いて先へと進んでいってしまう。自然と視線は黒板から窓の外へと移り、青々とした木々のざわめきに教師の張り上げた声が次第に遠退いていった。

月宮(つきみや)、つ、き、み、やー?」

 トントン、と机を叩かれ知った声が真上から降ってくる。

「あ、ごめん。なに?」

 呆れ顔の柳瀬(やなせ)の知った声に僕は遅れて返事をした。柳瀬は頬杖をついていたのか、左頬が微かに赤くなっている。

「ごめんじゃなくて、次移動教室。早くしねぇと遅れるぞ」

「えっと、もうチャイム鳴った?」

「鳴った。起立、礼で起立も礼もしなかったのは外見てるお前と伏せて爆睡してた奴だけだぞ」

「マジ?」

 五限目の大半をぼんやりと過ごして言いたらしい僕は突然夢から現実に引き戻された時と同じように状況が掴めなかった。

「大マジ。な、楠木(くすのき)

「月宮の方見てなかったからわかんないけど、僧侶は寝てた」

 柳瀬の声に呼ばれるように楠木はそう言いながら僕の席に来ては「寝てたの?」と確認してくる。

「僕は寝てないよ。ただちょっとぼーっと外見てただけ。寝てないからね」

「はは、そんな必死に弁解しなくてもわかってるって。真面目だけが取り柄だもんな月宮は」

「はー違うし。他にも取り柄あるし」

「ははっ、そうだなー早く支度してくれーこのままだと三人揃って遅刻するー」

「それはごめん」

 僕はやっと喋り続ける柳瀬から視線を外して机の上を片付けて移動教室の支度を始めた。

「まぁ、確かに地味に教室遠いしな」

「それなー。あまりに設計ミス」

「建物の設計ミスすぎる」

 世話焼きでお調子者の柳瀬とおっとりしているがユーモアのある楠木のお喋りを聞きながら、僕はとにかく急いだ。柳瀬と楠木とは高校に入学してからの付き合いで今年で二年目になる。二人は当たり前のように僕の支度が終わるまで待ってくれて、チャイムと共に教室に駆け込んだのだった。

『はい、じゃあ教科書72ページを開いてー』

 六限目。世界史担当の中山(なかやま)先生のいつものボソボソとした声と共に教室は静まり返る。
 そんな静寂の中、僕は立ち上がって大声をあげそうになった。
 やってしまった。
 無い、無いのだ、教科書が。ノートや便覧、参考書などは手元にあるのに肝心の教科書を忘れてしまった。困惑して僕はあたりを見渡した。離れたところにいる柳瀬も楠木もつまらなそうな顔をして教科書を捲っていて、こちらの様子に気づきそうもない。どこにあるんだろう。自分の机の中か鞄か、はたまたロッカーか。朝家を出る時ちゃんと確認してきたから学校には持ってきているはずだ。机の上を何度見ても、ノートをひっくり返しても教科者は見つからない。先生に申し出るにはもう遅すぎる。隣の子に見せてもらいたいところだが、窓際の席に座っている僕の頼みの綱の右隣は欠席の為ポカンと空いている。
 絶望というのは今、この状況のことを指すのだろう。小心者だから、こんな小さなことで取り乱してしまう。僕の悪い癖だ。
 冷静さを気取りながらじんわりと汗をかき、急いでノートを開いて板書しながら、落ち着ける訳もなく、最後の望みをかけて左手で机の中を弄った。
 その時、ガサ、と机の中で指先に何かの角が当たった。もう神様に願うようにゆっくりとその中身を引き出せば、僕が今一番求めているものが出てきたのだ。
 世界史の教科書だ。
 誰のものかはわからない。が、命拾いした。持ち主はきっと神様に違いない。
 ──ありがとう、神様。
 ピンチの時にだけ必死に縋る僕だけの神様に心の中でお礼をする。少し借ります、と心の中で続けた。
 全速力で五キロ走った後のような心拍数が教科書を開き該当するページを目で追っていくごとに静まっていき、はぁ、と小さく息を吐いた。
 どうしたものか。
 この頃何に対しても身が入らない。どこか上の空なのだ。朝起きて学校に行って、塾に行って帰って宿題して寝る。その繰り返し。当たり前の日常に飽きてしまったのかもしれない。
 高校生活を謳歌したくて過ごしている訳でも無いし、別に人生に目標があるわけでは無い。だから今、何かに熱中していることもないし、今までも何かに打ち込むことなどほとんどなかった。代わりに僕は小さい頃から何かをやればそれなりにできた。だからただ、言われたことをやる。勉強も運動も。それが普通になってしまった。
 そして良い高校に通って、良い大学に入学して、良い企業に就職する。これが所謂「普通の幸せ」というやつで、今僕が周りから期待されていることだ。僕は洗脳されてしまったかのようにこの「普通の幸せ」という言葉の上でまんまと踊らされている。そういう自覚はある。
 だから、模範性のように振る舞って完璧でなければいけないと、自分に言い聞かせている。
 そんな今がつまらないかと言われたら、そんなことは無い。仲の良い、というか気の合う友達はいるし、一応だが部活にだって所属している。……最早駄弁り部と化しているし、行っても先輩にウザ絡みされるだけだから週に一回顔を出すかどうかだけど。自分の居場所があるってだけでそれなりに居心地が良い。
 ノートの一ページを二分割するようにして線を引き、半分に書くのはそんな頭の中をぐるぐるとしている考え事だ。書き出したところでこの日常を抜け出すような解決策は出てこないし、漠然とした将来への不安みたいなやつが膨らむだけで、ガサガサと書いた文字を黒く塗りつぶした。結局僕は「普通の幸せ」の言いなりのまま生きていくしかないのだろうか。

『はい、今日はここまで。号令ー』

 中山先生の声に、今度はちゃんと反応をして立ち上がって礼をする。
 ──あぁ、教科書のお礼。
 相手が誰か分かっていたらお礼ができるが、高校二年生ともなれば持ち物にいちいち名前を書く人はいない。でも、持ち主がいるのなら。
 77ページ。今日授業で進んだページに、

《勝手に借りました。ありがとう。助かりました。》
 
 とだけ書き残し、教科書を机の中に戻した。

「月宮ー、戻んぞー」

「月宮、今の授業は寝てなかったな」

「さっきの授業見てなかったからって僕のことチェックする必要ないからね」

 楠木に言い返すと柳瀬が「いや逆に中センの授業で起きてられんのは強者すぎる。絶対八割寝てた」とまた左頬を少し赤くした顔で乗ってきた。
 廊下を歩くときは大抵僕と楠木が歩く前を柳瀬が後ろ向きになって話しながら歩く。人にぶつかりそうになるときは、「柳瀬、右」とか言えば華麗に回避するものだから面白くてずっとこのスタンスなのだ。

「なんかさ、コツとかあんの?寝ないコツとか」

「えーなんだろ。授業と全然関係ないこと考えてたら五十分終わってた」

「わー月宮ヤラシーこと考えてたんだヤラシーこと!」

「違うし。なんか、俺たち皆文化部だよなとかさ」

「喧嘩?」

「喧嘩じゃないよ。僕も文化部って知ってるじゃん」

「そうだけど〜。俺も楠木も文化部の割に一年の前で新歓体張ったけどお前だけ何もしてないじゃんか〜」

「うわ、根に持ってる?」

「体張る約束とかないけどね」

 静かにフォローに回る楠木もその大人しい性格とは裏腹にやるときはやるタイプなのだ。柳瀬は将棋部で楠木は囲碁部。柳瀬は四月の一年勧誘の際、ずっと将棋の駒の被り物をしていたから「駒人間」という人間としていささか不名誉なあだ名がついている。駒を被って勧誘するのが次期部長としての洗礼なのだそうだ。
 そんな柳瀬に対抗しているわけではないとは思うが、一年への部活動紹介で体育館のステージ上で段ボールで作ったのであろう碁盤の中心を顔の形にくり抜いた被り物をし、両手に黒石と白石の入った碁笥(ごけ)を持って凛とした声で淡々と活動内容を説明する楠木の方が鮮烈だった。もしこれが勝負だとしたら、普段のギャップも相まって楠木の完全勝利だっただろう。
 一方僕の映画部は毎年同じ動画を使い回して放映するだけで他は何もしなかった。それが楽だから良いのだけれど、それが面白くなかったらしい。映画ドロボウみたいな被り物をこちらだって用意しようと思えばできたのだが、生憎そんな度胸を僕は持ち合わせていなかった。見ているだけで十分だし。

「てかさ、体張って効果はあった訳?」

「まー例年と同じくらい一年入ってきたよ。な?」

「あぁ。でも来年あの被り物だけはやりたくないんですけど……って神妙な面持ちで言われた」

「あはは、俺も俺も!」

「柳瀬右!」

 柳瀬が笑ってよろけた時、向かいから歩いてくる生徒に柳瀬の肩がぶつかった。

「あ、わり……ぃません」

 僕は相手の顔を見上げた。柳瀬がぶつかってしまった相手は僕より十センチほど背が高く自然と視線は上を向く。兎に角目に付くのはその金髪で、センターで分けられた長い前髪の隙間から静かにこちらを睨みつけていることに数秒遅れて気がついた。睨みつけられている当事者ではない僕からは彼がとても綺麗な人に見えた。こんな人が学校にいたことに今初めて気づいた。
 柳瀬が怯えた表情をするなんて珍しい。そのか細い謝罪を彼は無視してそのまま歩いて行ってしまった。僕と楠木はそのしゃんとした後ろ姿を、彼が角を曲がるまで見送っていた。

「き、鬼屋敷(きやしき)だ……やっべ」

 柳瀬はもう彼の姿は見えなくなったというのに声を顰めてそう言った。

「キヤシキ?誰?楠木知ってる?」

「噂だけ、ちょっと」

 コソ、と僕の耳元で呟いて、近づく顔に楠木がメガネを変えたことに今このタイミングで気づいた。

「楠木眼鏡変えたんだ」

「そう。どう?」

 楠木がクイ、と眼鏡を人差し指で上げてそのレンズ越しに横目で僕を見てくる。

「似合ってる」

「おーい月宮、何が楠木眼鏡変えたんだ、だよ。楠木の眼鏡は先週の木曜日に変わってんだよ。つか、鬼屋敷のやばい噂知らねーとかないよな?」

 今度は柳瀬の顔がぐんと僕に近づいた。静かに首を横に振れば、柳瀬は懲りずに後ろ向きで歩きながらその「やばい噂」を教えてくれた。
 鬼屋敷遥(きやしきはるか)は二年五組の生徒で学校に来たりこなかったり、来たと思えば見えるところに傷を作ってるから不良と連んでるんだとか、暴力沙汰を起こしているんだとか。よく生徒指導室に呼び出されてるらしいとか、一匹狼でやばい奴なのに顔とスタイルが良いから女子に超モテるとか。
 全てが噂で、柳瀬が人伝というか、人が話しているのを盗み聞きした情報だから信憑性はないのだが。
 さっき見た鬼屋敷の体格からして日常的に体を動かしていることは間違い無いし、その整った顔立ちからも女子にモテるのは間違い無いだろう。それに髪を染めることを禁止されたこの校舎の中で金髪というのは悪目立ちするから、話に尾鰭が付くのにも納得がいく。

「へぇー」

「へぇーって興味ないか。俺、その噂でしか鬼屋敷のことしらねぇからさ、まじ殴られるかと思った。まぁクラスも選択授業も被らないから顔合わせる事ないもんなー」

「無視されんのもまぁまぁ怖いけどね」

「まー、マジであいつとは絶対に関わらない方がいいと思う。悪い噂はあっても良い噂はモテるくらいだから」

 柳瀬は胸を撫で下ろしながらそう続けた。

「さっきの話だと普通に生活してたら俺らと交わることはないと思うけど」

「俺たちの平穏な高校生活を奪い去る敵は至る所にいるって訳よ」

 やれやれといった仕草をした柳瀬の台詞じみた言葉を楠木は華麗にスルーして、話は部活の朝練をするとしたら何をするかといった大喜利に変わっていった。

 交わらない人。
 それはこの小さな学校というコミュニティの中でさえ大半を占める。自分と交わる人の方が遥かに少ない。友達はおろか、知り合いですら少ない僕にとっては尚更だ。
 だからこそ、僕はその交わらない人に深い関心を持ってしまう。
 僕だったら校則は破らないから髪を明るくすることだって、学校を休むことだってしない。だけど、憧れはある。少しだけ、今より少しだけ自由になれたらと、思い描くことくらいある。けれど僕はそんな風にはなれない。彼とは対極にいる、交わらない人なのだ。