白群に、散れ


 1


 高二の夏、怪我をした。大会が終わってひと息ついた頃のことだった。交通事故に巻き込まれた僕は膝を壊して、それまでとは違う体と一緒に、そこから先の一生を過ごさなければならなくなった。
 グラウンドに飛び交う掛け声は、あのときと何ら変わらないのに、自分だけが過去に置いていかれたみたいだ。僕にはもう、あそこに立つ能力はないのに、今もまだ惨めったらしく野球の世界にしがみついて、みんなの背中に夢を託している。

 ベンチに座って、練習球を磨く。籠の中で山盛りになっているそれは、昨日までの雨のせいでべっとりと黒い泥にまみれていた。湿らせた雑巾で擦ると、白球の表面の微かな凹凸が指先に伝わってくる。ピッチャーなら誰でも知っている、この皮の感触。指にかかる縫い目の高さ。
 無意識のうちに、中指と人差し指をシームに沿わせて握り込んでしまう。
「……ったく、未練がましいんだよ」
 小さく吐き捨てて、僕はすぐに手を離した。球を握ったところで、もう思い切り腕を振って投げることはできない。踏み込んだ時に、右の膝が僕の全体重を支えきれないからだ。
「センパァイ!!」
 突然、目の前の金網が、がしゃん、と鳴った。顔を上げると、グラウンドの砂埃でユニフォームを泥だらけにした少年が、網越しに僕を見下ろしていた。頬に網目が食い込まんばかりに張り付いて、こちらを覗き込んでいるのは、ピッチャーの後輩、瀧河真守だ。
 「瀧河、サボってないで走ってこい。今のメニュー、外周だろ」
 「走ってきましたよ。おれ、足速いんで」
 真守は悪びれもせず、白い歯を見せて笑う。額から流れる汗が、日焼けした頬の泥を筋のように洗い流している。
 こいつは、一年生の頃から僕の背中ばかりを追ってきて、僕が怪我をしたあとは、「センパイの後はおれが継ぎます!」などと豪語して、監督に「お前のせいで控えピッチャーを作らなければならなくなった」と苦い顔をさせていた。スタミナ配分を考えない無鉄砲な投球の穴を埋めるために、僕の同級生の佐伯が先発として急遽マウンドに引っ張り出されることになったのは秋の大会の手前だった。そうやってチームに負担をかけながらも、真守は実力でその場所を自分のものにし、間もなくはじまる夏の大会では、エースナンバ―を託される見込みだ。
 「で? 用件は」
 真守は金網に指を絡めたまま、僕の足元にある籠に視線を落とした。
 「センパイ、それ終わったらおれのアイシング作ってくれませんか」
 「……お前、まだ投球練習残ってるだろ」
 「今日はもう上がりです。監督が、球数制限だからって」
 そう言いながら、真守は左手でポン、と軽く金網を叩いた。「おれ、先輩に冷やしてもらうの、結構好きなんスよね」
 悪気のまったくない、それでいて無神経な言葉に、胸の奥がちくりと痛んだ。こいつは僕がマウンドに立てないことを知っている。それなのに、僕の手で自分の肩を冷やせと言う。それが今の僕に与えられた『役割』だからだ。
 「……わかった。部室開けとく」
 「あざっす! あ、そのボール、後でおれも一緒に磨くんで!」
 言うが早いか、真守は弾かれたようにグラウンドの方へ駆けていった。
 残された僕は、再び泥だらけのボールを手に取った。さっきの真守の言葉。あれは純粋な後輩の甘えなのか、それとも、自分がエースだという無自覚な暴力なのか。どちらにせよ、僕は逃げられない。この手に残った白球の感触が消えない限り、僕は真守の背中越しに、あの日立てなかったマウンドの景色を見続けるしかないのだ。

 2

 「センパイセンパイ、おれ、景飛さんに褒められたッス! また球速上がったなって!」
 球磨きもそこそこに、部室に戻ってアイシングの準備をしていると、それを嗅ぎつけたかのように、真守が駆け込んできた。
 「……そうか。良かったな」
 淡々と答えて、僕は氷嚢にクラッシュアイスを詰め込む。ガラガラという無機質な音が、僕の心臓の音を誤魔化してくれる気がした。
 球速が上がった。それは、エースとしてこれ以上ない吉報だ。けれど、その報告を受けるのが、かつてその速度を誇っていた僕であることに、真守は少しも躊躇いを感じないのだろうか。
 「なんスか、もっと喜んでくださいよ。センパイに教わったフォーム、完璧にハマってるんスから。おれなりに頑張ってんスよ。今はまだ、エース石ヶ谷鷲弥の、残響? 反響? 影響? どういったらいいかよく分かんないッスけど、そういう感じのがバチバチ残ってるんで、負けねえようにって」
 真守はパイプ椅子にどかっと腰を下ろすと、泥と汗を吸って肌に張り付いたユニフォームのボタンを、もどかしそうに外していく。剥ぎ取るようにそれを脱ぎ捨てると、続けてアンダーシャツの裾を掴んで一気に頭から引き抜いた。
 露わになったのは、十七歳の、毎日鍛錬を積んでいる肉体だった。 ピッチャー特有の、横に広く張った逞しい肩。そこから肘にかけて、しなやかに、そして強固に編み上げられた筋肉のラインが、汗を弾いて鈍い光を放っている。胸板は厚く、呼吸のたびに大きく上下し、浮き出た鎖骨の窪みに汗が溜まっては、溝を伝って腹筋の陰影へと流れ落ちていく。
 日焼けした肌と、アンダーシャツに隠されていた白い肌の境界線。 そのコントラストが、彼がどれだけ過酷な太陽の下で『現役』を謳歌しているかを突きつけてくる。
 「ほら、センパイ。早く」
 急かされて、僕は氷嚢を持って彼の隣に座る。触れるか触れないかの距離。練習終わりの彼の身体からは、熱い汗の匂いと、若い獣のような生命力が溢れていた。突き出されたその右肩は、投げ終えたばかりの熱を孕んで、微かに震えていた。かつて僕も持っていたはずの、そして今はもうほとんどが失われてしまった、戦う者のための筋肉。その生命力に溢れた美しさが、僕の前に在る。
 僕は乾いた喉を鳴らし、逃げ場をなくした視線を、その熱い肌へと落とすしかなかった。
 「……動くなよ」
 僕は小さく呟いて、氷嚢を真守の右肩に当てた。
 「ひゃっ……! つめてえ、効っくう!」
 真守は肩を震わせ、大袈裟に身をよじる。僕は逃げようとするその筋肉を、左手でしっかりと押さえつけた。氷嚢越しに伝わってくるのは、マウンドで酷使されたばかりの熱い、熱い脈動。指先が真守の熱に侵食されていく。
 「我慢しろ。肩も消耗品なんだ。使ったあとはちゃんとケアしないと駄目だろ。また無茶したんだろ」
 「……だって。センパイが見てくれてると思うと、つい頑張ろうって思っちゃうんスよ」
 真守は前を向いたまま、ぽつりと漏らした。さっきまでの勢いはどこへやら、少しだけ低くなったその声が、狭い部室に妙に響く。
 僕は氷嚢を固定するために、彼の背中に手を回した。指先が、汗で滑る彼の背筋に触れる。武道を嗜む者のそれとは違う、あるいは水中を果敢に泳ぐスイマーのそれとも違う。対峙する打者をねじ伏せんとする腕を、鞭のようにしならせるために作り上げられた、ピッチャーの背中。
 かつて、僕がいた場所。その感触をなぞるたびに、胸の奥が焼けるように痛む。けれど、今はそれ以上に、自分の手のもとで大人しく『管理』されている真守の存在が、僕の独占欲を刺激した。
 「……センパイの手、冷たくて気持ちいいっス」
 不意に、真守が僕の左手に自分の手を重ねてきた。マメで硬くなった手のひら。氷嚢を介さず、直に触れ合った肌の温度差に、僕の心臓が跳ねた。

 部室の扉が開いた。静謐が一気に破られる。喧騒が、一気に押し寄せてきた。
 「やべー、あっちー!」
 「やっと終わったー、こんなん毎日やってたら死ねるわ、マジで」
 「一年! ちゃんと片付けやっとけよ!」
 ベクトルがいろんな方向に向いている部員たちの声に、空気を支配される。
 「おっ、鷲弥、瀧河の面倒見てくれてたのか?」
 その中の声のひとつが、僕に向いた。黒鳥景飛。部員の中で一番身長が高い彼は、正捕手だ。つまりはかつての僕の女房役で、いまは真守の投球を受けている。
 「……ああ。球数制限で早めに上がるって言うし、アイシングしてたんだ」
 僕は跳ね上がった心臓を無理やり押さえつけ、真守に重ねられた手を振り払うようにして氷嚢を持ち直した。真守はちっとも悪びれる様子もなく、むしろ「邪魔が入った」と言わんばかりに不満げな顔をして、景飛を見上げている……ように見える。
 「景飛さん、おれの球、今日最高に仕上がってたでしょ。こないだセンパイから言われた通りに、ちゃんと握り込みとか、指先まで意識したら、浮き上がるみたいなストレートが投げられたんスよ」
 「ああ、なんか調子いいなって思ってたぜ。お前、鷲弥に憧れて真似しようとしてたみたいだけど、逆にいまはこいつを超えようとしてるだろ」
 景飛が笑って、真守の頭をごしごしと乱暴に撫でる。真守はまんざらでもなさそうに、目を細めて喜んでいた。
 女房役だったからこそわかる、僕の癖。僕の技術。それを、真守に託して、彼が自分の血肉に変えてマウンドで暴れている。その事実に、僕は体の底から轟々と湧き上がってくる嫉妬と、それを上回るほどの救いを感じていた。
 僕が立てなくなったあの場所で、僕の意志がまだ生きているような気がするからだ。

 3

 「……残酷だな」
 「何がだ?」
 誰にも聞こえないようにと思って小さく呟いたのに、こぼした言葉を景飛がすぐさま拾い上げた。独白など、心の中に留めておくことも出来たはずなのに、声に出してしまったのは、ほんとうは誰かに聞いてほしかったというあらわれだろうか。
 顔を上げると景飛は僕に背を向けたまま、着替えたワイシャツのボタンを留めているところだった。
 「仮に僕がここにいなくても、野球部は続いていく。それはたぶん、普通のことなんだろうけど、僕という存在がもう不要だって突きつけられているように思えてきて……」
 言葉を続ける。語尾の勢いがだんだん弱くなっていくのを、自分でも感じていた。
 「お前、本気でそんなこと思ってるのか?」
 景飛は部室の窓を閉めた。途端に外の喧騒が遠くなって、僕たちの周りに静寂が顔を覗かせた。
 「部が続いていくのは当たり前だ。だけどな、お前がそこにいなくても回るなんて、そんなわけないだろ。……鷲弥、たしかにお前はもう選手じゃない。でも、代わりがいくらでもいる駒でもないんだ」
 仲間じゃねえかと、景飛が言った。「お前がもうピッチャーを続けられないって分かったときは、そりゃあ、『あ、終わった』って思ったけどさ、それでもなんとかチームは回ってる。でもそれは、瀧河がお前の後を継いだからってだけじゃない。お前が野球から足を洗わずに、こうして今も一緒にいてくれるってことも、大きいんじゃねえのかな。とくに俺らの代はな」
 景飛はそこまで言うと、着替え終えたユニフォームを乱雑にリュックへ押し込み、ジッパーを走らせた。その手の動きは迷いがない。彼はリュックを肩に担ぎ直すと、窓際の僕のすぐ隣に立ち、沈みかけた夕陽を直視するように目を細めた。
 「関わるかたちが変わっても、俺はお前が今もここにいてくれて、嬉しいよ」
 景飛と僕がバッテリーを組み始めたのは、高校に入ってからだ。幼馴染みでもないし、小さい頃から一緒に野球をやっていたわけでもない。
 絆というものは、一緒に過ごした時間が長いほど大きくなるものではない。毎日泥にまみれて、景飛が構えるミット目掛けて球を投げ続けてきた。その必死な繰り返しの積み重ねが、僕たちのあいだに、他人には踏み込ませない空気を作っていたのだと思う。
 「いま俺が受けてるのは、瀧河の球だ。でもな、鷲弥。あいつはお前に憧れて、模倣しようとさえしている」
 落ち着いた、けれど確信に満ちた声だった。
 「あいつの真っ直ぐを受けると、時々、お前が投げてるんじゃないかって錯覚するくらいにな。それだけあいつは、お前の背中しか見てねえんだよ。あいつにとっての正解は、今も昔も、お前が培ってきたフォームなんだ」
 その言葉は、僕の心臓の奥を直接掴むような痛みを持っていた。真守は僕を敬愛しているのだと思っていた。僕という存在を失わないために、僕の影を必死に追いかけているのだと。
 けれど、景飛の言うそれが真実なら。真守は、マウンドに立って僕の代わりを完璧に務めることで、僕の居場所を——僕という存在そのものを、自分の中に刻み込もうとしているのではないか。
 「……あいつ、僕がアイシングしてやると、『気持ちいい』なんて言いやがったんだ」
 僕は視線を落とし、自嘲気味に呟いた。
 「まるであいつの身体を管理するための、冷え切った機械にでもなった気分だよ」
 「……そうか」
 景飛は短く応えると、部室の電気を消した。一瞬で訪れた暗闇が、僕の本音を隠したみたいだ。
 「帰るぞ」
 景飛の無骨な声に促され、僕は彼について部室を後にした。外に出ると、グラウンドの向こう、校門のあたりに、誰かの人影が見えた。僕たちを待っているかのように、じっと動かずに、その影は立っていた。
 「センパイ!」
 「瀧河!?」
 僕たちが着替えて話をしているあいだ、ずっと待っていたのか? あとに続いた問いを、ぐっと押し込めて、真守の前に立った。
 いつもは同級生の部員たちとつるんで帰っているくせに、今日に限ってどうしてここにいるのだろう。
 「……待たせすぎっスよ、二人とも。ソーダ、飲み終わっちゃったじゃないっスか」
 真守はそう言って、空になったペットボトルをベコリと潰してみせた。
 「悪いな。ちょっと話し込んじまった」
 景飛が僕の代わりに答える。真守は「あー、いいっスよ。どうせ暇だったし」と適当に返すと、当然のような顔をして僕たちの間に割り込んできた。
 左に景飛、右に真守。真ん中を歩く僕の歩調は、どうしても少しだけ遅れる。二人はそれを急かすこともなく、僕の不自由な右膝に合わせるように、ゆっくりと学校の前の坂を下っていく。
 やがて、通学路の途中のコンビニに差し掛かったとき、真守が唐突に足を止めた。
 「あ、おれ、アイス食いたいっス」
 「……お前、さっき炭酸飲んだばっかだろ」
 僕の呆れ声を無視して、真守は「センパイの奢りで!」と僕の背中を強引に押して店内に連れ込んだ。結局、景飛も「俺も便乗しよ」とついてきて、僕たちは店先のベンチでアイスを食べることになった。
 真守が選んだのは、安いソーダ味の氷菓だ。
 「あ、当たり。……やった、当たりっスよ、これ!」
 真守が興奮気味に、食べかけの棒を僕の目の前に突き出してきた。
 「……わかったから。顔が近いよ」
 僕はそれを手で退けようとしたが、真守は引かなかった。それどころか、僕が食べているバニラアイスをじっと見つめ、「それ、一口ください」と言うが早いか、返事をする前に、僕が持っていたスプーンを奪って自分の口に運んだ。
 ——間接……。そんな言葉が頭をよぎる暇もないくらい、あまりに自然な、厚かましいまでの距離感に、僕は呆然と真守を見つめてしまった。
 「……うまーい! やっぱおれもそれにすれば良かったッス!」
 真守は満足げに目を細め、奪ったスプーンを僕に返した。
 受け取ったスプーンは、さっきまで真守の口の中にあったものだ。 その事実が、遅れてやってきた熱のように僕の指先を、そして顔を灼いていく。
 「……お前、本当に遠慮ってものを知らないな」
 「センパイだからッス!」
 間髪を入れず、真守は一気に言った。屈託のない笑顔であまりに堂々と言われて、返す言葉が見つからない。アイスを掬って口に含んだが、鼻に抜けるミルクの甘みも、喉を通る冷たさも、さっきまでとはまるで違って感じられた。
 「……お前、他のやつにもこんなことしてんのか」
 「するわけないじゃないっスか。景飛さんのアイスとか、絶対に一口も欲しくないっスもん」
 「おい」
 隣で景飛が低い声で突っ込む。真守は「あはは!」と笑いながら、自分のソーダ味の氷菓をガリガリと豪快にかじった。

 4

 今年も夏が近づいている。仲間たちは、一年前の屈辱を晴らすべく、あるいは高校野球の集大成を飾るべく、これまで以上にピリついた熱を帯び始めていた。
 おまえのために今年こそ甲子園に行く。——そんなことは一言も言われていないが、言われていないからこそ感じるものがある。あいつらはきっと、心の片隅にそんな想いを置いてくれているのだろう。
 グラウンドに響き渡る掛け声と、白球が放つ快音と——そんな音が耳に飛び込んでくるのを、僕はどこか他人事のように感じるようになってしまった。
 練習の合間、ベンチの隅でひとり、部員たちの分のスポーツドリンクをジャグに補充する。
 「センパーイ! センパイセンパイセンパーイ!」
 スパイクが土を削る音と共に、真守の騒がしい声が背中を叩いてきたのは、僕がベンチにジャグを置いたときだった。
 「真守、うるさい。グラウンドの端まで聞こえてるぞ。他の部活のやつらにまで迷惑かけんな」
 「いいじゃないっスか。あー……死ぬ。マジで死ぬ。今のノック、監督絶対わざと俺のところばっか飛ばしましたよ。イジメっス、ありゃ完全に公開イジメ」
 真守はベンチに転がり込むなり、僕の肩に頭を預けてぐったりとうなだれた。首筋からは湯気が立ちそうなほどの熱気が伝わってくる。
 「……っ、暑い。離れろ。お前、自分が今どれだけ汗臭いか自覚してんのか」
 「えー、ひどいッス! マネージャーなら『お疲れ様』の一言くらいあってもいいじゃないっスか」
 「お疲れ様。はい、言ったぞ。ドリンク飲んだらさっさと戻れ」
 僕が差し出した紙コップを、真守は片手で受け取って一気に飲み干した。ぷはあ、とわざとらしい溜息をついて、空のコップを僕の手に握らせる。
 「……これ、今日ちょっと薄くないっスか? センパイ、粉ケチりました?」
 「お前の舌がおかしくなってるんだよ。……ほら、口の横に砂がついてるぞ」
 「え、どこっスか」
 真守は自分の袖で適当に口元を拭ったが、見当違いの場所を擦っている。僕はため息をついて、首にかけていたタオルで真守の頬をぐいっと拭いた。
 「そこじゃない。……ったく、お前は本当に手がかかるな」
 「……へへ、あざっす」
 真守は大人しく拭われながら、至近距離でニカッと笑った。
 「よっしゃあ! 復活! じゃあ、練習戻るんで。あざっした!」
 真守は立ち上がり、軽く肩を回すと、再び炎天下のグラウンドへと駆けていった。僕は手元に残った空の紙コップと、少しだけ湿った自分のタオルを見つめる。
 ……あいつ、さっき僕のタオルで拭いたとき、一瞬だけ僕の指先へ、犬がそうするみたいに自分の鼻先を押し付けてこなかったか?
 気のせいだろうか。ただの偶然、あるいは僕の自意識過剰。そう片付けることも出来た。
 「……ったく。あいつの距離感、本当にバグってる」
 僕は使い終わった紙コップをゴミ袋に放り込み、独り言をこぼした。真守がマウンドに立つようになってから、こういう「気のせい」だと思いたい出来事が増えた気がする。きっと僕が過敏になっているだけだ。選手を辞めて、あいつを「見る」ことが役割になってから、必要以上に細かい動きまで追ってしまう癖がついたせいだろう。

 六月。梅雨の天気に振り回される僕たちの活動は、練習場所が屋内だったりグラウンドだったりして、みんなそれだけで一喜一憂していた。普段はグラウンドでのきつい練習を嫌がっている部員も、雨が三日も続けばそれが恋しくなったり、晴れの日が続けば炎天下ではない屋内を求めたりしていた。
 部室には夏の予選のトーナメント表が貼り出された。選手たちがその前でああだこうだと言い合う姿を、僕はスコアブックを抱えたまま、少し離れた位置から眺めていた。
 事故からもうすぐ一年が経とうとしている。選手を引退し、マネージャーという肩書きでこの場所に居座るようになってから、随分と時間が経った。ベンチでスコアをつける手つきも、ジャグの氷を補充するタイミングも、今では自分の怪我をした右膝を庇う歩き方と同じくらい、身体に馴染んでしまっている。
 バッティングゲージの裏。僕は一人で、練習で泥だらけになったヘルメットを雑巾で拭いていた。
 「……鷲弥、おつかれ。まだやってたのか」
 背後から声をかけてきたのは、景飛だった。彼は正捕手として、練習後も居残りでピッチャーたちのミーティングに参加していたはずだ。
 「これ終わったら上がるよ。景飛こそ、ミーティングはいいのか?」
 「ああ。さっき終わったばっか。……真守なら、一人でシャドーピッチングやってるぞ」
 ほら、あそこと、景飛が顎で示した先——薄暗くなり始めたマウンドに、一人の人影があった。ボールは持っていない。けれど、あいつはタオルを代わりに握って、僕がかつてそうしていたように、何度も、何度も、架空のバッターを捩じ伏せるために腕を振っていた。
 バチィン、と鋭い音が空気を引き裂いた。タオルが空を切る音だ。真守の動作には一切の迷いがない。左足を高く上げ、重心を沈み込ませ、右腕をムチのようにしならせる。
 いつもベンチで「死ぬ死ぬ」と騒いでいたやつと同一人物とは思えないほどの、静謐な集中力。二年生で、エースとして活躍している真守は、彼の同級生のあいだで結構評判らしい。マウンドに立つ真守だけを見ていれば、その評判どおりのイメージを持つことができるだろう。
 真守が最後の一振りを終え、肩で息をしながら顔を上げた。タオルで額を拭おうとした拍子に、その視線がバッティングゲージの影にいる僕たちを捉える。その瞬間、真守の「エース」としての空気が崩れ去った。
 「わっ! しゅっやっさん!! 鷲弥センパーーイ!!」
 タオルを放り出し、真守はマウンドを飛び降りた。砂埃を上げながら一直線にこちらへ駆けてくる姿は、飼い主を見つけた大型犬にしか見えない。
 「見てました!? 今の最後のスライダー、キレキレじゃなかったっスか!? っていうか、センパイ、いつから見てたっスか!?」
 「……うるさい。さっきから景飛と見てたよ。あと、噛むな」
 全力疾走で辿り着いた真守は、しゃがみ込むと上目遣いで僕を覗き込んできた。
 「マジっスか! うわー、だったらもっと気合入れて投げればよかった! あ、もう一回戻ってやっていいっスか?」
 「いいから、もう上がれ」
 「えー! せっかくセンパイが見てくれてるのに!」
 真守は不満げに頬を膨らませたが、すぐに思い直したように顔を輝かせた。「でも、見ててくれたんスね。今のフォーム、センパイの去年のフォームを意識したんスよ。気づきました? 気づきましたよね!?」
 興奮してグイグイと迫ってくる圧に、僕は思わず一歩後退する。マウンドでの静かな執念と、目の前の底抜けな明るさ。激しすぎるギャップに、僕はいつも翻弄されてしまう。
 「……気づいたよ。振り切ったあとの、タオルの鳴きが遅い。ギリギリまで指先でタオルの端を引っ掛けて、一番前で離してる証拠だ。一年前、僕が一番こだわってたリリースの位置とおんなじだよ」
 僕がそう言うと、真守は一瞬だけ目を見開いて絶句した。シャドーピッチングでタオルを振る際、空気を切り裂く「バチィン」という音は、加速が最大になった瞬間に鳴る。普通のピッチャーなら、頭の横を通り過ぎたあたりで音が鳴ってしまう。でも、一年前の僕は、バッターに最も近いポイントでボールを放すことに命を懸けていた。そのためには、リリースの直前まで手首を寝かせず、中指の腹でボールの縫い目を最後まで噛む必要がある。
 さっきの真守の音は、まさにそれだった。加速のピークを極限まで遅らせ、バッターの目の前でタオルが爆発するような風切り音。指先の使い方は直接見えなくても、その音が鳴る「位置」と「鋭さ」を聞けば、あいつがどれだけ指先に神経を集中させて僕の模倣をしているか、嫌というほど分かってしまうのだ。
 「っしゃあ!! 景飛さん、聞きました!? 音だけでリリースポイントがバレるなんて、さすが本家っスよ!!」
 真守は弾かれたように叫ぶと、景飛の肩をバシバシと叩いた。
 「はいはい、わかったから。音が遅いってことは、それだけ腕がしなってる証拠だ。……鷲弥、お前の教え方がよっぽど染み付いてるんだな、こいつには」
 景飛が呆れたようにそう言って、僕の隣でヘルメットの汚れを指で弾いた。 真守は「あ、タオル拾ってこないと!」とマウンドへ戻り、拾い上げると再び全速力でこちらへ走ってきたのだった。

 5

 夏の大会に向けたベンチ入りメンバーの背番号が配られた。公式戦用の真っさらな白布に、太い黒文字で印字された『1』。
 真守はその布を、壊れ物を扱うような手つきで両手に捧げ持っていた。
 「……センパイ」
 部室の隅で、ユニフォームを仕分けしていた僕の隣に、真守が静かに座り込んだ。
 「……なんだよ。おめでとう、真守。ようやく名実ともに、うちのエースだな」
 なるべく平坦な声を意識したが、真守は何も言わず、握りしめていた背番号を僕の膝の上にそっと置いた。
 「……嬉しくないわけ、ないんスよ。おれ、この番号を背負うためにセンパイの背中を追ってきたんスから。でも……」
 真守の声が、低く、かすかに震える。
 「これを受け取るってことは、センパイから『1』を完全に奪うってことじゃないっスか。おれがこの番号を背負ってマウンドに立つたびに、センパイがそこに居ないことを、おれが一番突きつけられるんスよ。……なんか、心臓のあたりが、ザラザラするんス」
 僕は膝の上の『1』を見つめた。一年前、僕が付けていた番号。事故で膝を壊し、マウンドから引きずり下ろされたあのとき、僕が置き去りにしてきた夢。それを今、真守が震える手で、けれどもしっかりと受け取っている。
 「……バカだな。奪うんじゃなくて、僕が繋げなかった続きをお前が投げるんだよ」
 僕はあえて真守の顔を見ずに、その逞しくなった右肩にポンと手を置いた。
 「センパイ。おれ、これ……センパイに縫い付けてほしいっス」
 真守は僕の左手を取り、自分の背中に導いた。アンダーシャツ越しに伝わってくる、背筋の熱い鼓動。
 「他の誰でもなく、センパイの手で。おれの背中に、センパイの意志を縫い付けてください」
 エースとしての誇りと、憧れの対象を追い越してしまったことへの罪悪感。その両方が混ざり合った真守の視線が、僕の視神経を焼くように射抜いた。
 「……わかったよ。あんま慣れてないから下手くそかもしれないけど、文句言うなよ」
 僕が小さく頷くと、真守は「……っ、あざっす」と声を詰まらせて、僕の肩に額を押し当ててきた。
 部室のパイプ椅子に腰掛け、僕は膝の上に広げた真っさらなユニフォームと格闘していた。
 指先で探る布地の厚み。白い糸を通した針が、夕暮れの淡い光を反射して小さく光る。
 真守は僕のすぐ隣に床に直接座り込み、僕の手元を食い入るように見つめていた。普段の、グラウンドを暴れ回るような騒がしさは微塵もない。ただ、僕が針を進めるたびに、真守の視線が指先に絡みついてくるのが分かって、指先が熱くなるような感覚がした。
 「……センパイ」 
 「なんだよ。集中させてくれ」
 「……おれ、センパイのその指、好きなんスよね」
 唐突に漏らされた言葉に、針を持つ手がわずかに止まった。
 「ピッチャーをやっていた人の指。指先が太くて、タコができている。指が全体的に少し歪んでて。……その指が、おれのために針を動かしてくれてるの、なんか、すごく変な感じがするっス」
 真守は膝を抱え、僕が膝の上に置いた自分のユニフォームの『1』という数字を、まるで宝物を眺めるような目で見つめている。
 「……本当は、お前が自分でやるべきなんだぞ。自分の背番号だろ」
 「分かってます。でも、センパイが縫ってくれないと、この『1』はただの布きれだって思うんスよ。センパイの意志が糸になって、おれのユニフォームに染み込んでいくのを見ていたいんス」
 チクッ、と布を通る音。一針進めるごとに、真守が小さく息を呑むのが伝わってくる。
 僕がボールを磨くときと同じ、執拗で、けれど一点の曇りもない真っ直ぐな視線で、僕の作業を見届けていた。
 「センパイ。……なんかぎこちないッスね」
 「慣れてないだけだ」
 「……もしセンパイの指に針が刺さったら、おれのせいッスよね」
 真守の声は、ひどく静かだった。
 「……大袈裟なんだよ、お前は」
 僕はあえて素っ気なく答えて、最後の一止めを刺し、糸を噛み切った。膝の上で、真っ白なユニフォームの中央に、黒い『1』が力強く鎮座している。それは、僕が去年の夏に置き去りにしてきた夢の形であり、同時に、これから瀧河真守というひとりの選手が、エースナンバーを背負って戦うための覚悟の証明でもあった。
 「……できたぞ。ほら、持っていけ」
 僕がユニフォームを差し出すと、真守はそれを両手で恭しく受け取った。真守の指が、僕の縫った『1』の文字をそっとなぞる。
 「……あざっす。センパイ」
 真守が顔を上げた。
 「おれ、これ着て、絶対に勝つっス。……センパイの見てる前で、誰にもこの背中を抜かせない。……約束するっスよ」
 大袈裟なんだよ。でも、頑張れよ。——僕がそんなようなことを口にしようとしたときだった。喉元まで出かかった言葉は、口を開いた瞬間にはもう形にならず、どこかへ飛散していった。
 ドカドカという足音と共に、部室の扉が乱暴に跳ね開けられた。 一瞬で、それまでの雰囲気が粉々に砕け散る。
 「瀧河、どこに行ってんのかと思ったら、こんなところにいたのかよ!」
 真守の同級生たちがわらわらとこちらに近寄ってくる。彼らは僕の存在に気付いて、急にかしこまって帽子をとって会釈をした。
 「お、お疲れ様です、石ヶ谷さん!」
 「……おう、お疲れ。瀧河、ほら。早く着替えて片付け手伝えよ」
 僕はあえて事務的な声を出し、自分たちを囲んでいた奇妙な空気を、日常のそれへと引き戻した。立ち上がるとき、右膝が小さく軋む。その僅かな痛みが、今の僕の立ち位置を思い出させてくれた。
 「石ヶ谷さん、瀧河の背番号、わざわざ縫ってやってたんですか? こいつ、絶対自分じゃまともにできないっすもんね」
 ひとりが笑いながら言うと、それまで固まっていた真守が、弾かれたように叫んだ。
 「うっせえ! これはただの背番号じゃねぇんだよ! センパイの意志が、一針ごとに一万ボルトくらい込められてるんだからな!」
 「なんだよそれ、わけわかんねえこと言ってんじゃねえよ。その番号に恥じないプレーをしろよ、お前は」
 「チッ、わかってるよ。いまに見てろよ。一ヶ月後、甲子園に行くのはおれたちだ」
 真守はいつもの調子で、けれど抱えたユニフォームを離すまいと強く握りしめながら、同級生たちに言い返している。
 いまの二年生の部員は、去年、一年生のときに、僕が選手だった頃のことを見ている。事故をしたことも知っている。だから、あの時を境に、先輩に対する敬意よりも、どう節したらいいかという気遣いや遠慮のほうが、態度に強く滲み出るようになった。
 そういったものが、僕にとっては一番きつかったりするのだけれど、彼らに悪気がないことも分かっている。だから僕は、何も気づかないふりをして、部を支える裏方として振る舞うしかない。
 「石ヶ谷さん、瀧河のこれ、めちゃくちゃ綺麗に縫われてるじゃないっスか。おれらにもやってほしいくらいっす」
 「バカ言え。お前らの分までやってたら、センパイが倒れちゃうだろ。おれのは特別なんだよ、と・く・べ・つ!」
 真守が勝ち誇ったようにユニフォームを掲げるのを横目に、僕は黙って裁縫道具を片付けた。彼はそうやって、僕とのあいだに線を引きたがる。他の誰でもない、自分だけが僕の意志を引き継いでいるのだと言わんばかりに。

 学校を出て、坂を下りきったところで、景飛が不意に足を止めた。
 「鷲弥、真守。……ちょっと温まりに行こうぜ」
 景飛の言葉に、真守が「おっ、銭湯っスか!?」と、待っていましたと言わんばかりに目を輝かせる。三人で学校の近くにある古びた銭湯『松の湯』へ寄ることになった。

 ガラガラ、と木製の引き戸を開けると、湿った木の匂いと石鹸の香りが僕らを迎えた。 三台並んだマッサージチェアと、何十年分かの水分を含んでいるのか、色の濃くなった木桶。番台には、顔なじみのおばあさんが、今日も座っている。
 「いらっしゃい。いま、男湯は誰もいないから、あんたたちの貸し切りだよ」
 喜んでいいのか悪いのか、僕は苦笑した。
 「センパイ! おれ、一番乗りっス!」
 脱衣所で、真守は服を脱ぎ捨てていく。剥き出しになった若々しい肉体。マウンドの上でしなやかに腕を振るために鍛え上げられたその体躯は、湯気の熱気をはじき返すかのごとく猛々しい。
 僕の右膝に残る手術の痕。それまで衣服の中に隠されていた僕の過去があらわになるたび、胸の奥が少しだけ重くなる。
 浴場で並んで座り、鏡に向かって体を洗う。隣にいる真守は、これでもかというほど丁寧に、自分の右肩を揉みほぐすように洗っている。
 「……センパイ、背中。流していいっスか」
 「……は? 自分でできる。お前、自分のケアに集中しろよ」
 「いいじゃないっスか。センパイ、膝のせいで変なところに力入ってるから、背中凝ってるはずっスよ」
 真守は僕の返事を待たず、後ろに回って泡立てたタオルを僕の背中に当てた。彼の手の感触がタオル越しに伝わってくる。
 「……くすぐったい」
 「我慢してください。……うわ、やっぱここ。肩甲骨のまわり、ガチガチっスよ。センパイ、無理してないっスか?」
 真守の指先が、背中の筋肉をなぞる。握力は人並み以上にあるだろう。だから、肩甲骨をぎゅうぎゅうと揉まれて、筋肉の芯から緊張がほぐれていくような、そんな感触がした。
 選手を引退して、僕はやはり運動量がそれまでと比べてガクンと減った。運動量が減った分、筋肉が落ちるのは早かった。かつては真守と同じように——あるいはそれ以上に、鎧のような筋肉を背負っていたはずなのに、鏡に映る自分の輪郭は、一年前よりどこか薄く、頼りなく見える。
 「……センパイ、もっと力抜いて。おれに身を任せてくださいよ」
 真守の声が、湯気に反射して耳元で低く響いた。タオルを持っていたはずの手が、いつの間にか直に僕の肌に触れていた。指先が、僕の背中の皮膚をじりじりと撫で上げる。
 「っ……おい、真守。タオルはどうした」
 「……滑りが悪いんで。素手のほうが、センパイの凝ってるところがよく分かるから」
 親指が脊椎の溝をなぞり、そのまま脇腹を掴むように力が込められる。真守は僕の身体を強引に自分の方へと引き寄せた。
 「……っ、やめろ、くすぐったいって言ってるだろ」
 僕は身を捩って逃げようとしたが、真守は離さなかった。それどころか僕の肩に顎を乗せるような位置まで顔を近づけてきた。鏡越しに、目が合う。鏡の表面は湯気で白く曇っていたけれど、その奥にある真守の瞳が、獲物を狙う猛禽のような鋭さで僕を射抜いているような気がした。
 「……逃げないでください。センパイの身体が今、どうなってるか……おれが一番よく知っておきたいんスよ。骨の位置も、筋肉の付き方も……全部」
 真守の吐息が、濡れた僕の耳朶を熱く打つ。その言葉には、後輩が先輩を労うような優しさなんて微塵もなかった。もっと剥き出しで、独占的で……なにより、逃げ場のない執着。
 「鷲弥、真守。いつまでそこでイチャついてんだ。のぼせるぞ」
 湯船の中から、景飛の呆れたような声が飛んできた。その声に弾かれたように、真守の手が離れる。僕は肺に溜まっていた熱い空気を、一気に吐き出した。
 「……のぼせてねえよ。瀧河、お前はもういい。湯に浸かってこい」
 「ちぇっ……分かりましたよ」
 真守は不満げに唇を尖らせると、立ち上がって湯舟へと向かった。彼が歩くたびに引き締まった広背筋が波打つ。その逞しさを眩しいと感じると同時に、僕は自分の胸の鼓動が、ロードワークで走った後よりも激しく打っていることに気づいてしまった。
 ——なんだ、今の……。
 ただのスキンシップ。真守の距離感がバグっているのはいつものことだ。そう自分に言い聞かせても、あいつの指先が触れた背中の感触が、いつまでも消えない。熱いお湯に浸かっても、その熱さより、真守の手のひらの温度の方がずっと、僕の肌を灼いている。
 「……あー。最高っスね、センパイ」
 湯舟の向かい側。真守は僕を真っ直ぐに見つめながら、ニカッと笑った。その屈託のない笑顔の裏に、さっきのあの、ゾッとするほど重い視線が隠されているようにしか感じられない。
 僕は逃げるように顔までお湯に沈めた。揺れる水面越しに、真守の手が僕の不自由な右膝を、水中で優しく、けれど離さないように包み込んできたことに、僕は気づかないふりをすることしかできなかった。

 それから僕たちは、湯の心地よさに溶けそうになりながら、他愛のない会話をした。盛り上がって話していたはずなのに、その後なにを話題にしていたかなんて思い出せないような内容からはじまって、結局は部活の話に落ち着き、真守は夏の大会に向けた抱負を高らかに宣言していた。
 湯舟から上がって銭湯の脱衣所に戻ると、古い扇風機が首を振りながら、湿った空気をかき回していた。火照った肌に風が当たって、ひと心地つく。景飛はさっさと着替えを済ませて、番台の横にある冷蔵ケースの前で腰に手を当てていた。
 「鷲弥、お前は何にする。……真守、お前は言わなくても分かるな」
 「おれ、フルーツ牛乳! センパイと同じがいいっス!」
 「僕もコーヒー牛乳にしようかな」
 意地悪で言うと、真守はそれを本気にしたみたいで、「ひでえッス!」と喚いた。
 景飛は苦笑しながら、コーヒー牛乳を一本、フルーツ牛乳を二本、冷蔵ケースの中から取り出して、フルーツ牛乳を僕たちに寄越した。
 「お前らみたいなお子様は、フルーツ牛乳がお似合いだ」
 「自分は子供じゃないとでも言いたいのか? でも大人だったら、コーヒー牛乳じゃなくてブラックコーヒーを飲むんじゃないのか?」
 「風呂上がりにブラックコーヒーなんて飲めるかよ。疲れた体には、この甘さが染みるんだよ」
 言いながら一気に飲み干す景飛の横で、僕たちもそれぞれのフルーツ牛乳の瓶に口をつけた。腰に手を当てて、冷たい液体を喉に流し込む。お湯で火照った体に、フルーツ風の人工的な甘さが心地よく染み渡っていった。
 「ぷはーっ! やっぱこれっスね!」
 真守はあっという間に瓶を空にして、口元を手の甲で乱暴に拭う。
 僕がゆっくりと残りを飲んでいると、真守がこちらをじっと見つめているのに気づいた。
「……なんだよ」
 「いや。センパイ、風呂上がりだといつもより幼く見えるなって」
 「お前にだけは言われたくない」
 僕が言い返すと、真守は「あはは!」と声を上げて笑った。
 真守は濡れた頭をタオルでガシガシと乱暴に拭きながら、空になった瓶を籠に放り込んだ。そんなに拭かなくても、お前の坊主頭は空気に撫でられるだけで乾くだろうとからかってやる。すでに帰る準備を済ませていた景飛が、僕たちのやり取りを鏡越しに眺めていた。
 僕は残りのフルーツ牛乳を飲み干し、ベンチに腰掛けた。重い荷物を背負うとき、立ったままだとふらついてしまう可能性があるからだ。その動きを、景飛が鏡越しに一瞬だけ、だが真っ直ぐに見つめていたのに気付いた。かつての僕の球をすべて受け止めてきた捕手は、僕が口に出さない痛みを、今でも僕以上に敏感に察知しようとするのだ。
 「……よし」
 立ち上がり、歩行に支障がないか確かめるべく小さく足踏みをする。真守が「大丈夫ッスか?」と手を差し出しかけたが、僕はそれを目で制し、そっと足を踏み出した。番台のおばあさんに短く挨拶をして、木製の重い引き戸を開けて外に出る。
 「鷲弥、少しは膝、楽になったか?」
 一歩前を歩いていた景飛が、立ち止まって振り返った。その低い声には、今の僕の立ち位置を誰よりも尊重してくれている静かな優しさが滲んでいた。
 「ああ。……サンキュ、景飛」
 「ならいい。じゃあ、また明日」ひとりだけ帰る方向の違う景飛は、自分のリュックを背負うと、「真守、鷲弥をちゃんと送れよ」と念を押して、夜の闇に消えていった。
 二人きりになった帰り道。明日の朝練のメニューだとか、誰が一番にグラウンド整備をするかとか、そんな話をしているうちに、真守の言葉の熱がだんだんと上がっていくのを感じた。
 「……センパイ」
 ふいに立ち止まった真守が、僕の顔を見上げた。
 「おれ、あのマウンドに、センパイのぶんまで立ってきます。あそこにセンパイがいた証拠、おれが全部投げ込んでくるんで。……見てて下さい」
 ——甲子園に行く。そんな聞き古された言葉ではなく、真守は自分の言葉で、僕に誓いを立てようとしていた。
 「おれがマウンドで腕を振るたびに、センパイが縫い付けてくれたエースナンバーが、全国のやつらの目に焼き付くんス。それはもう、石ヶ谷鷲弥が投げてるのと変わらない。……事故で止まっちまったセンパイの夏を、おれが絶対にもう一度動かしてやるッス」
 真守は一歩、僕に近づいた。
 「だからセンパイ。……おれが勝つ姿、マウンドで一番輝く姿を、誰よりも見ていてください。おれから、一瞬も目を離さないでくださいね」
 それは、僕の叶わなかった夢を代わりに背負うという、夏の強烈な日差しよりも眩しい宣言だった。あまりに真剣なその視線に、僕は息を呑んだ。ただの後輩としての敬意を超えた、エースとしての強烈な矜持。そして、僕という存在に対する、隠しきれない強い執着の矢印。
 「……頑張れよ」
 僕はなんとかそれだけを返すのが精一杯だった。
 「へへ、約束っスからね。……さ、帰りましょう。明日も早いんスから! あー腹減った! センパイ、おれ、ラーメン食いたいッス」
 真守はいつもの笑顔に戻り、僕の歩幅に合わせてゆっくりと歩き出した。

 6

 夏の予選が始まってから、真守はより一層、よく笑うようになった。
 もともと騒がしいやつではあったけれど、大会期間中のそれは、いつもの無邪気さとは少し違っていた。ベンチに戻ってくるたびに「今日のおれ、どうでした?」と聞いてくる。スコアブックを覗き込んで、「今の三振、ちゃんとKって大きく書いといてくださいよ」などと言う。
 試合のあと、泥だらけのユニフォームのまま僕の隣に座り込んで、渡してやったスポーツドリンクを一気に飲み干しては、「センパイの前だと、なんか余計に喉渇くんスよね」と、よく分からないことを言って笑うのだ。
 そのたびに僕は、うるさいとか、邪魔だとか、早く着替えろとか、そんな言葉で真守を追い払う。試合を重ねるごとに、その笑顔の奥にあるものが少しずつ濃くなっていく気がするのを、自分の気の所為だとは思えなくなってきていた。
 一回戦、二回戦、三回戦。
 すべての試合で真守は投げた。
 背番号『1』を背負って、マウンドに立ち、景飛のミットへ向かって腕を振った。僕がかつて命を懸けていたリリースの位置。僕が何度も繰り返し教えた左足の踏み込み。僕が自分の身体を削るようにして作り上げた、あのフォーム。
 真守はそれを、恐ろしいほど正確に自分のものにしていた。
 ときどき、景飛のミットに白球が収まる音を聞いた瞬間、本当に自分が投げているのではないかと思うことがあった。そんなはずはない。僕はベンチの端でスコアブックを持っていて、右膝は立ち上がるたびに疼いていて、マウンドは遠い。あそこに立っているのは真守だ。そんなことは分かっている。
 それでも、あいつの腕がしなり、白球が打者の胸元へ食い込んでいくたびに、僕の中の何かが、勝手に息を吹き返そうとするのだ。

 準決勝の八回裏、二死二塁。僕は青みを帯びた淡いユニフォームを着て、ベンチに座っていた。
 背番号はない。ベンチ入りの選手としてではなく、記録員としてそこにいるための服だった。
 袖を通すたびに、どうしても奇妙な気持ちになる。選手でもない僕の体が、なぜまだこの薄い水色を含んだ布に包まれているのだろう。スパイクの紐を結び、帽子を被り、胸の校名を指先でなぞるたびに、自分が何かを誤魔化しているような気がした。
 この色は、白群というらしい。白に、ほんの少しだけ青を混ぜたような色。夏空の端を薄く削って、布に染み込ませたような色。真っ白と言うには冷たく、青と言うには頼りない。どちらにもなりきれないその曖昧さが、今の僕には似合いすぎているように思う。
 この格好をしていれば、遠目にはまだ野球部員に見える。ベンチの端に座っていれば、まだ試合の中にいるように見える。だけど僕の右膝はもう、プレートを蹴ることを許されていない。腕を振るための身体ではなく、チームのみんなを見守るための身体になった。泥に汚れる場所も、汗をかく理由も、去年の夏とはまるで違う。それなのに、ユニフォームだけがみんなと同じ顔をしている。
 マウンドに立つ真守の背中には、僕が縫い付けた『1』がある。僕の背中には何もない。その差は、たった一枚の布に印字された数字の有無でしかないはずなのに、遠かった。数字を失った淡い背中に風を受けて、僕はあいつの背番号を見つめるしかない。
 僕はスコアブックを膝の上に広げたまま、ペンの先を紙に押し当てていた。
 押し当てているだけで、何も書けていなかった。
 マウンドの上で、真守が帽子のつばに指をかける。いつもの仕草だった。景飛のサインを覗き込み、小さく頷いて、左足を上げる。
 僕はそのとき、気付いてしまった。——ほんの少しだけ、違った。
 スタンドから見れば分からない。相手打者も、審判も、たぶん監督も気づかない。景飛なら、受けたあとに何か引っかかるかもしれない。けれど、投げる前のあの一瞬にだけ生まれた違和感は、ベンチの端にいる僕の目にだけ、妙にはっきりと映った。
 左足が、逃げていた。
 踏み込むために上げた足が、地面を噛みにいく直前、ほんのわずかに外へ流れた。真守はすぐに腰の回転でそれを引き戻し、右肩を遅らせて、いつものフォームに見えるように整えた。整えた、というより、力で押し込んだ。白球はそのまま指先から放たれ、打者の胸元へ向かって伸びていく。
 直後、景飛のミットが鳴った。鼓膜を突き抜けるような、乾いたいい音だった。
 ベンチが一気に沸く。控えの一年が立ち上がりかけ、監督が低く「よし」と呟く。相手打者は振り遅れたバットを戻せないまま、マウンドの真守を見ていた。
 ストライク。さっきの球は誰から見ても、いい球だった。だからこそ、僕は嫌だった。
 真守はマウンドの上で帽子のつばを押さえ、ほんの少しだけ笑った。いつものあの顔だ。
 ——どうですか、センパイ。いまの見ましたよね。そう言いたげな顔。
 僕は見ていた。見ていたから、喉の奥が冷えた。
 あの球は速かった。球筋も悪くない。打者は確かに差し込まれている。けれど、リリースの直前、指先が白球を最後まで押し込めていなかった。縫い目を噛んで、前で離すのではなく、遅れた肩を腕のしなりだけで追いつかせて、最後は力ずくで投げ切った球だった。
 あの投げ方を、僕は知っている。知りたくもないくらい、知っている。
 右膝の奥が、事故とは関係のない痛み方をしたような気がして、僕は無意識にそこをさすった。
 去年の夏に置いてきたはずの感覚が、骨の内側から指で叩いてくるみたいだった。まだ投げられる。まだいける。あと一球。あと一回。そうやって自分の身体に嘘をつかせるとき、ピッチャーは時々、誰よりも綺麗な球を投げる。
 真守がロジンバッグを掴んだ。白い粉が舞う。汗で濡れた指先にまとわりつき、すぐに泥と混ざってくすんでいく。真守はそれを気にする様子もなく、景飛の返球を受け取った。肩で息をしている。大きくはない。けれど、いつもより呼吸を浅く切っている。
 『気づかないふりをするな』
 心のどこかで、誰かが言った。それが自分の声なのか分からなかった。
 真守が二球目を投げた。
 今度は外角低め。景飛が構えたところから、ボール半個分だけ内へ入った。打者のバットが空を切る。三振。
 歓声が爆ぜた。
 真守はマウンドを降りながら、やっぱり僕を探した。
 遠くからでも分かる。あいつはいつだって、投げ終えたあとに僕を見る。褒められるのを待つ犬みたいに、無邪気で、図々しくて、そのくせ時々、こちらの胸の奥を見透かすような目をする。
 僕は、笑ってやれなかった。真守は少しだけ首を傾げて、それからいつものように笑った。何も気づいていないみたいに。あるいは、僕に気づかせまいとするみたいに。
 八回裏を抑えてベンチへ戻ってくる真守に、部員たちが次々と声をかけた。ナイスボール。あと一回。いけるぞ。そんな言葉が、夏の熱気に混ざって飛び交っている。真守はそれら全部を受け止めるように、片手を上げて笑っていた。景飛に向かって「今の最後、めちゃくちゃ気持ちよかったッスね!」などと言っている。
 景飛は防具を外しながら、短く笑った。
 「お前な、気持ちよさで投げてんじゃねえよ」
 「えー、でも景飛さんも今のミット、めっちゃいい音させてたじゃないスか。あれは受ける方も気持ちよかったはずっス」
 「うるせえ。さっさと水分摂れ」
 そんなやり取りをしながら、真守は僕の前に立った。
 「センパイ」
 呼ばれて、顔を上げる。日差しの下から戻ってきたばかりの真守は、全身から熱を発していた。坊主頭から汗が落ち、顎を伝って、喉元へ流れていく。
 「今の、何点スか」
 ベンチの中で、チームメイトが「また始まった」と笑う。控えの一年が紙コップを並べている。監督は九回の守備位置を確認している。景飛はレガースを外しながら、横目でこちらを見ていた。
 僕は答えなかった。スポーツドリンクが注がれた紙コップを、真守に差し出す。真守が受け取ろうとした。その指先が、さっきよりもはっきりと、また小さく揺れる。
 本人は気づいていないのかもしれない。あるいは気づいていて、気づかないふりをしているのかもしれない。どちらにせよ、僕はもうそれを、ただの震えとして処理できなかった。
 紙コップを引いた。
 「あれ、センパイ?」
 「来い」
 「え?」
 「いいから」
 真守は困ったように顔を引き攣らせた。
 「いや、もう次最終回っスよ。それ、飲ませてくださいよ。おれ、干からびるッス」
 「来いって言ってるだろ」
 自分の声が、思っていたより低く響いた。真守の笑顔が、ほんの一瞬だけ固まる。けれど、すぐにまた口角を上げて、肩をすくめた。
 「……なんスか。怒られる流れですか、これ」
 僕は返事の代わりに、真守の手首を掴んだ。次の打順が真守ではなくて良かった。
 真守を引っ張ってベンチ裏の通路に入ると、音が少し遠のいた。
 球場は動き続けている。応援席の歓声。ベンチの選手たちの声。スパイクがコンクリートを叩く音。誰かが氷の入ったクーラーボックスを閉める音。すべてが壁越しに滲んで、薄暗い通路に響いてきた。
 「センパイ、ほんとにどうしたんスか」
 真守が笑う。まだ笑っている。
 その顔を見て、胸の奥が一気に熱くなった。怒りなのか、怖さなのか分からなかった。ただ、次の瞬間には、僕は真守のユニフォームの胸元を掴んでいた。汗を吸った布が、指の中でぐしゃりと歪む。背中に縫い付けた『1』へ続いている布。あの日、僕が針を通した布。
 「投げ方が崩れてる」
 真守の喉が、小さく動いた。
 「……バレました?」
 「笑うな」
 「笑ってないッスよ」
 「笑ってるだろ」
 僕が言った途端、真守は表情を硬くして口をつぐんだ。
 黙ると、呼吸の荒さだけが残った。わずかに肩が上下している。
 マウンドの上ではあれほど遠かった身体が、今は近すぎる。近すぎるのに、僕の手ではどうにもできないところで、真守の身体は軋んでいる。
 「左足が逃げてる。肩で戻してる。指も最後までかかってない。あんな投げ方を続けたら、次に壊れるのは肩か肘だ」
 「……大丈夫ッス」
 「なにが」
 「まだ、投げられます」
 その言葉を聞いた瞬間、僕の右膝が痛んだ。
 痛んだ、というより、思い出した。
 あのときも、僕は同じようなことを思った。また動ける。また投げられる。こんな怪我、大したことはない。痛みなんてみんな抱えている。治せばいい。僕は、こんな目に遭うために、ずっと野球をやってきたわけじゃない。
 そうやって、自分の身体が出している声を、根性とか責任とか、そういう都合のいい言葉で押し潰した。
 壊れるとき、身体は叫ばない。ただ、ふいに黙る。それまで当たり前に自分を支えていたものが、何の前触れもなく、突然いなくなる。
 「投げられるかどうかを聞いてるんじゃない」
 真守は、僕の手首を掴んだ。振り払うためではなかった。僕が離すのを止めるみたいな力だった。
 「ここで降りたら、駄目なんスよ」
 「なにが駄目なんだ」
 聞き返すと、真守は一度だけ唇を噛んだ。
 それから、僕を見た。
 「センパイが」
 短い言葉だった。それだけで、胸元を掴んでいた指に力が入った。
 「おれがセンパイのフォームで投げて、センパイが縫ってくれた番号背負って、センパイの見てる前で勝ってれば、センパイはまだマウンドにいるんスよ」
 真守の声は、思っていたより静かだった。もっと叫ぶのだと思っていた。いつものように勢いで押し切るのだと思っていた。けれど、その声はひどく静かで、そのせいで余計に逃げ場がなかった。
 「センパイ、普通の顔してるじゃないスか。ボール磨いて、スコアつけて、氷作って。みんなに指示して。笑うときもあるし、怒るときもあるし。ちゃんと野球部にいるみたいな顔してる」
 「……いるだろ」
 「いるけど」
 真守の指が、僕の手首に食い込む。
 「そこじゃないんスよ」
 そこ。その一言が、胸の奥のいちばん柔らかいところに落ちた。真守の言う『そこ』が、どこなのか、聞かなくても分かってしまった。
 白いプレート。踏み荒らされた土。景飛の構えるミット。打者の目。背中で聞くチームメイトの声。足元から伝わるグラウンドの硬さ。僕が失った場所。僕がもう戻れない場所。真守が、僕のためだと思って、自分の身体で塞ぎ続けようとしていた穴。
 「おれが投げてれば、センパイは消えないって思ったんス。おれの背中を見てるときのセンパイ、苦しそうで、でも、ちょっとだけ嬉しそうで。おれ、それ見ると、ああ、まだセンパイはここにいるって思えたんス」
 真守は泣いていなかった。泣いているよりもずっと痛い顔をしていた。
 「おれがセンパイみたいに投げられなくなったら、センパイが本当にいなくなる気がしたんスよ」
 違う、と言いたかった。だのに、すぐには言えなかった。なぜなら僕は、真守の背中に自分を見ていたことを自覚していたからだ。自分が投げたはずの球。自分が立っていたはずの場所。自分が失った夏。真守が腕を振るたびに、僕はその残骸を拾い集めていた。あいつが僕のフォームを真似るたび、苦しいのに救われていた。だから、真守だけが間違っていたわけではない。僕も、あいつを僕の代わりにしていた。
 掴んでいた布から、指を離した。
 汗で濡れたユニフォームの感触が、指先に残る。代わりに、その右肩へ手を置いた。ユニフォーム越しでも分かるほど、熱い。まだ投げられると嘘をついている熱だった。
 「僕はもう、マウンドには戻れない」
 言葉にした瞬間、喉の奥が焼けた。知っていた。とっくに知っていた。医者に言われるまでもなく、自分の身体が一番よく知っていた。けれど、自分の声で認めると、痛みはまた別の形をしていた。
 真守の目が揺れる。
 「でも、だからって、お前の中に閉じ込められていたいわけじゃない」
 「……センパイ」
 「僕のフォームを真似しなくていい。僕の夏を背負わなくていい。僕の代わりにならなくていい」
 真守の顔が歪んだ。僕がそれを言うことで、真守を傷つけていると分かっていた。
 それでも、真守の肩から手を離さなかった。ここで離したら、あいつはまた、僕のいないマウンドへ僕を連れて行こうとする気がした。
 「瀧河真守」
 フルネームで呼ぶと、真守の肩が小さく跳ねた。
 「お前を、石ヶ谷鷲弥の代わりから解任する」
 通路の外で、金属バットがラックにぶつかる音がした。間の抜けた、軽い音だった。
 真守は、何も言わなかった。何も言わずに、僕を見ていた。ずっと握りしめていたボールを、突然取り上げられたみたいな顔だった。
 「……ひどいッスよ」
 ようやく出た声は、震えていた。
 「おれ、ずっとセンパイの背中、追ってきたのに」
 「知ってる」
 「センパイの代わりになりたくて、ここまで来たのに」
 「知ってる」
 「じゃあ、なんで」
 真守が一歩近づく。今度は僕が壁を背負った。コンクリートの冷たさが、ユニフォーム越しに背中へ滲んでくる。真守の呼吸が近い。汗と土と、ロジンの粉っぽい匂いがする。
 「なんで、そんなこと言うんスか」
 「もう、僕の代わりじゃなくても、僕はお前を見てる」
 口にしたあとで、心臓が跳ねた。真守も、同じような顔をした。受け損ねた球が、遅れて胸元に食い込んできたみたいだ。
 「……それ、反則ッス」
 「何が」
 「そんなこと言われたら」
 真守は、うまく笑えない顔で僕を見た。
 「おれ、センパイの代わりじゃなくても、投げたくなっちゃうじゃないスか」
 ベンチの方から、景飛の声が飛んだ。
 「瀧河!」
 真守は一度、目を閉じた。
 深く息を吸う。肩が上がり、ゆっくり下りる。僕の手の下で、張り詰めていた熱が、ほんの少しだけ別の形になる。
 真守は僕から離れた。数歩進んで、振り返る。
 「センパイ」
 「なんだよ」
 「今の、あとでもう一回言ってくださいね。おれのこと、見てるって」
 「……調子に乗るな」
 「センパイが見てくれるなら、おれ、いくらでも調子乗れるんで」
 そう言って、真守は「景飛さーん! いま行くッス!」と叫んで、走り去っていってしまった。
 
 最終回。景飛が構えたミットに白球が叩きつけられた瞬間、その音を合図に真守の周りへ仲間たちが殺到した。
 「瀧河ぁぁぁ!」
 「お前、マジでやりやがった!」
 「決勝だぞ、決勝!」
 誰かが真守の帽子を叩き、誰かが背中に飛びついた。景飛が「おい、肩! 肩叩くな!」と怒鳴ったけれど、そんな声も歓声に呑まれてしまう。泥だらけの腕がいくつも伸びて、真守の頭を撫で、肩を組み、ユニフォームをぐしゃぐしゃにする。
 真守も笑っていた。仲間に押され、揺さぶられ、何度もバランスを崩しながら、それでもしつこく僕の方を見ようとしている。人垣の隙間から、目だけがこちらを探していた。
 僕はベンチの中から動けずにいた。
 動かなかったのではない。動けなかった。右膝が痛んだわけではない。ただ、あの輪の中へ自分が入っていいのか分からなかった。
 選手ではない僕が。背番号のない僕が。どんな顔であそこへ行けばいいのか分からなかった。
 「鷲弥」
 不意に、横から肩を小突かれた。
 振り向くと、景飛がマスクを片手にぶら下げて立っていた。防具を外しきる暇もなかったのだろう。
 「何ぼさっとしてんだよ」
 「……別に」
 「別に、じゃねえだろ」
 景飛は呆れたように息を吐き、それから僕の背中を軽く押した。
 「行けよ。あいつ、お前待ちだぞ。気付いてんだろ」
 「僕は……」
 「いいから」
 その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
 ぐっと唾を飲み込んで足を踏み出す。グラウンドの土がスパイクの裏で小さく鳴る。
 近づくにつれて、部員たちの声が熱を持って僕にぶつかってくる。
 「石ヶ谷さん!」
 一年が僕に気づいた。その声をきっかけに、真守を囲んでいた輪が、少しだけ割れた。まるで僕がそこへ行くことを、みんなが最初から知っていたみたいに、道が出来る。
 やめろよ、と思った。そんなふうに気を遣うな。僕のために場所を空けるな。僕はもう、そこに立つ人間じゃない。そう思ったのに、足は止まらなかった。
 輪の中心に、真守がいた。
 泥まみれで、汗まみれで、目元を少し赤くして、泣くのを堪えているのに、僕がここまでやって来たことを喜んでいるようだ。
 「センパイ」
 真守が言った。さっきは歓声で聞こえなかったその声が、今度ははっきり届いた。
 「見てました?」
 いつもの言葉だった。何度も聞いた。練習のあとも、シャドーピッチングのあとも、試合のあとも、飽きるほど聞いた。うるさいくらいに、図々しいくらいに、僕へ向けられてきた言葉。今だけは、その言葉の重さが違っていた。
 「……見てたよ」
 そう答えると、真守の顔が一瞬で崩れた。泣くのかと思ったが、真守は泣かなかった。泣きそうな顔のまま、無理やり笑った。その笑顔があまりにも不格好で、僕は胸の奥を強く掴まれたような気がした。
 「全部?」
 「全部」
 「最後の球も?」
 「見てた」
 「おれの球でした?」
 真守が、そっと小さく聞いてきた。その途端、周りの喧騒が、少しだけ遠のいた気がした。たぶん、実際には誰も静かになんてなっていない。部員たちはまだ騒いでいたし、監督は相手校への挨拶の準備を促していたし、スタンドからは拍手が降ってきていた。
 それでも、その問いだけが、僕の耳元に落ちてきた。
 「……お前の球だったよ」
 真守は、目を見開いた。次の瞬間、顔をくしゃりと歪めた。
 「っしゃああああ!」
 真守が叫んだ。その声に、部員たちがまた爆発したみたいに沸いた。エースが今更喜びを実感したみたいな感じにみえた。
 「石ヶ谷さんも来てくださいよ!」
 「そうっすよ、決勝っすよ!」
 「胴上げします!?」
 「するな。絶対にするな」
 僕が即座に言うと、部員たちがどっと笑った。その笑い声の中で、真守が僕のすぐ横に来た。
 「センパイ、胴上げ嫌なんスか?」
 「膝を壊したやつを宙に投げるな」
 「あ、たしかに」
 「たしかに、じゃない」
 「じゃあ、ハイタッチは?」
 真守が手を上げた。
 指先は擦れて、爪の間に土が入り込んでいる。さっきまで白球を握っていた手。僕の代わりになることをやめて、それでも最後まで投げ切った手。
 僕は少しだけ迷ってから、その手に自分の手を重ねた。
 ぱん、と乾いた音がした。
 その瞬間、真守は僕の手を掴んだ。
 ハイタッチのふりをして、指を絡めるほどではない。けれど、離すには少しだけ遅い。そのほんのわずかな時間に、真守の熱がたしかに僕の手のひらに流れ込んできた。


 7

 真守が、グラウンドに立っていた。決勝に向けたミーティングが終わって、部員たちを見送った僕は、部室の片付けを行っていた。戸締まりをして外に出たとき、マウンドに立つ彼を発見した。
 ユニフォームも練習着も着ていない。制服姿の彼は、ちょっとだけ場違いに見えた。紺色のスラックスに、半袖のワイシャツ。どこにでもいる高校生の後ろ姿だった。甲子園出場を決める決勝のマウンドに立つエースだなんて、遠目には分からない。
 「……何してるんだ」
 声をかけると、真守の肩が小さく跳ねた。
 振り返った顔は、すぐにいつもの笑顔になる。けれど、その笑顔はユニフォームを着ているときよりも、少し頼りなく見えた。
 「あ、バレました?」
 「バレるだろ。こんなところに突っ立ってたら」
 「いや、誰も来ないと思ってたんスよ。センパイ、片付け遅いし」
 「手伝いもせずに帰ったやつが言うな」
 「帰ってないじゃないスか」
 真守はそう言って、靴の先でマウンドの土を軽く掻いた。赤いスニーカーの爪先が、乾いた土を少しだけ削る。
 僕はマウンドの下で立ち止まった。そこへ上がろうとは思わなかった。上がれないわけではない。今の僕でも、数歩くらいなら登れる。けれど、そうするには、足元の土が重すぎる気がした。
 真守は僕を見下ろしていた。
 いつもなら、そこから身を乗り出すようにして「センパイも来てくださいよ」などと言いそうなものなのに、今日は言わなかった。ただ、そこに立ったまま、僕を見ている。
 「勝ったら、本当に甲子園ッス」
 「ああ」
 「センパイが行けなかったところまで、あと一個ッス」
 その言葉は、僕の中にひどく静かに落ちた。真守に悪気がないことは分かっている。こいつは僕を傷つけようとしているわけではない。ただ、自分の胸の中にあるものを、そのまま差し出してくる。それが時々、こちらの柔らかいところへ真っ直ぐ刺さるだけだ。
 「怖いのか」
 真守は、すぐには答えなかった。足元の土を見る。グラウンドの端を見る。誰もいないベンチを見る。それから、困ったように笑った。
 「……ちょっとだけッス」
 「お前でも?」
 「おれでも、です」
 その声が、思っていたより素直だったから、僕は返す言葉に迷った。真守はマウンドの上で、もう一度土を削った。スニーカーの先に、薄く砂がつく。制服の裾が夜風に揺れる。
 「今日、勝ったじゃないスか。準決勝。めちゃくちゃ嬉しかったんスよ。ほんとに」
 「……ああ」
 「でも、家帰ろうとしたら、急に変な感じになって」
 真守は、自分の胸のあたりを軽く押さえた。
 「決勝で勝ったら、本当に届くんスよ。おれが、センパイが届かなかったところまで行くんス。そう思ったら、なんか、嬉しいのに、怖くなったんス」
 遠くで車の走る音がする。校舎のどこかで、窓が風に鳴った。
 「真守」
 「はい」
 「もう一度言うぞ。……僕の夏を背負うな」
 気がつけば彼のことを、苗字ではなく名前で読んでいた。あとになって気づいたとき、真守の眉がぴくりと動いた。今日、ベンチ裏で見た表情に似ていた。けれど、あのときほど痛々しくはなかった。傷つきながらも、今度はちゃんと、僕の言葉を受け止めようとしている顔だった。
 「これから投げるのは、お前の夏だ」
 僕はゆっくりと言った。
 「僕のためじゃなくて、お前が勝つために、投げろ」
 真守は黙っていた。沈黙がグラウンドに少しずつ染み込んでいく。僕はそのあいだずっと、真守の顔を見ていた。
 「じゃあセンパイは、何を見てくれるんスか」
 僕はすぐには答えられなかった。
 真守の球。真守のフォーム。真守の背番号。あるいはチームみんなのプレー。
 いくつもの言葉が浮かんで、どれも違う気がした。真守は急かさなかった。いつもなら、僕の沈黙を勝手にこじ開けてくるくせに、今はただ待っている。
 その顔を見て、ようやく分かった。僕はもう、真守に『石ヶ谷鷲弥』の続きを投げてほしいわけではなく、彼がみんなとどこまで行くのかを、見ていたいのだ。
 「……お前が投げているところだよ」
 真守が瞬きをした。
 「おれが?」
 「そうだ」
 「最初から?」
 「ああ」
 「最後まで?」
 「……見る」
 言ってしまってから、少しだけ恥ずかしくなった。真守の表情がぱっと明るくなる。
 「今の、ちゃんと聞きましたからね。おれ、めちゃくちゃかっこいいところ見せるんで」
 真守はそれからポケットに手を入れて、泥の薄く染みた練習球を取り出した。
 「お前、ボールを持ち歩いてるのか」
 「落ち着くんスよ。握ってると」
 真守はそう言って、白球を掌の上で転がした。縫い目に、指先が自然にかかる。その仕草が、制服姿でもやっぱり投手のものだった。
 決勝戦で、真守が僕の模倣ではなく、自分の足で踏み込み、腕を振り抜いた瞬間。僕がずっとしがみついていた『エース』だった頃の輪郭は、ユニフォームの淡い色に紛れて散っていくだろう。